09.今でも
数日後、父のもとへ一人の客人が訪れた。
領都から馬車が到着したと聞いたときには、特に気に留めていなかった。父を訪ねてくる者は珍しくない。
けれど、昼食をともにする客だと聞いて食堂へ向かい、先に席についていた男性の姿を見た瞬間、私は足を止めた。
「お久しぶりです、アメリア様」
「お久しぶりです、オスカー様」
懐かしい人だった。
父同士に付き合いがあり、幼い頃から何度も顔を合わせてきた。年齢も近く、王都でも領地でもよく一緒に過ごした。
そして十代の半ば頃、私はオスカー様のことが好きだった。
今となっては、それも懐かしい思い出でしかない。
「奥様はお元気ですか?」
「ええ。子供も元気すぎるくらいです」
「二歳になったのでしたね」
「先月、誕生日を迎えました」
「早いですね」
「私もそう思います」
オスカー様は数年前に結婚している。
結婚式には私も招かれた。
その頃には、私の初恋もすっかり終わっていた。
間もなく父が食堂へ入り、その後ろからローレンスもやってきた。
「お待たせしました」
ローレンスが席へ近づくと、オスカー様も軽く頭を下げた。
「先日の夜会ぶりですね」
「ええ。あのときはほとんどお話しできませんでしたが」
「お互い、挨拶回りがありましたからね」
二人は穏やかに言葉を交わす。
けれど、親しい友人同士のような気安さはなかった。
幼い頃から何度も同じ場にいたはずなのに、この二人が二人だけで楽しそうに話しているところは、あまり記憶にない。
昔はそんなことを気にしたこともなかった。
けれど、ローレンスには私の知らない一面がいくつもあると知ってから、以前なら見過ごしていたことにも目が留まるようになっていた。
◇
昼食のあと、父とローレンスはオスカー様を交えて仕事の話をすることになった。
私も将来の当主として同席する。
オスカー様の家が所有する土地を通る街道についての相談で、橋の修繕と、その間の迂回路をどうするかが主な議題だった。
話がまとまった頃には、午後も随分過ぎていた。
父は別件のため先に席を立ち、ローレンスも届いた書類を確認するため、一度部屋を出ていった。
残った私は、オスカー様とともに客間へ移った。
「こうしてゆっくりお話しするのは久しぶりですね」
「そうですね。夜会では挨拶くらいでしたから」
侍女が紅茶を置いて退出する。
窓から差し込む午後の日差しが、卓上の銀器へ淡く反射していた。
「この屋敷も変わりませんね」
「少しずつ変わっていますよ。北側の棟も一部改修しましたし」
「そこまでは気づきませんでした」
「庭も少し変わっています」
「それなら、私にはもう分からないでしょうね」
私たちは笑った。
不思議なものだ。
十五、六歳の頃なら、こうして二人きりで話すだけで落ち着かなかった。
少しでもよく見られたくて、いつもより言葉を選んだ。会えた日は嬉しくて、帰ってしまえば次はいつ会えるのだろうと考えていた。
今は何もない。
昔と同じ穏やかな声も、笑ったときに少し目尻が下がるところも、ただ懐かしく感じるだけだった。
「そういえば、昔いただいた本をまだ持っていますよ」
「本?」
「誕生日にいただいたものです」
「ああ……」
十五歳の頃に贈った本だ。
当時は随分悩んで選んだ覚えがある。
「懐かしいですね」
「あの頃は、本当に一生懸命選んでくださいましたね」
「……覚えているのですか?」
「いただいた側ですから」
オスカー様が笑う。
「それに、いつもより随分緊張した顔で渡されたので」
「そんな顔をしていました?」
「少しだけ」
恥ずかしくなって、紅茶へ口をつける。
自分では隠していたつもりだった。
「もしかして、気づいていらしたのですか?」
思わず尋ねると、オスカー様は少し考えた。
「何となく、です」
「……そうだったのですね」
「違っていたら恥ずかしいので、当時は何も言いませんでしたけれど」
「正解です」
今だからこそ、素直に言えた。
オスカー様も少し笑った。
「やはり」
「それなら、もう少し早く教えてくださればよかったのに」
「どうやってです?」
「それは……困りますね」
「でしょう?」
二人で笑う。
胸は少しも騒がなかった。
