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第12話 影の誓い

 夜明け前の庵は、灰色に沈んでいた。

 火の跡は黒く固まり、焦げた香がまだ鼻を刺す。

 空気の中に、何かが潜んでいる。

 ――“音”がない。


 かつては聞こえた、庵の鼓動。

 風や声の色。

 今は何も感じない。

 世界と私のあいだに、薄い硝子が挟まったようだった。


 その硝子の向こうで、レオンが剣を研いでいる。

 火の光に照らされた横顔は静かで、美しかった。

 けれど、見慣れたその姿に、どうしても違和感が混じる。


 ――あの赤い筋。

 昨夜、彼の手首に灯った“光”。

 あれは契約ではない。“影の誓い”だ。


 ノアが低く囁いた言葉が蘇る。

 『誓いは人を守る。けれど、裏返せば人を縛る。

  黒い根は、“守る意志”が強い者を選ぶ。』


 庵の広間では、避難民たちが炊事を始めていた。

 鍋の湯気、子どもの笑い声。

 庵は“生きて”いた。

 でも、その生命を支える誰かが、少しずつ壊れている気がした。


「セリーヌ」

 呼ばれて顔を上げると、レオンが立っていた。

 夜明けの光を背に、表情は穏やか。

 「見回りだ。一緒に来い」


 私は頷いた。

 庵の外に出ると、山肌に霧が降りていた。

 木々の枝には露が光り、地面には黒い灰がまだ残っている。


「……庵の再建には時間がかかるな」

 「でも、皆が残ってくれました」

 「それが、恐ろしいんだ」


 彼の言葉に私は足を止めた。

 「恐ろしい?」

 レオンは空を見上げる。

 「庵は“避難所”であり、“象徴”だ。

  人が集まりすぎれば、庵が“旗”になる。

  旗には必ず、敵ができる」


 その声には、いつもの冷静さの奥に、微かな熱があった。

 いつもは理性で包んでいる感情が、むき出しになるような。


「俺は昔、王の名の下に誓いを立てた。

 “誰も見捨てない”と。

 それが、俺を兵士にした。

 けれど……それを守るたびに、人が死んだ」


 風が止まり、霧が濃くなる。

 「だから今度は、守るために“奪う”ことを選ぶ。

  お前が守れないなら、俺がすべてを奪う」


 私は息を呑んだ。

 その言葉の響きが、まるで“影の誓い”だった。

 「レオン……それは、“守る”じゃなく、“支配する”です」

 彼の瞳がわずかに赤く光った。


「同じだよ。結果が生きていれば」


 庵へ戻る途中、ノアが待っていた。

 彼は淡い顔で二人を見比べる。

 「殿下、その手首の印。消せませんね」

 「放っておけ」

 「放っておくと、“守護者の代行”になります」


 ノアの目が細くなる。

 「庵の力を、あなたが握ることになる」

 レオンは無言で歩き出した。

 ノアが肩をすくめ、私の方へ向き直る。


「予想どおりです。“黒い根”は彼を選んだ。

 守る力が強すぎる。

 あなたが契約を切った瞬間、庵は新たな“誓い主”を探した。

 ――そして彼に宿った」


「戻す方法は?」

 「ひとつだけ。“影の誓い”は“光の誓い”でしか打ち消せません。

  つまり、あなたがもう一度“誓う”こと」


 私は俯いた。

 「でも、私にはもう力がない」

 「力ではなく、“意思”です。

  守る者が“もう一度立ち上がる”と宣言すれば、庵は応える」


 ノアは微笑んだ。

 「守護者とは、力ではなく言葉。

  あなたが“音”を取り戻すとき、誓いは裏返る」


 その夜、庵の鐘楼に火が灯された。

 修復のための作業。

 だが、私は別の目的で登った。


 風が強い。

 夜の街道が遠くに見える。

 庵の外壁には、再び“白い花”が描かれていた。

 それでも、その根元に黒い影が伸びているのが見えた。


 レオンが上がってくる。

 「……ここにいたのか」

 「はい」

 「庵の見張りは任せておけ。お前は休め」

 「レオン」

 私は振り返る。

 「あなた、庵の“声”が聞こえるんですね」

 「なぜ」

 「表情が、私と同じだから」


 彼の目がわずかに揺れた。

 「庵は、俺の中で囁く。

  “守れ、守れ”と。

  誰も近づけるなと」


 その言葉に、背筋が凍る。

 「レオン、それは庵の声じゃありません。“根”の声です」

 「違う。俺は守っている」

 「あなたが守っているのは、“人”じゃなく“誓い”です!」


 風が強まり、鐘楼が軋んだ。

 彼の目が赤く光り、手首の筋が脈打つ。

 庵の下から、再び黒い線が這い上がる。


「レオン、やめて!」

 私は駆け寄り、彼の腕を掴む。

 その瞬間、胸の奥で何かが裂けた。

 赤い印は消えていたはずなのに、痛みが戻る。

 血のような光が掌を走り、彼の腕に触れたところで絡み合った。


 ――“光の誓い”。

 ノアの言葉が、頭の奥で響いた。


 風が止まり、時間が凍る。

 赤と黒の光がぶつかり合い、鐘楼の壁に波紋が広がる。

 レオンの目が一瞬、元の青に戻った。

 「……セリーヌ?」

 「帰ってきて」

 「俺は、守らなきゃ――」

 「守るのは、庵じゃなく“あなた自身”です!」


 その瞬間、光が弾けた。

 黒い根が砕け、鐘楼の石に吸い込まれていく。

 レオンの身体が崩れ落ち、私は抱きとめた。


 静寂。

 風が戻る。

 “音”が聞こえた。

 庵の鼓動。

 それは私の胸の奥で共鳴していた。


 夜が明けるころ、レオンは目を覚ました。

 顔色は青白いが、目の奥には穏やかな光が戻っている。

 「……庵の声が、消えた」

 「もう、“黒い根”はいません」

 「お前の手に、また……光が」

 見ると、私の掌に新しい印が刻まれていた。

 赤ではなく、白銀の光。

 “再誓約”。


 ノアが傍で小さく笑った。

 「最悪で最速。――成功ですね」


 私は微笑む。

 「ノア、あなたは本当は何者なんですか」

 「ただの亡国の記録係ですよ。

  けれど、“誓い”の結末を見届けるのが、私の役目です」


 彼の瞳が一瞬だけ、深い灰に光った。


 その夜、庵の広場では、避難民たちが初めて笑っていた。

 火を囲み、子どもが歌を歌う。

 庵の壁には、再び白い花が咲いている。

 黒い根の痕跡は、どこにもなかった。


 私はその光景を見ながら、そっと呟く。

 「“守る”って、難しいですね」

 レオンが隣で笑う。

 「でも、誰かが守ると誓った瞬間から、世界は少しだけ優しくなる」


 風が通り抜け、白花が揺れた。

 その花びらは、もう赤くも黒くも染まらない。

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