12.このままで
夫を振り向かせようと決めてから、私は以前よりローレンスを見るようになった。何を好み、何をしているときに楽しそうにするのか。知ろうと思って目を向けてみれば、これまでなら聞き流していた何気ない言葉まで気になるようになる。
その日の午後もそうだった。
父上との打ち合わせを終え、ローレンスと二人で執務室に残っていた。
窓から差し込む日差しは明るく、開け放した窓から柔らかな風が入ってくる。机の上に広げた書類の端が浮き上がり、私は文鎮を置き直した。
「こちらで最後ですね」
ローレンスが一枚の報告書を差し出した。
公爵家が所有する西の森についてのものだった。
冬の間に倒れた木の処理はほぼ終わり、森を抜けた先にある別邸にも特に問題はないという。
「今年は雪が少なかったから、思ったより被害もありませんでしたね」
「ええ。湖の周りも問題ないそうです」
「湖?」
「別邸の先にあるでしょう?」
「ああ」
子供の頃、何度か行ったことがある。
公爵家の本邸から馬車で一時間ほど。森を抜けた先に、小さな湖と別邸がある。父上が狩猟へ出る際に使うこともあるけれど、家族で滞在したこともあった。
「今頃は綺麗でしょうね」
ローレンスが報告書へ目を落としたまま言った。
「何がです?」
「湖の周りですよ。春になると白い花が咲くでしょう」
「お好きでした?」
「好きですよ。昔、何度か皆で行きましたよね」
「そうでしたね」
家族だけではなく、付き合いのある家の子供たちが招かれることもあった。ローレンスも、その中の一人だった。
「最近は行っていませんね」
「仕事がありますから」
ローレンスはそう言って、手元の報告書を他の書類へ重ねた。
けれど私は、先ほどの言葉が気になった。
『今頃は綺麗でしょうね』
旅行記が好きで、いつか遠い国へ行ってみたいとも言っていた。公爵家へ婿入りした今は、そう簡単に領地を離れられない。
遠くへ行くのは難しくても、湖なら一時間で行ける。
「明後日の午後、予定はあります?」
何気なく尋ねたつもりだったけれど、書類を揃えていたローレンスの手がそこで止まった。
「明後日ですか?」
「ええ」
「今のところ、特には」
「では、空けておいてください」
「何かありました?」
「湖へ行きませんか?」
ローレンスは手元の書類から私へ視線を移した。
「視察ですか?」
「いいえ」
「では、お父上も?」
「父上は関係ありません」
そこまで答えたところで、ローレンスの表情がわずかに変わった。
「では……?」
「私と行きませんか?」
今度こそ、ローレンスは何も言わなかった。
ほんの数秒なのに、返事を待っている時間が妙に長く感じられる。
「……二人で?」
「ええ」
もちろん、御者も侍女も護衛も同行する。それでも、父上や客人を交えず、仕事でもなく、私とローレンスが出かけるのは二人きりと言っていいだろう。
「嫌です?」
「まさか」
それまでの間が嘘のように、返事だけはすぐに返ってきた。
「行きます」
「まだ何も詳しく決めていませんよ」
「構いません」
そう答えたローレンスは、一度きれいに揃えたはずの書類をもう一度丁寧に揃え直してから、何事もなかったように机へ置いた。
「随分乗り気ですね」
「あなたから誘っていただいたのですから、断る理由がありません」
声はいつも通りだった。
けれど、書類の角を必要以上に揃えているところを見ると、思っていたより喜んでいるのかもしれない。
そう分かると、私まで少し嬉しくなった。
◇
二日後。
昼食を終えて少しした頃、私たちは屋敷を出た。
玄関前にはすでに馬車が用意され、侍女と数名の護衛騎士も出発の支度を整えている。
ローレンスが先に馬車へ乗り、こちらへ手を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
いつものようにその手を取る。
支えられて馬車へ乗り込んだところで、ふと重ねた手へ目が落ちた。
以前なら何も考えなかった。エスコートされれば手を取る。それだけのことだった。
けれど、ローレンスを好きなのだと気づいてからは、同じことをしているはずなのに妙に意識してしまう。
「どうしました?」
「いいえ」
私は手を離して席へ座った。
向かいにローレンスが腰を下ろし、ほどなくして馬車がゆっくりと動き始める。
「久しぶりですね」
「湖が?」
「こうして出かけることも」
「領内へはよく一緒に出ていますよ」
「仕事でしょう?」
言われてみればそうだ。
村へ行くのも、倉庫を訪ねるのも、水路を見るのも、すべて仕事だった。
「仕事ではなく二人で出かけるのは、結婚してから初めてかもしれませんね」
「……そうでした?」
「ええ」
