第3話 籠の城
アルスタリア城での生活が始まって、三日が経った。
朝は鳥の声で目を覚まし、侍女ルチアが運ぶ香草茶の香りで一日が始まる。
食事は豪華だが、味はほとんどわからなかった。
食堂の窓から見える庭園は美しく、けれどその柵がまるで“境界”のように見えた。
「お散歩でもなさいますか?」
「……いいえ。今日は、ここでいいの」
ルチアが一瞬だけ眉を曇らせた。
彼女は何も言わずに一礼し、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
――この三日間、レオン殿下は姿を見せなかった。
侍女たちは「お忙しいのです」としか答えない。
王城のどこかで、彼は政治と軍の狭間に立っているのだという。
けれど、私はそれを確かめる術もない。
外に出ようとすれば、必ず誰かの視線がある。
庭に下りようとしただけで、遠くの兵が小さく頭を下げた。
――見張られている。
その事実を、心が理解するのにそう時間はかからなかった。
私は“保護”されているのではなく、“囲われている”のだ。
窓辺の椅子に腰かけ、日記帳を開く。
何を書けばいいのかわからず、ただ震える手でペンを握った。
この部屋に来てから、夜になると夢を見る。
あの日、婚約破棄を告げられた瞬間の夢だ。
アレクシスの冷たい声。リリアーナの涙。
そして――レオンの腕に抱かれた感触。
「……どうして、私を?」
問いの答えはまだ見つからない。
あの夜の彼の瞳が、あまりにもまっすぐで、信じたくなるほど綺麗だったからこそ、怖い。
信じてはいけないと頭ではわかっているのに、心が勝手に彼を探している。
ふと、部屋の扉が叩かれた。
ルチアが顔を出し、少し戸惑ったように言った。
「殿下がお呼びです。執務室へお越しください」
胸の奥で何かが跳ねた。
会いたい――そう思ってしまった自分をすぐに叱る。
私は囚われの身。感情を持つことすら、許されない。
執務室は高い塔の一角にあった。
壁一面に書架が並び、地図と封蝋された書簡が机に積まれている。
レオンは机の前に立ち、窓の外を見ていた。
朝よりも疲れた顔。だが、どこか安堵したようにも見える。
「よく来てくれたな。座ってくれ」
「お忙しいと聞いていました」
「忙しいとも。君のせいで、な」
「……申し訳ありません」
自然と頭を下げてしまった。
すると、レオンはすぐに首を振った。
「そうじゃない。君を連れ出したことで、この国と君の祖国が緊張状態にある。
だが、それでも俺は間違っていないと思っている」
「私を救ったことが、間違いではないと?」
「ああ。あの場で見て見ぬふりをしたら、一生後悔していた」
その言葉が胸に刺さる。
彼の瞳は相変わらず真っすぐで、嘘の色がなかった。
けれど、私はもう人の“優しさ”を信じきれない。
「……殿下は、本当に私を守るためだけに?」
「それが気になるか」
「ええ」
沈黙。
レオンは視線を落とし、指先で机を軽く叩いた。
その癖は、何かを隠すときの癖だと、三日で気づいていた。
「俺の国には、古くから伝わる予言がある。
“白い花の乙女が王を導く”――」
「予言……?」
「君を初めて見たとき、まるでその言葉の化身のようだった」
呆気にとられて息を止めた。
そんな話を、信じていいのだろうか。
だが、彼の顔には冗談めいた色はなかった。
「俺はずっと探していたんだ。あの予言の“白い花”を」
「だから私を?」
「そうだ。君は偶然じゃない。運命だ」
“運命”という言葉ほど、残酷なものはない。
その響きは甘く、抗いがたい。
けれど、それは時に自由を奪う鎖にもなる。
「もしその“予言”が間違いだったら?」
「そのときは――俺が君を正しい運命に変える」
彼は笑った。
その笑みが、恐ろしいほど美しかった。
強く、冷たく、そして危うい。
会話が終わり、部屋を出ようとしたとき、レオンが声をかけた。
「セリーヌ。これからは外に出てもいい。ただし、北庭だけだ」
「北庭……?」
「ここから最も安全な場所だ。護衛がつくが、気にするな」
私は頷き、部屋を後にした。
廊下を歩く途中、背後から誰かの視線を感じた。
振り返っても誰もいない。
だが、確かに――“見られていた”。
北庭は、城の裏側にある静かな庭園だった。
白い花が風に揺れ、池には金色の鯉が泳いでいる。
ルチアが遠くのベンチに控え、私はひとりで腰を下ろした。
静かすぎて、鳥の羽音さえ大きく聞こえる。
心を落ち着けようと深呼吸した瞬間、背後から声がした。
「あなたが、例の令嬢ですか」
振り向くと、一人の青年が立っていた。
黒い軍服。短く切られた銀の髪。
レオンよりも若く見えるが、目の奥に冷たい光を宿している。
「……あなたは?」
「宰相補佐官のノア・ヴェルドと申します。殿下の腹心です」
「腹心……」
ノアは微笑んだ。だが、その笑みは少しも優しくなかった。
計算と冷静さでできたような、氷のような微笑み。
「殿下があなたをお連れした時、正直、国中が騒然としました。
特に貴族派の連中は“他国の女を妃にするなどもってのほか”と」
「……それは、当然でしょうね」
「けれど殿下は一歩も退かない。あなたの存在が、この国の均衡を崩しつつあります」
ノアの声は、まるで観察者のように冷ややかだった。
私は唇をかみ、言葉を探す。
「私は、望んでここに来たわけではありません」
「そうでしょうね。ですが――もう、戻れない」
「……どういう意味ですか?」
ノアは一歩近づき、耳元で囁いた。
その声は、氷の刃のように鋭かった。
「“彼”を奪った代償は、決して軽くありません。
あなたがこの城にいる限り、外では血が流れ続ける」
心臓が止まりそうになった。
ノアはすぐに距離を取って、何事もなかったように微笑んだ。
「散歩の邪魔をして申し訳ありません。――お気をつけて」
彼が去っていく背を見送りながら、私は震える手で胸を押さえた。
“血が流れる”――その言葉の意味を、すぐに理解できた。
私のせいで、戦が始まろうとしている。
空を見上げる。
白い花びらが一枚、風に乗って舞い上がる。
それが、まるで血に染まる前の純白のように見えた。
夜、再び夢を見た。
炎と叫び声。
誰かが私の名を呼び、レオンが剣を抜いて立っている。
そして、血に濡れた彼の手が、私の頬に触れる。
――「君のせいじゃない」
その言葉が、夢の中で何度も反響した。
目を覚ますと、夜風がカーテンを揺らしていた。
月が白く光り、部屋の隅に人影があった。
驚いて身を起こす。
影が動く。
「……誰?」
次の瞬間、闇の中から短剣の閃きが走った。
第4話「刃の月」につづく