離縁前提で嫁いだのに、冷酷辺境伯が毎晩きちんと「おやすみ」を言ってくるので困っています
「おやすみなさい、イリス」
離縁まで、あと七日。
冷酷と噂の辺境伯ルシアン様は、その夜もきちんと私の寝室の扉の向こうからそう告げた。
毎晩のことなのに、未だに心臓に悪い。
この人は、別れの日が近いほど、こういう小さな優しさを増やしてくる。
契約結婚なのだから、そこはもっと雑でよかったのではないかと思う。
そうすれば私だって、離縁の日を素直に迎えられたはずなのに。
「……おやすみなさいませ、旦那様」
返事をすると、扉の向こうでほんのわずかに気配が揺れた。
たぶん、いつものように頷いたのだろう。
声にせず、しばらくそこに立ってから、彼は静かに離れていく。
足音まで律儀だと思う。
冷酷辺境伯という噂は、いったいどこから出たのだろうか。
少なくとも、毎晩「おやすみ」を言いに来る人の評判としてはだいぶ間違っている。
私は膝の上の離縁届へ目を落とした。
もう署名は済んでいる。
明朝、これを差し出せば、契約通り私は自由になる。
そうなるはずだった。
そうなるように、この一年を過ごしてきたはずだった。
それなのに私は今、紙切れ一枚を前にして、情けないほど迷っている。
全部、あの人が悪い。
契約結婚の夫らしく、もっと冷たくしてくれていればよかったのだ。
それなら、こんなふうに困らずに済んだ。
一年前、私がルシアン・グレイヴ辺境伯から契約結婚を持ちかけられたとき、正直なところ相手の顔もろくに見ていなかった。
父の死後、フォルン伯爵家はあっという間に傾いた。
父は善人ではあったけれど、商売の才はなかったらしい。
港湾投資に失敗し、残ったのは借金と、維持費ばかりかかる古い屋敷と、まだ学園へ通わせなければならない弟二人だった。
母は病弱で、私には家を立て直す時間も手札も足りなかった。
そんなとき舞い込んだのが、辺境伯からの婚姻契約だった。
「契約は一年」
初めて会ったとき、ルシアン様は無駄のない声でそう言った。
冬の曇り空みたいな灰色の目をした人だった。
背が高く、右のこめかみに薄い傷がある。
人の上に立つことに慣れているのに、必要以上に威圧しない、不思議な落ち着きのある人だった。
「別室で暮らしていただく。
互いの私生活へ干渉しない。
後継ぎを求めるつもりもない。
一年後、あなたが望むなら離縁する。
その際は相応の支度金を支払う」
あまりに明快で、逆に拍子抜けしたほどだ。
もっと曖昧に縛られると思っていた。
あるいは、借金を盾に無理な条件を呑まされるかもしれないと覚悟していた。
でも彼が口にしたのは、驚くほど線引きのはっきりした契約だった。
「私に必要なのは、《《辺境伯夫人》》という立場だ」
彼は続けた。
「王都は今、私へ再婚を強く求めている。
その口を一年閉じさせたい。
あなたは借金を整理したい。
利害は一致している」
ひどく正しい言葉だった。
そして、その正しさが少しだけありがたかった。
哀れみでも、恋でも、救済でもない。
取引だと言われるほうが、当時の私にはむしろ楽だった。
「お受けいたします」
私がそう答えると、ルシアン様は一度だけ静かに頷いた。
「感謝する」
その日から、私の一年契約の結婚生活は始まった。
辺境伯領は、王都よりずっと寒かった。
風が強く、石造りの屋敷は夜になると壁まで冷える。
私は嫁いだ初日、用意された寝室の広さと、暖炉の火の強さに少しだけ驚いた。
契約結婚なのだから、もっと簡素な部屋でもよかったのに、寝具は上質で、窓には厚い防寒布が二重に下がり、湯たんぽまで温められていたからだ。
「旦那様のご指示です」
侍女頭のマーサが、当然のように言った。
「奥様は王都育ちで寒さに慣れていないから、火は就寝後も朝まで落とすなと」
初日から少しだけ困った。
契約結婚の相手が、思ったよりちゃんと気を配る人だったからだ。
もっと困ったのは、そのあとだった。
私は香辛料の強い料理が苦手なのだけれど、三日目には食卓からそれが消えていた。
理由を訊けば、料理長が「旦那様から、奥様の好みに合わせろと」と言う。
夜更けに書庫で本を読んでいたら、無言のまま厚い肩掛けが置かれていた。
最初の雪の日には、屋敷の北側は朝方に床が冷えるからと、私の部屋だけ先に火が入った。
そして毎晩、どれだけ遅くても、ルシアン様は寝室の扉の前で一度だけこう言うのだ。
