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第7話 誓約裁定会

 七日間は、石の上の水のように静かに、しかし確実に形を変えて過ぎた。

 剣戟の音は遠のき、代わりに羽根ペンの擦れる音と、言葉の稽古が日々を満たす。

 姿勢、呼吸、視線の置き所。

 問いを受けてから答えるまでの、わずかな沈黙の長さ――。


「沈黙は弱さではない。選ぶための刃だ」

 レオンはそう教えた。

 ノアは反対に、言葉の“刃こぼれ”を指摘した。

「修辞が多いと逃げに見える。主語を殺さずに言い切ること」

 氷のような忠告。だが、そこに侮りは一度もなかった。


 七日目の朝、鏡の前で私は白のドレスを身に着けた。

 胸元に小さな白い花の刺繍。母が昔好んで縫っていた模様に似ている。

 掌の“赤い契約”の痕は薄く、しかし確かに残っていた。


「緊張しているか」

 扉の向こうでレオンが笑う。

 私は頷き、振り返った。


「怖い。でも、逃げたくはない」

「それでいい」

 彼は短く答え、手を差し伸べる。

 その手を取る瞬間、掌の熱が微かに脈打った。

 ――赤い契約。

 あの夜、この人と結び、守りを起動した血の約束。


 私たちは並んで歩いた。

 向かう先は、王城の中央に据えられた“誓約の円形広間”。

 床一面に古い文言と幾何学の文様が刻まれ、天窓から淡い光が降り注ぐ。

 壇の両側に、アルスタリアとエルミナの貴族たち。

 旗が並び、視線が集まり、囁きが波立つ。


 中央に立つのは、両国の立会人。

 アルスタリアからは老宰相オルフェン。

 エルミナからは高位聖職者にして王家の代言人・司教アドラ。

 そして、使者団の顔――ランス卿。


 鐘が三度鳴る。

 儀式のように静けさが降りた。


「本裁定は、アルスタリア王国第二王子レオン殿下の保護下にあるセリーヌ・フォルティナ嬢につき、

 当人の意思と諸条件を明らかにするものとする」

 オルフェンが朗々と読み上げる。

 声は老いてもよく通り、広間の端まで震わせた。


「諸卿、静粛に」

 アドラ司教が聖典を掲げる。

 「言葉は誓いであり、神の前で嘘は赦されぬ。

  偽りを語る者には“誓約の石”が冷たく響くだろう」


 視線が私たちに刺さる。

 レオンは一歩前に出、簡潔に告げた。


「彼女は我が国の誓約守護者であり、昨夜の襲撃から城を守った。

 保護の正当性は、我が身と剣で担保する」


 ざわめき。

 オルフェンが頷き、司教がうなずく。


「では、当人に問う。セリーヌ・フォルティナ嬢」

 オルフェンの声が私を呼ぶ。

 喉がからからに乾いた。

 それでも、足は前へ出た。

 私は円の中心、白い石の上に立った。

 冷たい。けれど、拒まれる感触ではない。


「あなたは、エルミナへ帰還し、王国の裁きを受けることを望みますか。

 あるいは、アルスタリアの保護下に留まることを望みますか」


 ――用意された二択。

 レオンは私を見ない。

 私も、彼を見ない。

 沈黙の刃を、正しい長さで抜く。


「……第三の道を、望みます」


 空気が弾けた。

 囁きが、一瞬で怒涛に変わる。

 オルフェンの眉が上がり、アドラ司教が私を射るように見た。


「第三――とは」

「エルミナにも、アルスタリアにも偏らず、“誓約の守護者”として、両国の境で民を守ること」

 自分の声が、自分ではない誰かのように静かだった。

 「返還されれば、私は見せしめになる。

  保護されれば、私は他国に対する口実になる。

  どちらも、民を傷つける」


 司教が唇を引き結ぶ。

 ランス卿が前のめりになる。

「つまり、あなたは“中立地帯”の宣言を望むと?」

「はい。両国の承認のもと、国境の古き修道院“白花の庵”を誓約地とし、

  そこへ避難する民と商隊に対する“不可侵の契”を再起動すること」


 広間の空気が変わる。

 この王都の古い法には、忘れられた条項がある。

 戦で荒れた時代、修道院と巡礼路には“剣を抜かぬ”暗黙の合意があった。

 それを、誓約の術で明文化し直す――。


 レオンが初めて私を見た。

 その目に驚きと、わずかな誇りが混じる。

