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第6話 使者と条件

 夜が明けた。

 灰色の空に、まだ煙の筋が残っている。

 城の石壁には焼け焦げた跡があり、衛兵たちの足音がせわしなく響いていた。

 あの“刃の月”の夜から、一晩しか経っていないのに――世界が変わってしまったように感じた。


 私はまだ眠っていなかった。

 掌の熱はもう痛みではなく、淡い脈のように鼓動を刻んでいる。

 鏡の前でその痕を見つめていると、扉が叩かれた。


「セリーヌ、入ってもいいか」


 レオンの声。

 短く返事をすると、彼は鎧の肩口を軽く押さえながら入ってきた。

 眠っていないのは彼も同じらしい。目の下に薄い疲労の影。


「朝から呼び出してすまない。王都からの使者が到着した」

「……来たんですね」

「ああ。正式な“返還要求”だ。君を引き渡せと」


 その言葉を聞いても、不思議と怖くはなかった。

 昨夜の戦いで、恐怖の形を知ってしまったからかもしれない。

 “死ぬかもしれない”という現実より、“失うかもしれない”ほうがずっと重いと気づいてしまった。


「行こう」

 レオンが差し出した手。

 その掌には、まだ赤い契約の痕が残っていた。

 私は黙って頷き、その手を取った。


 謁見の間は、いつもよりも冷たかった。

 青い大理石の床が、朝の光を反射している。

 長いカーペットの先、玉座の前にエルミナ王国の使者たちが並んでいた。

 黒と金の礼装。胸に刻まれた王家の紋章。

 その中央に――アレクシス殿下の使者として、リリアーナの兄が立っていた。


「アルスタリア第二王子レオン殿下。お初にお目にかかります」

 使者の男――ランス卿が、丁寧に礼を取った。

 だがその目には敵意が隠しきれない。


「エルミナ王国の名において、我が王太子の元婚約者、セリーヌ・フォルティナをただちに返還いただきたい。

 彼女は機密漏洩と国王侮辱の嫌疑により、裁きを受けねばならぬ身です」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の兵たちの視線が私に集まった。

