第9話 赤い花の使者
庵の壁に刻まれた花の紋が、一輪だけ赤く灯っている。
月光よりも淡く、焚き火よりも冷たい赤。
それは“裏切り”の合図――箱の声が告げた言葉が、胸の奥で反響した。
「印章を見せてくれ」
レオンが短く言う。
私は手を開き、銀の印章を渡した。
彼は表面の刻印を一瞥し、歯を食いしばる。
「間違いない。王太子の紋だ。ただ……細工がある」
「細工?」
「縁の彫りが新しい。鋳直しだ。――正宮から外へ流れる“二流の印”だ」
“二流”。
正式ではないが、使者を名乗るに足る偽物。
それをわざわざ私の手に押し付けたということは――。
「“庵”で王太子の名を騙る者が動く。しかも、こちらに『気づけ』と知らせるために」
レオンの声は低い。
「誘いだ。赤い花は“内部に協力者がいる”と示す印にも使われる」
内部――。
私は身じろぎし、暗い回廊に目を凝らした。
護衛はそれぞれの持ち場にいる。
焚き火の周りでは二人が角杯を交わし、鐘楼の脚には見張りが座っている。
“普通”の夜の絵。
だが、たしかにどこかが捻れている。
「殿下」
奥の階段下に控えていた副長が駆け寄る。
「周辺の警戒、異常なし。……ただ、物資小屋の扉が半ば開いていました」
「閉鎖確認は」
「戻ったときには閉まっていました。鍵も掛かっています」
「“いったん開けて、また閉めた”か」
レオンが顎に手を当てる。
「封印の墨で外扉をなぞれ。開閉すれば痕が残る。――ノアの手癖だが、今夜は借りる」
副長が駆けていく。
私は印章を見つめた。
銀の内側に、微かな黒い傷。
――爪で引っかいたみたいな、細い印。
息を呑む。
指で確かめると、傷は“花弁”の形をしていた。五枚。
箱の花。赤い花。
「レオン、これ……」
差し出すと、彼は眉を寄せた。
「“印の中に印”。差し込む合図だ。……誰かが、こちらの“誓約術”に合わせて情報を送ってきている」
「味方……ですか」
「“まだ敵ではない誰か”だ」
鐘楼の上で、梟が鳴く。
夜の匂いが、土と鉄と草のあいだで揺れる。
私は両掌を擦り合わせ、赤い契約の痕にそっと意識を落とした。
――“守る”。
声に出さず、胸の内側で言葉が丸くなる。
「セリーヌ」
レオンがこちらを振り返った。
「試せるか」
「はい」
頷いた瞬間、胸の奥で糸が音を立てて張る。
庵の“誓約地”は、守護者の意思で薄い膜を張る。
ただの防御ではない。
“嘘”や“偽り”の流れ方が変わる。
それを聞き分ける――“音”で。
私は祭壇に歩み寄り、両手を白い石に置いた。
冷たい。けれど、鼓動が伝わる。
低く、深い音。
庵そのものの鼓動だ。
そこへ、私の“願い”を重ねる。
――“夜が割れる前に、赤い花の根を見せて”。
耳の奥で、水が満ちる音がした。
“音”が、色に変わる。
火の側は橙。階段は灰。井戸は銀。
そして――物資小屋の影だけが、わずかに赤く濁っていた。
「物資小屋」
私が指さすと、レオンは頷き、二人に合図する。
扉の前に兵が立ち、封墨の線を確認する。
「……開閉の痕あり。外からは閉まっているが、中で一度――」
副長が言い終えるより早く、レオンは扉に手を当てた。
「下がれ」
外套の袖が揺れ、彼の掌が淡く灯る。
赤い契約に呼応する白い筋が扉を走り、錠が静かに外れた。
ギィ、と短く鳴って、隙間が開く。
息を合わせ、私が“膜”を扉の内側へ滑り込ませる。
ひやり、と音が変わった。
沈黙の中に、“呼吸”が一つ――。
「中に、人」
言うなり、レオンが身を捩って扉を押し開ける。
並んだ麻袋、樽、道具。
