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第18話 白花の庵

 夜が焼けていた。

 火は丘の向こうから吹き上がり、黒い煙が空を覆っている。

 風は熱を孕み、息を吸うたびに喉が焦げるようだった。

 遠くで鐘が鳴っていた。――帰還の鐘ではない。

 “庵が呼ぶ鐘”だ。


 私は走った。

 ノアが後ろで短く指示を飛ばす。

 「風下を避けて! 丘の稜線を回り込む!」

 「シモンは?」

 「見つかっていない。だが、火の中心に“白い印”がある。

  庵を模した偽の“祭壇”です」


 丘を越えると、闇の中に赤い光が見えた。

 燃えているのは、庵の外れ――物資庫だった。

 だが、火の色が違う。

 通常の炎よりも暗く、青を帯びている。

 ノアが低く言った。

 「“黒い根”の炎……誓いを燃やす火です」


 私は一瞬、呼吸を止めた。

 “誓いを燃やす”――それは、言葉そのものを壊す火。

 このままでは、庵に宿る“音”が消える。

 「ノア、止められる?」

 「記録では、ひとつだけ方法が」

 「何?」

 「“誓い”を上書きすること」

 「もう一度……誓うの?」

 「そう。しかも、誰かの命を代価に」


 彼の声が夜風に消える。

 私は歯を食いしばった。

 ――命の誓い。

 そんなもの、もう失いたくない。


 火の中に人影が見えた。

 「セリーヌ!」

 レオンだった。

 馬を捨て、全身煤だらけで駆けてくる。

 「生きてたのね!」

 「当たり前だ。帰還の鐘、聞こえただろう?」

 「聞こえたけど、あれは“警鐘”よ!」


 彼が笑う。

 その笑みは疲れ切っていたが、確かに生きていた。

 「放火の手は二つあった。

  一つは王都の荷駄、もう一つがこの物資庫だ。

  そして……もう一人の俺がいた」

 「……何?」

 「“王子”を名乗る偽者。

  庵のためと称して放火し、“誓いを浄化する”などと叫んでいた」


 ノアが目を細めた。

 「シモン、じゃない……“声の術師”自身が動いたか」

 「まだ火の中心にいる」

 レオンの目が炎を見据える。

 「俺が行く」

 「待って!」

 「お前は庵を守れ!」


 彼は走り出した。

 私は追おうとしたが、ノアに腕を掴まれた。

 「行かせて。

  彼の“誓い”は、守るだけじゃなく、壊すことでもある」

 「でも!」

 「庵を生かすなら、“壊れる”誓いも必要です」


 ノアの瞳に、淡い光が宿る。

 「セリーヌ。僕が誓う。

  彼が燃える前に、“音”を繋ぐ」

 その筆が光を帯びる。

 「記録官としてではなく、――人として」


 炎の中で、レオンは影と対峙していた。

 “偽王子”の顔は覆面で隠されているが、その声はレオン自身のように響いた。

 「お前が俺の“黒い根”か」

 「違う。俺はお前の“選ばなかった言葉”だ」

 「何を――」

 「誓いを立てずに済む生き方。

  守るより、諦めた方が楽だと笑うお前の欠片」


 レオンは剣を構えた。

 「そんな俺は、ここにいない」

 「だから燃やすんだよ」


 偽王子の手から黒い火が走った。

 空気が裂け、誓いの文様が一つずつ崩れていく。

 庵の方向から鐘の音が消えた。

 “音”が死ぬ――。


 その瞬間、白銀の光が炎を切り裂いた。

 「――庵は、誰か一人の言葉じゃない!」

 セリーヌの声が響いた。

 彼女は炎の中へ駆け込み、両手を掲げる。

 掌の印が眩く輝き、白花の紋が空中に広がった。


 「“刃を置いた者の誓い”よ、ここに集え!」

 風が巻き、光が渦を巻く。

 ノアが後方で筆を振る。

 「記録開始――“庵の再誓約”。」

 彼の文字が空気に浮かび、次々に燃え落ちる黒を上書きしていく。


 レオンが叫ぶ。

 「セリーヌ、下がれ!」

 「いいえ、これが“守る”こと!」


 炎と光が交錯した。

 “黒い根”が悲鳴を上げ、音もなく砕け散る。

 偽王子の姿が崩れ、灰となって風に溶けた。


 夜が明けた。

 丘の上で、庵はまだ立っていた。

 屋根の一部は焼け落ちたが、鐘楼は無事。

 白花の紋章が、灰の壁の上に淡く光っていた。


 レオンが倒れたままの私を抱き起こした。

 「……生きてるか」

 「ええ。でも、音が……」

 「聞こえるよ」

 彼が微かに笑う。

 「お前の声が、庵の音だ」


 ノアが歩み寄り、灰まみれの手帳を掲げた。

 「記録、完了しました。

  “庵の再誓約”――歴史に残ります」

 その筆先から一枚の紙が落ち、風に舞った。

 そこには、ただ一文。


 > “誓いは焼けても、意味は残る。”


 ノアは筆を置いた。

 「僕の役目は終わりです」

 「終わり?」

 「亡国の記録官は、国が救われた瞬間に消える」

 彼の体が、淡く透け始めていた。

 「ノア……!」

 「泣かないで。あなたたちは、もう“記録”の中に生きている」

 彼は微笑んだ。

 「最悪で最速の記録、完遂です」


 白い光が彼を包み、静かに消えた。

 灰が風に舞い、陽光の中に溶けていく。


 数日後。

 庵は再び人で賑わっていた。

 焼けた屋根には新しい板が張られ、鐘楼には白花の紋。

 庵の広場には、“噂井戸”の新しい板が立てられていた。

 その上に刻まれた言葉――

 「庵は選ぶ。刃を置く人を。」


 私はその前に立ち、鐘の綱を握った。

 風が吹く。

 “音”が生まれる。

 それは確かに、生きた音だった。


 「行こうか」

 レオンが隣に立つ。

 「どこへ?」

 「誰かの“誓い”を拾いに。

  庵は、ここだけじゃない」


 私は頷いた。

 ノアが残した言葉が、胸に残る。

 “庵を離れても、庵である練習を”。


 私は鐘を引いた。

 ――カン。

 音が風に乗る。

 白花が一斉に揺れ、光を散らした。


 その瞬間、私は確かに感じた。

 ノアの筆の音、レオンの息、庵の鼓動。

 それらがひとつになって、世界のどこかで響いている。


 灰は、静かに風に舞う。

 誰かの“終わり”のようでいて、

 次の“誓い”の始まりでもある。


 白花の庵――

 それは、滅びてもなお残る音の名。

 人が何度でも“帰る”ための場所。


終章 白花の庵 ―Fin.―

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