かつて好きだった本人と、昔の自分の気持ちをこうして笑って話せる。
それだけ時間が経ったということなのだろう。
「そういえば」
オスカー様がふと思い出したように言った。
「ローレンス様は昔から僕には少し厳しかったですね」
「そうでした?」
「あなたには分からなかったでしょうけれど」
「全然」
「でしょうね」
そんな記憶はなかった。
私は紅茶へ視線を落とした。
今なら理由は分かる気がする。
ローレンスは十代の頃から、将来、公爵家へ婿入りすることを考えていた。
いずれこの家を継ぐ私がどんな人間なのか、誰と親しくしているのか。気にしていたとしても不思議ではない。
「何か思い当たることでも?」
「少しだけ」
「そうですか」
オスカー様はそれ以上尋ねなかった。
◇
しばらくして、客間の扉が開いた。
顔を上げると、ローレンスが立っていた。
「もう終わったのですか?」
「ええ」
「思ったより早かったですね」
「確認だけでしたから」
それにしても早い。
届いた書類を確認すると言って出ていったばかりだったはずだ。
「ずいぶん急いだのですね」
「そうですか?」
「ええ。もう少しかかると思っていました」
「必要なところだけ見てきましたから」
珍しい。仕事に関しては、むしろ念入りすぎるくらいの人なのに。
ローレンスはそう言って、私たちの向かいへ腰を下ろした。
「何のお話をされていたのです?」
「昔の話を少し」
「そうですか」
そう答えたローレンスの笑みが、ほんの少しだけ硬く見えた。
ローレンスが加わってしばらく話したところで、オスカー様が窓の外へ目を向けた。
「そろそろ失礼します。暗くなる前には戻りたいので」
「もうそんな時間ですか」
「ええ。思ったより長居してしまいました」
オスカー様が立ち上がる。
私たちは玄関まで見送りに出た。
春の午後の日差しはまだ明るいものの、風には少し冷たさが残っている。従者が馬車の扉を開け、その傍らで御者が手綱を整えていた。
「奥様によろしくお伝えください」
「ええ。また妻も連れて伺います」
「ぜひ」
オスカー様はローレンスとも挨拶を交わし、馬車へ乗り込んだ。
やがて車輪が動き出す。
私は馬車が門を抜け、その姿が見えなくなるまで見送った。
「戻りましょうか」
「……ええ」
隣から返ってきた声が、わずかに遅かった。
二人で屋敷へ向かう。
しばらく、石畳を踏む靴音だけが続いた。
ローレンスが何も話さない。
普段なら二人きりになれば、仕事のことでも庭のことでも、何かしら話しかけてくる人なのに。
「どうしました?」
「いえ」
短い返事だった。
私は隣を見る。表情はいつもと変わらない。
けれど、何となく様子がおかしい。
「何かありました?」
「ありませんよ」
「そうは見えませんけれど」
「そうですか?」
「ええ」
ローレンスは困ったように笑った。
その笑い方も、いつもより少しだけぎこちない。
玄関まで半分ほど来たところで、ローレンスが口を開いた。
「……楽しかったですか?」
「ええ。久しぶりにゆっくりお話しできましたから」
「そうですか」
「昔の話もしました」
その一言に、ローレンスの視線がすぐこちらへ戻ってきた。
「昔の?」
「十五歳の頃に、私が贈った本をまだ持っているそうです」
「……そうですか」
「覚えています?あなたにも相談したでしょう」
「覚えていますよ」
返事はすぐだった。
「彼が何を喜ぶか、随分悩んでいたことも」
「そんなことまで覚えているのですか」
「ええ」
短く答えたローレンスは、私から視線を外した。口元には、もう先ほどまでの笑みはない。
「よく覚えています」
それきり、また黙ってしまう。
やはり、何かがおかしい。
「ローレンス?」
「はい」
「本当に何もありません?」
「……ありません」
「今、少し迷いましたよね」
「気のせいですよ」
「そうでしょうか」
尋ねても、それ以上は答えなかった。
何歩か歩いてから、今度はローレンスが足を緩める。
「一つ、聞いても?」
「ええ」
「彼と久しぶりに話して……」
そこで言葉が止まった。
私は続きを待つ。
けれど、ローレンスはなかなか口を開かなかった。
