おれの死刑 :約4500文字
「――せません!」
「――るんだ!」
怒声と喉の奥で擦り切れたような叫びが、隣の部屋との仕切り――カーテンの向こうから断続的に届いてくる。
何度も繰り返される同じ言葉は、おれの脳を削ぎ、時間の感覚を濁らせていくかのようだった。
いつまで……いつまでかかるんだ……。
この状態で、おれはいったいいつまで待たされる……いつまで……。
「――さん。出てください」
今朝のことだ。名前を呼ばれ、おれは独房の外に出た。直後、目隠しと手錠をかけられ、歩くように指示された。
手首を覆う冷たく無機質な感触とずしりとした重み――実際にはそこまで重くないはずだが――が、じわじわと現実を突きつけてきた。背骨の奥から湧き出した悪寒が全身へと広がり、脇にはじっとりと嫌な汗が滲み、肌が粟立った。
――おれは死刑になる。
「嫌だ……嫌だああああ!」
気づけば、おれは喚き散らしていた。喉からあふれた声が廊下に反響し、何重にも折り返されて耳に突き刺さった。それが自分のものだとは思えなかった。足から力が抜けて、おれはその場に崩れ落ちた。膝を打ち、鈍い痛みが広がったが、それすら遠く、おれはただ叫び続けた。
何を口走っていたのかは覚えていない。どれほどの時間そうしていたのかも。
だが、何を言おうとも逃れることはできない。死刑からは。
腕を掴まれ、無理やり引き起こされてそのまま歩かされた。処刑室に着いた頃には喉は完全に嗄れ、涙も枯れ果てていた。目隠しは涙を吸って重くなり、顔に張りついていた。
首に縄をかけられる間、おれは足先に、そして股間に力を込めた。小便だけは漏らしたくなかった。みじめな気分だったが、それでもなお自尊心を守ろうとする自分が、ほんのわずかに誇らしくあった。
やがて刑務官たちの足音が遠ざかっていった。周囲は静寂に包まれ、おれはごくりと唾を飲み込んだ。
いよいよだ。おれは死ぬ。死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
頭がぐらりと揺れた気がした。実際に揺れたのかはわからない。ただ強烈なめまいに襲われ、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。
大丈夫だ。一瞬で終わるはずだ。おれは何もしなくていい。勝手に終わらせてくれる。
そんなどこか前向きな考えが浮かんだ。
死ぬ、死ぬ、嫌だ、死ぬ、やれ、今だ、今ならいい、嫌だ、死ぬ、早く、嫌だ。
頭の中で感情がぶつかり合い、波が立つ。そのどれを汲んで取り出せばいいのか、おれにはわからなかった。目隠しの下で眼球がせわしなく動き続けていた。
死ぬ、死ぬ、早く、死ぬ、早く、そろそろだ、嫌だ、死ぬ、嫌だ、助けてくれ、いい、やれ、やっちまえよ、嫌だ、やれるもんならやってみやがれ、意外と耐えられるかも、そうだ、生き延びてやる、今のうちに肺に空気を溜めておくんだ、おれは六十秒は潜れる、死ぬ、死ぬ、まだか、やれよ、嫌だ、死ぬ、ちょっと待って、冗談じゃない、大丈夫だ、生きる、死ぬ、夢だったりして、死ぬ、いいぞ、今だ、嫌だ、やめろ、覚悟が決まるまであと三秒、嫌だ、ふざけるな、死ぬ、お前らこそ死ね、やれよ、今ならいいぞ、助けて、死にたくない、来いよ、死ぬ、お助け、おれは死なない、死ぬ、落ちる瞬間跳び上がれ、勢いで縄が切れるかも、よし、無理、死ぬ、そろそろだ、死ぬ、やってやる、嫌だ、嫌だ嫌だ、死ぬ、死なない、死ぬ、死なない、死ぬ、耐えてやる、やめろ、まだか、嫌だ、まだなのか、死ぬ、死ぬ、死ぬ、いや……まだか……?
