第11話 黒い根
炎の匂いは、血よりも記憶を呼び起こす。
焦げた梁の下で、私は息を詰めて立ち尽くした。
白かった壁は煤に覆われ、花の紋章だけが赤く浮かび上がっている。
――庵が、泣いていた。
「西棟の火勢は鎮圧完了!」
「避難民、外庭へ退避! 負傷者三!」
兵たちの声が飛び交う。
レオンは火の中から瓦礫を押しのけ、子どもを抱え上げて出てきた。
煤だらけの顔、焦げた外套。
それでも目は、まっすぐに生きていた。
「セリーヌ!」
名を呼ばれ、駆け寄る。
「無事か?」
「ええ……でも庵が――」
「燃えたのは一部だ。火薬は仕掛けだ。内部発火じゃない」
彼は腕の子を副長に渡し、灰を払いながら低く続けた。
「火をつけたのは“中から”だが、魔法ではない。油と導火線。
つまり――“黒い根”は人の形をしてる」
人の形をした“根”。
私は燃え残る壁に触れる。
そこに、黒い筋が走っていた。
樹の根のように、花の紋章から地面へと伸びている。
指でなぞると、ぬるりとした冷たさ。
「……生きてる?」
「動くな!」
レオンが私を引き戻す。
その瞬間、黒い線がひび割れ、土を這うように伸びた。
音もなく、庵の床下へ潜り込む。
まるで、何かを探すように。
ノアが駆けてくる。
灰色の外套の裾が煤にまみれていた。
「間に合いませんでしたね。火の根源が“花”でした」
「花が燃えたのか?」
「いいえ、“花に火を移された”。花は媒介です」
彼は短杖を取り出し、焼け跡の灰を掬った。
灰はわずかに光り、赤から黒へと変色していく。
「黒い根――“影言葉”。
噂や恐怖を媒介に、誓約地の記憶を喰う術です」
「言葉が、庵を喰う……?」
「はい。庵の“名”が汚されるほど根が伸びる。
だから“噂の井戸”と繋がった。
庵の中に“受け皿”があったとすれば――」
ノアは目を伏せた。
「守護者の契約が、直接狙われています」
息が止まった。
胸の奥の“赤い印”が、微かに疼く。
私の中にも、黒い根があるというの?
「……どうすれば」
「一つだけ方法があります。
“守護者”が自分の契約を一度、切ること」
その言葉に、レオンが振り返った。
「待て。契約を切れば、彼女は――」
「力を失う。庵は守れない。でも、“喰われる”よりは早い」
ノアの声は冷静だった。
「選ぶのはあなたです、守護者」
沈黙が降りる。
火のはぜる音、遠くの泣き声。
私は膝をつき、手を胸に当てた。
“守る”という言葉が、静かに脈打っている。
これを手放せば、私はただの人に戻る。
けれど、このままでは庵も、彼らの記憶も、黒く塗り潰される。
「……レオン」
彼は拳を握り、俯いた。
「俺が守る。
だからお前は――切れ。
その代わり、戻ってこい。どんな形でもいい」
その言葉が、炎の中で灯火のように光った。
私は頷き、静かに目を閉じる。
掌を合わせ、指先に力を集める。
赤い契約の痕が光を放ち、皮膚の下で糸が解ける音がした。
痛みではなく、喪失の音。
“守護者”という名が、少しずつ私の中から剥がれていく。
庵の壁の赤い花が、ふっと白に戻った。
黒い根が揺れ、灰となって崩れる。
ノアが短杖を掲げ、術式を閉じる。
「……終わりました」
私は息を吐き、地面に手をついた。
指先に力が入らない。
レオンが支えてくれた。
「大丈夫だ」
その声が、遠くで響く。
――けれど。
足元の灰の中で、何かが蠢いた。
小さな、黒い線。
まるで“根”の切れ端。
ノアが即座に札を投げるが、線は燃え尽きる前に風に乗って消えた。
どこかへ、逃げた。
「……“根”は生きてる」
ノアの声が低く沈む。
「たぶん、次は“人の中”に入る」
「誰の?」
彼は答えなかった。
夜更け。
庵の残る棟に避難民たちを収容し、消火の煙がようやく途絶えたころ。
レオンは外壁の見張りを終え、私のもとに戻ってきた。
私はまだ力が戻らず、祭壇の傍で座っていた。
手のひらの契約痕は消えている。
不思議なほど静かだった。
「痛みは?」
「平気です。でも……何も聞こえない」
“音”が消えていた。
庵の鼓動も、風の色も、すべてが遠い。
まるで世界が少しだけ離れたように。
レオンは私の肩に外套をかけた。
「お前がいなくても、庵は立つ。
お前がいたから、庵は名を持った。
……それで十分だ」
「本当に?」
「俺が保証する」
その瞳に、嘘はなかった。
でも、胸の奥に微かな違和感。
何かが、そこに“潜んでいる”気がした。
ノアが扉の影から現れる。
「殿下、報告を。――捕虜の男が逃げました」
「なんだと?」
「拘束を解かれ、跡形もなく消失。
残っていた黒い灰が、すべて吹き飛んでいます」
レオンが息を呑む。
「“根”が、宿主を変えた」
ノアは私を見た。
「守護者、あなたの契約が切れた今、
“根”は次の“誓いの持ち主”を探すでしょう」
誓いの持ち主――。
私の視線が、レオンの手首に向かう。
そこに、微かに赤い筋が浮かんでいた。
「……レオン?」
彼は何も言わず、笑った。
「大丈夫だ。俺はまだ、俺だ」
けれどその笑みの奥で、花のように淡い赤が灯った。