「何です?」
「……いえ」
「聞かないのですか?」
「聞かないほうがいい気がしてきました」
「そこまで言われると、かえって気になります」
返事はなかった。
こんなふうに言葉を選びあぐねるローレンスは珍しい。
社交の場で答えにくいことを尋ねられても、父から厳しいことを言われても、ローレンスは滅多に言葉に詰まらない。
それなのに今は、一つの質問を口にすることさえ迷っている。
「聞いてください」
私が言うと、ローレンスはようやくこちらを見た。
「……昔の気持ちを、思い出したりはしませんでしたか」
「昔の気持ち?」
「彼を好きだった頃の」
「ああ」
そういうことか。
「思い出しましたよ」
隣を歩いていたローレンスの足が、わずかに緩んだ。
「……そうですか」
「ええ。十五歳の頃は、オスカー様と話すだけでも緊張していたな、と」
そこで、ローレンスの顔を見て首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ」
「今日、本人にも気づいていたと言われました」
「彼が?」
口調がわずかに強くなった。
「何となくだったそうですけれど」
「そうですか」
ローレンスの口元から、いつもの笑みが消えている。
そこでようやく、質問の意味を取り違えていたことに気づいた。
「もしかして」
足を止める。
ローレンスも少し先で止まった。
「私が今でも、オスカー様を好きなのかと聞いているのです?」
すぐには返事がなかった。
「……ええ」
ようやく聞こえた声は小さかった。
「違いますよ」
答えると、ローレンスが私を見る。
「今はもう、好きではありません」
「……本当に?」
「本当です」
「いつから?」
間を置かずに返ってきた。
ローレンス自身も気づいたのか、少し気まずそうに視線を逸らす。
「いつからでしょう。随分前ですよ」
「彼が結婚したから?」
「いいえ。その前にはもう」
「結婚する前から?」
「ええ」
「……そうですか」
ローレンスが息を吐いた。
肩から、わずかに力が抜けたように見える。
それから、ようやく笑った。
「安心しました?」
尋ねてみる。
ローレンスは一瞬だけ迷った。
「……しました」
否定しなかった。
私は少し意外に思いながら、その顔を見る。
「そんなに気になっていたのですか?」
「ええ」
迷いなく返されて、私は昼間の会話を思い出した。
「そういえば、オスカー様もおっしゃっていました」
「何をです?」
「あなたは昔から、自分には少し厳しかったと」
返事の代わりに、ローレンスはわずかに眉を寄せた。
「本当だったのですね」
「……余計なことを覚えていますね、彼は」
「何かあったのですか?」
「何もありませんよ」
「では、どうして?」
少しの沈黙のあと、ローレンスは答えた。
「あなたが、彼を好きだったからです」
「……それだけ?」
「私には十分でした」
それ以上は何も言わず、ローレンスは玄関の扉を開けた。
私はその横を通って屋敷へ入る。
私がオスカー様を好きだった。
ただそれだけで、ローレンスは昔から彼を好ましく思っていなかったらしい。
当時から私との婚姻を考えていたのなら、分からなくもない。
自分が婿入りを望んでいる家の後継者が、別の男性を好きだったのだ。その相手を歓迎できなかったとしても、おかしくはないだろう。
それにしても、「私には十分でした」とまで言うほどだったのだろうか。
それなのに、私がオスカー様への贈り物に悩んでいたときには、相談に乗ってくれた。
妙な人だと思う。
◇
夜になっても、昼間のことが頭から離れなかった。
ローレンスはいつものように私の部屋へやってきた。
長椅子に並んで座り、互いに本を開いている。
けれど私は、先ほどからほとんど読めていなかった。
私が昔の気持ちを思い出したと言った瞬間、ローレンスの歩調が乱れたこと。
今はもう好きではないと告げたとき、目に見えて安堵したこと。
あんなローレンスを見るのは初めてだった。
「何です?」
不意に声をかけられる。
「え?」
「先ほどから何度もこちらを見ていますよ」
気づかれていたらしい。
私は本へ目を落とした。
「……一つ、聞いても?」