「おやすみなさい」
最初にそれをされたときは、本当に意味が分からなかった。
契約結婚で、別室で、互いに干渉しないはずの相手が、なぜ毎晩そんな律儀な挨拶をするのだろうと。
「この土地では」
一度だけ、私がその理由を訊いたことがある。
ルシアン様は少し考えてから、静かに答えた。
「朝、隣の部屋の人間が必ず生きているとは限らない」
辺境では、冬の熱、怪我、襲撃、吹雪。
人が夜を越えられない理由はいくらでもある。
だから家族や部下へ、眠る前に一言かける習慣があるのだと。
彼はそう説明した。
「無事に夜を越えて、また朝を迎えてほしい。
それだけだ」
その《《それだけ》》が、私には十分すぎるほど重かった。
以来、彼の「おやすみなさい」は、日に日に私の心へ効いていった。
辺境伯夫人としての仕事は思ったより多かった。
王都から送られてくる視察官の対応。
物資搬入の確認。
冬季学校の寄付先整理。
負傷兵の家族への見舞金配分。
私は最初、一年限りの仮妻だから、最低限で済ませるつもりだった。
でも実際に現場を見てしまうと、そうもいかなかった。
この領は貧しいのではない。
足りない場所へきちんと手を回せば、ちゃんと立ち直る余地がある。
そしてルシアン様は、私が仕事に口を出しても一度も「契約以上のことをするな」とは言わなかった。
「こちらの予算配分、冬毛布へ寄せたほうがよろしいと思います」
ある日の夕食で私がそう言えば、彼はすぐに帳面を引き寄せた。
「理由は」
「教会支給のスープは日数で見れば足りています。
でも夜の冷えで病む人は減っていません。
毛布と火鉢のほうが直接効きます」
「……なるほど」
彼は短く頷き、その場で書記官へ再計算を命じた。
私の提案が通ったことより、《《理由は》》とだけ訊いてちゃんと聞くことのほうに驚いた。
前の家では、私が口を出せば「女のくせに」と笑われるか「お前に何が判る」と切り捨てられるかのどちらかだったからだ。
だから気づけば私は、一年限りの仮妻とは思えないほど、この領のことを考えるようになっていた。
それが危険だとは、分かっていたのに。
転機は、離縁まで一か月を切った頃だった。
王都から、侯爵家の令嬢が客としてやって来たのである。
名はマルグリット。
色鮮やかなドレスを着こなし、笑い方まで王都の花のように華やかな人だった。
私はすぐに理解した。
ああ、次の辺境伯夫人候補なのだろう、と。
実際、王都は最初からルシアン様の契約結婚を快く思っていなかった。
一年後に離縁するなど不安定だ、正式に再婚すべきだ、辺境伯夫人にはもっと相応しい家柄が必要だ。
そういう話は、手紙の端々や訪問客の世間話から何度も漏れていた。
なら、契約終了が近づいた今、次の候補が来るのは自然だ。
私はそう納得した。
納得したのに、妙に胸が重かった。
面白くないほど、分かりやすく。
「旦那様」
夕食の席で、マルグリット嬢が優雅に微笑んでいた。
「辺境の冬は厳しいと聞いておりましたけれど、思っていたよりずっと過ごしやすいですわ」
「それはよかった」
ルシアン様はいつも通り短く答える。
必要以上には笑わない。
でも無礼でもない。
王都の令嬢から見れば、それだけでも十分「気にかけられている」と映るのかもしれない。
私はスープの匙を置き、静かに席を立った。
「少し、失礼いたします」
ルシアン様が一瞬こちらを見た気がした。
けれど私は、その意味を考えないようにした。
契約が終わるだけ。
それだけの話だ。
私は最初から、それを分かって嫁いだのだから。
その夜、扉の向こうからいつもの声がした。
「おやすみなさい、イリス」
私は返事をした。
でも、いつもより声が少しだけ弱かったと思う。
翌日から、私は離縁後の引き継ぎを本格的に始めた。
書庫の整理。
寄付先名簿の清書。
物資配分の注意書き。
冬季学校の子どもたちの家族構成まで、次の人が困らないようにまとめる。
やっていることはいつもと同じなのに、全部が《《手放す準備》》なのだと思うと、胸の中が少しずつ冷えていった。
契約最終日の前夜。
私は離縁届と引き継ぎ帳面を机へ並べていた。
署名も済ませた。
支度金の受領欄だけ空けてある。
これで明日の朝、書類上はすべて終わる。
そこへ、控えめなノックがした。
毎晩同じ時間、同じ速さのノック。
