第5話 赤い契約
角笛が鳴り止まない。
塔の廊下に赤い灯が走り、衛兵たちの足音が渦巻く。
窓の外、城壁の上で火花が散った。
矢の飛ぶ音、叫び声、槍と槍がぶつかる硬い響き――。
「北壁に五、東の水門に三。……二手に分かれている」
レオンは一瞥しただけで状況を把握する。
彼は私の肩に外套をかけ、短く言った。
「離れるな。何があっても俺の右側を歩け」
扉が開き、武装した兵が滑り込む。
その先頭に――ノアがいた。
銀の髪に夜気の露が光る。目は相変わらず冷ややかだ。
「殿下。北門を突破されかけています。投石器の基部が破壊されました」
「だれが先導している」
「見慣れぬ紋章の部隊。エルミナ王太子派ではない“雇われ”の動きです」
「ふん……口封じに外部を使ったか」
ノアは視線だけをこちらに寄越し、丁重に頭を下げた。
「レディ・セリーヌ。お怪我は」
「……大丈夫です」
「それは何より。ただ、申し上げにくいことが一つ」
ノアは廊下の片端を顎で示す。
そこには、倒れた兵と、血で濡れた床。
赤い光が波のように揺れ、鉄の匂いが鼻を刺す。
「“白い花の庭”が狙われています」
心臓が小さく跳ねた。
北庭――わたしが昼間、座っていた場所だ。
「庭に何がある」
レオンの声音が低くなる。
ノアは即答した。
「“誓約の石柱”です。殿下の祖父王が建てた、王家の保護の術式。その基点が花壇の下に」
「なるほど。そこを壊せば城の守りが薄くなる」
「はい。そして……“白い花の乙女”の噂を、敵も掴んでいる可能性がある」
視線が重なる。
胸の奥で、冷たい鈴の音がした。
白い花。乙女。――予言。
「行くぞ」
レオンは腰の剣を確かめ、私の手を取った。
「わたしも、行くの?」
「君が鍵だ」
“鍵”という言葉が、また喉に刺さる。
説明を求める暇もなく、私たちは駆け出した。
塔を降り、回廊を抜ける。
冷たい夜気が肺を刺す。
遠くで火がはぜ、焦げた木の匂いが混ざった。
足音、金属の鳴る音、短い命令の声。
北庭へ繋がる石橋が見えたとき、私は思わず息を呑んだ。
白い花々は風にひるがえり、月光に青白く浮かんでいる。
花壇の中央、低い柵に囲まれた石柱が一本――。
その足もとに、黒い影が二つ、三つ、うずくまっていた。
敵兵だった。
黒装束、顔を布で覆い、無言のまま動く。
ひとりが石柱に刻まれた文様へ油を注ぎ、もうひとりが火打石を構える。
「やめろ!」
レオンが叫ぶより早く、ひとりがこちらを振り向き、手首から細い筒を向けた。
乾いた破裂音。
空気を裂いて飛来した小矢が、頬をかすめて過ぎる。二歩下がった足がもつれた。
世界が傾ぐ――その瞬間。
花壇の白が、視界いっぱいに広がった。
耳鳴りの奥で、誰かが囁いた。
声の主は、過去から来た風のように懐かしかった。
――起きなさい、白い花。
――王を導く、古い約束を。
次の瞬間、私の手が勝手に動いた。
石柱の表面に触れる。
冷たい石――だが、生き物のような脈動が指先に走った。
光が咲いた。
白い花びらが石の刻文から舞い上がり、夜気のなかに流れる。
“花”は霧になり、細い糸になって私の手首に絡みついた。
それは痛みではなく、合図だった。
――受け入れるか、拒むか。
選ぶのは私。
「セリーヌ!」
遠くでレオンの声。
その声に、私は頷いた。
「――来て」
そう呟くと同時に、光の糸が弾け、庭の空気が震えた。
黒装束たちが一斉にたじろぐ。
地面から淡い光が染み出し、花壇を中心に円陣が現れた。
幾何の線が繋がり、古い言葉が立ち上がる。
“誓約陣”。
踏み込んだ敵兵の足首に、見えない鎖が絡む。
ひとりが叫び、膝から崩れ落ちる。
もうひとりが火打石を打とうとして、火花が自分の手に戻って燃え上がった。
火は花に移らず、夜気の中で青く渦を巻く。
「術が――発動している……」
ノアが驚きに目を細めるのがわかった。
彼の声が、はじめて温度を帯びた。
「そんなはずは……誓約の陣は、王家の血がなければ――」
「あるさ」
レオンが短く言う。
剣を抜いて、一歩で敵の間合いに入る。
刃が月を掬い、ひと呼吸で二人を薙いだ。
静かに倒れる影。血の匂いが強くなる。
「セリーヌ、離れるな。陣は君の意思を源に動いている。気を逸らすな」
「わたしが……動かしているの?」
「君が触れたから起動した。――やはり、そういうことか」
そういうこと――が何なのか問う間もなく、
柵の外で火矢が上がった。