その影から、砂色の外套が跳ねた。
刃の閃き。
レオンの剣が火花を散らし、影を壁に叩きつける。
「動くな」
副長が短槍を差し込み、兵が縄を投げる。
影は小柄だ。
顔布を引き剥がす――若い女。
庵の台所で芋を洗っていた、あの新入りの下働き。
栗色の髪を乱し、青い瞳がこちらを射た。
「……ルチア?」
私の背が冷たくなった。
いや、違う――。
目の色が微かに濁っている。
昼間、私に礼を言ったルチアとは、微妙に違う。
頬のほくろがない。
口元の癖が違う。
“似せている”別人。
「双子か、替え玉か」
レオンが低く呟く。
女は縄に絡まれながら、笑った。
乾いた笑い。喉に砂を含んだような音。
「“白花の庵”――滑稽ね。
不可侵? 誓約? 人は石で止まらないわ。
印章が一枚あれば、道はいくらでも開く」
「その印章は誰に渡された」
レオンの問いに、女は肩を竦める。
「“王太子の影”よ。黒い輪を耳に嵌めた人たち。
あなたたちの城にも、同じ印がいたでしょう?」
干渉者の印。
北庭で“術を噛ませた”白布の影。
ノアが釣り上げた“裏切り者”の輪。
点が線になる。
だが、女は続ける前に、口の中で何かを噛み砕いた。
「毒!」
副長の叫び。
女の体ががくりと崩れ、唇から黒い泡が滲む。
レオンがすぐに顎を押さえて舌を引き出すが――早い。
“口封じ”。
狙いは“混乱”だけを残すこと。
私は一歩下がり、深く息を吸った。
赤い花は“裏切り”の兆しだ。
けれど今夜、花はもう一つの意味を持っている。
――“どちらの側にも完全な味方はいない”。
揺れる焚き火、兵たちの荒い呼吸、遠くの梟。
“音”を拾い直す。
井戸の銀がわずかに濁る。
階段の灰が、誰かの靴跡で波立つ。
そして、鐘楼の脚――そこに、乾いた“空白”があった。
「鐘楼」
私の声に、レオンが反射で動く。
上では見張りの兵が足を組んでいる。
彼の耳たぶが、月明かりにうっすら光った。
黒い輪。
私が息を呑むと同時に、男は立ち上がり、鐘の綱を掴んだ。
――ゴウ。
鐘ではない。
隠してあった火薬樽に火が移る鈍い音。
綱は鐘には繋がっていない。
梁の影で、導火線が青く走る。
「伏せろ!」
レオンが私を抱えて飛び込み、石の柱の陰へ身を滑らせる。
次の瞬間、鐘楼の脚が白く閃き、空気が押し潰された。
爆風。
耳が痛み、砂と灰が雨のように降る。
視界が白んだ。
石片が肩に当たる。
すぐに、冷たい膜が頬を撫でた。
――“守る”。
私が無意識に張った膜が、爆風の刃を鈍らせていた。
レオンの腕が私の頭を庇い、彼の背に砂が叩きつけられる。
音が戻る。
叫び。駆ける足。
私は膜を広げたまま立ち上がる。
鐘楼の半分が崩れ、梁が折れている。
見張りの男は爆心から離れた影に落ち、まだ動いていた。
耳の黒い輪が、月光の下で転がる。
「生け捕りだ!」
レオンの声に兵が散る。
私は膜を男の周囲に薄く掛け、逃げ道を絞る。
男は刃を抜いてこちらへ突進するが、透明の糸に絡め取られ、膝をついた。
副長が組み伏せ、螺子のように腕を取って拘束する。
「“不可侵の庵”を爆破して破門か。――王太子の名を騙るにしても、度を超している」
レオンが男の輪を拾い、靴先で弾いた。
輪の内側には、微かに“赤い花”の刻印。
やはり、同じ手。
「吐け。誰の指示だ」
男は唇を噛み、笑った。
「“白花は赤に染まり、やがて黒になる”。
――古い言葉を、聞いたことは?」
私は身をこわばらせる。
箱の声。
――“裏切りの花は赤、滅びの花は黒”。