ぼそぼそと声がどこかから漏れ聞こえてきて、おれは耳を澄ませた。
その次の瞬間だった。
「おぜまぜん!」
おそらく隣の部屋――ボタンの前――から悲鳴じみた声が轟いた。
「僕には……おぜまぜん!」
「い、いいから押せ! 押すんだ!」
「おぜまぜん!」
「怒鳴らないでくださいよおおおあああああ!」
「帰りたい……お母さん……」
死刑の手順は知っている。
まず死刑囚の首に縄をかける。そして三人の刑務官が、それぞれ三つのスイッチの前に立ち、同時に押す。すると床がパカッと開き、死刑囚は落下する。頸椎が折れて即死。それで終わりだ。
三つのボタンのうち本物は一つだけで残りは偽物。なぜわざわざ偽物なんてものが用意されているのかというと、刑務官の精神的負担を軽減するためらしい。責務であり、また相手が犯罪者とはいえ、人を殺すという行為に耐えられない者は多いという。誰が押したのか分からなくすることで、自分が殺したという意識を薄め、罪悪感を分散させる仕組みだ。
だが今、その三人全員が押すことを拒否している。
「これだから若いやつはダメなんだ。もういい、俺がレバーを引く!」
死刑執行には絶対にミスがあってはならない。ボタンに不具合が生じ、床が開かない場合に備えて、非常用のレバーが設けられている。
本来は、四人目の刑務官がそれを引く決まりだが――。
「ひ、引けないよ……」
このやりとりをおれは何度も何度も聞かされていた。思い返せば、縄を首にかけるときもやけにもたついていた。
だが、もう数時間は経っているはずだ。そのおかげか、あるいは自分よりも取り乱している連中がいるせいか、おれはいつの間にか冷静になっていた。
「お前たち、頼む。ボタンを押してくれ……」
「先輩が押せばいいじゃないですか」
「そうですよ。それに、さっきのはエイジハラスメントです」
「具合悪い……」
少子化が進み、子供が大事にされる時代になったとは聞いていた。体罰は禁止どころか、教師が叱ることすら許されない。親が子供に「さん」付けすることも珍しくないという話だ。やりたくないことはやらなくていい。無理をしなくていい。学校に行かなくてもいい。そんな空気の中で育てられた結果、ずいぶんと打たれ弱い人間が出来上がったらしい。
「ほら、まずはボタンに指を置いて……」
「置いたら、背中を押すつもりでしょ」
「今日はもうやめにしましょうよ……」
「ああ、おなか痛い、痛い……!」
「そういうわけにはいかないだろう……ほら、せーので押すんだ」
「嫌ですよ。他の二人が押さないかもしれないじゃないですか。そしたら僕だけ損ですよ」
「損って……」
「それに、これまで世話してきたのに、なんで自分の手で殺さなきゃいけないんですか……! きーちゃん……」
きーちゃん。おれはそう呼ばれていたのか。自分の名前と結びつかない響きだったが、その由来を考える気にもなれん。
「さあ、ほら、押すんだ!」
「だから怒鳴らないでくださいよ!」
「怒鳴ってないよ……普通に頼んでるだろう?」
「あーあ! じゃあ、もうわかりましたよ! おれが三つとも押してやりますよ! 押せばいいんでしょ? おおん!?」
「た、頼めるか?」
「おい、やけになるなって……」
「押してやるよ……へへ……ひひひひ……ああああ! でぎない!」
「やっぱり無理だよ、こんなの……」
「嫌だああああ! 押したくない! 押したくないいい……!」
これまでで最大の叫び声が響いた。あとには荒い息遣いだけが残り、やがてそれも消え、重たい静寂が落ちた。
「あのー……」
「えっ」
それからしばらく経った。ばたばたと人が出入りする足音が何度か続いたあと、ふいにすぐ近くから声がした。おれは思わず声を漏らした。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「え、おれ……?」
おれはおそるおそる声を絞り出した。
「はい。あの、あっ、なんかすみません。時間かかっちゃって」
「あ、いえ、いや、はい。本当に」
妙に腰の低い声だった。どうやら一番年長の刑務官らしい。目隠し越しでも気まずそうにしている気配が伝わってきた。
「こっちのやり取り、聞こえていました……よね?」
「まあ……はい」
