第17話 境の火
風が重くなっていた。
空は赤と灰の混ざった色をして、まるで太陽が血を滲ませているようだった。
――“黒い声”が広がっている。
それは火と同じだ。早く、そして人の心を焦がす。
街道に立つ“噂井戸”は、旅人が耳にした言葉を刻んでいく場所だった。
板張りの壁に炭で書かれた文字は、どれも乾いていない。
『庵は選ぶ』『貴族だけを救う』『守護者は王の間者』。
冷たい風が吹くたび、炭の粉が散って、まるで息をしているようだった。
「……誰の手だろう」
レオンが井戸の周りを見回す。
「字体がばらばらだ。数人か、それとも――」
「“声の術”だ」
私は口を開く。
「ノアが言ってた。離れた場所で“音”を植える術。
術者が語らずとも、風に乗って言葉が増えていく」
井戸の底には灰色の紙片が沈んでいた。
拾い上げると、墨ではなく血のような色が滲んでいる。
“根”の匂い――間違いない。
「まだ、あの術が残ってる……」
レオンが顔を上げた。
「火を使わない炎、か」
「ええ。でも、この炎は、燃やさなければ消えない」
私たちは帳簿と札を持ち、即席の広場を作った。
通りすがりの商人、兵士、避難民――皆が半信半疑で集まってくる。
私は木箱の上に立ち、声を張った。
「庵は“選ぶ”と言われています。
それは正しい。
庵は“刃を抜く人”を選びません。
“刃を置く人”を選びます。
選ばれたいなら、どうか刃を置いて」
ざわめき。
レオンが横で帳簿を開き、声を続けた。
「ここに、すべての寄付と出入りが記録されています。
名も、金額も、誰が何を食べ、どの寝床を使ったかも。
庵は隠さない。
“平等”は言葉ではなく、数字で証明する」
人々が前に出て帳簿を覗き込む。
誰もが初めて見る“開かれた記録”に息を呑んだ。
だがその中に、一人の青年が声を荒げた。
「記録なんて、書く側が好きにできるだろう!」
レオンが前に出ようとしたが、私は手で制した。
「いいえ。あなたも書けます。
今ここで、あなたの手で書きましょう。
あなたの名と、あなたの目で見た庵のことを」
炭筆を渡すと、青年は戸惑いながら紙を掴み、震える手で書いた。
『俺は、庵で飯を食った。
金は払えなかったが、誰も責めなかった。
でも、怖かった。居心地が良すぎて。』
沈黙。
その言葉が、群衆の中を通り抜け、火をひとつ鎮めた。
噂は、言葉でしか消せない。
火と同じで、火で制するしかない。
だが、そのときだった。
遠くで、煙が上がった。
黒く、太く、夜のような煙。
「西の境界……!」
伝令が駆けてくる。
「放火です! 王都からの荷駄が、途中で焼かれました!」
“二つの火”。
噂の炎と、本物の炎。
私とレオンは一瞬だけ視線を交わした。
「俺が行く」
「だめ、あなたは庵を離れすぎる!」
「だが、放っておけば人が――!」
言葉が重なる。
庵を守るべきか、人を救うべきか。
どちらも正しい。どちらも間違いではない。
でも、時間は待ってくれない。
私は震える声で言った。
「行って。
あなたは、庵の外を守って。
私は、庵の中を守るから」
レオンは歯を食いしばった。
「必ず戻る」
「帰還の鐘を鳴らして。忘れずに」
彼は頷き、馬に飛び乗った。
その背に、夕陽が燃える。
夜が落ちる。
噂井戸の周りではまだ人々が残っていた。
私は灯を掲げ、炭筆を持ち続けていた。
“刃を置く”という言葉が、少しずつ広がっていく。
だが、胸の奥の光が不安に揺れる。
遠くで雷のような音がした。
火が広がっている。
「セリーヌ」
声に振り返ると、灰の外套が立っていた。
「――ノア!」
「ただいま。報告を持ってきた」
彼の頬には煤がついていた。
「王太子派の“声の術師”は全員捕縛。
だが、放火は別の手。
“庵の内部”から仕掛けられた火だ」
血の気が引いた。
「内部……?」
「“白花の印”を偽造した者がいる。
庵の信頼を使い、井戸に“黒い声”を撒いた」
ノアの筆が、闇の中で淡く光る。
「記録を遡る。――ここだ。
三日前に庵へ入った記録、“シモン”という名。
火薬職人。寄付金十銅貨。出身、王都西区。」
息が詰まる。
「彼は……まだ庵に?」
「境の火と同時に姿を消した。
つまり、“放火と噂”を繋いだのは同一人物」
ノアの瞳が夜の炎を映す。
「セリーヌ、選択です。
庵を守るか、真実を追うか。
どちらも“誓い”になる」
私は目を閉じた。
光が胸の奥で脈打つ。
庵を守る誓い、レオンを信じる誓い、そして――真実を見届ける誓い。
「行く。真実を追う。
庵は、レオンが帰る場所として残す」
ノアが微笑む。
「それがあなたの“最善で最遅”ですね」
夜風が灰を運ぶ。
丘の向こうで、赤い炎が跳ねた。
私は外套を掻き寄せ、ノアと共に走り出した。
庵の鐘が再び鳴る。
――カン。
音は震え、そして長く、遠くまで続いた。
それはまるで、帰還を約束する鐘のように。