男は続けざまに早口で呟いた。
祈りにも呪いにも似た、古い方言。
“音”が濁る。
膜に砂利が降りかかるように、術の表面が波立った。
「術を割ろうとしてる」
「黙らせろ」
副長が布で口を塞ぐ。
男の目が笑う。
まるで、“言葉を投げること”自体が目的のように。
爆発の跡に水を撒き、火の粉を踏み消す。
私は震える指先を握りしめた。
――“庵の不可侵を、言葉で汚す”。
誓約は“言葉”で結ばれる。
だから“言葉”で汚される。
「セリーヌ」
肩に置かれたレオンの手が、熱を戻した。
「やれるか」
「やります」
私は祭壇へ向き直る。
白い石。
古い文言。
赤い契約の微かな脈。
箱の花の“記憶”――あの声。
――“守護者へ。
約は石にだけ刻むな。人に刻め。
石は砕かれるが、人は言葉で立つ”。
私は胸いっぱいに息を吸い、広場に向かって声を放った。
「聞いてください」
兵たちの動きが止まる。
倒れた梁の向こうで、焚き火が小さくはぜる。
「今ここに、『庵の不可侵』を再び言葉にします。
“白花の庵に向かう者、出る者、留まる者。
その間に、刃を抜かない。
刃を抜いた者は、白花に嫌われる”。」
“嫌われる”――子供じみた言い回し。
だが、古い誓いはそういう言葉で刻まれていた。
私は続ける。
「“庵の名を騙る者は、花の匂いを失う。
花の匂いを失った者は、道を見失う。
――匂いを失った者よ、ここでは歩けない”。」
瞬間、風が回った。
白い花の匂いが強くなり、空気が軽くなる。
足元の“音”が揃い、膜が滑らかになった。
梁の影で拘束された男が、足を取られて膝を打つ。
彼の靴底が土を掴めない。
“道を見失う”。
誓約が、言葉どおりに“感覚”へ降りる。
「――続けて」
レオンの声が、横で支える。
私は頷き、最後の一文を刻む。
「“白花は赤を嫌い、赤は黒にならない。
黒はここに生まれない”。」
古い言葉の順序を、わざとずらす。
“滅びの黒”に繋がる道を、庵の中では発芽させない――という宣言。
石の床の下で、低く澄んだ音。
爆風で軋んだ梁が、少しだけ鳴り止んだ。
息を吐くと、背に汗が伝った。
膝が震え、指先がしびれる。
“術を一人で回す”というのは、こんなにも体力を削るのか。
けれど、崩れかけていた夜の輪郭が、もう一度丸くなったのを感じた。
「よくやった」
レオンの掌が、私の掌を握る。
赤い契約が静かに脈を合わせ、疲労の波が半分に割れた。
彼の額にも汗。
私だけではない。
この“翼”は、二人で羽ばたくものだ。
明け方。
鐘楼の残骸が取り除かれ、梁の仮止めが終わった。
拘束した男からは、それ以上の情報は出てこない。
口を塞いでも、目で笑う。
こちらを“試している”目だ。
副長が報告に来る。
「物資小屋、内部の封印は破られていませんでした。
ただ、樽の底に“黒い砂”。火薬の材料です」
「爆破は本命ではなく、囮。――庵の“名”を汚すのが狙いだ」
レオンが低く結ぶ。
「これで、庵が“危険な場所”だと流せる」
「避難者が来なくなる」
「その通りだ」
私は窓の外を見た。
森の向こうに、薄い朝の光。
そこから来るはずだった人の列は、まだ現れない。
“最初の足”を挫かれれば、道はできない。
“言葉”の戦いは、もう始まっている。
「――ノアを出せ」
レオンが短く言う。
副長が眉を上げる。
「殿下、拘置中ですが」
「使えるものは全部使う。最悪で最速のやり方が今はいる」
そのとき、塔門の見張りが叫んだ。
「使者――旗三つ、接近!」
旗。
白地に小麦の束。
“商人ギルド”。