「はは、いやあ、お恥ずかしい限りで」
「ええ、まあ……本当に」
「これ引きずっちゃいそうだなあ……。今夜、寝る前とか思い出したりして。そう思いません?」
「いや……こっちは『今夜』自体が来ないと思うので、なんとも……」
「そうですねえ。で、でなんですけどお……みんなで話し合った結果、あなたにレバーを引いてもらうのが一番いいんじゃないか、という話になりまして」
「……え?」
「あの、さっき確認したら縄が余っていたんですよ。それで今、それをレバーに括りつけてきましてね。で、これが先端です。あ、見えないか。……よし、どうぞ」
「は!?」
次の瞬間、いきなり目隠しが外された。白い光がガラス片のように目に突き刺さり、おれは反射的にまぶたを閉じた。
少し経ってからゆっくりとまぶたを開けると、目の前には刑務官が立っていた。手には縄の先端を持っている。その縄を目で辿ると、カーテンの仕切りの向こう――隣の部屋へと続いているらしい。カーテンの隙間から、三人の刑務官が嬉々とした表情でこちらを覗き込んでいた。一人は手を振ってきた。自分が“天然”であることを自覚し、その立場を最大限利用しようと考えている。そんな小狡さを感じた。
「じゃ、そういうことなんで。はい、持ってください。グイッとお願いしますね。グイッと。レバー、結構重そうですから。ははは」
「いや、いやいやいや」
「あー、覚悟がまだ決まらない感じですか? 死ぬ覚悟」
「いや、決まってはいたんだよ。何度も。時間はあったからな」
「やっていただかないとこっちも困るんですよ。怒られちゃうんです。お気持ちはわかるんですけどねえ」
「わかってないだろうが」
「この形が一番丸く収まると思うんですよ。こっちも恨まれたくないですし……」
「むしろ恨むぞ」
「あの、早めにお願いしていいですか? 時間、押してるんで」
「お前らのせいだろうが」
「できない、と?」
「当たり前だ」
「他力本願ですねえ」
「お前らがな!」
「死刑になるほどのことをしたくせに、何を甘えてるんですか。覚悟を決めなさいよ。それだけのことをしたんでしょうが。被害者や関係者に悪いとは思わないんですか。あなたが悪いんでしょう。あなたが自分で自分をこの状況に追い込んだんでしょう。社会のせいにするんじゃないよ!」
「いや、お前に何を言われても響かないぞ」
「とことん腐ってる……」
「お前がな!」
年長の刑務官は三人のほうへ振り返り、「お手上げだ」と言わんばかりに首を横に振った。
三人は露骨に顔をしかめ、ため息をついた。それから四人で肩を寄せ合い、ひそひそと話し始めた。
「あのー」
「今度は何だ……うわっ」
四人がにやにやと笑いながら近づいてきたかと思うと、次の瞬間、一斉におれの体を押さえ込んできた。腕を取られ、手首にざらりとした感触が走る。これは――縄だ。
「お、おい、何の真似だ……」
おれは掠れた声で問いかけた。
「この状態でみんなで引っ張れば、レバーも引けると思うんですよねえ」
年長の刑務官は興奮気味に息を荒げて言った。
「よ、よーし、やるぞ。いいな? せーの!」
「せーの!」
年長の刑務官の号令と同時に、連中は一斉に体重をかけてきた。手首から伸びる縄が、ぴんと張り詰めた。
「せーの!」
「もっともっと!」
「いけーっ!」
視線を落とすと、連中の顔には子供のような無邪気な笑みが浮かんでいた。
「わっしょい、わっしょい!」
「えいさー、えいさー!」
「オーエス! オーエス!」
どっこいしょーどっこいしょ、そーらんそーらん、えっさほいさ! セイヤ、セイヤ、セイヤ――掛け声は変化し続けた。その声にはどこか陽気さと懐かしさが滲んでおり、まぶたの裏に幼い頃の光景が浮かび上がってきた。
照りつける太陽、乾いた砂埃の匂い、擦りむいた膝のひりつき、熱を帯びた同級生たちの声。何かに夢中だったあの頃の自分。
ただ、それは走馬灯だったのかもしれない。
首をみちみちと締め上げられていく。縄が食い込み、息が詰まり、視界の端が黒く滲み出した。世界がじわじわと狭まっていく。
――やったー!
その声は、おれの記憶の中のものだったのか、それとも現実のものだったのか――わからない。
ただその響きはひどく懐かしく、おれは頬を緩めた。




