第10話 噂の井戸
庵を出てから二刻。
山を下る街道は、朝の霧を吸って青白く光っていた。
遠くに、古びた石の井戸が見える。
巡礼や商隊が行き交う中継地――“噂の井戸”。
ここで語られた話は、山を越えて王都に届く。
人の声が水に溶け、風に乗って広がる。
ノアが「言葉の戦場」と呼んだのは、比喩ではなかった。
「まず、耳を取る」
ノアが小声で言う。
「話すより、聞くほうが早い。誰が“声を作っているか”を見極める」
私たちは庵の外套を外し、旅人の装いに変えていた。
荷車を押す小商人のふりをして、井戸の広場の端に腰を下ろす。
周囲では、洗濯をする女たち、休む隊商、剣士風の若者たち。
その中心で、ひときわ大きな声が響いていた。
「――聞いたか、“白花の庵”だとよ!」
粗い布の上着を着た男が、樽を叩きながら叫ぶ。
「不可侵の誓いだぁ? 笑わせる! 昨日も爆発があったって話だ!
庵に入ったら命が危ねぇ、誰がそんな場所に行くか!」
周囲がざわめき、数人が頷く。
「俺の従兄弟も言ってた。赤い花が咲いたんだろ? 呪いじゃねえか」
「守護者の女は王家の妾だとか」
「王太子の影に狙われてるって噂もあるぞ」
ノアは小さく息を吐いた。
「全部、“赤い花の噂”の派生です。短い言葉で怖がらせ、長い話で信じさせる」
「どうやって止めますか」
「“長い話”を上書きする。噂は“強い映像”に弱い」
彼は懐から小さな木札を取り出した。
庵の紋章――白い花の印が刻まれている。
「これを見せて、嘘の“映像”を塗り替えるんです。あなたが話す」
「私が……?」
「“守護者”の顔を知らない人が多い。名乗らずに、“目撃者”として話す。
庵の噂は恐怖で広がった。なら、希望で返す」
ノアは立ち上がり、静かに広場の片端へ歩く。
私も頷き、声の輪に近づいた。
「ねえ、その話……どこで聞いたの?」
男たちが振り向く。
目立たない旅装。
誰も“守護者”だとは思わない。
「兄貴の知り合いだ。庵の近くで見た奴が言ってた」
「そう。じゃあ、私も見たわ。昨日、庵で避難民を迎え入れてた」
「なに?」
私は木札を見せる。
光が当たると、白い花が淡く輝く。
「庵の花は、爆発で散らなかった。
子どもたちが花の匂いを嗅いで笑ってた。
あれが呪いなら、あんな優しい顔はできない」
広場に一瞬、静けさが落ちた。
井戸の水面が揺れ、太陽が反射する。
誰かが、小さく呟いた。
「……本当に?」
「ええ。庵の守護者は、刃じゃなく言葉で守る人よ」
ざわめきの中、別の声が混ざる。
「俺も聞いた。庵の守護者は、戦を止める誓いを立てたって」
「赤い花は、“血を流さない”誓いの証なんだろ?」
「そうだ、赤は“命”の色だ」
言葉が反転していく。
ノアが少し離れたところで腕を組み、目を細めていた。
“長い話”ができた。
それが“噂”を変える。
昼過ぎ。
井戸の喧騒が落ち着き、商人たちが荷をまとめ始める。
ノアは井戸の影に寄りかかり、静かに言った。
「悪くない。“赤い花=命の誓い”。
逆手に取って“裏切り”を“守り”に変えた。
……まるで王家の外交みたいですね」
「褒め言葉ですか」
「皮肉半分」
彼は微かに笑った。
「庵の名が風に乗るまで、あと二日。
でも、もう一つ噂があります。“買収された庵”」
「金の話?」
「はい。“献費”を貴族が横領していると流している者がいる。
帳簿を公開しても信じない連中です」
「どうすれば」
「“目に見える信用”を作る。庵の“第一寄進者”を選ぶんです」
ノアは懐から書簡を出した。
見慣れた封蝋――レオンの紋。
「殿下の命令です。“庵の献費を民から募る”」
「王子から?」
「はい。王家の資金を拒否し、庵を“民の庵”にする。
王が支えず、民が支える――それが最も堅い盾です」
風が吹き、井戸の水が波立った。
私は書簡を受け取り、胸の前で抱いた。
「……彼、笑ってましたか?」
ノアの眉が少し動いた。
「いい質問ですね。――笑ってました。
けれど、疲れていました。守ることに、慣れすぎて」
その言葉が胸に刺さった。
守る者は、いつか守られることを忘れてしまう。
私がそれを思い出させるために、ここにいるのかもしれない。
夕刻。
帰路につく前に、ノアが足を止めた。
「……聞こえますか」
井戸の奥から、水音に混じる囁き。
風ではない。
女の声。
――“白花は咲いた。だが、黒い根が伸びている”。
私の喉が固まる。
声は水の底から、誰かの意識を辿って上がってくるようだった。
「誰の声……?」
ノアの表情が硬い。
「“声の仕掛け”です。井戸に“噂”を吹き込む術。
言葉を水に乗せて、飲んだ者の夢に流す」
その仕掛けを使えば、いくらでも偽りを撒ける。
私たちは顔を見合わせた。
「庵に仕掛けた連中と同じです」
「つまり、“噂の発信源”はここ」
ノアが短剣を抜き、井戸の縁に沿って符を貼る。
「封印を張ります。――少し離れて」
私は頷き、目を閉じた。
井戸の底から、ざわざわと声が上がる。
嘲り、泣き、祈り。
混ざり合った言葉の奔流。
その中で、ひときわはっきりした声が浮かぶ。
――“王子は、花を裏切る”。
心臓が跳ねた。
レオンの名前を、知らない声が呼ぶ。
ノアの札が一斉に光り、井戸の水が弾けた。
白い蒸気が立ち上り、声が消える。
彼は額の汗を拭い、低く呟く。
「……一時的に封じました。だが、“声の源”は別にある」
「どこに?」
「“白花の庵”の中です。
外から噂を撒いても、庵の中に“受け皿”がなければ根付かない」
私は冷たい風を吸い込んだ。
庵の中に――“黒い根”。
箱の声の警告が、現実になりつつある。
夜。
庵へ戻る道を馬で進む。
ノアは沈黙を保ち、私は書簡を握りしめていた。
民の献費、王子の決断、噂の源――。
頭の中で音が絡み合う。
山の稜線に庵の灯が見えた。
白い煙が上がっている。
焚き火だ。
……違う。煙が濃い。
ノアが手綱を引いた。
「火だ。庵の西棟」
心臓が縮む。
私は馬の腹を蹴り、駆け出した。
風が頬を裂く。
庵の門前には避難民の群れ、兵の怒号、そして――燃える屋根。
レオンの姿が、煙の中に見えた。
剣を抜き、倒れた梁を支えている。
「セリーヌ!」
声が届いた。
私が駆け寄ると、炎が爆ぜて火の粉が散る。
赤い花の匂いがした。
煙ではない。
――庵の壁の花紋が、再び赤く染まっていた。