AI 第16話 時空の揺りかご、消えゆく白銀の残響
これ、もしかして終わった?
光が、すべてを塗りつぶしていた。
熱いのか、冷たいのかさえ判然としない感覚の濁流。
リルは自分が「個」として保たれているのかさえ危うい、意識の深淵を漂っていた。
(ああ……みんなの声が、遠くなる……)
パピー、プピー、ポピーの小さな手の温もり。
ウーベの不器用な熱血。
ニュンさんの飄々とした優しさ。
そして、己を盾にして散ったモッスン様の、あの岩のような背中。
手首の『時の腕輪』が、命の灯火を吸い込んで激しく脈動している。
博士が仕込んだ、異世界の叡智の結晶。
『みんなのコンピュータ』という奇妙な文字列が、網膜の裏側でシステムログのように高速で流れ続けていた。
【緊急時空転送プロトコル……始動】
【魔力供給源:神界十二神、および周辺高密度天素を確認】
【座標設定:不明……エラー……因果律の揺らぎを検知】
【再計算中……『幸せになれる場所』を検索します……】
(……幸せに、なれる場所……?)
そんな場所が、本当にあるのだろうか。
自分は神獣フェンリル。
血に汚れ、戦うこと以外を許されず、最後は世界の調整弁として使い捨てられた「盾」。
奪ってきた命の重みが、この光の中でもリルの魂を重く縛り付けている。
「……だ、れ……か……」
掠れた声は、時空の暴風にかき消される。
すると、その意識の闇の向こうから、聞き覚えのある「気の抜けた声」が聞こえてきた。
「おやおや、お嬢さん。そんなに泣きそうな顔をしないでくださいよ。せっかくのべっぴんさんが台無しだ」
ふと見ると、光り輝く時空のトンネルの端に、あの赤い髪の男――ゴトーが立っていた。
彼は先ほどの戦場にいたはずなのに、なぜかこの次元の狭間に、縁側で日向ぼっこでもしているかのような軽やかさで存在している。
「ゴトー、さん……? あなたは、どうしてここに……」
「まあ、ちょっとした『お見送り』の続きですよ。……いいですか、お嬢さん。これから君が行く先は、君が知っている世界とは少しだけ理が違います」
ゴトーは着流しの袖を揺らしながら、リルの前まで「歩いて」きた。
「そこでは、君はもう『神獣』として戦う必要はない。……いや、戦うこともあるかもしれないけれど、それは誰かに命令されるからじゃない。君が『守りたい』と思うもののために、君の意志で牙を剥けばいいんです」
「私の……意志で……?」
「そう。……あ、それと。これ、僕からの手向けです。あっちの世界で困ったことがあったら、使ってみてください」
ゴトーがリルの額に、そっと指先で触れる。
その瞬間、熱い火花のような何かがリルの内側へ流れ込んできた。
それは『不死鳥の加護』――命が尽き果てようとするその時、一度だけ運命を燃やし尽くし、再生させるための小さな種火。
「……さあ、時間が来たようだ。お嬢さん、最後に名前を聞かせてもらえませんか? 次に会う時の、合言葉代わりに」
リルは遠のく意識を必死に繋ぎ止め、唇を震わせた。
「……リル。……田中、リル……」
なぜ、その時「田中」という名字が口をついたのか、彼女自身にも分からなかった。
ただ、かつて人間界を母と旅した時、どこかで見かけた穏やかな響き。
平凡で、どこにでもありそうで、だからこそ「ただの女の子」になれそうな、魔法の響き。
「田中リル、ね。……ふふ、いい名前だ。それじゃあ、またいつか。
……その腕輪が止まる場所が、君の新しい居場所ですよ」
ゴトーの姿が、夕日のような温かな光に溶けて消える。
――ズドォォォォォンッ!!
激しい衝撃。 リルの意識は、そこで完全に途絶えた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
――そして。
眩しい光が、瞼を刺した。
頬に感じるのは、泥の冷たさではなく、柔らかで青々とした「草」の感触。
耳に届くのは、耳を劈く咆哮ではなく、小鳥たちの穏やかな囀り。
鼻を突くのは、焦げ付いた魔素の臭いではなく、雨上がりの土と、花の香り。
「……う……ぁ……」
ゆっくりと、重い瞼を開ける。
視界に入ってきたのは、どこまでも高く、澄み切った「青い空」だった。
神界の紫色の雲も、魔素の霧も、そこには一欠片も存在しない。
身体を起こそうとして、手のひらを見る。
どす黒く変質していた肌は、元の美しい白銀色に戻っていた。
だが、その手首。
かつて博士が授け、仲間たちが命を託した『時の腕輪』は、その役目を終えたかのように、パラパラと灰になって風に舞っていった。
「……ここは……?」
ふと隣を見る。
そこには、一通の、古びた手紙と――
そして、なぜかスヤスヤと眠る「人間の赤ん坊」が転がっていた。
100年前の戦場から、一人の女神が、この世界に降り立った瞬間。
それは、後に最強の主婦(?)として名を馳せることになる『田中リル』の、本当の物語の始まりであった。




