↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/20

09.今でも

 数日後、父のもとへ一人の客人が訪れた。


 領都から馬車が到着したと聞いたときには、特に気に留めていなかった。父を訪ねてくる者は珍しくない。

 けれど、昼食をともにする客だと聞いて食堂へ向かい、先に席についていた男性の姿を見た瞬間、私は足を止めた。


「お久しぶりです、アメリア様」

「お久しぶりです、オスカー様」


 懐かしい人だった。

 父同士に付き合いがあり、幼い頃から何度も顔を合わせてきた。年齢も近く、王都でも領地でもよく一緒に過ごした。


 そして十代の半ば頃、私はオスカー様のことが好きだった。

 今となっては、それも懐かしい思い出でしかない。


「奥様はお元気ですか?」

「ええ。子供も元気すぎるくらいです」

「二歳になったのでしたね」

「先月、誕生日を迎えました」

「早いですね」

「私もそう思います」


 オスカー様は数年前に結婚している。

 結婚式には私も招かれた。

 その頃には、私の初恋もすっかり終わっていた。


 間もなく父が食堂へ入り、その後ろからローレンスもやってきた。


「お待たせしました」


 ローレンスが席へ近づくと、オスカー様も軽く頭を下げた。


「先日の夜会ぶりですね」

「ええ。あのときはほとんどお話しできませんでしたが」

「お互い、挨拶回りがありましたからね」


 二人は穏やかに言葉を交わす。

 けれど、親しい友人同士のような気安さはなかった。


 幼い頃から何度も同じ場にいたはずなのに、この二人が二人だけで楽しそうに話しているところは、あまり記憶にない。

 昔はそんなことを気にしたこともなかった。


 けれど、ローレンスには私の知らない一面がいくつもあると知ってから、以前なら見過ごしていたことにも目が留まるようになっていた。



 昼食のあと、父とローレンスはオスカー様を交えて仕事の話をすることになった。

 私も将来の当主として同席する。


 オスカー様の家が所有する土地を通る街道についての相談で、橋の修繕と、その間の迂回路をどうするかが主な議題だった。


 話がまとまった頃には、午後も随分過ぎていた。

 父は別件のため先に席を立ち、ローレンスも届いた書類を確認するため、一度部屋を出ていった。


 残った私は、オスカー様とともに客間へ移った。


「こうしてゆっくりお話しするのは久しぶりですね」

「そうですね。夜会では挨拶くらいでしたから」


 侍女が紅茶を置いて退出する。

 窓から差し込む午後の日差しが、卓上の銀器へ淡く反射していた。


「この屋敷も変わりませんね」

「少しずつ変わっていますよ。北側の棟も一部改修しましたし」

「そこまでは気づきませんでした」

「庭も少し変わっています」

「それなら、私にはもう分からないでしょうね」


 私たちは笑った。


 不思議なものだ。

 十五、六歳の頃なら、こうして二人きりで話すだけで落ち着かなかった。


 少しでもよく見られたくて、いつもより言葉を選んだ。会えた日は嬉しくて、帰ってしまえば次はいつ会えるのだろうと考えていた。


 今は何もない。


 昔と同じ穏やかな声も、笑ったときに少し目尻が下がるところも、ただ懐かしく感じるだけだった。


「そういえば、昔いただいた本をまだ持っていますよ」

「本?」

「誕生日にいただいたものです」

「ああ……」


 十五歳の頃に贈った本だ。

 当時は随分悩んで選んだ覚えがある。


「懐かしいですね」

「あの頃は、本当に一生懸命選んでくださいましたね」

「……覚えているのですか?」

「いただいた側ですから」


 オスカー様が笑う。


「それに、いつもより随分緊張した顔で渡されたので」

「そんな顔をしていました?」

「少しだけ」


 恥ずかしくなって、紅茶へ口をつける。

 自分では隠していたつもりだった。


「もしかして、気づいていらしたのですか?」


 思わず尋ねると、オスカー様は少し考えた。


「何となく、です」

「……そうだったのですね」

「違っていたら恥ずかしいので、当時は何も言いませんでしたけれど」

「正解です」


 今だからこそ、素直に言えた。

 オスカー様も少し笑った。


「やはり」

「それなら、もう少し早く教えてくださればよかったのに」

「どうやってです?」

「それは……困りますね」

「でしょう?」