 冷たい空気が肌を刺す。

 けれど、レオンは一歩も退かない。


「返還要求、確かに受け取った。だが拒否する」

「……理由をお聞かせ願えますか?」


「彼女はすでに我が国の保護下にある。

 昨夜、誓約の儀を経て、“王家の守護契約者”となった」


 ざわめきが広がる。

 ランス卿の顔がわずかに引きつる。


「――なんと?」

「つまり、彼女に手を出すことは、アルスタリア王家への攻撃と同義だ」

 レオンの声は静かだが、底に鋼があった。

 「その覚悟があって来たのか?」


 使者たちが一瞬たじろぐ。

 しかし、ランス卿は怯まずに口を開いた。


「殿下。外交上の庇護権は理解いたします。

 ですが、その“契約”が強制によるものである可能性を、我が国は否定できません」


 その一言に、会場の空気が変わった。

 強制――つまり、私は誘拐されたと。

 私の存在そのものが、国同士の争いの火種になっている。


「セリーヌ」

 レオンがこちらを見る。

 その瞳が“選ばせようとしている”ことが分かった。

 彼が何を望んでいるのかも。


 私は深く息を吸い、ゆっくりと前に出た。


「お話しさせてください、ランス卿」

「……セリーヌ嬢?」


「確かに私は、あの夜に突然この国へ連れ去られました。

 でも、殿下が強制したわけではありません。

 あの場で私を救ってくださったのは、事実です」


 使者の視線が鋭くなる。

 それでも、もう怯えなかった。


「婚約破棄を宣告された時、王太子殿下は私を“罪人”のように扱いました。

 ですが私は、何の罪も犯していません。

 私の罪が“不要になった婚約者であること”なら、その罪は受け入れません」


 自分でも信じられないほど、声がはっきりしていた。

 誰かに教わったわけではない。

 ただ、胸の奥の痛みが言葉になっただけだ。


「……それが、あなたの意思ですか」

「はい」


 沈黙。

 レオンが横で、わずかに頷いた。

 その頷きに、ほんの一瞬、温度が宿る。


「では、提案がある」

 彼が言うと、使者たちが警戒の色を浮かべる。


「君たちの言い分を認めよう。

 だが、彼女が本当に自らの意思でここにいるのか――その証明を行えばいい」

「証明……?」

「七日後、王国間の“誓約裁定会”を開く。

 両国の立会人の前で、セリーヌ自身に意思を問う。

 その結果に従う、という条件でどうだ」


 ざわめき。

 外交儀礼として異例の提案だった。

 しかし拒否する理由もない。

 ランス卿は一瞬だけ逡巡し、やがて頷いた。


「……よろしい。七日後、再び参ります」


 使者たちは礼を取り、去っていった。

 扉が閉まる音が遠くで響くと、緊張の糸が切れたように息を吐く。


「……裁定会。そんな場、本当に成立するのですか?」

「半分は賭けだ」

 レオンが微笑む。

 「だが、君の言葉は有効だった。相手は動揺していた」


「私、震えていました」

「それでも立った。それが大事だ」


 彼の声が柔らかくなった。

 ふと、目の前に差し出された手。

 昨夜とは違う――政治の舞台での手。

 力ではなく、信頼の手。


「セリーヌ。これから七日間、学んでもらう」

「学ぶ?」

「外交、言葉、視線、沈黙。

 “導く者”は剣を持たないが、言葉で国を動かす」


「導く者……」

 その言葉に、胸の奥の糸が再び震えた。

 “白い花の乙女”――予言が、ゆっくりと形を取り始める。


 夕方。

 執務室で、レオンとノア、そして数名の補佐官が地図を囲んでいた。

 私は部屋の隅に控え、彼らの議論を聞いていた。

 エルミナ王国との国境線。補給路。駐屯地の配置。

 地図の上で、赤と青の駒が動くたびに空気が張り詰める。


「ノア、北東の補給隊は?」

「すでに出立。だが、敵も動いています。恐らく“裁定会”までに圧力をかけてくるでしょう」

「時間を稼げ。交渉は俺が引き受ける」

 レオンは地図を見つめたまま言った。

 その横顔は、戦場で見る将の顔ではなく――国を背負う男の顔だった。


「……殿下」

 ノアが少しためらいながら口を開く。

 「もし裁定会で、セリーヌ嬢が“帰国”を望むと言った場合は?」

 レオンの目が細くなった。

 少しの沈黙。

 そして、静かに答える。


「そのときは、俺が手を離す」

「……殿下」

「誓約の重さを軽んじるつもりはない。だが、自由を奪う契約は守護ではない」


 ノアは黙って頷いた。

 その目には、わずかな敬意が見えた。

 ――この人は、本当に彼を信じているのだと分かった。


 会議が終わり、私は部屋を出ようとした。

 そのとき、ノアが小さく声をかけた。


「レディ・セリーヌ」

「はい?」

「先ほど、あなたの発言……見事でした。

 ただ、覚えておいてください。

 “真実”と“正義”は、必ずしも同じ側にあるとは限らない」


 その言葉が、妙に胸に残った。

 彼の瞳は氷のように冷たかったが、その奥には何か別の色――哀しみのようなものが一瞬だけ見えた。


 夜。

 窓の外には、風に揺れる灯。

 私は机の上に広げた地図を眺めていた。

 七日後、自分が“国と国の間”に立つ。

 何を言えばいいのか、まだわからない。

 けれど、逃げたくはなかった。


 そのとき、扉の向こうから足音。

 レオンが静かに入ってきた。

 鎧を脱ぎ、肩に外套をかけた姿。

 戦の匂いではなく、静かな夜の人の気配。


「眠れないのか」

「……はい」

「俺もだ」


 彼は笑って、窓辺に立つ。

 月は白く戻っていた。

 もう、赤くはない。


「“赤い契約”は、呪いではない。

 血で繋がれた二人は、互いの痛みを感じ取る。

 だから、君が眠れないとき、俺も眠れない」


「……そんな仕組み、聞いてません」

「今、話した」

 思わず笑ってしまった。

 その笑いに、彼も肩をすくめる。


「七日間。短いようで、長い。

 でも、君ならきっと……導ける」


 その言葉が、胸の奥で温かく灯る。

 恐怖でも、命令でもない。

 まるで“信頼”そのもののように。


「レオン。あなたは、わたしを信じているの?」

「信じたい、と思っている」

「思っている?」

「ああ。信じるには、まだ君を知らなすぎる。

 でも――知りたいと思うのは、もう理由じゃないだろう」


 月光が彼の横顔を照らす。

 そこに、ほんの少しの孤独が見えた。

 その孤独に、触れたいと思ってしまった。


「……七日後、どうなっても」

 私の言葉に、彼が振り向く。

 「あなたの国を、憎みたくはありません」


「なら、俺も君の国を憎まないように努力しよう」

 静かな約束。

 それは、国よりも深い、人と人の契約だった。


 風が止み、夜が静かに降りてくる。

 赤い契約の痕が、微かに光を返した。

 その光は痛みではなく――希望の色だった。


第7話「誓約裁定会」につづく

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