01.合理的な結婚
結婚して三か月が経った。
公爵家に婿入りした私の夫、ローレンスは、今夜も大勢の人に囲まれている。
王都でも名の知れた伯爵家の夜会。高い天井から吊るされた硝子の燭台には無数の蝋燭が灯り、磨き上げられた床へ柔らかな光を落としていた。楽団の奏でる弦の音に重なるように、人々の笑い声とグラスの触れ合う音が広間を満たしている。
その中央近くで、ローレンスは若い令嬢たちと話していた。
淡い金色の髪をきれいに撫でつけ、深い紺の夜会服を身につけている。肩幅は広すぎず、細身ではあるものの頼りなくは見えない。整った顔立ちは黙っていれば少し冷たく映りそうなのに、彼がそんな印象を与えることは滅多になかった。
いつも笑っているからだ。
今も令嬢の一人が何かを話すと、ローレンスは笑みを浮かべて相槌を打った。少し離れたところにいる私にまで、その女性の弾んだ声が聞こえてくる。
「本当に、お変わりありませんのね」
隣から声をかけられ、私は振り向いた。年配の伯爵夫人が、扇の向こうで微笑んでいる。
「何がでしょう?」
「ご主人ですわ。ご結婚なさったら、少しは女性方も遠慮するものかと思っておりましたけれど」
そう言われて、もう一度ローレンスのほうを見る。令嬢だけではない。年配の貴婦人も、若い子爵も、王宮勤めらしい男性も彼の周囲にいた。
「ローレンスは昔からあのような方ですから」
「あら。奥様はお妬きになりませんの?」
「妬く、ですか?」
首を傾げると、伯爵夫人は目を見開き、扇で口元を隠した。
「まあ」
「申し訳ありません。あまり考えたことがありませんでした」
嘘ではない。
ローレンスが女性に人気なのは、結婚するずっと前から知っている。
侯爵家の次男として生まれた彼は、社交の場へ出るようになった頃からよく人に囲まれていた。家柄がよく、容姿も整っていて、頭も切れる。それに何より、誰に対しても感じがいい。
相手の身分によって露骨に態度を変えることもなく、退屈そうな令嬢にも、話の長い老伯爵にも、同じように笑顔で応じる。
だから好かれる。
それだけのことだ。
伯爵夫人と少し話をしたあと、私は飲み物を取りに壁際へ向かった。使用人からグラスを受け取ったところで、背後から声がした。
「お待たせしました」
振り返ると、いつの間に人の輪を抜けたのか、ローレンスが立っていた。
「もうよろしいのですか?」
「ええ。ひと通りご挨拶は済ませましたので」
先ほどまで彼を囲んでいた人々へ目を向ける。まだこちらを見ている令嬢もいた。
「ずいぶんお忙しそうでしたね」
「見ていらしたのですか?」
「見えるところにいらっしゃいましたから」
別に、ローレンスばかりを見ていたわけではない。あれだけ人に囲まれていれば、自然と目に入る。
ローレンスは何も言わず、私の手元へ視線を落とした。
「それは葡萄酒ですか?」
「ええ」
「今夜はあまり召し上がらないほうがよろしいですよ」
「どうしてです?」
「先ほど、お食事をあまり取っていらっしゃらなかったでしょう」
私は少し眉を上げた。
同じ広間にはいたけれど、食事を取っていたとき、ローレンスは別の人と話していたはずだ。
「よく見ていますね」
「妻ですから」
さらりと答えて、ローレンスは近くを通った使用人を呼び止めた。
「こちらもいただけますか」
差し出されたのは、果実を水で割った飲み物だった。
「こちらになさっては?」
「子供ではありませんよ」
「存じています」
ローレンスの口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
「でしたら、葡萄酒くらい」
「空腹のまま飲まれると、すぐに顔が赤くなるでしょう」
そこまで言われるとは思わず、グラスを持つ手が止まった。
「……そんなことまで覚えているのですか」
「以前もそうでしたから」
「いつの話です?」
ローレンスは少し考えるように視線を上げた。
「十六歳の冬ですね」
四年も前のことだ。
私はそんなことがあったことさえ、すぐには思い出せなかった。
「どうかなさいました?」
「いえ。よく覚えていますね」
「そうでしょうか」
「ええ」
けれど、ローレンスなら不思議でもない。
人の名前や家族構成をよく覚えていて、以前話したことを次に会ったときにも覚えている。社交界でこれほど好かれるのも、そういうところなのだと思う。
昔からそうだった。
物心がついた頃には、ローレンスとはすでに何度も顔を合わせていた。両家の親同士が親しく、家族ぐるみで行き来することも珍しくなかった。
一歳しか年が違わないこともあり、子供同士で過ごすよう言われることも多かった。庭で一緒に遊んだこともあれば、同じ卓で勉強させられたこともある。
とはいえ、いつも二人でいたわけではない。
両家が親しいから、自然と顔を合わせる機会が多かったのだ。
ただ、昔から一つだけ、どうしても好きになれないところがあった。
誰にでも笑うところだ。
大人たちは皆、ローレンスを褒めた。
礼儀正しくて、利発で、感じがいい。私もその評価が間違っているとは思わなかった。
けれど子供だった私は、誰を相手にしても崩れないその笑顔が、妙に気に入らなかった。
ある日、庭園で二人きりになったとき、とうとう口にしたことがある。
『私、ローレンスのそういうところ、少し苦手です』
『そういうところ?』
『誰にでも笑うところです』
『笑ってはいけませんか?』
