罠
その夜、王宮であてがわれた部屋で唯夜は眠っていた。孤児院の仕事を手伝っていたから普段よりも疲れてしまった。すぐに眠りに落ち、目を覚ましたのは翌日の昼だった。まだ意識が覚醒していない彼であったが体に何かの違和感を感じ取った。少し肌寒いし何か柔らかいものが体の右側に当たっている。青年は首を動かしてその正体を見た。彼は声にならない悲鳴をあげた。
「―ッ!」
まず自分は裸になっていた。そして彼の体にぴたりと寄り添って眠っている見知らぬ妙齢の女がいた。髪は灰色で、肌は白。服を着ていない。現と夢の境にいた彼の意識は一瞬にして覚醒し、脳組織が現在置かれている状況を思案する。
唯夜はベッドから飛び出し、女に毛布をかけて部屋の隅で頭を抱えた。頭の中で様々なものが駆け巡る。
「嘘だろ嘘だろ…。マジかよ。これ大丈夫な奴かよ。いやてか誰だ。侍従隊にこんな上品な面した奴いなかったぞ…!」
毛布が動く音がする。唯夜は硬直した。
「よ、夜渡祇卿、お目覚めですか」
振り返ると女がこちらを見ていた。目を覚ましたようだ。彼女の言葉になんと答えるべきか考えるが頭を働かせるが答えは出ない。それでも何かを言おうとして無意味に口を開閉させる。
「と、とても楽しい夜でしたね」
彼女は言った。少し歯切れが悪かった。
「え、ええと…君は…?」
「…私はイリアス。父はホーストン王国第二十代国王ウィリバルト二世。母は王妃シルヴィア・マスティミア。この国の真の継承者です」
「!」
その時、扉が開いた。部屋の出口に立っていたのは普段唯夜を起こしに来るヘスティアや侍従隊の者たちではない。女王マリアに仕えるアラフマン男爵だった。男爵は最初、全裸で屈みこんでいる唯夜を軽蔑したように見た後、イリアスと名乗った少女を見た。瞬間、彼は動きを止め、動きを止めた。
「イリアス…王女…。なぜ…」
そして次に唯夜を睨んだ。
「は、恥知らずの裏切り者め! 陛下のおわす王城にて内戦の元凶たる王女と密通するとは! 忠誠と恩義を一晩の悦楽で売り渡す不義の輩に神の鉄槌が下るであろう!」
顔を真っ赤にしてアラフマンは走り去っていった。呼び止める間もなかった。
嵌められた。そう気づいた頃には遅かった。イリアス王女かその支持者のが彼を陥れるために部屋にイリアス王女を送り込み。その様子をアラフマンに目撃させたのだ。気になるのは誰がアラフマンを唯夜の部屋に寄こしたかということだ。アラフマンはイリアス王女派の者たちを嫌悪しており、言葉を交わすようなことはしないはずだ。内戦終結時に彼は唯夜やクロムバッハと同じくイリアス派全員の厳罰を主張していたのである。おそらくマリア派に潜り込んでいるイリアス派の貴族に唯夜の部屋を訪れるように唆されたのだろう。
イリアスが近づいてくる。
「夜渡祇卿、もはやマリアの傍に貴方の居場所はありません。彼女にとって貴方は私と通じる裏切り者。私の家臣におなりなさい。そうすれば公爵にも王国軍総司令官でも宰相にだってして差し上げます。私の夫として権勢を振るったって良いのですよ」
彼女の声はどこか強ばっていた。演技じみている。よく見れば肩も震えている。怯えているようにも見える。
「待ってくれ。一旦落ち着こう」
彼女の肩を掴んで唯夜は言った。彼の声も決して落ち着いているとは言えなかった。
そこにヘスティアがやってきた。
「唯夜様。どうかなさいましたか?」
「いいところに来た。昨晩、俺の部屋の扉を陛下が遣わしてくれた近衛兵が守ってたはずだけどどこに行った?」
ヘスティアは首を傾げた。近衛兵はいなかったのだろう。
「ところでそちらのお嬢様は?」
「…イリアス王女らしい。起きたらベッドの中にいた。俺はなんもしてない。あとアラフマン卿に見られた」
どう説明すべきか悩んだが結局は簡潔に事実を伝えるのが最善だと思い至り、ありのままを話した。このお嬢様が王女を名乗ったことを伝えると細い眉を微かに歪めた。