 二人で笑う。

 胸は少しも騒がなかった。

 かつて好きだった本人と、昔の自分の気持ちをこうして笑って話せる。


 それだけ時間が経ったということなのだろう。


「そういえば」


 オスカー様がふと思い出したように言った。


「ローレンス様は昔から僕には少し厳しかったですね」

「そうでした?」

「あなたには分からなかったでしょうけれど」

「全然」

「でしょうね」


 そんな記憶はなかった。


 私は紅茶へ視線を落とした。

 今なら理由は分かる気がする。


 ローレンスは十代の頃から、将来、公爵家へ婿入りすることを考えていた。

 いずれこの家を継ぐ私がどんな人間なのか、誰と親しくしているのか。気にしていたとしても不思議ではない。


「何か思い当たることでも?」

「少しだけ」

「そうですか」


 オスカー様はそれ以上尋ねなかった。



 しばらくして、客間の扉が開いた。

 顔を上げると、ローレンスが立っていた。


「もう終わったのですか?」

「ええ」

「思ったより早かったですね」

「確認だけでしたから」


 それにしても早い。

 届いた書類を確認すると言って出ていったばかりだったはずだ。


「ずいぶん急いだのですね」

「そうですか?」

「ええ。もう少しかかると思っていました」

「必要なところだけ見てきましたから」


 珍しい。仕事に関しては、むしろ念入りすぎるくらいの人なのに。

 ローレンスはそう言って、私たちの向かいへ腰を下ろした。


「何のお話をされていたのです?」

「昔の話を少し」

「そうですか」


 そう答えたローレンスの笑みが、ほんの少しだけ硬く見えた。


 ローレンスが加わってしばらく話したところで、オスカー様が窓の外へ目を向けた。


「そろそろ失礼します。暗くなる前には戻りたいので」

「もうそんな時間ですか」

「ええ。思ったより長居してしまいました」


 オスカー様が立ち上がる。

 私たちは玄関まで見送りに出た。


 春の午後の日差しはまだ明るいものの、風には少し冷たさが残っている。従者が馬車の扉を開け、その傍らで御者が手綱を整えていた。


「奥様によろしくお伝えください」

「ええ。また妻も連れて伺います」

「ぜひ」


 オスカー様はローレンスとも挨拶を交わし、馬車へ乗り込んだ。


 やがて車輪が動き出す。

 私は馬車が門を抜け、その姿が見えなくなるまで見送った。


「戻りましょうか」

「……ええ」


 隣から返ってきた声が、わずかに遅かった。

 二人で屋敷へ向かう。


 しばらく、石畳を踏む靴音だけが続いた。

 ローレンスが何も話さない。


 普段なら二人きりになれば、仕事のことでも庭のことでも、何かしら話しかけてくる人なのに。


「どうしました?」

「いえ」


 短い返事だった。

 私は隣を見る。表情はいつもと変わらない。

 けれど、何となく様子がおかしい。


「何かありました?」

「ありませんよ」

「そうは見えませんけれど」

「そうですか?」

「ええ」


 ローレンスは困ったように笑った。

 その笑い方も、いつもより少しだけぎこちない。


 玄関まで半分ほど来たところで、ローレンスが口を開いた。


「……楽しかったですか?」

「ええ。久しぶりにゆっくりお話しできましたから」

「そうですか」

「昔の話もしました」


 その一言に、ローレンスの視線がすぐこちらへ戻ってきた。


「昔の?」

「十五歳の頃に、私が贈った本をまだ持っているそうです」

「……そうですか」

「覚えています?あなたにも相談したでしょう」

「覚えていますよ」


 返事はすぐだった。


「彼が何を喜ぶか、随分悩んでいたことも」

「そんなことまで覚えているのですか」

「ええ」


 短く答えたローレンスは、私から視線を外した。口元には、もう先ほどまでの笑みはない。


「よく覚えています」


 それきり、また黙ってしまう。

 やはり、何かがおかしい。


「ローレンス?」

「はい」

「本当に何もありません?」

「……ありません」

「今、少し迷いましたよね」

「気のせいですよ」

「そうでしょうか」


 尋ねても、それ以上は答えなかった。

 何歩か歩いてから、今度はローレンスが足を緩める。


「一つ、聞いても?」

「ええ」

「彼と久しぶりに話して……」


 そこで言葉が止まった。


 私は続きを待つ。

 けれど、ローレンスはなかなか口を開かなかった。


