第八話 『魔神具』
(二人は、なんとか外に出られたみたいね――さてここからは私一人の問題。まともに戦って勝てない事は分かりきっている。どうにかして、これ以上被害を出さずこの場を切り抜ける方法は…)
祈は、今自分が出来る限りの、ありとあらゆる可能性を思考する。
目の前にいる黒董 漆に一矢報いるとまではいかなくとも、この現状を切り抜ける方法を模索する。
「話は終わりだ。今話した事は、俺が生きてきた千年と少しのほんの一部に過ぎない。俺の原動力は"妬み"だ。完璧な存在である必要なんてない。ただ普通の人として生まれ普通に死にたかった。でも運命はそれを許さないばかりか、俺に試練を与えた。その試練の中で気付いたんだ――人類の醜悪さにな」
そう冷酷な口調で漆は放つ。
「そ、それを言うなら災禍の梯だって、自分がされた事を関係のない人間に対して行っているじゃな――」
「黙レッ!!!!!!!」
瞬間、空気がビリビリと振動する。
先程までの漆とは何かが違う。
漂うオーラから感じるのは、圧倒的な憎悪。怨讐。
「…話は終わりだ。久々に昔話をさせてくれて感謝する。君と話して改めて理解した。千年経とうとも人類の本質は何も変わっていない。いや、むしろ今が人類最悪の暗黒期だ――。あのイカレ科学者共のせいでな……」
漆は言い終わると、自らの瞳をゆっくりと閉じ、両手を広げ天を仰ぐ。
「供物は…そうだな。一本で十分か」
「catastrophe•Mox Jet.《カタストロフィ•モックスジェット》――」
グシャア――!
漆の右腕が、突如としてナニカに喰われたかの様に吹き飛ぶ。
それはもう乱雑に。
容赦なく。
夥しい程の、大量の血飛沫が辺りへと飛び散った。
「これは……代償魔術…!?」
祈に魔力はもう殆ど残されていない。
血脈紋は熱を帯び、ショート寸前の状態だ。
「…二百年振りだな、さぞ腹も減った頃だろう」
漆の声が響くと同時に、なんの変哲もない校庭のグラウンドが、突如として赫黑いカーペットが敷かれたように、一色に染まる。
「昏天黒地。暁に鳴く雷蛇の慟哭――」
轟く雷鳴。
校舎一体が黒一色にブラックボックスと化す。
その黒い箱は堅牢な檻のようだった。
外界との干渉を遮断する役割だけではなく、一度入ってしまったが最後。
その檻は対象を決して逃さず、事が終わるまで開く事はない。
「我が肉体を対価とし――この哀れなヒトへ災禍を齎さん――」
漆の閉じた両の瞳から一筋の血涙が流れる。
「…おかえり、レヴィアタン」
漆の声に呼応する様にソレは現れた。
欠けた右腕――その喪失を埋めるように、肩の断面から黒い鎖のようなものが顕現する。
鎖は生き物のようにうねり、空気を裂きながら一気に伸び上がる。
その先に現れたのは――雷を纏い、天を仰ぐように咆哮する異形の怪物。
蛇か、それとも龍か。
いや、そのどちらでもない。
その姿は見る者の本能に恐怖を刻み込む、形容しようのない、異形の怪物。
全長は校舎を軽く凌ぎ、闇を引き裂くようにその巨体をのたうたせている。
鱗の一枚一枚が剣山のような鋼の刃となって密集し、まるでこの世界そのものを喰らい尽くさんとする、災厄の化身。
邪龍•レヴィアタン――。
「これでも全力の六分の一なんだ。今日はこれで終わりにしよう。レヴィの一撃を受け切る事が出来れば、それは運命が君を味方したということ。…構えろ。君の全力を、見せてくれ」
祈は自身のポケットを確認する。
贖罪の藁人形はもう手元にない。
否、おそらくアレは、贖罪の藁人形程度の物で防ぎきる事のできる次元で無い事は、祈自身が理解していた。
辺りをもう一度見回す。
ブラックボックスと化したこの状況で、戦わず逃げるという選択肢は消えている。
時間は稼いだ。
ただあと少し間に合わなかった。
想定を上回る誤算。
災禍の梯とは以前にも相対した経験はあった。
ただこれまでとは違う。
完全に別種の怪物。
災禍の梯の災禍級である漆の前では、祈が今まで築いてきた魔力の研鑽など、まるで意味を成さないように。
「それでも……私はここで死ぬ訳にはいかない!」
ブチィ――――!!