「道理で。先ほど男爵とすれ違ったのですが大層お怒りのようで私に向かって売女だの淫蕩だの仰っておられましたがそういうことだったのですね」
「ごめんよ。俺のせいで」
唯夜は項垂れた。
「謝罪なさるということは王女殿下に御手を出されたのですか?」
「違うよ! 俺は潔白だ。でも俺のせいで君には嫌な思いをさせたから…」
ヘスティアは微かに笑った。
「では堂々となさいませ。まずは陛下への申し開きをいたしましょう。陛下は唯夜様のお言葉を信じる他ありません。信じずに敵対を選んだ場合、四万五千の強兵を擁するヒューベルを敵に回すことになりますから」
その時、十名近くの兵士が部屋に飛び込んできた。装備を見ると近衛兵だろう。
「夜渡祇殿、リアス王女と内通なさったという噂は真か?」
近衛兵が尋ねる。唯夜が何かを言う前にイリアスが首を横に振った。
「陛下の命によりお命を頂戴する!」
近衛兵が槍を構え、唯夜に向かって突進してくる。ヘスティアが身を翻して先頭の兵士から槍を奪うとそれを手足のように振り回し、兵士たちの鎧の隙間に刃を差し込んで肉体を突き刺した。すぐに全兵士たちが床に転がった。出血しているが致命傷ではない。近衛を殺しては王との話し合いができなくなることを理解しているのだ。
「唯夜様。ここにいてはいけません。すぐに外へ出るご用意を」
「わかった」
急いで服を身に纏い、準備を整える。
「イリアス王女。俺は一旦ここを離れる。君は大丈夫か?」
「え?」
少女は目を見開いた。
「どうも君の置かれてる状況がわからなくてね。その、変な申し出だけど居場所がないなら…俺と一緒に来ないか?」
「何を仰るのですか! イリアス王女を連れて行けば完全に陛下と敵対することになります!」
突入してくる近衛兵たちをヘスティアが防ぐ。
彼女の言うことは最もである。しかし問題がある。イリアスをここに置いておけば彼女の口を封じることはできないことである。彼女が唯夜と一晩を共にしたと言えば身の潔白を証明できない唯夜は国賊として認定されるだろう。だが彼女を連れて行けば彼女が政府に対して何かを言うことはできない。唯夜が何でもない愛人と寝ていただけであり、アラフマンが勘違いしたのだと主張すれば政府は何も言えなくなる。国内総兵力の三分の一を率いる唯夜を相手に下手に強気に出ることはできない。であれば交渉の余地は十分にあるだろう。加えて本物の王女だった場合、貴族たちの元に戻すわけにもいかなかった。彼女は貴族たちの旗頭であり大義名分であったからである。
だが彼女を連れて行こうと思った理由はそれだけではない。彼女が何かに追い詰められているように見えたから。どうしても放っておけなかった。
「…良いのですか? ご迷惑ではありませんか」
「かもな。でも別にそれでいいと思う。一人で生きられる人はいないから。一人が困ってたらみんなで助ける。そんな場所を俺は作りたい」
青年は言った。
「確かに君が来たら迷惑かもしれない。でも俺たちは君を守る。だから誰かが困ってた時は笑って助けてやってくれ」
王女の両目から涙が零れた。少女はそれを拭い、立ち上がる。
「…お願いします。私を連れて行ってください」
「わかった!」
唯夜は外套を彼女に着せて抱えた。その様子を見てヘスティアは深い溜め息を吐いた。謝ろうとした唯夜を彼女は遮った。
「私は貴方のことをそれなりに現実を見ている方だと思っていましたが誤りだったようですね。この世界は残酷で誰もが生きるために他者を陥れる。貴方もそんな世界を見てきたはずです」
折れた槍を投げ捨て、倒れた近衛兵を掴み上げ、新手に投げつける。彼女の声には僅かな苛立ちと熱がこもっていた。
「でもこんな壊れた世界に貴方のような御仁が一人くらいいたっていい。私はそう思います」