ローレンスは窓の外へ目を向けた。
そのまましばらく景色を眺めていたけれど、やがてぽつりと付け加える。
「楽しみにしていました」
思わずローレンスを見る。
「今日を?」
「ほかに何があります?」
「そんなに?」
「ええ」
あっさり認められてしまった。
夫を振り向かせようとして誘ったのはこちらなのに、こうして素直に喜ばれると、こちらまで落ち着かなくなる。
私は少しだけ困って、窓の外へ視線を逃がした。
◇
一時間ほどして、馬車は森の中へ入った。
木々の隙間から春の日差しが落ち、道の両側には若い草が伸びている。
やがて視界が開けた。
穏やかな湖面が日の光を受け、細かな光を散らしている。対岸には深い緑の森が続き、その向こうには低い山並みが霞んで見えた。
湖のほとりには、石造りの小さな別邸が建っている。
馬車を降りると、ローレンスはすぐに湖畔へ目を向けた。
「本当に咲いていますね」
白い小さな花が、岸辺の草地を覆うように咲いていた。
「綺麗ですね」
「ええ」
ローレンスはしばらくそこから目を離さなかった。
普段なら何かしら私へ話しかけてくるのに、今は黙って景色を眺めている。その横顔は、仕事をしているときよりもずっと柔らかかった。
誘ってよかった。
正確には、私が連れてきたわけではないのだけれど。
ローレンスと並んで湖のほうへ歩く。侍女と護衛騎士たちは、少し離れてついてきていた。
「昔もこの辺りに咲いていました?」
「ええ。もっと少なかった気もしますけれど」
「私はあまり覚えていません」
「あなたは花より本でしたからね」
「ここでも読んでいました?」
「読んでいましたよ。皆が湖の周りを走り回っているのに、一人だけ木陰に座って」
「……そんなに本ばかり読んでいたでしょうか」
「ええ」
「よく覚えていますね」
言ってから、以前も同じようなことを尋ねた気がした。
「昔から知っているとはいえ、そんな細かなことまで」
ローレンスは少しだけ間を置いた。
「あなたのことは、よく覚えているんです」
胸の奥がわずかに騒いだ。
ローレンスにとっては、長い付き合いだからという意味なのだろう。それでも今の私には、以前のように聞き流せなかった。
心なしか顔が熱い。
このままその話を続けるのも落ち着かなくて、私は隣を歩くローレンスへ目を向けた。
そこで、今日の装いが目に入る。
「その上着、よく似合っていますね」
何気なく口にした途端、ローレンスが足を止めた。
私も数歩先で立ち止まり、振り返る。
「……急ですね」
「今、そう思ったので」
今日のローレンスは、領内で仕事をするときより少し軽い装いをしている。濃い色の上着に淡い色のシャツ。華美ではないけれど、よく似合っていた。
「その色、好きです」
「……ありがとうございます」
続けて言うと、ローレンスは今度こそ黙り込んだ。
褒めただけなのに、なぜそんな顔をするのだろう。
「ローレンス?」
「……すみません」
ようやく返事があった。
「何がです?」
「いえ。少し驚いただけです」
「そんなに意外でした?」
尋ねると、ローレンスは困ったように笑った。
「あなたにそう言っていただけるとは思っていなかったので」
「そうですか?」
「ええ」
それだけ答えると、ローレンスは再び歩き始めた。
けれど、いつもなら自然にこちらへ向けられるはずの視線が、今日は前を向いたままだ。
「ローレンス」
「はい?」
「歩くのが速くなっています」
「……そうですか?」
「ええ」
指摘すると、ようやく歩調が緩んだ。
「すみません」
「先ほどから謝ってばかりですね」
「今日は少し、調子が狂っているようです」
珍しい言葉に、私は隣からその顔を覗き込んだ。
「どうして?」
「それは聞かないでください」
そう言って顔を逸らされてしまう。
けれど、隠したつもりなのだろうか。こちらから見える耳は、うっすらと赤くなっていた。
私は思わず口元を緩める。
朝食で好みを尋ねたときも、本を贈ったときもそうだった。
ローレンスは、私が自分へ関心を向けることを思っていた以上に喜んでくれる。
そしてどうやら、褒められることにも弱いらしい。
夫を振り向かせる方法などまるで分からないと思っていたけれど、少なくとも今のところ、私がしていることは無駄ではなさそうだった。
◇
湖の周囲を半分ほど歩いたところで、岸辺に置かれた石造りの腰掛けで休むことにした。
侍女がお茶を注ぎ、用意していた菓子を並べてくれる。
ローレンスがカップを受け取ったところで、私は菓子の皿を少しそちらへ寄せた。
「杏を使ったものも持ってきてもらいました」
ローレンスの視線が皿へ落ち、それから私へ戻る。
「……私が好きだと言ったから?」
「ええ」