 ノアは壁際で微動だにせず、ただ眼差しだけが鋭く光った。


 オルフェンが低く尋ねる。

「条件は」

「三つ」

 私は指を折る。

「一つ、当該地へ向かう者の出自を問わないこと。

 二つ、両国が“白花の庵”への軍列・徴発・追捕を禁じること。

 三つ、庵の維持費用は両国からの“献費”で賄い、庵は誓約守護者である私が責任を持つこと」


 石の床の下で、古い文言がかすかに鳴ったような気がした。

 ――白い花の乙女。王を導く者。

 予言は物語ではなく、古法の活性化に過ぎないのかもしれない。


 沈黙。

 その沈黙の中心に、ランス卿の声が落ちた。

「否だ」

 短い。冷たい。

 「我が王太子は“返還”を望む。あなたの提案は、アルスタリアに有利に働く」


 私の胸がひやりとする。

 だが、その瞬間――


「いいえ」

 レオンの声が、静かに割って入った。

 「君は勘違いしている、ランス卿。

  彼女の提案は、最も俺たちに不利だ」


 広間が揺れた。

 レオンはほんの僅か、自嘲を混ぜて笑う。


「“守護者”は国境に立つ。俺の手の届かない場所だ。

 俺は彼女を失う。政治的にも、個人的にも。

 だが、それでも彼女の提案を支持する。

 ――それが、俺の誓約だ」


 彼は続けようとした。

 だが、その瞬間、広間の扉が音を立てて開いた。


 黒い外套の影が二つ。

 アルスタリアの紋章を肩に付けた近衛――のはずなのに、動きに違和感があった。

 胸に薄い白布を結び、右耳に黒い輪。

 昨日、北庭で“干渉”していた影の印。


 私は反射的にレオンの袖を掴んだ。

 近衛二人は、迷いなく私の両脇に歩み寄る。

 オルフェンの制止が飛ぶより早く、冷たい金属が手首に触れた。

 “封魔枷”。術を封じる鎖。


「――何をしている」

 レオンの声が低く落ちた。

 広間の空気が凍る。

 近衛の片方が兜を上げた。

 銀の髪、氷の瞳。


 ノア・ヴェルドだった。


「殿下。申し訳ありません。

 アルスタリア王国安全保障のため、誓約守護者の身柄を一時拘束します」


 世界が、音を失った。


 レオンの手が微かに震えたのを、私は確かに見た。

 だが、彼は剣に手をかけない。

 代わりに、言葉を抜いた。


「理由を述べろ、ノア」

「証拠の提示があります」

 ノアは懐から封蝋を解かれた書簡束を取り出す。

 エルミナ式の連綴。

 アドラ司教が目を見開いた。


「それは……!」

「エルミナ王太子派と、アルスタリア北方貴族連合の“書状取引”の写し。

 “誓約裁定会”の混乱に乗じて、守護者の身柄を奪取し、国境地帯で“不可侵”の名を騙って衝突を起こす計画」

 ノアの声は冷えた刃だった。

 「守護者は“火種”だ。今ここで拘束し、計画を潰す必要があります」


 ランス卿の顔が青ざめる。

 アドラ司教は苦い顔で天秤を見やった。

 オルフェンは書状の封の跡を見て、短く息を吐いた。


「確かに本物の印に見える。……だが、なぜ今だ、ノア」


「殿下が“第三の道”を支持された今が、唯一の隙です」

 ノアの視線が私を掠め、冷たく戻る。

 「殿下が彼女を“手放す”と宣言なさった。

  ならば、彼女は政治的な防壁を持たず、王国の各派閥の恰好の標的になる」


「――俺の側にいる限りは違う」

 レオンの声は低い。

 ノアはまばたきもせず、続けた。


「殿下。私は殿下に忠実です。ゆえに、“殿下の願い”に逆らいます」

「何だと」

「殿下は彼女を自由にしたい。だが、自由は狙われる。

 私は彼女から自由を奪い、その上で守る。

 ――卑怯で、醜く、政治的に正しいやり方で」


 封魔枷が掌に噛んだ。

 血が滲み、赤い契約の痕が熱を帯びる。

 私は息を吸い、ノアを見る。


「ノア。あなたは、私を裏切るの?」

 彼の睫毛が一瞬だけ揺れた。

 そして、氷の表情が戻る。


「私は殿下を裏切っていない」


 広間が割れる寸前、レオンが一歩、前に出た。

 剣の柄から手を離し、掌を上げる。


「――解除しろ、ノア」

「できません」

「それが命令だ」

「命令を、拒否します」


 空気が裂ける。

