遠征の失敗
夜渡祇唯夜率いる部隊が帝国領を略奪しているという報告を聞いてミネルヴァは卒倒しかけた。
帝国の有力な部隊はあらかた外征に駆り出されている。国内に残っているのは貴族の私兵や僅かな守備兵や騎士だけだ。五千の騎兵の攻撃を受け止められるほどの戦力を一箇所にかき集めるのは不可能だろう。
同時に彼女は遠征の失敗を覚悟した。本国からの補給は届かない。補給部隊は潰されているし国内は戦争支援どころではない。またメズル王国も畑などを焼き払う焦土戦術を用いて決死の覚悟で挑んできている。王都を落としたところで穀倉地帯から食糧を得ることができない。残された道は一気に王都を攻め滅ぼし、食糧を略奪した後に南部へ侵攻して降伏させたメズル貴族たちから食糧を供出させるか勝利を諦めて撤退するか。
帝国軍はヒューベル軍に二人の武将を討ち取られてから二週間ほど王都を攻めていたが、王都軍が必死の抵抗を続けている上、ヒューベル軍が流した様々な流言によって戦意は低下している。また、ヒューベル軍は城に逃げ込まずに後方を脅かし続けていた。何より帝国将兵は長い戦いによって疲れが見えてきている。調略で味方に引き入れたメズル貴族たちの反応も戦局の停滞によって動きが鈍くなっている。現時点での攻勢の限界が見えてきた。
「殿下。撤退は恥ではございません。我が軍は同盟軍の大部分を打ち払い、メズル王都の城壁に甚大な損傷を与えました。それだけでなくホーストンに脅威となる軍勢があることがわかりました。充分な戦果とは申せませぬが得る物があった戦いでございました!」
参謀のシュネールバウスが声高らかに言った。王女の不興を買って処罰されることも覚悟しての発言だった。
その言葉が彼女の心を決めた。
「…撤退します。全軍撤退の準備を」
爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、彼女は決断を下した。それは指揮官にとって最も難しい決断であった。国庫を開き、多くの予算を投じて行われた今回の遠征。物資も人員も大きく失った。軍事国家フェールハイト帝国の威信を揺るがす敗北になる。それでも立て直しが効く今のうちに退くしかない。
「はっ!」
翌日、撤退を始めた帝国軍に同盟軍は追撃をかけた。殿を務めたバッケン将軍が奮戦したが損害は大きかった。同盟軍の追撃を振り払い、国境まで逃げた彼らを更なる絶望が待ち受けていた。
帝国兵は翻るヒューベル軍の旗を見て悲鳴をあげた。
「ホーストン王国…ヒューベル地方軍だ…!」
夜渡祇軍はバルテウッド川の帝国側の岸に布陣していた。彼らの背後には無数の投石車が並んでいた。帝国の技師に造らせた物だ。ミネルヴァの要請でメズルに運ばれる途中だったもののヒューベル軍に鹵獲された物もある。
「遅いじゃんか、帝国軍。待ち侘び過ぎて俺たちは準備万端。いくらでもかかって来いよ」
帝国軍の兵士たちは絶望を覚えざるを得なかった。それでも将校たちは勇敢に突撃を命じた。
「血路を開きなさい! 突撃!」
騎士たちは突撃を敢行した。石橋を渡り、ヒューベル軍の突破を試みる。
「今だ撃て!」
投石や矢が橋に降り注ぐ。帝国軍はすぐに骸の山を橋の上に築き上げた。
言うまでもなく火力の集中は兵法の基本である。バルテウッド川は深く、流れが激しい。船がなければ渡ることは不可能だ。小さな橋は付近にいくつか架けられていたがヒューベル軍によって破壊されていた。帝国軍は唯一大軍が通行可能なこの石橋を渡って帰還するしかなかった。それはつまり兵力が橋に集中することを意味する。ヒューベル軍はそこに火力を投下するだけでよかった。
「こちらも矢を放ちなさい! 数で押せるはずよ!」
帝国軍は力押しを諦め、弓兵隊による射撃を開始した。しかし帝国兵にとって向かい風が絶えず吹いていること、帝国軍の弓がヒューベル軍の弓に比べて弱いことが災いして帝国軍の矢はヒューベル軍に届かなかった。
その様子を唯夜は馬上で見ていた。
「西にあるホルグラント山から吹き下ろす風が西から東へ。いいな。これ。神風だ」
「はい。秋の間は常に西風が吹いているようです」
「へえ。天佑天佑。ありがたく利用させてもらおう」
一方的な殺戮はしばらくの間続いた。その光景をフェルナーは曇った表情で眺めていた。