それだけ答えて皿をそちらへ寄せると、ローレンスはしばらく私を見ていた。
「何です?」
「いえ」
そう言って杏の菓子を一つ取る。
甘いものにはそれほど手を伸ばさない人なのに、一つ食べ終えると、ほどなく二つ目へ手が伸びた。
「気に入りました?」
「ええ。とても」
それなら、覚えていた甲斐があった。
菓子そのものよりも、私が好みを覚えて用意したことを喜んでいるのだろう。
そう思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
けれど同時に、ふと別の女性の存在が頭をよぎった。
ローレンスが今でも好きだという人。
その人とローレンスの間に、どんな時間があったのか私は知らない。私よりずっと多くのことを知っているのかもしれないし、私の知らない思い出もあるのだろう。
そう考えると、少し面白くない。
「どうしました?」
「何がです?」
「菓子を睨んでいますよ」
「睨んでいません」
「そうですか?」
「考え事をしていただけです」
私は紅茶を一口飲んだ。
名前も顔も知らない相手と張り合っていても仕方がない。
過ぎた時間はどうにもできないけれど、これからの時間なら私にもある。
「また来ましょうね」
ローレンスがこちらを見る。
「ここへ?」
「ええ。夏も綺麗でしょうし、秋もいいかもしれません」
「冬は?」
「雪が積もったら来られないでしょう」
「では、三季ですね」
「毎年来るつもりです?」
「あなたが誘ってくださるなら」
ローレンスはカップを置いた。
「何度でも来ますよ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
これからの思い出なら、私にも増やしていける。
誰かとの過去を知らなくても、これからローレンスと過ごす時間まで諦める必要はないのだろう。
◇
帰る前に、湖畔をもう少し歩くことにした。
別邸の裏手へ回ると、道が少し細くなっている。冬の間に雨水で土が削られたらしく、ところどころ石が露出していた。
「足元を」
ローレンスが手を差し出す。
私はその手を取り、支えられながら少し大きな石を越えた。
そこから先は平らな道だった。
ローレンスの指から力が抜け、手が離れかける。
その瞬間、私は反射的にその手を握った。
ローレンスの動きが止まる。
私も足を止め、つないだ手へ目を落とした。
自分から握ってしまった。
けれど、ここで離すのも違う気がした。
「……もう平らですよ」
「知っています」
「では」
ローレンスも、つないだ手へ視線を落とす。
「どうして?」
私は少し迷った。
夫婦なのだから。
それくらいおかしくない。
そう言ってしまうこともできた。
けれど、それでは以前と何も変わらない。
私はローレンスを振り向かせたいのだ。
「このままがいいので」
言ってから、急に顔が熱くなった。
思っていたよりずっと恥ずかしい。
「……嫌なら離しますけれど」
耐えきれず、指の力を緩めかける。
「嫌ではありません」
返事はすぐだった。
離れかけた指を追うように、今度はローレンスのほうから手を握り直される。
思っていたより、しっかりと。
「むしろ」
ローレンスが何か言いかける。
「むしろ?」
「……いえ。今は勘弁してください」
そんなことを言うローレンスは珍しい。
何を言おうとしたのか気になったけれど、それ以上尋ねる前にローレンスが歩き出した。
私も隣を歩く。
転ばないように支えるためではない。
ただ、手をつないでいる。
何度も触れたことのある手なのに、今日はまったく違うもののように感じた。
ローレンスを振り向かせようと思ってしたことなのに、私のほうがまともに顔を見られなくなっている。
「静かですね」
ローレンスが言った。
「……何がです?」
「あなたが」
「景色を見ているのです」
「そうですか」
どこか笑いを含んだ声だった。
「今、笑いましたよね」
「気のせいでしょう」
「先ほども同じことを言っていました」
「そうでしたか?」
とぼけるように返されたけれど、つないだ手は離れない。
もっとローレンスのことを知りたい。
また一緒に出かけたいし、こうして手をつなぐことにも、いつかは慣れたい。
最初は、いつか私のことも好きになってくれればいいと思っていた。
けれど今は、それだけでは少し足りない。
ローレンスが今も想っている人より、私を好きになってほしい。
そんなことまで考えるようになった自分に気づいて、つないだ手へそっと力を込めた。
すぐに、同じだけの力が返ってくる。
隣を見れば、ローレンスがどんな顔をしているのか分かる。
けれど今は、それを確かめる勇気まではなかった。
私は手を離さないまま、湖畔の道を歩き続けた。




