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第16話 帰還の鐘

 王都の白壁が遠ざかるにつれ、風の匂いが変わっていった。

 香油と金属の混じった、磨かれた空気は消え、土と草と焚き火の匂いが戻ってくる。

 遠く山あい、雲の切れ間に、低い丘の影が見えた。

 ――あの向こうに“白花の庵”がある。


「ただいま、って言えるのかしら」

 思わず漏れた独り言に、並ぶレオンが笑った。

「言えるさ。庵は“帰る言葉”が好きだ」


 ノアは少し後ろで馬の歩調を合わせ、無言で景色を記録している。

 彼の手帳の紙は、風に煽られながらも一枚も乱れない。

 “亡国の記録官”に似つかわしい静けさ――だが、その沈黙はどこか別れの予感を含んでいた。


 三日目の黄昏、山路が開けた。

 谷を渡る風が、ひゅう、と笛のように鳴る。

 丘を越えた先で、私は手綱を引いた。


「――鐘の音」


 微かだが、確かに聞こえた。

 庵の鐘楼は半壊し、再建途中のはずだ。

 それでも、そこから生まれる音は、遠雷にも似て、胸の奥の白銀を震わせた。


 門前には、小さな行列ができていた。

 小麦を背にした商人、膝に猫を抱いた老人、泥だらけの小さな靴を履いた子ども。

 衛兵が穏やかに順番をさばき、焚き火には鍋がかかっている。


「守護者様!」


 最初に駆け寄ってきたのは、あの侍女のルチアだった。

 彼女は前より少し逞しい顔をしていた。

 「よかった……戻って来られたんですね」

 「庵は?」

 「無事です。鐘楼は新しい梁が入りました。鐘も――」

 言いかけて、彼女はレオンの方へ目を向け、言葉を選ぶ。

 「鐘は、“帰る人”が鳴らすようになりました」


 門が開く。

 白い花の模様が、あの日より濃く、確かな線で壁に息づいていた。

 焦げた痕は消えない。けれど、その上に新しい漆喰が塗られ、花は灰の地に咲いている。

 庵は、灰を恥じていなかった。


「帰ったぞ」


 レオンが鐘の綱を取る。

 一呼吸だけ目を閉じ、静かに引いた。

 ――カン。

 高くも低くもない、真ん中の音。

 それは「無事」を意味する合図で、子どもたちが広場に飛び出し、誰かが鍋の蓋を叩いた。


「帰還の鐘ね」

「そう呼ぶことにした」

 副長が照れたように頭をかく。

 「“勝利の鐘”だと、誰かが負ける気がして。

  ここでは、帰ってくることだけが偉い、と決めました」


 胸の奥が温かくなった。

 “誓いは焼けても、意味は残る”。

 王の間で私が言った言葉が、ここではもう慣用句のように通じる。


 夕餉の前、庵の評議の場――といっても、古い祭壇の前に並べた長机だ――で、急ぎの報告を受けた。

 献費は順調に集まり、帳簿は広場で誰もが閲覧できるようになっている。

 北の峠に仮の見張り小屋、井戸には“噂封じ”の札が再び貼られていた。

 “庵は偏っている”という噂には、「寄付は硬貨一枚でも名が並ぶ」という仕組みで返している。

 ――名は、誇りだ。名を隠さない誇りが、庵の盾になっていた。


「王都の裁定は?」


 副長の問いに、私は頷く。

 「存続が認められました。庵は“不可侵地”として正式に記録されます」

 歓声がひとしきり上がる。

 その波が引いたころ、ノアが立ち上がった。


「そこで一つ、お知らせが」

 彼は紙束を掲げる。

 「“亡国カルデア”の記録――黒い根の由来と、その終わりに関する証言集です。

  庵の文庫に、誰でも読める写しを置きたい」


 広場が静まる。

 「怖いものを置く必要が?」と誰かが言い、すぐに別の誰かが「怖さを知らない方が怖い」と返した。

 ノアは短く微笑む。

 「負け方を記録しておくことは、負けにくくなるということです」


 彼は続ける。

 「もう一つ。――私は、少し庵を離れます」

 空気が動いた。

 レオンが目を細める。

 「どこへ」

 「国境の、さらに外。

  王太子の“影”が雇った声の術師たちが、まだ散らばっている。

  噂は、根を絶たない限り生き続けます」


 私は喉が渇くのを感じた。

 「一人で?」

 「“最悪で最速”は、たいてい少人数でしか実行できない」

 彼は冗談めかして片目を細めるが、その瞳の底は真剣だ。

 「戻りますよ。記録官が“結末”を見ずに席を外すはずがない」


 いつもの皮肉に、今は慰めの温度が混じっていた。


 夜。

 再建半ばの鐘楼に昇ると、乾いた木の匂いがした。

 切り出した新しい梁が月の光を吸い、白く光っている。

 広場では、子どもたちが焚き火を囲み、老人が昔話を語り、鍋からはスープの匂い。

 庵は、音で満ちていた。


「……聞こえる?」

 背からの声に振り返ると、レオンがいた。

 「“音”のことだろう?」

 私は頷く。

 「戻ってきた。王都では遠かったものが、今は掌に触れるみたい」


 レオンは綱に寄りかかり、空を見上げた。

 「王都で父上と対したとき、少しだけ過去が剥がれた。

  俺は“王族の名”で何かを守ろうとしていたが、名は盾でも剣でもなかった。

  庵に来て、やっと分かった。――守りたいのは、ただの暮らしだ」