血脈紋の一部が焼き切れる音が自身に伝わる。
「ぅぐっ……!!」
祈は顔をしかめ倒れかける。
本当は、とうの昔に立っているのもやっとの状況で、彼女は最後の力を振り絞り、鞘に収まっている小刀の様な呪具を取り出した。
その呪具は小刀の様なもので、長さは刃渡十五センチ程といったところ。
一見、果物ナイフを思わせるその刀身は、目の前の邪龍を相手取るには、あまりにも心許ない。
そんな小刀一つを前にして、漆はそれを卑下するわけでもなく、眉間に皺を寄せ、冷静に観察する。
「その刀に込められた魔力…妖刀の類だな。面白い」
祈は刀に魔力を込める。
「これは――私にはまだ使いこなすことが出来ない代物。でも…でも……やるしかない」
「応えて――"憎憑刈•青江"」
祈はそう言うと、自らの口元へ人差し指をあてがう。
ためらいは、なかった。
次の瞬間、自らの指を力強く噛む。
口内に広がった鉄の味と共に、鮮やかな赤が滴り落ちる。
その血が、小刀の刃へと触れた――その瞬間だった。
「ケケケケケケケケケケケケケケケケケッ――!!!!」
甲高く、耳をつんざくような不気味な笑い声が辺りにこだました。
誰の声かもわからない。
人間のものとは思えない。
刃から、紫檀色の妖気がゆらりと立ち昇る。
それは蛇のように蠢きながら祈の身体へと絡みつき、まるで彼女の内側の“ナニカ”を求めているかの様に、ゆっくりと浸透していく。
「んっ……くぅ……!」
刀から手を思わず離しそうになる程の、表しがたい苦痛。
祈は自らを奮い立たせ、もう一度深く握りしめる。
その思いに応えてか、その刀身はみるみるうちに肥大化し、突如として全長八十センチ程の刀剣へと姿を変える。
長刀というには少し短く、されどもその刀剣から溢れ出る妖気は普通のそれではない。
――かの者はこう呼んだ。
この世に四十四種存在する呪具の枠組みを遥かに超えた存在。
"魔神具"•其ノ捌―"憎憑刈•青江"。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙……っ!!!!」
祈の血脈紋は遂に限界を迎え、体表に模様となって姿を現す。
頭部からは左右大小不揃いな、青白く光輝く二対の角が突出した。
「ハハハハハハハハハ!やはり、それでこそ道間!貴様らの本質は呪いの血族。その魔怨の身に堕ちた姿こそ相応しい」
祈は今にも暴れ出しそうな刀を両手で深く握り構える。
その構えには、まるで命を賭して立ち向かう、武士のような覚悟が滲んでいた。
「やれ、レヴィアタン」
漆の声に呼応する様に、邪龍は標的へと狙いを定める。
「灰燼と化せ――"墓送りの死罪線"!」
漆の掛け声とともに、邪竜は大きく口を開き、内部に凝縮された高密度のエネルギーを一気に解き放った。
それは、あらゆる物質を溶かし尽くすほどの熱を持つ――温度にして六十万度の灼熱光線。
その一閃は雷よりも速く、肉眼で捉えることなど不可能だった。
音が届くころにはすでに、標的の存在は跡形もなく消え失せている。
「憎憑刈•青江、私の命、その四分の一を貴方に捧げる――。だからお願い、レヴィアタンと漆を繋げるあの鎖を断ち切って!」
墓送りの死罪線が放たれる前に、祈は静かに、手にした妖刀へと言葉を語りかける。
それに応えるように、彼女の頭部から突き出た二対の角が淡く脈動し、そこから濃密な呪力が溢れ出した。
奔流のごときエネルギーが全身を駆け抜け、刀身へと注ぎ込まれてゆく。
刀が一際眩い輝きを放った、その刹那――祈は全身全霊を込めて、その一撃を解き放った。
「悪鬼怪怪•"九字•幽籠斬"!!」
ドゴォオオオオオオオオオオオン――――!!!!!!!
強烈な閃光。
赫と蒼、そして黒と白の衝突。
二人が起こした絶大なエネルギーの衝突は、人体が為せる領域を当に超越しており、そこに一介の人間が介入する余地などない。
轟音ののち、静寂。
辺りには土煙と火の粉が舞っており、相手の姿は視認できない。
祈は全魔力を使い果たし、そのまま地面へと倒れこむ。
血脈紋は閉じ、先ほどまでの角も消えている。
生命力の四分の一。それは紛れもなく寿命を削る行為。
本来扱うことのできない魔神具を行使した代償。
「クックックックック……面白かったよ君は。今代の道間は傑作だな。これだから人間は、最低で、最劣で、最酷で、最惨で、最悪だが、面白い」
漆とレヴィアタンを繋ぐ鎖は、祈の一撃により完全に断絶された――。
契約の鎖が消えた事によって、レヴィアタンは再び、現世から隔離世へと回帰する。
「久しぶりの現世だったのにごめんね。次はもっと"楽しませてあげる"から。なに、今度はこんなに待たせないよ。レヴィが思ってるよりずっとはやく、その時は訪れる。だから今は、おやすみ…」
レヴィアタンの残滓が掻き消え、立ちこめていた土煙が静かに晴れていく。
その向こうに見えたのは――あまりにあり得ない光景だった。
「……お前、なぜここにいる……?」
漆の声がかすれた。
そこに立っていたのは祈ではない。
視線の先にいたのは、この場所には到底似つかわしくない、場違いも甚だしいほどの人物。
彩瀬 結生の姿がそこにあった――。