「何です?」

「……いえ」

「聞かないのですか?」

「聞かないほうがいい気がしてきました」

「そこまで言われると、かえって気になります」


 返事はなかった。

 こんなふうに言葉を選びあぐねるローレンスは珍しい。


 社交の場で答えにくいことを尋ねられても、父から厳しいことを言われても、ローレンスは滅多に言葉に詰まらない。

 それなのに今は、一つの質問を口にすることさえ迷っている。


「聞いてください」


 私が言うと、ローレンスはようやくこちらを見た。


「……昔の気持ちを、思い出したりはしませんでしたか」

「昔の気持ち?」

「彼を好きだった頃の」

「ああ」


 そういうことか。


「思い出しましたよ」


 隣を歩いていたローレンスの足が、わずかに緩んだ。


「……そうですか」

「ええ。十五歳の頃は、オスカー様と話すだけでも緊張していたな、と」


 そこで、ローレンスの顔を見て首を傾げる。


「どうしました?」

「いえ」

「今日、本人にも気づいていたと言われました」

「彼が?」


 口調がわずかに強くなった。


「何となくだったそうですけれど」

「そうですか」


 ローレンスの口元から、いつもの笑みが消えている。

 そこでようやく、質問の意味を取り違えていたことに気づいた。


「もしかして」


 足を止める。

 ローレンスも少し先で止まった。


「私が今でも、オスカー様を好きなのかと聞いているのです?」


 すぐには返事がなかった。


「……ええ」


 ようやく聞こえた声は小さかった。


「違いますよ」


 答えると、ローレンスが私を見る。


「今はもう、好きではありません」


「……本当に?」

「本当です」

「いつから?」


 間を置かずに返ってきた。

 ローレンス自身も気づいたのか、少し気まずそうに視線を逸らす。


「いつからでしょう。随分前ですよ」

「彼が結婚したから?」

「いいえ。その前にはもう」

「結婚する前から?」

「ええ」

「……そうですか」


 ローレンスが息を吐いた。

 肩から、わずかに力が抜けたように見える。

 それから、ようやく笑った。


「安心しました?」


 尋ねてみる。

 ローレンスは一瞬だけ迷った。


「……しました」


 否定しなかった。

 私は少し意外に思いながら、その顔を見る。


「そんなに気になっていたのですか?」

「ええ」


 迷いなく返されて、私は昼間の会話を思い出した。


「そういえば、オスカー様もおっしゃっていました」

「何をです?」

「あなたは昔から、自分には少し厳しかったと」


 返事の代わりに、ローレンスはわずかに眉を寄せた。


「本当だったのですね」

「……余計なことを覚えていますね、彼は」

「何かあったのですか?」

「何もありませんよ」

「では、どうして?」


 少しの沈黙のあと、ローレンスは答えた。


「あなたが、彼を好きだったからです」

「……それだけ?」

「私には十分でした」


 それ以上は何も言わず、ローレンスは玄関の扉を開けた。

 私はその横を通って屋敷へ入る。


 私がオスカー様を好きだった。

 ただそれだけで、ローレンスは昔から彼を好ましく思っていなかったらしい。


 当時から私との婚姻を考えていたのなら、分からなくもない。

 自分が婿入りを望んでいる家の後継者が、別の男性を好きだったのだ。その相手を歓迎できなかったとしても、おかしくはないだろう。


 それにしても、「私には十分でした」とまで言うほどだったのだろうか。


 それなのに、私がオスカー様への贈り物に悩んでいたときには、相談に乗ってくれた。

 妙な人だと思う。



 夜になっても、昼間のことが頭から離れなかった。


 ローレンスはいつものように私の部屋へやってきた。

 長椅子に並んで座り、互いに本を開いている。


 けれど私は、先ほどからほとんど読めていなかった。


 私が昔の気持ちを思い出したと言った瞬間、ローレンスの歩調が乱れたこと。

 今はもう好きではないと告げたとき、目に見えて安堵したこと。


 あんなローレンスを見るのは初めてだった。


「何です?」


 不意に声をかけられる。


「え?」

「先ほどから何度もこちらを見ていますよ」


 気づかれていたらしい。


 私は本へ目を落とした。


「……一つ、聞いても?」

「ええ」

「昼間、あなたは私に聞きましたよね」


