6 蓬野姫、沖の中将に会う
蓬野の体が大人の大きさになってからは、簡単に野山に出ることが難しくなっていた。
蓬野は、にぎやかな琴や笛、人々の笑い声から遠ざかり、ひとり部屋で筆をすべらせていた。
今日の出来事、これからの希望、もしもこうだったら面白いかも、などととりとめなく書いていく。
外を駆けまわりたい気持ちを全て筆に託してがまんを続けているのだ。
誰が読むわけでもない。誰に評価されるわけでもない。だからこそ、自由で心ゆくまま楽しい。
蓬野が少女のころは、野山を駆けまわっていて心配していた母姫も、筆を持つ娘を見てほっとしている。
「山吹、こんなのどう?」
蓬野はいい出来だ、と思うものは山吹にも見せていた。
「あら、面白いですね」とか「なんです、これ」と、思ったままを言ってくれるので、それも楽しい。
「山吹、」
夢中になって書いていて、山吹が席をはずしていることに気が付かなかった。
「いないのか。後で見せようっと」
そのとき、ふわあ、と夜風が蓬野の顔にかかった。
風?蔀を誰かが開けたのかしら?
蔀とは、現在の雨戸のようなもの。夜になると冷えるので、閉めてくれているはずだ。
蓬野が風の入ってきた方を見た。誰かいる。
山吹が帰ってきたのかしら。
戸口に立っている人物は、夜の闇で姿がはっきりしない。
広い部屋の中で灯りがともしているのは、せいぜい蓬野の手元くらい。他は真っ暗だ。
山吹、と声をかけようとして、蓬野は口を閉じた。
何かが違う。蓬野は直感した。
山吹よりも動きが機敏。山吹よりも影が大きい。山吹よりも背が高い。
謎の人物は、入り口からこちらへ向かって走ってくる。
蓬野は、ハッと息を止めた。
絶対に山吹じゃない。山吹が走るところなんて、見たことがないもの。
パッと手のひらを戸口に向け術をかけた。
戸口の人物は、ぴたり、と動きを止めた。
蓬野の心臓は、ドキドキしている。息は荒い。
誰よ、誰。
幽霊?
怖い。いえ、怖がらなくていい。私が相手を止めている……!
蓬野は術をかけ続ける。
蓬野は、開いた手のひらを自分の方に向き変えた。ゆっくり、指を折り曲げる。
手の動きと同じように、相手が動く。
戸口の影が、ゆっくり蓬野の方へ歩き始めた。人物の影が、だんだん灯りの範疇に入ってくる。
影の着ている着物を見て、蓬野の手が止まる。
女性の着物じゃない……!
蓬野は動揺を隠せない。
待て、待て、待て、待て……!ここは後宮。女性の屋敷。なぜ、男性が?
やっぱり、幽霊?
蓬野は、指をすっと動かした。影の人物は、すすす、と灯りの範疇に進み出た。
男性の着物を着た人物。烏帽子もかぶっている。顔もはっきり見えた。
「うん?」思わず、蓬野は声が出た。
見たことのある顔。美しい顔。
今は、蓬野の術で、人形のように動けずにじっとしている。
「名前は?」蓬野がたずねる。
「沖の中将」人物が答えた。
「なぜ、ここにいるの。ここは後宮よ。殿方の来る場所じゃないわ」
「あれを追いかけていたんだ」
「あれって何」
「君、狙われているよ。アイツ、ずっと君を見ている。僕がアイツを見ているから来ないけど。目を離すと、こっちに来ると思う」
沖の中将は、蓬野の向こう側を射抜くように見つめている。
何?蓬野は、背後を振り向いた。
…………はい?
灯りがぎりぎり届くくらいの場所に、大きな塊が見える。
目を凝らしてみると、暗闇に目が慣れてその全貌が見えてきた。
黄色と黒の、しましま模様。巨大な牛の大きさ。金色に輝く目。太い牙。
……と、と、虎?
虎が、座敷の奥に立っている。金色の二つの瞳が、暗闇できらりと動いた。
蓬野は、座ったまま、腰が抜ける。
「……いつからいたの!どうして虎が?」
「僕に任せて。僕は動きたい!どうやったら動くんだ?」
沖の中将が虎から目を離さずにかすかにもがいている。
蓬野は、一瞬迷った。沖の中将の術を解く?殿方を宮中で自由に受け入れる?
いやいや、これ以上どうすることもできない。虎にみんな襲われてしまうじゃないの!
蓬野は、沖の中将の術を解いた。同時に、虎に術をかける。
が、虎はすばやかった。術がかかる前に、後ろ足で立ち上がり、蓬野に飛びかかってくる。
ああ……!!まずい!
蓬野は座ったまま、術で壁を作ろうとする。が、腰が抜けているのでうまくいかない。
沖の中将は、蓬野の術より速く動いた。鞘に入ったままの刀をまっすぐ虎の喉に突き立てた。
巨大な虎は、驚いて飛び下がる。
すかさず、蓬野が虎に術をかけ、動けないようにする。
沖の中将が、鞘に入ったままの刀で虎の眉間を叩いた。虎は、どう、と倒れ気絶した。
蓬野は、喉がカラカラになっているが、やっと声を出した。
「死んだの?」
蓬野が震える声でたずねると、沖の中将は「生きてると思う」と答えた。
「どうするの、これ」
「うーん」
沖の中将は、床にのびている巨大な虎を見下ろして悩んだ。




