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第1話 奪われた夜

 ――婚約破棄を宣言された瞬間、空気が凍った。

 晩餐会の中央。煌めくシャンデリアの下で、王太子アレクシス殿下の声が響き渡る。


「これ以上、君とは結婚できない。君の行動は王家の品位を汚すものだ」


 視線が一斉に私へと注がれた。ざわめき、囁き、そして嘲り。

 体が硬直し、足先が床に縫い付けられたように動かない。

 誰かが私の名を呼んだ気がしたが、それも遠くの出来事のようだった。


「……どうして、ですか」

 唇が勝手に動いた。震える声。

 アレクシス殿下は冷たい笑みを浮かべ、隣に立つ金髪の令嬢の手を取る。


「おまえよりも、彼女のほうがふさわしい。リリアーナこそ、真の王妃に相応しい」


 歓声があがった。リリアーナが涙を浮かべて殿下の胸に顔を埋める。

 まるで劇の一幕だ。私だけが置き去りのまま、幕が下りていく。


 心臓が痛い。呼吸ができない。

 なのに、誰も助けてはくれない。

 幼いころから貴族としての振る舞いを叩き込まれてきた私は、膝をつくことも泣くことも許されなかった。

 ただ、静かに礼をして退場しようとした――そのときだった。


 扉が、音を立てて開いた。

 風が吹き抜ける。会場の灯が揺れる。

 その風の中に、一人の男が立っていた。


「……レオン殿下?」


 誰かが小さく名を呼んだ。

 隣国アルスタリアの第二王子、レオン・ヴァルディア。

 遠い国の王族であり、戦場で名を馳せた“蒼鷲の王子”だと聞く。

 だが、どうして彼が――?


 レオンは真っ直ぐに私の前まで歩み寄ると、迷いなく膝をついた。

 ざわめきが止まり、空気が変わる。

 その眼差しは、まるで氷を砕く炎のように真摯だった。


「そんな男はやめろ。――俺の妃になれ」


 誰も息をしていなかった。

 殿下の顔が青ざめ、リリアーナが小さく悲鳴を上げる。

 私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「な、何を言っているのですか、殿下!」

 アレクシスが叫ぶ。

 だが、レオンは一瞥もくれず、私の手を取った。

 その手は信じられないほど温かく、指先が震えた。


「君はこの国では罪人扱いかもしれない。だが、俺の国では違う。

 君の誠実さも、愚直なまでの真面目さも……俺はずっと見ていた」


「見ていた……?」

 そんなはずがない。会ったことなど、一度も――。


「会場を出よう。ここは君の居場所じゃない」


 そう言って、レオンは私の腰を引き寄せた。

 驚くほど自然な動作だった。

 彼の腕に抱かれると、周囲の視線もざわめきも、すべてが遠のいていく。


「離して! 私は……!」

 抗おうとする声が震えた。

 だが、体は言うことを聞かない。

 レオンの瞳があまりに真っすぐで、何も言い返せなかった。


「君は、もう十分耐えた。あんな連中に、これ以上頭を下げる必要はない」


 彼の声は低く、静かで、けれど不思議なほど優しかった。

 その瞬間、胸の奥に張り付いていた何かが、ぱたりと剥がれ落ちた気がした。


 会場の外へと連れ出され、夜の風が頬を打つ。

 月明かりが降り注ぐ中、白馬が一頭、待っていた。

 馬車ではなく、馬。まるで童話のように。


「王子、これは――!」

 従者が止める声を無視し、レオンは私を軽々と抱き上げた。

 思わず胸元を掴む。彼の香りが近い。鉄と花の混ざったような、戦場帰りの香り。


「どこへ行くのですか……?」

「俺の国へ。アルスタリアなら、誰も君を傷つけない」

「でも、そんな……!」


 言葉を飲み込む間に、馬は駆け出していた。

 風が髪を乱し、遠くで城の鐘が鳴る。

 それはまるで、何かの終わりと始まりを告げる音のようだった。


 ――この瞬間、私はすべてを失い、そしてすべてを奪われた。


 どれほど走っただろう。

 夜の街を抜け、森の小径を越え、やがて見慣れぬ湖畔へとたどり着いた。

 月が水面に浮かび、二人の影を重ねる。


「降りよう」

 レオンに手を取られ、地面に降り立つ。

 体の芯まで冷えていたのに、彼の手の温度だけが異様に鮮明だった。


「君に無理をさせたな」

「……なぜ、私を助けたのです?」

「助けた、か」

 レオンは苦笑する。その表情はどこか寂しげだった。


「君が誰にも庇われないのを見て、黙っていられなかった。

 あんな茶番を許せるほど、俺は器用じゃない」


「でも、あなたにとっては……外交問題になりかねません」

「構わない」

 即答だった。

 その一言の強さに、心臓が跳ねた。


「君を奪うためなら、戦争だって辞さない」

「そんな……」

「冗談だ」

 レオンは小さく笑い、私の髪に触れる。

 風が止まった。時間までもが静止したように感じた。


 彼の指が頬をなぞる。

 涙がそこに触れ、彼の手の甲を濡らした。

 気づけば、泣いていた。

 張り詰めていた糸が切れ、嗚咽が漏れる。


「泣いていい。泣くのも、君の自由だ」

「……もう、誰も信じられないと思っていました」

「それでも俺を信じろ、とは言わない。だが、信じてみたくなるくらいには、俺は本気だ」


 彼の声が胸に落ちる。

 まるで、壊れかけた心を優しく包むように。


「今夜だけでいい。全部忘れて、俺の国で眠れ」

「……あなたの国で?」

「ああ。朝が来たら、もう誰も君を“婚約破棄された女”なんて呼ばない」


 湖面に映る月が揺れた。

 その光の中で、私はようやく深く息を吸い込む。

 胸の痛みが、少しだけ薄らいだ。


 彼の背に乗り、再び馬が走り出す。

 夜明け前の風が頬を切る。

 城下の灯が遠ざかり、暗闇の向こうに、見知らぬ地の明かりが見えた。


 ――あの瞬間、確かに私は救われたのだ。

 けれど、その救いがやがて新たな運命の鎖になることを、この時の私はまだ知らなかった。


次回予告(第2話「王子の真意」)

彼の言葉は救いだったのか、それとも策略だったのか。

異国の城で目覚めた令嬢を待っていたのは、甘くも危うい微笑みだった――。

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