「ええ」
「昼間、あなたは私に聞きましたよね」
ローレンスの指が止まる。
「私が今でも、オスカー様を好きなのか」
「……ええ」
昼間より少し気まずそうな返事だった。
「聞くつもりはなかったのですか?」
「ありませんでした」
「では、どうして?」
すぐには答えが返ってこなかった。
「気になったので」
「それだけ?」
「……かなり」
小さく付け加えられる。
私はローレンスの横顔を見る。
ずっと気になっていたことがある。
以前、一度だけ聞こうとして、やめたこと。
ローレンスには、長く想っている女性がいる。
その人のことを今も好きなのか。
けれど、あのときは聞かなかった。
ローレンスがどれほど長くその人を想っていたのかも知らない。それなのに、政略結婚で妻になったからといって、その気持ちにまで口を出すのは違うと思ったからだ。
けれど今日、ローレンスは私に聞いた。
私が今でも、昔好きだった人を想っているのか。
なら。
「私も一つ、聞いていいですか?」
「もちろん」
「以前、長く想っている方がいるとおっしゃいましたよね」
ローレンスが頁から顔を上げた。
「……ええ」
「その方のことを」
そこで言葉を切った。
聞いてしまっていいのだろうか。
そう思ったのは一瞬だった。
今度は、聞かないままにしたくなかった。
「今でも、お好きなのですか?」
頁に添えていたローレンスの指が止まった。
「……今でも?」
「ええ」
すぐには返事がなかった。
好きか、好きではないか。それだけのことなのに、どうしてそんなに答えに迷うのだろう。
やがてローレンスが、ゆっくり本を閉じた。
「好きですよ」
胸の奥が沈んだ。
「……そうですか」
声が思ったより小さくなった。
「ええ」
何を期待していたのだろう。
自分でも分からないまま、手元の頁へ視線を落とした。
結婚して三か月。ローレンスは毎日私を気遣い、夜にはこうして同じ時間を過ごしている。公爵家での暮らしにも、すっかり馴染んでいた。
それでも、ローレンスは今もその人を好きなのだ。
そう思うと、なぜか落ち着かなかった。
「どうしました?」
「何でもありません」
「そうは見えませんけれど」
「本当に、何でも」
「では、なぜこちらを見ないのです?」
言われて初めて、私はずっと本へ目を落としていることに気づいた。
「……あなたが今でもその方を好きでも」
言葉が少し詰まった。
「私が何か言うことではありませんから」
ローレンスがわずかに目を伏せた。
「そうですか」
「ええ」
「本当に?」
聞き返され、私は顔を上げた。
「何です?」
「いえ」
ローレンスは少しだけ笑った。
けれど、いつもの笑顔とは違った。
私はなぜか、それを見ていられなくなった。
「私たちは、政略結婚ですから」
そう言えば、話を終わらせられると思った。
けれど。
ローレンスの笑みが消えた。
ほんの一瞬、何か言いたそうに唇が動く。
けれど、結局出てきたのは別の言葉だった。
「……そうでしたね」
静かな声だった。
ローレンスが本を卓上へ置き、立ち上がる。
「もう戻るのですか?」
思わず尋ねていた。
「ええ。今日は少し疲れました」
「そうですか」
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
ローレンスは部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
一人になった部屋で、私はしばらく手元の本を見ていた。
結局、一頁も進んでいない。
ローレンスには今でも好きな人がいる。
長く想っている人がいると聞いたときから、その可能性は考えていた。
私たちは政略結婚なのだから、それを責める理由もない。
それなのに。
本人の口から「好きですよ」と聞いた瞬間、胸の奥が沈んだ。
昼間、ローレンスが私に尋ねたことを思い出す。
私が今でもオスカー様を好きなのか。
違うと答えたら、あれほど安心していた。
なのに私は。
ローレンスが今でも誰かを好きだと知って、どうしてこんなに気持ちが沈んでいるのだろう。
その理由を考えるのが嫌で、私は閉じたままの本を卓上へ置いた。