 沈黙。

 鐘楼の板が、木目に沿って小さく鳴る。

 私は息を吸い、胸の奥の白銀に触れた。

 「ねえ、レオン。お願いがあるの」

 「何でも」

 「今夜だけは“王子”の顔をしまって。

  わたしは“守護者”の顔をしまうから」


 彼は目を瞬いた。

 次の瞬間、少しだけ年若い、無鉄砲な青年の笑顔になった。

 「了解。――じゃあ、名前で呼んでいいか?」

 喉が熱くなる。

 「……ええ」


「セリーヌ」


 呼ばれた名は、夜風にひとつだけ鳴った鐘みたいにはっきりと聞こえた。

 私は一歩近づく。

 彼の手が、恐る恐る、けれど確かに私の頬に触れる。

 唇が重なった。

 短い、でも完全な約束のような口づけだった。


 離れたとき、彼は照れたように息を吐いた。

 「庵では“勝利の鐘”は鳴らさないんだったな」

 「“帰還の鐘”だけ」

 「なら、今のは――帰ってきた、ってことにしよう」


 胸の奥で、白い花がそっと開いた気がした。


 翌朝から、庵は忙しかった。

 評議の定例。

 献費の配分。

 新しい寝床の割り振り。

 そして、最も難しい仕事――“追い返すこと”。


 庵に来る者は、すべてを受け入れていいわけではない。

 刃を隠し持つ者、他の避難者を脅かす者、噂を売り歩く者。

 「出自を問わない」掟は、もう一つの掟とセットだ。

 ――“ここで刃を抜かない”。

 守れないなら、門の外で待ってもらう。


 広場の隅で、若い傭兵が食ってかかってきた。

 「俺たちは戦ってきた! ここくらい、好きに飯を食わせろ!」

 「戦ったから、ここで好きにできるわけじゃない」

 副長の声は硬い。

 「ここは“刃の勲章”を飾る場所じゃない。

  “刃を置く”場所だ」


 私も口を開く。

 「庵は、強かった人間が“強くなくてもいい”場所です。

  だから、強さを持ち込むなら、いったん置いていって」

 傭兵は舌打ちし、渋々短剣を外した。

 息が一つ、やわらぐ。

 こうして、庵は一日を始める。


 昼余、ノアが旅装を整えて現れた。

 灰色の外套、軽い鞄、細い筆と札の束。

 別れは短いほど、心は軽い――と、彼はよく言う。

 だが、今日はいつもより視線が長くこちらに留まっていた。


「行きます」

 「行ってらっしゃい」

 「帰ってきます」

 「おかえりって言うから、早く」


 簡単なやりとりが、いつもより重い。

 ノアはレオンに向き直る。

 「殿下――いや、レオン。あなたに一本だけ、悪手を勧めておきます」

 「聞こう」

「“庵の名を売る”のはやめてください。

  善意が集まりすぎれば、名は商売になる。

  名が金になるとき、庵は“場所”ではなく“商品”に変わる」


 レオンは真顔で頷いた。

 「わかった。名は守る。――お前の記録のためにもな」

 ノアは肩をすくめる。

 「記録は別に守らなくていい。燃やすときは燃やして」


 私に向き直り、少しだけ声を落とす。

 「セリーヌ。

  あなたは“庵を離れても庵である”練習をしてください」

 「どういう意味?」

 「王都のような場所に呼ばれたとき、音が遠のくでしょう。

  それでも、あなたの言葉は届く。

  ――“音がなくても、誓えるように”。」


 胸の奥で、白銀が小さく応えた。

 「やってみる」

 「きっと、できます」


 ノアは片手を挙げ、振り返らずに門を出た。

 灰色の背中が光に溶け、やがて見えなくなる。

 彼のいない空気に、鐘楼の木が小さく鳴った。


 夕刻、庵の端で、レオンが子どもたちに木剣を教えていた。

 「“刃を抜かない掟”なのに?」と私が笑うと、彼は肩をすくめる。

 「刃を抜かないためには、抜けることも知っておくべきだ。

  抜かないほうが強いと知れば、抜かずに済む」


 子どもが転び、膝を擦りむく。

 レオンは手際よく手当てし、最後に額を軽くこつんと叩いた。

 「ここが一番の武器だ」

 少年は恥ずかしそうに笑い、木剣を置いた。

 ――刃を置く練習。

 庵でいちばん大切な稽古だ。


 そこへ、息せき切った伝令が駆けてくる。

 「守護者様! 街道の噂井戸で“黒い声”が再発――いえ、別の形です!」

 私の背が冷たくなる。

 「どう変わったの?」

 「“白花の庵は選ぶ”、って。

  “気に入った者だけを助ける”という噂が流れています」


 “偏っている”の変種。

 しかも、焦点は“私の選り好み”に向けられている。

 名を持つ者への毒としては手堅い。


 レオンが短く言う。

 「行こう」

 私は頷き、白い花の札と帳簿の副写しを抱える。

 門の向こう、夕陽に染まる道。

 “庵は選ばない”ことを、言葉で示しに行く。


 そのとき、鐘楼の上で誰かが綱を引いた。

 ――カン。

 帰還の鐘。

 ノアはまだ遠い。

 けれど、音だけが先に戻ってきたみたいに、胸の奥が明るくなった。


「行ってくるね」

 「行ってこい。戻ってこい」


 同じ言葉を交わし、私たちは走り出した。

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