第2話 王子の真意
目を覚ますと、知らない天井があった。
柔らかな寝具。白い天蓋。淡い香草の匂い。
昨日の出来事を夢だと思いかけて――腕に触れた布の感触が、それを否定した。
「ここは……?」
薄いレースのカーテン越しに差し込む光。
部屋は広く、壁には繊細な彫刻が施され、家具ひとつにしても見たことのない精緻な意匠があった。
貴族の屋敷でさえ、これほど贅を尽くしてはいない。
「お目覚めですか、レディ・セリーヌ」
扉の向こうから聞こえた声に振り返る。
若い侍女がトレイを抱え、微笑みを浮かべていた。
栗色の髪に、青い瞳。隣国アルスタリアの人々の特徴だ。
「あなたは……?」
「侍女のルチアと申します。レオン殿下の命で、あなたのお世話を」
レオン――。
その名を聞いた瞬間、昨夜の光景が鮮やかに蘇る。
王太子の冷たい声。殿下の手。
そして、“俺の妃になれ”という言葉。
「夢じゃ……なかったのね」
「はい。殿下はあなたをアルスタリア城へお連れしました。ここは南翼塔の客間です」
南翼塔。つまり、城の中。
喉がからからに乾いているのに、声が出ない。
逃げ出すには、あまりに高く、遠い。
ルチアがそっと銀の盆を置き、香草茶を注いでくれた。
湯気とともに落ち着く香りが立ち上る。
その香りに少しだけ心が緩む。
「殿下は、すぐにお会いになりたいと」
「……ここから出てもいいのですか?」
「もちろん。ただし護衛の許可が必要です」
“許可”という言葉に小さく息を呑む。
優しい口調に隠された、見えない檻。
それでも、彼に会わなければ何も始まらない。
「案内してもらえる?」
「はい、喜んで」
ルチアに導かれ、長い回廊を歩く。
窓から見下ろす庭は、遠くまで白い花で埋め尽くされていた。
異国の風が、あの日とは違う香りを運ぶ。
美しいのに、どこか現実感がない。
――そして、扉の前に立った。
衛兵が二人、槍を立てて立っている。
彼女が軽く会釈すると、扉が静かに開いた。
「来てくれたんだな、セリーヌ」
彼は窓辺に立っていた。
朝日を背にしたシルエットが、まるで絵画のように整っている。
昨日とは違い、黒い軍服を着ていた。
深い青の外套が風に揺れ、金の刺繍が光を反射する。
「おはようございます、殿下」
「そんなに硬くならなくていい。ここでは俺が“王子”である前に、ただの男だ」
「それは……困ります。私はまだ、何も理解していません」
レオンは微笑んだ。
けれど、その笑みは昨日のように柔らかくはなかった。
どこかに影がある。
何かを測るように、彼は私を見つめる。
「理解していないのは、君だけじゃない。この国の者たちも皆、驚いている」
「あなたが突然、私を連れて来たからですね」
「そうだ。だが、後悔はしていない」
その瞳はまっすぐで、迷いがなかった。
けれど――私の胸の奥には小さな不安が芽生えていた。
“なぜ、そこまでして私を?”
「あなたは……どうしてあんなことを?」
「君があんな扱いを受けていたからだ」
「それだけですか?」
「――それだけ、ではないな」
レオンはゆっくりと歩み寄る。
距離が縮まるたびに、心臓が強く鳴った。
彼の香りがまた近づく。
昨日の夜と同じ、鉄と花の匂い。
「君を見た瞬間、思ったんだ。あのまま誰にも守られず壊れていくのを、放っておけないって」
「それが……王子の慈悲ですか?」
「いいや。俺個人の衝動だ」
彼の言葉は真っ直ぐで、そして危うい。
そんなふうに見つめられて、息が詰まりそうになる。
「でも、私はあなたに何も――」
「知っている。だからこそ、これからだ」
彼は手を差し出した。
白く長い指が、私の前で静止する。
触れたら、もう後戻りできないような気がした。
「君が望むなら、今すぐ帰してやることもできる」
「……本当ですか?」
「ただし、戻れば君は“裏切り者の娘”として裁かれる」
その声は低く、冷たく。
優しさの裏に、現実の刃があった。
「……脅しているのですか?」
「事実を言っているだけだ」
静寂が流れる。
風がカーテンを揺らし、淡い光が床に踊る。
その中で、彼だけが微動だにしない。
「俺は君を守りたい。でも、守るには理由が要る」
「理由……?」
「この国の貴族たちは、血統と正統を何より重んじる。
君が“婚約破棄された令嬢”である以上、ただの客人では守れない」
「だから……?」
「だから、“俺の婚約者”にする」
心臓が跳ねた。
口を開こうとしたが、声が出ない。
あまりに突然すぎて、言葉が追いつかない。
「……冗談、ですよね?」
「本気だ」
「そんな……私はあなたのことを何も知らないのに」
「知る機会はこれからいくらでもある」
彼は微笑んだ。その微笑みに、ほんの一瞬、寂しさが混じる。
それが何なのか、まだわからない。
けれど、確かに彼は孤独の匂いを纏っていた。
「俺は、君に“救われた”んだ。自分でも理由はわからない。
でも、君を見ていると……何かを取り戻せる気がする」
取り戻す――?
その言葉に、胸の奥で何かが引っかかった。
彼は私を“誰かの代わり”として見ているのだろうか。
それとも、本当に――。
気づけば、彼の手が私の頬に触れていた。
思わず息を飲む。
その手は熱を帯び、指先がわずかに震えていた。
「怖がらなくていい。俺は君に何も強要しない」
「でも、あなたは……奪ったんです。私のすべてを」
「なら、取り戻せばいい。俺と一緒に」
その言葉は優しくて、残酷だった。
甘い毒のように、心の奥に染み込んでいく。
逃げたいのに、逃げられない。
その瞳が、私を絡め取る。
やがて、レオンは手を離した。
その瞬間、熱が消えて、代わりに冷たい風が吹き込んだ。
私の心の中に、ぽっかりと穴が開く。
「しばらくはこの城で静養するといい。君の身の安全は俺が保証する」
「……ありがとうございます」
「それと――」
彼は窓の外を見た。
遠くで、白い旗がはためいている。
その布には、赤い紋章が描かれていた。
「君を奪ったせいで、この国との関係が悪化した」
「……やはり」
「王都から使者が来る前に、俺は決断しなければならない」
「決断……?」
「君を“本当に”妃にするか、手放すかだ」
静寂。
心臓が、痛いほどに鳴る。
まるで、運命がもう私に選択肢を与えないかのように。
「どちらを選んでも、もう戻れない。覚悟しておけ」
レオンの声が低く響く。
その瞳の奥には、昨日まで知らなかった冷たい炎があった。
それは、私を守ろうとする優しさであり、同時にこの国をも動かす男の決意でもあった。
彼の真意はどこにあるのか。
私を救ったのは慈悲か、それとも計算か――。
それでも、私はその場を離れられなかった。
彼の言葉が、まだ胸の奥で熱を放ち続けていたから。
次回予告(第3話「籠の城」)
王子の庇護のもとで始まる、囚われのような穏やかな日々。
けれどその影で、誰かが密かに「王子暗殺」を企てていた――。