ギロがいる夜
由紀は、十三歳になったばかり。
クラスでは目立たず、教室の片隅で、まるで自分が背景の壁紙になったような気分で毎日を過ごしていた。
帰っても、家族はいつも忙しく、食卓では「今日どうだった?」という会話すら交わされない。
テレビの音が空気の代わりみたいに流れ、言葉を閉ざす時間が続く。
そんなある日。
夜中に目を覚ました由紀は、自分の机の上に何かがいることに気づいた。
でも、そこには、何も見えない。
‥なのに、確かに何かがいる気配だけがあった。
「誰‥?」
声に出してみた。
すると、ふわりと冷たくてやわらかな風が耳に触れたような感覚がして、かすかな声が返ってきた。
「ギロ、っていうんだ。君がぼくを呼んだんだよ」
目を凝らすと、ほんのわずかに空気がゆらいでいた。
そこには、小さな四足の動物のような輪郭、透明で、光をまとったような存在が、ちょこんと座っていた。
「僕、呼んでないよ‥」
「ううん。君、今日、ひとりで泣いてたよね。あれは、呼んでたんだよ。『誰か、ここにいて』って」
由紀は何も言えなくなった。
確かに、声には出していなかった。でも、心の中では、何度も何度も叫んでいたのだ。
「助けて」「誰か気づいて」「僕を見つけて」と。
それから、ギロは毎晩やって来た。
姿は透明のままで、光を反射したような尻尾だけが、ときどきゆらりと揺れた。
誰にも見えず、声も届かず、ギロは「孤独な人間にだけ見える獣」なのだという。
「僕、なんで生きてるんだろう‥」
ある夜、由紀がつぶやくと、ギロは首をかしげた。
「それを聞く人間、すごく多い。でもね‥生きてる理由って、あとからできるものだよ。理由が欲しいなら、ぼくが理由になってあげようか。『ギロがそばにいるから』って」
その言葉は、温かく確かに僕の胸に響いた。
日が経つにつれ、由紀はほんの少しだけ、変わっていった。
朝、顔を洗うとき、鏡を見られるようになった。
教室で、ノートを忘れた友達にそっと貸せた日もあった。
誰かに認められたわけじゃない。だけど、夜になれば、ギロが待っていてくれる。
由紀が涙をこぼしても、何も言わず、そっと足もとに寄り添ってくれる。
そのあたたかさだけで、「生きていてもいいのかもしれない」と思えた。
あれから、数ヶ月が過ぎていた。
由紀の暮らしは大きく変わったわけではない。
学校では相変わらず目立たないし、誰かに話しかけられることも多くはない。
でも、自分から声をかけられる日が、ほんの少しだけ増えた。
たとえば、忘れ物を拾ってあげたり、読書好きの子と同じ本を読んでみたり。
それは、些細なことだった。でも、確かな一歩だった。
夜。
ベッドに入ると、あの透けた尻尾が、ふわりと現れる。
「ギロ、今日も来たんだ」
「うん。でもね、たぶん、もうすぐ来れなくなるよ」
「え、どうして?」
「だって、君、最近、あんまり泣かない。夜中に目も覚まさないし、朝はちゃんと起きるようになった。『ぼくがいなくても、大丈夫かも』って思ってるでしょう?」
由紀は、息を呑んだ。
ギロがそばにいる夜は、どれだけ苦しくても安心だった。
だけど最近は、ひとりで布団にくるまりながらも、「今日をちゃんと終えられた」と思える日が増えていた。
「それって、さびしくないの?」
「さびしいよ。でも、それは悪いことじゃない。
君が孤独と仲良くなったってことだから」
ギロの声は、やわらかかった。
「ぼくは、消えるんじゃない。君の中で、透明なまま残ってるだけ。だから、君がふとしたときに孤独を感じたら、また思い出して」
「ぼくがいた夜のことを、思い出して。
それだけで、ぼくはもう十分」
それから数日後。
ギロは、来なくなった。
由紀は、泣かなかった。
ほんの少しだけ布団をきつく握って、静かに目を閉じた。
でも、確かに胸の奥に、あの透明なぬくもりが残っている気がした。
「ありがとう、ギロ。さよならじゃなくて、おやすみ」
由紀はこれからも生きていく。
完全に強くなったわけじゃない。孤独は、きっとこれからも寄り添ってくる。
でもそれは、怖いものじゃなくなった。
孤独は、ギロの姿をしたまま、由紀の一部になっていた。