もう分かっている。
「おやすみなさい、イリス」
私は扉の前へ立つ。
少しだけ迷ってから、今日は扉を開けた。
ルシアン様が、廊下の灯りの下に立っている。
いつもと同じ黒い上着。
いつもと同じ整った姿勢。
でも灰色の目だけが、ほんの少しだけ疲れて見えた。
「……おやすみなさいませ」
返事をしてから、私は机の上の書類へ目をやった。
その視線の動きに、彼も気づいたのだろう。
ルシアン様の目が、開いた扉の向こうへ流れる。
机の上の離縁届を認めた瞬間、その表情がはっきり変わった。
「もう書いたのか」
低い声だった。
「はい」
私はできるだけ穏やかに頷く。
「契約通りですので」
沈黙が落ちた。
遠くで風が鳴る。
辺境の夜の音は、いつも少し寂しい。
「……そうか」
ルシアン様はそう言ったきり、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が苦しくて、私は先に口を開く。
「この一年、本当にありがとうございました。
借金も整理できましたし、弟たちも学園へ戻れます。
契約以上にしていただいたこと、感謝しております」
「感謝」
彼は小さく繰り返した。
「それだけか」
問いの意味が分からなかった。
だから私は、正直に頷くことしかできない。
「……はい」
ルシアン様が、初めて目に見えて眉を寄せた。
怒っているわけではない。
困っているのだと、なぜか分かった。
「私は」
彼は少しだけ言葉を探すように黙ってから、続けた。
「契約は守るつもりだ」
「はい」
「あなたが望むなら、明日予定通り離縁する」
「……はい」
当然のことのはずなのに、胸の奥がずきりと痛んだ。
それでも私は、顔には出さないようにした。
契約結婚に勝手に情を持ち込んだのは私のほうだ。
相手に責任はない。
「だが」
そこで、ルシアン様ははっきりと言った。
「本音では、行かせたくない」
私は息を止めた。
あまりにもまっすぐで、飾り気のない言い方だった。
「毎晩、扉の前で《《おやすみなさい》》を言えなくなるのは困る」
困る。
たったその一言が、どんな甘い台詞よりも深く刺さった。
この人は飾るのが上手くない。
でも、だからこそ嘘ではないと分かる。
「旦那様……」
「ルシアンでいい」
そう訂正されて、ますます心臓に悪い。
私は扉の縁を握ったまま、うまく息ができなくなる。
「あなたが望むなら、契約は守る」
ルシアン様は続ける。
「だが、本当は契約を延ばしたいのではない。
《《続けたい》》」
「何を、ですか」
「夫婦を」
そこで、私はようやく理解した。
この人は最初から、契約を理由に私を縛るつもりはなかったのだ。
そして今も、契約を盾にはしない。
契約は守る。
でも本音は別だと、ちゃんと自分の言葉で言おうとしている。
「マルグリット様は……」
私の口から出たのは、我ながら情けない問いだった。
でも、そこが一番引っかかっていたのだから仕方がない。
「王都から来た侯爵令嬢です」
「知っている」
「次の奥方候補では、ないのですか」
ルシアン様が、そこで初めて本当に驚いた顔をした。
それから、片手で額を押さえる。
この人でもこういう動きをするのかと、妙なところで感心してしまう。
「違う」
返答は即座だった。
「冬季学校への寄付を侯爵家から取り付けるために呼んだ。
王都で社交に顔の利く相手として、あなたが去年の春に候補に挙げていた」
私はしばらく何も言えなかった。
去年の春。
たしかに私は、冬季学校の維持金を安定させるため、侯爵家令嬢マルグリットが慈善に熱心だと報告書へ書いた。
まさか、それがそのまま呼ばれていたとは思わなかった。
「では、あの方は」
「客だ」
ルシアン様はきっぱりと言う。
「あなた以外を妻に迎える気は、もうない」
もうない。
その言い方に、胸がまた熱くなる。
きっとこの人は、最初から私を大切にしてくれていたのだ。
ただ、やり方があまりにも静かで、私はそれを読み取れなかっただけで。
「私は」
ようやく声を絞り出す。
「契約だから、期待してはいけないと思っておりました」
「私は、契約だから押しつけてはいけないと思っていた」
真逆だった。
私たちはおそらく最初から、同じものを前にして反対側へ遠慮していたのだ。
「……では」
私は、扉の向こうへ一歩だけ出る。
夜気は少し冷たい。
でも、足元は不思議と軽かった。