城壁の上から、別の一隊が庭へ降りる。
紋章のない黒い旗。影は軽く、動きは訓練されている。
「傭兵だ。陣を見ても引かない連中は初めてだな」
ノアが低く吐く。
彼は指で短い印を切り、足音だけで兵の配置を測った。
「殿下、正面から七、斜め後方に弓二。……左翼は開いています。おそらく囮」
「右から叩く」
レオンが駆ける。
彼の背中は、灰色の風のように迷いがなかった。
でも、敵は退かない。
ひとりが革の袋を投げ、庭に黒い粉が散る。
花弁の光がそこで濁り、陣が軋んだ。
胸の奥で、糸が張り詰める。
――守って。
言葉にするより早く、私は両手を石柱に置いた。
花びらの霧が収束し、わたしの足下に集まる。
円陣の線が明るくなり、庭の空気が一瞬、軽くなった。
その瞬間、視界に小さな影。
――矢。
斜め上から、私の胸に狙いをつけた一本を、光が横から弾いた。
見えない薄膜。水面に石を投げたときのように、波紋が走る。
「……守った?」
自分の声が震えていた。
恐怖は消えていないのに、足はもうすくんでいない。
「セリーヌ!」
レオンが振り返り、安堵と驚きを混ぜた目で私を見る。
「いい。そのままだ。陣は君の“願い”に従う」
願い。
それは簡単なようで、難しい言葉だ。
守りたい。逃げたい。信じたい。
たくさんの願いが胸の中でぶつかり合い、ひとつにまとまらない。
――そのとき。
敵の中から、ひとりだけ違う動きの影が現れた。
黒装束の上から、薄い白布を肩にかけた人物。
顔は覆っているが、動きが異様に静かだ。
“音”がない。
彼(彼女?)は花壇の手前で膝をつき、両掌を地につけた。
陣が軋む。
花びらの光が歪み、石柱の刻文が一瞬、黒く濁った。
胸の奥の糸が、痛む。
「干渉者か。……術中の術だな」
ノアの声が鋭くなる。
「殿下、あれは術式を“噛みつかせる”能力者です。陣に別の命令を混ぜる気だ」
「セリーヌ、聞こえるか」
レオンの声が、真っ直ぐに届く。
彼は敵を捌きながら、微塵も迷わず私を見た。
「合わせろ。俺の声に。――“誓約”を結ぶ」
誓約。
言葉だけで、庭の空気が変わった。
「どういう、こと……?」
「王家は本来、陣と“婚姻”を結ぶ。命と引き換えに守りを得る古い契約だ。
だが、それは王家の血だけに許された儀。……俺は君の血を借りる」
血。
手のひらが熱を帯びる。
恐怖が喉を叩いた。
けれど、視線を上げると、レオンは微笑まなかった。
ただ、まっすぐに真実だけを置いた。
「強要はしない。だが、これが最短だ。君が“拒む”なら、俺が全部背負う。
――どうする?」
夜が深くなり、風が白い花を震わせる。
私は自分でも驚くほど、すぐに頷いた。
「……教えて。やり方を」
レオンの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「右手を。掌を上に。――俺と繋げ」
剣を左に持ち替えた彼が、右手の手袋を歯で引き抜く。
指先が月に晒され、淡く光る。
私は外套の袖をまくり、掌を差し出した。
刃が走る。
互いの掌に、薄い切り傷。
滲んだ血が、夜の冷気を吸って震えた。
「――“赤い契約”」
レオンが言葉を置く。
その声に呼応して、石柱の文字が光を増した。
掌が重なった。
熱が、血の細い橋を渡って混じり合う。
痛みは微かで、むしろ胸の奥が先に熱くなった。
花びらの霧が渦をつくり、私と彼の周りに輪を編む。
やがて輪はほどけ、透明な幕へと広がった。
“誓約完了”。
陣が低く鳴り、庭の空気が一変する。
干渉していた白布の影が、短い悲鳴をあげて後退した。
彼(彼女)の膝が崩れ、地面に手をつく。
陣はもう、別の命令を受け付けない。
「――通さない」
自分の口から、その言葉が出た。
驚くほど静かな声。
私の願いが、やっと一つの形になったのがわかった。
“誰も、これ以上、傷つけないで”。
見えない壁が庭を包み、矢は落ち、刃は鈍り、火は花に触れずに消えた。
敵はじりじりと後退を始める。
退き際の冷静さ。
指揮の号令が短く飛び、黒い影は塀を越えて霧に溶けた。
追撃の角笛が鳴る。城壁の上から、味方の兵が歓声を上げた。
レオンは剣を下ろし、深く息を吐いた。
私の手を離さないまま、低く囁く。
「……よくやった」
その一言に、へたり込みそうになる。
膝が笑い、肩が震えた。
けれど、掌の熱だけは消えない。
ノアが近づいてきた。