 王子の命に、臣が“拒否”の言葉を選んだ。

 その喪失と痛みの重さに、私は足裏から冷たさを吸い込む。


 レオンの瞳の奥で、何かが静かに砕けた。

 それでも彼は微笑わない。

 ただ、言葉を選び、置く。


「……よかろう。ならば“誓約”で命じる」

 赤い契約の痕が、同時に熱を持った。

 私の掌と、彼の掌。

 血で結んだ“守る契約”。


「俺は、セリーヌの自由を保障する。

 俺の名で結ばれた契約は、彼女の“選ぶ権利”を束縛から解く。

 ――この場で、枷を外せ」


 床の石が低く鳴った。

 古い文言が、血の命令に応える。

 封魔枷の金属が微かに温み、鍵もないのに“カチリ”と外れる音がした。

 ノアの睫毛が、ほんの少しだけ動いた。

 近衛のもう一人が半歩退く。


 私は枷を外し、掌を胸に抱いた。

 レオンは私を見ず、ノアを見た。

 「それでも、君はまだ“政治的に正しい”か」

 ノアは、短く息を吐いた。


「殿下。……最後に、愚かさを選ばれましたね」


 彼は膝をつき、頭を垂れた。

 そして、驚くほどあっさりと手を広げた。

 近衛が彼の腰の短剣を外し、鎖をかける。


「――拘束を受けます。

 反逆の疑いのもと、殿下の独断に従わず“安全保障上の越権”を行った罪で」


 広間がどよめいた。

 レオンは黙ったまま、その様子を見ていた。

 ノアの目が、初めて私を真っ直ぐに見た。

 氷の奥に、微かな疲労――そして安堵が宿っていた。


「……何を、したの」

 私が問うと、彼は静かに答えた。


「“裏切り者”を釣っただけです」

 ランス卿の背後で、ひとりのエルミナ貴族が弾かれたように動く。

 肩口の外套がずれ、右耳の黒い輪が露わになった。

 同時に、アルスタリア側の列でも二人が顔を伏せる。

 白布の縁――干渉者の印。

 広間の四隅で、警備が一斉に動いた。


「計画は潰えた。司教、立会いのもとで証拠を押収し、双方の法で裁いてください」

 ノアは頭を下げた姿勢のまま、言葉だけを投げる。

 「私は、殿下の“自由の命令”に従う形で、越権の責を負います」


 アドラ司教の目が細くなり、オルフェンが頷いた。

 ――密やかに仕込まれた劇。

 ノアは自分を“裏切り者”に見せることで、両派の本当の裏切り者を動かしたのだ。


 レオンは長い沈黙のあと、わずかに目を伏せた。

「……お前はいつも、最悪のやり方を選ぶ」

「最悪は、最速でもあります」

「だから嫌いだ」

「承知しました」


 互いに顔をそむけた二人が、奇妙に似ていることが、このとき不意に可笑しく思えた。

 笑うわけにはいかなかったけれど。


 オルフェンが杖を鳴らす。

「裁定に戻る。セリーヌ・フォルティナ嬢の“第三の道”について、両国は協議の上、暫定承認とする。

 “白花の庵”は誓約地として再起動され、不可侵の契を七年とする。

 献費の配分、監察の制度設計は追って詰める」


 アドラ司教が聖典を閉じ、ゆっくりと頷いた。

「神の前で、誓いは結ばれた。

 この庵を穢す者は、神の沈黙と人の裁き、両方に晒されるだろう」


 ランス卿は顔を強張らせながら一礼した。

「……王太子殿下に報告いたします」

 彼の背後で拘束された貴族が引き立てられる。

 エルミナの旗は揺れ、やがて靡く音だけになった。


 鐘が再び三度、鳴った。


 儀式は終わった。

 けれど、物語は動き出したばかりだ。


 広間を出た廊下で、私は深く息を吐いた。

 足が軽く震えているのに、指先は妙に静かだった。

 レオンが横に並び、歩調を合わせる。


「よくやった」

 それしか言わない。

 それで十分だった。


「ノアは――」

「地下拘置へ。すぐ取り調べだ。……すぐ解く」

 レオンの声が少しだけ掠れる。

 「俺は、彼を――嫌っているが、信じている」


「私も」

 それは奇妙だった。

 彼に枷をはめられたのに、私は彼を責める気持ちになれない。

 “守るために嫌われるやり方”が、この世界には確かにあるのだと知ったから。


 中庭に出ると、風が白い花を揺らしていた。

 庵へ続く古い街道は、まだ草に覆われている。

 これから人の足が踏み固め、道になるのだろう。