ヘスティアは力強く笑った。彼女の武力は一騎当千。剣での手合わせで唯夜は彼女に一度も勝てなかった。ヒューベルの腕自慢たちも誰一人として彼女に敵わない。息切れもせずに倒してしまう。そんな彼女が味方でいてくれることが何よりも頼もしい。
「主様! ご無事ですか!」
現れたのは侍従隊五十名。宿直室にて寝床を与えられていたのだが異変を感じて駆けつけてきたのだった。
「ああ。君たちも無事だったか」
「はい。反逆者の手先とかいって襲われたんで半殺しにしながらここまできたのですが…主様、やはりついにやってしまったんですか。反乱」
「してねーよ。俺のことなんだと思ってんだよ」
彼らは襲い掛かってくる近衛兵を倒しながら王城を出た。この状況では女王との会話などできるわけもない。走りながらマリアへの手紙を書き、倒した近衛兵の上に置いておく。伝わるかどうかはわからないがやらないよりはマシだ。
城の外に飛び出して馬に飛び乗る。一息に駆け抜けて追っ手を撒いた。王都から離れていく。気がかりなのはアルムたちのことだ。唯夜の発案で始められた貧民救済策だったが停止される可能性がある。だがマリアはそこまで暗愚ではないだろうしクロムバッハも継続を主張するはずだ。それに今更政策を停止すれば放り出された元スラム街の者たちはマリアを恨むようになる一方で機を見てヒューベルに逃げるかもしれない。すでにそれなりの投資をしている以上、途中で投げ出すようなことはしないだろう。
唯夜が王女を連れて逃げ出したという報告を聞いてマリアは両手で顔を覆った。もはや何を信じればいいのかわからない。唯夜は短期間で彼女の信頼を勝ち取っていた。年齢も同じくらいで才能も活気もある好青年。それが彼女が抱いていた唯夜の印象である。それが王都で敵王女と内通していたとは。
アンネは当初、アラフマンの言葉を信じておらず、近衛兵に唯夜を謁見の間に丁重に連れてくるように命じた程度であったが唯夜逃亡の報せは彼女を混乱させるのに十分であった。
家臣たちは唯夜の処断を主張した。
「陛下! 奴の謀反は確実! コリント将軍を差し向け、すぐさま討伐すべきです!」
家臣団の七割以上がそう叫んだ。
しかしマリアは判断しかねていた。そもそも唯夜を切り捨てて攻めたところで勝てるかどうかもわからない。コリントと唯夜、将としての総合力で言えばコリントに軍配が上がる。しかし麾下の将を見れば話は変わる。ホーストンの主だった将軍は内戦で倒れた一方、ヒューベルには戦争で名を挙げた有能な指揮官が大勢揃っている。兵の質は言うまでもない。
「アンネ。貴方はどう思う?」
マリアは第二に信用する部下に意見を求めた。
「…判断を下すのは時期尚早であるかと…。私もまだ判断できかねております」
歯切れも悪く彼女は答えた。
そもそもなぜ唯夜をヒューベル領主に任命したのか。ヒューベルの姫を救い、ヒューベルの軍を率いてマルクレーヌ将軍を打ち破った彼ならばヒューベルをホーストンの一部として統治できると考えたからだが理由はそれだけではない。戦場でも戦場の外でも功績を積み重ねつつある唯夜を家臣たちが警戒したこともあって辺境に流したのだ。そして何より、唯夜とゴエティア一派が結束することを防ぐ効果も期待していた。ゴエティア一派に属するマルクレーヌ将軍に裏切られたヒューベルはたとえ唯夜が望んだとしてもゴエティアと結ぶことを拒否するだろう。領主として遠く離れた領地に封じ込め、周囲を反ゴエティアの者で囲むことによって唯夜の離反を防ごうとしたのだ。
そういうこともあってマリアやアンネは完全に唯夜を疑いきれなかった。
「こんな時に限ってクロムバッハがいないなんて…」
マリアは深い溜め息を吐いた。
クロムバッハは同盟各国に対し、対帝国戦への参陣に遅れたことの謝罪や関係強化のために国を出ていたためマリアは意見を尋ねることができなかった。
帝国の脅威を免れたホーストン王国であったが更なる内乱の時が近づいていた。