赤地に二本剣。
“国境警邏”。
そして、灰の布。
――“誰でもない者たち”の旗。
避難民の合図。
私は息を飲んだ。
来た。
それでも、足は重い。
庵が彼らを拒まないと、示さなければ。
「セリーヌ」
レオンが頷く。
私は胸元の花に触れ、門前へ歩く。
焚き火の煙が昇り、朝霧がほどける。
最前列の女が、幼子を抱いていた。
男の肩には古傷。
老人は杖を突き、少年は荷車を押す。
門の前で、私ははっきりと言った。
「ここへ来る者の出自は、問いません。
“庵に入るとき、刃を抜かない”。
それだけが、この門の条件です」
白い花の匂いが、ふっと強くなった。
女が目を潤ませ、子を抱え直す。
国境警邏の隊長が、兜を取って頭を下げた。
商人ギルドの旗手が、口角を上げる。
灰の旗が、静かに翻る。
最初の一歩が、石を踏む音になった。
庵の中へ、人が流れ込む。
焚き火の側に荷が降ろされ、井戸に縄が落ちる。
“生活の音”が、爆風でひび割れた空気をゆっくりと満たし始めた。
昼前。
物資の受け入れと寝床の割り振りで、庵は忙しさを取り戻した。
私は休まず動き、片手で“膜”の薄い張り直しを続ける。
その合間に、門前で一人の影と目が合った。
灰の外套。
顔を半分だけ布で覆い、肩をわずかに落とした姿勢。
――声の高さ、歩幅、癖。
昼間の“替え玉”とは逆に、こちらは“真似る気のない本物の素人”。
だが、目だけは“仕事人”の光。
「お疲れ様です、守護者様」
淡い声。
癖のない敬語。
だが、舌の奥に“城の風”が混じる。
私は瞬きし、微笑みを作った。
「庵へようこそ。……“ノア”」
布が揺れ、男がかすかに笑った。
青白い瞳。
氷の光はそのままだが、目の下の疲れだけが濃くなっている。
「仮釈放、という名の“外出”。嫌われるやり方です」
「最速でしょう?」
「ええ。――最悪でもあります」
彼は懐から封じの札を二枚出し、私に渡した。
「“匂い”を隠す札です。庵の外で使ってください。
これから“言葉の戦場”に出ます。
赤い花を黒に育てたい連中は、“匂い”の弱いところから切ってくる」
「どこへ」
「街道沿いの“噂の井戸”。旅人と兵が水を汲む場所です。
庵の話は、まずあそこに落ちる。
――守護者自ら、言葉を流すときですよ」
ノアはまっすぐ私を見る。
「殿下は庵を守る。あなたは庵の“名”を守る。
役割を分けましょう」
心臓が一度だけ強く鳴った。
逃げられない、と思った。
同時に、不思議な安堵。
足元の道が、私に向かって細く伸びている。
「行きます」
私は札を握りしめる。
ノアが軽く頷き、灰の外套を整える。
「“最初の噂”は、だいたい三つ。
“庵は危ない”“庵は偏っている”“庵は買収されている”。
――どれから折りますか」
「“危ない”から」
「理由は」
「“危ない”が一番、人の足を止めるから」
ノアの口元がわずかに綻ぶ。
「正解です。では、“危ない”を“厳しいけれど公平”に言い換え、
“偏っている”を“偏らない仕組み”に変える。
“買収”は――“献費の帳簿を公開”で片を付ける」
私は頷いた。
祭壇に視線をやり、白い石に小さく触れる。
“庵の名を、汚さないで”。
声に出さず、息に混ぜる。
振り返ると、レオンが門の陰からこちらを見ていた。
言葉は要らなかった。
彼は短く頷き、剣の柄に手を置く。
“行ってこい”。
“戻ってこい”。
私は灰の外套を羽織り、ノアと並んで門をくぐった。
昼の光の向こうに、井戸と道と、噂の海。
“白花の庵”の名は、ここから歩き始める。