いつもの冷静さを取り戻しているが、その目はわずかに揺れている。
「誓約……成立を確認。……殿下、これで“形式上”は――」
「ああ。彼女は王家の守護下に入った。誰も手を出せない」
ノアは小さく息を吐いた。
そして、意外なほど柔らかい声で私に言った。
「ありがとう。あなたがいなければ、城は破られていました」
言葉が見つからず、私はただ頷いた。
庭を見渡す。
白い花は、火にも刃にも汚されず、静かに揺れている。
風の音が戻り、騒擾の余韻だけが遠のいていった。
――けれど、終わりではない。
掌の熱の奥、もうひとつ別の熱が眠っている。
私の血に混じった、レオンの血。
それがまだ、脈打っている。
「この契約は……どれくらい続くの」
「“ひとつの誓い”が果たされるまでだ」
レオンは静かに答えた。
「守るべきものが守られ、導くべき者が導かれるまで」
「それは……わたしのこと?」
「――ああ。君自身が、君を導けるようになるまで」
彼は微笑まない。
ただ、夜の真ん中に置くように言った。
重さを誤魔化さない言い方が、彼の優しさだと分かる。
兵たちが負傷者を運び、消火の水が石畳を濡らす。
ノアが最後の指示を出し、振り返った。
「殿下。干渉者、捕縛できませんでした。ですが、残していった“印”を解析すれば、雇い主に近づけます」
「頼む」
「もうひとつ。……王都からの使者が、今夜のうちに国境を越えたとの報せ」
ノアの目が、一瞬だけ私に触れる。
「“彼女の身柄の返還要求”。正式な文書です」
胸の中の熱が、氷水をかけられたように冷えた。
レオンは短い沈黙の後、頷く。
「上等だ。――交渉の場を設けよう。
だが、答えは一つだ。“返還”はしない」
その声は低く、刃のようにまっすぐだった。
ノアは深く礼をして退く。
彼が去ると、庭には私とレオンだけが残ったように静かになった。
風が白い花を揺らす。
赤い契約の熱が、まだ掌に宿っている。
私はおそるおそる、彼の指を見た。
私と同じ、小さな切り傷。
血はもう止まり、薄い線になっている。
「痛くない?」
「痛いさ」
彼は、少年のように少しだけ笑った。
次の瞬間にはもう、王子の顔に戻っていたけれど。
「……怖かった」
気づくと口から零れていた。
彼は否定しない。
ただ、私の頭にそっと手を置く。
慎重に、壊れ物を扱うみたいに。
「怖がっていい。怖がったまま、進めばいい」
「進む先が、わからないのに」
「わからないままで、俺が横を歩く」
言葉は単純で、嘘がない。
信じるのは怖い。
でも、いまは――その言葉にすがりたいと、思ってしまった。
塔に戻る道すがら、ふと問いがこぼれた。
「ねえ、レオン。どうして、わたしの血で契約ができたの?」
王家の血が必要、とノアは言っていた。
わたしは、王家の人間ではない。
レオンは少しだけ歩を緩め、静かに答えた。
「君の母は、エルミナ王家の遠い傍流だ」
「……え?」
「公には隠された系譜だ。古い内乱のしこりで、名を変えて生きた家がある。
君が“白い花”に反応したのは、血の記憶だ」
目の前の廊下が遠ざかる。
母はすでに亡く、私が幼いころの記憶も薄い。
それでも、時折、白い花の刺繍をしていた手のぬくもりは覚えている。
白い糸、白い花。――あれは。
「どうして、知っていたの」
「調べた。君に手を出す連中が現れたとき、相手の出方を読むために必要だった」
彼は言い淀み、言葉を選ぶみたいに続ける。
「……すまない。許可なく、君の生まれを」
胸に、薄い痛みと、同じだけの安堵が同居する。
彼はいつも、優しさの裏に“責任”という名の刃をしまっている。
それが怖い。
けれど、頼もしい。
部屋に戻る直前、レオンは立ち止まり、私の掌をそっと包んだ。
そこには、まだ薄い熱がある。
彼はささやくように言った。
「今夜、君は城を救った。
――ありがとう」
その言葉に、やっと息が抜けた。
涙の気配が目の奥に満ち、私は頷くことしかできなかった。
扉が閉まり、静けさが戻る。
ベッドに腰を下ろすと、疲れが一度に押し寄せた。
けれど、眠りは浅い。
掌の熱が、まだ夢を遠ざける。
――“赤い契約”。
それは、わたしと彼を繋いだ。
守るために。導くために。
そして多分、逃げられない運命のために。
窓の外、夜明け前の空がわずかに白む。
白い花の匂いが、ほのかに漂ってきた。
新しい朝が来る。
もう、後戻りはできない。
第6話「使者と条件」につづく