『そうではありませんけれど』
今思えば、随分失礼なことを言ったものだ。
誰にでも感じよく接することが悪いわけではない。ただ、誰と話していても同じように笑うから、本当に楽しいのか、相手に合わせているだけなのか分からなかった。
『今だって笑っているでしょう』
そう言うと、ローレンスは一瞬だけ黙った。そして、笑みが少しだけ薄れた。
『アメリアは、変なところを見ていますね』
『変ですか?』
『ええ。そんなことを言われたのは初めてです』
あれが、初めてだった。
ローレンスの笑顔にも、いくつか種類があるのだと気づいたのは。
それからは、何となく分かるようになった。
本当に楽しんでいるとき。相手に合わせているとき。困っているのを隠しているとき。
長く顔を合わせていれば、それくらい分かるようになるものなのだと思っていた。
「――アメリア?」
名前を呼ばれ、現在へ引き戻される。
「どうかなさいました?」
藍色の瞳がこちらを向いている。
「昔のことを思い出していました」
「昔?」
「あなたの笑顔が苦手だと言った頃です」
「ああ」
懐かしむように、ローレンスの目元がわずかに緩んだ。
「覚えていらっしゃるのですね」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
「忘れてくださってもよかったのですが」
「なかなか衝撃的でしたので」
そう言われると、子供の頃のこととはいえ、改めて申し訳なくなってくる。
「申し訳ありませんでした」
「今さら謝らなくても結構ですよ」
ローレンスは手にしていたグラスへ口をつけた。
「根に持っていらっしゃる?」
「まさか」
変わらず笑顔だった。
私はじっとローレンスを見る。
「……少し持っていますね」
ローレンスは数秒黙った。それから、小さく息を吐く。
「本当に、そういうところだけは昔から変わりませんね」
「何がです?」
「人の顔を読むところです」
「あなたが分かりやすいのでは?」
「それを言うのは、あなたくらいですよ」
そう言われて、少しだけ可笑しくなる。
ローレンスとは昔から、妙にこういうやり取りになることがあった。長く顔を合わせてきただけあって、今さら互いに過度な遠慮をすることもない。
私は、ローレンスのことをよく知っているつもりだった。
楽団の演奏が終わり、広間に拍手が広がった。次の曲を前に、人々がゆるやかに場所を移していく。
ローレンスが私へ手を差し出した。
「踊っていただけますか?」
差し出された手を見ながら、先ほどローレンスを囲んでいた令嬢たちを思い出す。
「先ほど、何人もの令嬢がお待ちでしたよ」
「それが?」
ローレンスは不思議そうに私を見る。
「お誘いしなくてよろしいのですか?」
「このあと何曲かありますから」
「では、そちらを先になさっては?」
今度は、わずかに眉を上げた。
「なぜです?」
「皆様、お待ちでしょう」
ローレンスは少し笑った。
「最初の一曲くらい、妻と踊らせてください」
あまりにも当然のように言われ、思わずローレンスの顔を見る。
「まあ」
「何です?」
「きちんとなさっていますね」
「夫ですから」
こういうところは、昔から抜かりがない。
「そういうことを自然におっしゃるから、人気があるのですよ」
「褒めてくださっているのですか?」
「一応は」
「一応ですか」
少し不満そうな声がおかしくて、私は小さく笑った。
「実際、皆様お待ちでしょう?」
「では、この曲が終わったらご挨拶してきますよ」
「そうなさってください」
私は差し出された手へ自分の手を重ねた。
ローレンスに導かれ、広間の中央へ向かう。周囲には華やかな衣装をまとった男女が集まり始めており、何人かの女性がこちらを見ていた。
ローレンスは相変わらず人気者だ。
結婚前も、結婚してからも。
けれど、それは当然だと思う。
家柄もよく、容姿も整っていて、人当たりもいい。結婚前から多くの令嬢に好かれていたのも不思議ではなかった。
だからこそ、私たちの結婚も実に合理的だった。
我が公爵家には、私のほかに家を継ぐ者がいない。いずれ父から爵位と領地を継ぐ私には、我が家へ入ってくれる夫が必要だった。
ローレンスは侯爵家の次男で、兄が家を継ぐ。家格も申し分なく、本人も有能で、両家の関係も良好だ。
しかも、幼い頃から互いを知っている。
見ず知らずの相手を夫に迎えるより、ずっといい。
だから、この縁談が決まったときも、私は運がよかったと思った。
恋をして結ばれたわけではなくても、夫婦としてうまくやっていける相手と結婚できたのだから。
少なくとも私は、そう思っている。
ローレンスも同じだろう。
曲が始まる。
ローレンスの手が私の腰へ添えられ、私は彼の動きに合わせて一歩踏み出した。
「ぼんやりしていらっしゃいますね」
「少し考え事を」
「私と踊りながら?」
「失礼でしたか?」
「少しだけ」
「では、何を考えていればよろしいのです?」
ローレンスは笑った。
今度の笑顔は、社交用ではない。少し意地の悪い、本当に楽しんでいるときのものだ。
「私のことでも考えていてください」
「十分考えていますよ」
「それなら結構です」
相変わらず、変な人だ。
そう思いながら、私はローレンスに合わせて次の一歩を踏み出した。
ローレンスが本心を笑顔で隠しているときくらい、私には分かる。
長い付き合いなのだから。
――少なくとも、このときの私は、そう思っていた。