「もし私が残ると申し上げたら」
ルシアン様の目が、はっきりと揺れた。
「そのときは」
彼は一度だけ息を吐いてから、静かに言う。
「正式に、改めて求婚する」
そこで、私はようやく笑ってしまった。
この人は本当に、不器用なくせに大事なところでは逃げない。
「でしたら」
私は離縁届を持ってきていた手を緩める。
紙は指先で少しだけ皺になる。
「その前に条件があります」
「聞こう」
「これからも毎晩、きちんと《《おやすみなさい》》を言ってください」
ルシアン様がほんの一瞬だけ目を見開き、それから、あの人らしい短い頷きを返した。
「当然だ」
「あと、契約ではなく本当の夫婦になっても、私の意見はちゃんと聞いてください」
「今までも聞いていたつもりだ」
「そうですね。
では、それも継続で」
「分かった」
「それから」
ここで少し迷ったけれど、言うしかないと思った。
「私も、行きたくありません」
沈黙。
それからルシアン様が、今度こそ目に見えて安堵したように息を吐いた。
「……よかった」
その一言が、どうしようもなく嬉しかった。
毎晩の「おやすみ」が積み重ねてきたものを、ようやく私たちは言葉にできたのだ。
私は机まで戻り、離縁届を手に取った。
しばらく眺めてから、思い切って破る。
紙の裂ける音が静かな部屋に響いた。
ルシアン様がそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのだと思う。
私もつられて笑ってしまう。
「では」
私は破いた紙片を机へ置いた。
「正式に、改めてお願いできますか」
ルシアン様は頷いた。
そして今度は、扉越しではなく、目の前で言う。
「イリス」
名前を呼ばれて、胸が静かに震える。
「私の妻として、これから先もここにいてほしい」
「はい」
「契約ではなく」
「はい」
「本心で」
「喜んで」
その答えを聞いた瞬間、ルシアン様は本当にわずかに、でも確かに笑った。
それだけで、ああ、この人となら大丈夫だと思えた。
冷酷辺境伯なんて噂、どこからどう見ても間違っている。
この人はただ、不器用なだけだ。
でも不器用なくせに、毎晩きちんと「おやすみなさい」を言いに来る。
そういう人だ。
その夜、別れのためではなく、これからのための「おやすみなさい」を初めて交わした。
扉越しではなく、同じ廊下に立って。
それだけで、世界の温度が少し変わった気がした。
後日、王都では「辺境伯夫妻の離縁は取りやめになったらしい」という噂が流れた。
母から届いた手紙には《《結局、あなたは昔から真面目すぎるのよ》》と書かれていた。
弟たちは《《辺境伯って思ったより怖くないんだね》》と無責任な感想を寄越した。
それなりに腹は立ったけれど、今は少しだけ許せる。
だって私はもう、《《一年後にはいなくなる仮の妻》》ではないのだから。
新しく整えられた書類棚には、離縁届の代わりに、夫婦共有の予算帳が置かれている。
冬季学校への寄付も、兵の家族への見舞金も、今度は《《私がいなくなったら困るから》》ではなく、最初から二人の仕事として並ぶ。
それが、思っていたよりずっと嬉しい。
「イリス」
今夜もまた、扉の向こうから声がする。
でも、前とは少し違う。
私が扉を開けるのを、最初から待っている声だ。
「おやすみなさい」
私は笑って答える。
「はい。
おやすみなさい、ルシアン様」
離縁前提の結婚は終わった。
でも、毎晩の挨拶だけはこれからもずっと続いていくのだと思う。
そういう未来なら、悪くないどころか、かなりいい。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。
【4/18追記】
本作をお読み頂きありがとうございます。
本日、新連載を開始しました。
妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】
https://ncode.syosetu.com/n3418mb/
本作と同時期に投稿した同名の短編を連載化したものです。
光栄なことに、信じがたいほど多くの方々に読んで頂けた短編で(現時点で日間総合5位!)、この連載も少しでも多くの方々に楽しんでいただけるよう頑張ってまいります!
是非是非、皆様の応援をよろしくお願いいたします!