「悪いな。フェルナー。悪いけど俺はこれが一番無意味な死を減らせる方法だと思ってる」
唯夜はフェルナーの様子を悟って声をかけた。
「わかっていますよ。侵略国家の兵を一人でも多く国へ返せば彼らはいつかより大きな殺戮をもたらす」
フェルナーは唯夜の目を見返す。
「私よりもご自身の方を心配なさるべきでしょう。帝国領に攻め込んでから随分と顔が青い。それを誤魔化すかのような強気な言葉。閣下こそご自身のやりように疑問をお持ちなのではありませんか?」
それは痛い指摘だった。唯夜は頭を掻きむしった。他の側近たちも口にはしなかったが彼の内心を見抜いていたようだった。
「…ああ。俺は自分を信じ切れてない。俺なりに考えて決めたつもりだ。でももっと犠牲を減らせる方法があるんじゃないかって思うんだ」
今の彼は貴族であり将軍だった。数万、数十万の命を背負う存在である。それが迷いを見せれば兵たちも動揺する。だから気丈に振る舞っていた。しかしそれはどうにもあからさま過ぎたようである。
「残念ながら…お辛いでしょうが貴方の決断は正しい」
帝国の兵士達が倒れていく。投石に腹部を押し潰されながらも即死できずに内臓を撒き散らして悲鳴をあげる者、橋から川に落ちて溺れ死ぬまで恐怖と苦痛に悶えることを約束された者、転倒したが重い鎧のせいですぐに立ち上がることができずに逃げ惑う無数の同胞たちに踏み潰される者。
あまりにも簡単に人が死んでいく。誰のために、何のために死んでいくのか。
「俺は誰かの命を守るために誰かの命を奪う。酷い矛盾だ。守るべき命と奪ってもいい命、優先順位をつければ気にしなくて済むと思った。全部が解決すると思った」
彼の手は微かに震えていた。
「でも結局、俺はどこまで行っても人殺し。それでもいい。それでもいいって決めた。俺は俺の大切なものを今度こそ守るために殺戮者になってやる」
覚悟は決めたはずだ。ここで立ち止まったところで血に濡れた手は綺麗にならない。殺した者と死なせた者たちで積み上げた屍の山は消えはしない。
「第一隊は後退して休憩! 第二隊攻撃開始! 第三隊は負傷者の救護と周辺区域の偵察、投石車の補修を。第四隊、第五隊は敵の渡河に注意しながら援護射撃だ」
唯夜は兵たちに攻撃の継続を命じた。
日が暮れて両軍は戦いを止めた。この戦いによって帝国軍は一万二千の兵を失った。戦場となったバルテウッド川は帝国兵の血で赤く染まった。
思うような戦果を得られないどころか多くの兵を無為に死なせたミネルヴァは拳を握り、唯夜への罵言を吐き連ねた。それで少し落ち着いたのか諸将を集めて軍議を開く。
「現在、ホーストン軍は優位に立っていますがそれは一時的なもの。補給線が途絶し、食糧や矢にも限界があるはず。投石に必要な石とて無限ではありません。何より帝国領で戦っている彼らには背後からの襲撃の危険が常に付き纏っています」
参謀が言った。
「そうね。帝国軍の矢は奴らの弓に合わないから帝国領内で補給することは不可能。だから敵は行動を起こさないといけない。小勢が大勢を出し抜くとすれば夜。夜襲を仕掛けて我が軍に混乱を起こしてそのうちに逃げ去っていくでしょう」
諸将は頷く。
「ボエティア将軍、二千の兵を率いて夜襲を仕掛けなさい。敵陣深くに攻め込む必要はないわ。次はハトレ将軍、その次はデリッケ将軍。一晩中夜襲を仕掛け、奴らの動きを封じなさい」
「はっ!」
帝国はヒューベル軍に夜襲を仕掛けた。だが夜襲を想定していたヒューベル軍によって容易く撃退された。そこまではミネルヴァの想定内だった。問題はヒューベル軍全てが攻撃隊の撤退を追いかけて帝国軍の陣地に飛び込んできたことだった。ヒューベルの騎兵は止まることなく夜を駆け抜けて闇へと消えた。
「殿下! ご指示を!」
「追っては駄目よ。待ち伏せがあるに決まっているわ。追った兵を呼び戻し、警戒を続けて」
ミネルヴァの懸念は正しかった。ヒューベル軍が逃げ去った先には追いついてきたセレス・アリクブケ・エイレーネー、ドゥムアの軍が待ち構えていたのだ。
両軍はそれから戦火を交えることはなかった。ヒューベル軍は退却し、帝国軍は翌朝になって帝国領に帰還した。
遠征に参加した二十万の兵のうち七万兵が戦死した。また国内の守備兵は一万二千名が戦死した。。同盟軍は八万二千を失った。うちヒューベル軍の損失は五百二十三名であった。