 ローレンスの指が止まる。


「私が今でも、オスカー様を好きなのか」

「……ええ」


 昼間より少し気まずそうな返事だった。


「聞くつもりはなかったのですか?」

「ありませんでした」

「では、どうして?」


 すぐには答えが返ってこなかった。


「気になったので」

「それだけ?」

「……かなり」


 小さく付け加えられる。

 私はローレンスの横顔を見る。


 ずっと気になっていたことがある。


 以前、一度だけ聞こうとして、やめたこと。


 ローレンスには、長く想っている女性がいる。

 その人のことを今も好きなのか。


 けれど、あのときは聞かなかった。


 ローレンスがどれほど長くその人を想っていたのかも知らない。それなのに、政略結婚で妻になったからといって、その気持ちにまで口を出すのは違うと思ったからだ。


 けれど今日、ローレンスは私に聞いた。

 私が今でも、昔好きだった人を想っているのか。


 なら。


「私も一つ、聞いていいですか?」

「もちろん」

「以前、長く想っている方がいるとおっしゃいましたよね」


 ローレンスが頁から顔を上げた。


「……ええ」

「その方のことを」


 そこで言葉を切った。


 聞いてしまっていいのだろうか。

 そう思ったのは一瞬だった。


 今度は、聞かないままにしたくなかった。


「今でも、お好きなのですか?」


 頁に添えていたローレンスの指が止まった。


「……今でも?」

「ええ」


 すぐには返事がなかった。

 好きか、好きではないか。それだけのことなのに、どうしてそんなに答えに迷うのだろう。


 やがてローレンスが、ゆっくり本を閉じた。


「好きですよ」


 胸の奥が沈んだ。


「……そうですか」


 声が思ったより小さくなった。


「ええ」


 何を期待していたのだろう。

 自分でも分からないまま、手元の頁へ視線を落とした。


 結婚して三か月。ローレンスは毎日私を気遣い、夜にはこうして同じ時間を過ごしている。公爵家での暮らしにも、すっかり馴染んでいた。


 それでも、ローレンスは今もその人を好きなのだ。


 そう思うと、なぜか落ち着かなかった。


「どうしました?」

「何でもありません」

「そうは見えませんけれど」

「本当に、何でも」

「では、なぜこちらを見ないのです?」


 言われて初めて、私はずっと本へ目を落としていることに気づいた。


「……あなたが今でもその方を好きでも」


 言葉が少し詰まった。


「私が何か言うことではありませんから」


 ローレンスがわずかに目を伏せた。


「そうですか」

「ええ」

「本当に?」


 聞き返され、私は顔を上げた。


「何です?」

「いえ」


 ローレンスは少しだけ笑った。

 けれど、いつもの笑顔とは違った。


 私はなぜか、それを見ていられなくなった。


「私たちは、政略結婚ですから」


 そう言えば、話を終わらせられると思った。


 けれど。

 ローレンスの笑みが消えた。


 ほんの一瞬、何か言いたそうに唇が動く。

 けれど、結局出てきたのは別の言葉だった。


「……そうでしたね」


 静かな声だった。

 ローレンスが本を卓上へ置き、立ち上がる。


「もう戻るのですか?」


 思わず尋ねていた。


「ええ。今日は少し疲れました」

「そうですか」

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」


 ローレンスは部屋を出ていった。

 扉が静かに閉まる。


 一人になった部屋で、私はしばらく手元の本を見ていた。

 結局、一頁も進んでいない。


 ローレンスには今でも好きな人がいる。

 長く想っている人がいると聞いたときから、その可能性は考えていた。


 私たちは政略結婚なのだから、それを責める理由もない。


 それなのに。

 本人の口から「好きですよ」と聞いた瞬間、胸の奥が沈んだ。


 昼間、ローレンスが私に尋ねたことを思い出す。


 私が今でもオスカー様を好きなのか。

 違うと答えたら、あれほど安心していた。


 なのに私は。

 ローレンスが今でも誰かを好きだと知って、どうしてこんなに気持ちが沈んでいるのだろう。


 その理由を考えるのが嫌で、私は閉じたままの本を卓上へ置いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。