第8話 白花の庵
馬の蹄が、石と土の混じった街道を打つ。
朝靄がまだ山裾を覆い、陽の光が森の奥で金色に揺れていた。
風が冷たく、白い息が立つ。
この道の先に、“白花の庵”がある。
アルスタリアとエルミナ、二国の境に立つ古い修道院。
かつて戦で焼かれ、百年以上放置されていたという。
けれど今、その場所が再び“誓約地”として息を吹き返そうとしていた。
「思ったより、静かですね」
私は馬上で息を整えながら言った。
隣で手綱を操るレオンが小さく頷く。
「静けさはいい兆候だ。――敵が潜んでいなければな」
冗談のように聞こえたけれど、彼の目は真剣だった。
前を行く護衛小隊の鎧が、陽光を受けて鈍く光る。
そして後方では、庵の物資を積んだ馬車が、ゆっくりとついてきていた。
旅立ちから三日。
私たちは国境を越え、山間の古道を抜けてきた。
初日は順調だった。
二日目の夕刻、ノアの言っていた“検問”が現れた。
エルミナの旗を掲げた兵が五人。
しかし、胸の紋章の縫い目が粗く、鎧の模様が本国式ではなかった。
レオンは無言で馬を止め、私に目で合図を送る。
私は頷き、胸元の刺繍をそっと示した。
白い花。
兵たちはそれを一瞥したあと、何も言わずに退いた。
あれが“白花”の合図。
ノアの予言どおりだった。
庵が見えたのは、昼を過ぎたころだった。
森を抜けた先、山肌の間にぽつんと立つ白い建物。
屋根の一部は崩れ、鐘楼の鐘は錆びている。
それでも、どこか優しい光を纏っていた。
「……ここが」
「“白花の庵”。誓約地としての再起動はここからだ」
レオンが馬を降り、門の前で手を伸ばす。
苔に覆われた木扉に触れた瞬間、微かな光が走った。
まるで建物そのものが、彼の血を覚えているようだった。
「王家の封印ですか?」
「そうだ。だが、王家の血だけでは開かない」
レオンが私に視線を向ける。
「“白い花”が必要だ」
私は頷き、扉に掌を当てた。
ひんやりとした木の感触。
指先に熱が集まり、掌の“赤い契約”の痕が淡く光る。
その光が扉を包み、ゆっくりと錠が外れる音がした。
――ギィ。
扉が開く。
光と埃が混ざり合い、長い年月の匂いが流れ出た。
中には、崩れた祭壇、割れたステンドグラス、
それでもまだ消えない白い花の模様が、壁一面に刻まれていた。
初日は、庵の点検と清掃に費やされた。
瓦礫を運び出し、部屋ごとに蝋燭を灯す。
護衛たちは外周の見張りを整え、レオンは屋根の補修を指揮する。
私は古い祭壇を掃除していた。
そのとき、床下から小さな音がした。
石板が一枚、少しだけずれている。
持ち上げてみると、そこに古い箱があった。
黒ずんだ木の箱。
蓋を開けると、中には乾いた花弁が入っていた。
白い花。
まるで時間を止めたように、形を残している。
私は息をのんだ。
花弁に触れた瞬間、視界の端に光が走る。
空気の中に、かすかな声が流れた。
――“守護者へ”。
声は女のものだった。
柔らかく、少し古い響き。
――“この庵は、誓いの地。
王を導く者が現れたとき、白花は再び咲く。
そのとき、誓いを裏切る者にも花は咲くだろう。
だが、その花は赤く染まる”――
光が消える。
私はしばらく動けなかった。
「セリーヌ?」
レオンの声に我に返る。
彼が箱を覗き込み、眉をひそめた。
「それは……伝承にある“花の記憶箱”だ。
最後の守護者が遺したものだと聞いた」
「赤く染まる花、って……」
「裏切りの象徴だ。
庵を穢す者が現れると、花が赤に変わるという」
冗談のように言ったが、彼の声は少し硬かった。
私は花を見つめ、そっと箱を閉じた。
乾いた花弁が小さく震え、かすかな赤い光を放った――ほんの一瞬。
夜。
庵の鐘楼に灯をともすと、白い霧が山を包んだ。
護衛たちは焚き火を囲み、レオンと私は二階の回廊に立っていた。
風が髪を撫で、遠くの森で獣の声が響く。
「……懐かしい音だ」
レオンが呟く。
「子供のころ、戦の前線に立った父の帰りを待って、
この音を聞いていた。風と鐘の音が似ていてね」
「今も、待っているんですか」
「いや。俺はもう、待たせる側になった」
彼は苦笑し、遠くの火を見た。
「守る者がいる限り、誰かを待つ側に回ることはない。
――君も、そうだろう」
私は頷いた。
「怖いけど、守るって、少しだけ誇らしいです」
その言葉に、彼の瞳がわずかに揺れた。
風が一瞬止み、静けさが降りる。
言葉の代わりに、二人の間に鐘の余韻だけが残った。
深夜。
眠れずに起き出し、庵の庭を歩いた。
月が雲間に覗き、廃井戸の縁に白い花が咲いている。
――まるで、誰かが植えたように。
しゃがみ込んで花に触れようとしたとき、背後で物音がした。
反射的に振り返る。
そこに、ひとりの人影。
夜の外套、顔を覆うフード。
武器を持たないが、気配が普通ではない。
「……誰?」
返事はない。
次の瞬間、影が素早く手を伸ばし、私の腕を掴んだ。
痛み。
引き寄せられるように一歩踏み出すと、影の指が何かを押し付けた。
冷たい金属。
“印章”。
「……“花”は咲いた。赤い花が」
低く囁く声。
男のものだ。
その瞬間、胸の奥の赤い契約が灼けるように熱くなった。
「――セリーヌ!」
レオンの声が夜を裂いた。
剣の金属音。
影が腕を離し、闇に飛び退く。
彼の剣が空を切る音のあと、風だけが残った。
私は息を切らしながら、手の中を見た。
銀の印章。
表面には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
――エルミナ王太子の紋章。
花壇の白花が、月光の下でわずかに色を変えていた。
白から、淡い紅へ。
レオンが駆け寄り、私の手を取る。
「大丈夫か! どこを――」
「平気です。でも……」
私は印章を見せた。
彼の表情が一瞬で冷たくなった。
「“赤い花”が咲いたか」
遠くで鐘が鳴る。
夜の霧の中、庵の壁に刻まれた花の紋が、一つだけ赤く光っていた。
第9話「赤い花の使者」につづく