「庵には、私が行くの?」

「ああ。君が“守護者”だ」

 レオンは空を見上げた。

 「だが、一人で行かせはしない。

  騎士団から小隊を出す。……俺も、しばらくは庵に詰める」


「王子が?」

「王子だからな」


 風の中で、彼の横顔が静かに笑った。

 その笑みに、やっと微笑みで応えられた。


 夜。

 庵の準備のための書簡に追われ、部屋に戻るのが遅くなった。

 扉を閉める直前、廊下の影から細い声がした。


「レディ・セリーヌ」

 振り向くと、若い侍女が立っていた。

 栗色の髪、青い瞳――ルチア。

 彼女は目を潤ませ、私の手を両手で包んだ。


「……ありがとう、ございます」

「何が?」

「庵ができたら、弟を、そこへ」

 彼女の声が震える。

 「国境の村に住んでいて、徴発のたびに怯えて……。

  “白花”は、昔から守ってくれるって、祖母が」


 胸の奥が温かくなった。

 私は頷き、彼女の手を握り返した。

 この七日間の重みが、掌の熱と一緒に行き先を見つけた気がした。


「必ず、守る。――庵で待ってる」


 ルチアは涙を拭い、何度も頭を下げて走り去った。

 扉を閉め、静けさが戻る。

 机に広げた地図の上に、白い花の小さな押し花が一枚、置かれていた。

 誰の仕業かは、聞かなくても分かった。


 窓の外に、月。

 赤くはない。

 ただ、静かな光。

 掌の赤い契約の痕が、微かに温かい。

 ――守るために結ばれた鎖。

 それが、私には“翼”にも思えた。


 翌朝。

 庵行きの準備のため、私は城の小さな礼拝堂に立ち寄った。

 白い石の祭壇。

 そこに、昨夜の押し花をそっと置く。


「……母さん」

 久しく口にしていなかった呼び名が、自然に漏れた。

 返事はない。

 けれど、花がほんの少しだけ揺れた気がした。


 礼拝堂を出ると、廊下の先に黒い影。

 近衛の詰所から、鎖の音がかすかに響く。

 ノアが、鉄格子の向こうに座っていた。

 彼は顔を上げ、わずかに驚いた色を浮かべる。


「……お見舞い、に来ました」

「面会は禁止のはずですが」

「守護者は例外、ということにしておきます」


 狭い空間に、ふっと笑いが落ちた。

 彼は鉄格子の前まで来る。

 目の下にうっすらと疲労がにじんでいる。


「昨日は、すみませんでした」

 そう言うと、彼は首を振った。


「謝るのは私のほうです。

 あなたに枷を掛けたのですから」

「結果的に、助かりました」


 短い沈黙。

 私は鉄の棒に手をかけ、彼の瞳を見る。


「ノア。“白花の庵”を動かすには、あなたの“最悪で最速”のやり方が必要です」

「……嫌われますよ」

「大丈夫。レオンも、あなたを“嫌っていて、信じている”と言いましたから」


 彼の目が、ほんの少し和らいだ。

 氷の奥の、疲労の色が薄れる。

 そして彼はいつもの調子で、淡々と告げた。


「では、最初の“最悪”です。

 庵へ向かう初日の行程で、必ず“未確認の検問”が出ます。

 味方の旗を掲げていますが、半分は偽物。

 止まらずに、白い花を見せてください。――それが合図です」


「白い花」

「あなたの胸の刺繍で十分です」


 私は頷き、礼を言った。

 去ろうとして、振り返る。


「ノア」

「はい」

「戻ってきてください。最悪でも最速でも、あなたが必要です」


 彼は、初めて“人間の温度”で笑った。

 「努力します」


 準備の喧噪の中、レオンが馬上で私を待っていた。

 彼は私を見て、言葉を選ぶように、少しだけ黙った。

 そして、簡潔に言う。


「行こう。――君の庵へ」


 門が開き、風が胸に流れ込んだ。

 城の石壁が遠ざかり、街道の先に白い光。

 白花の庵は、まだ見えない。

 それでも、確かにそこへ続く道がある。


 私は前を見た。

 恐れはある。

 けれど、足は迷わない。

 掌の赤い契約が、静かに脈を打った。

 ――守るために、導くために。


 新しい旅路が、始まった。


第8話「白花の庵」につづく

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