4 春虎。狼狽える
黄金色に輝く田の畔には刈り取りのためのおだ脚が重ねられていて、彼岸花が押しつぶされながらも真っ赤な花を空に向けていた。
先を行く竹原城の使者が街道をはずれ、川沿いの野道に馬を進めた。
稲刈りの時期だけは沼の周りにびっしりと生えた葦を刈り畦道を造る。
この時期だけの近道である。
会議を三日後に控え、春虎は叔父義国に呼び出された。しかも、家臣を連れず来いという。
春虎は何事かと思案したが、後見家老の叔父の命令に従った。
侍烏帽子に素襖を着て腰に太刀を帯びたのは、叔父とはいえ大掾家家老の呼び出しだからだ。
いつもの小汚い格好では、話の前に嫌というほど説教を浴びせられるからだった。
竹原城は府中城より二里半(約十キロ)ほど北東にあり園部氏や江戸氏の侵入を防ぐための城である。
園部川に突き出た舌状台地の突端に築かれた竹原城は、台地より濠を穿ち切り離し、削り取った土を掻き揚げ円形にしたもので、東西百五十六間(約二百八十メートル)南北百三十六間(約二百四十五メートル)、高さは九間(約十六メートル)あり、頂上に一の郭を置き、北側の四間低い所をぐるりと削り、二の郭、三の郭が並び建っている。
四方を水堀や沼地が取り囲んでおり、入り口は北側の一か所で堀を渡り大手門を潜ると上り坂になり、右が二の郭、左に三の郭、そのまま進むと一の郭の土手にぶち当たり、左に一の館に続く登り道となっている。
築城当初は南側の川の近くに大手門があり三の郭の横を通り、真っ直ぐに一の郭に登れたが、度重なる園部氏とのいくさで大手門は北側に移され今は土手となっていて、川に架かる橋にのみ、大手橋と名をとどめているだけだった。
竹原城は堅固な城ではない。
南側こそ川や深田、沼に守られているが、南側は、水堀はあるものの、街道からは地続きで敵の侵入を防ぐのは容易ではない地形なのだ。
切り離した元の台地に砦を造り防御としているが役に立つのかは不明である。
義国がなぜここに城を築いたかといえば、水運に目を付けたためだった。
下流は一里(約四キロ)ほどで香澄の海に達するし、上流は一里半程で府中の北の外れに達する。
河口の園部氏への楔としては重要なの地であった。
赤土むき出しの南側の土手を横目に迂回しながら大手門に近づいた時、二人の女人が目に入った。
鮮やかな小袖姿、手には秋草の入った籠を下げている。
義国の三女綾姫だ。
綾姫は春虎に気づき駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。将監様」
「おお、綾姫。ますます御綺麗になられましたな」
春虎は馬を降り挨拶を交わしたが、どうしても離れた場所に立っている侍女が気になった。
美しい娘だ。見覚えがある。
ジロジロ見る積りはなかったが目が離せなかった。
「虎兄ぃ様。お久しぶりです」
侍女がぽつりと呟いた。
春虎を虎兄ぃと呼ぶのは清幹ともう一人しかいない。
「ややっ、お前、お雪か⁉」
春虎は唖然とした。
竹原城に身を寄せていた時、子分のように連れまわし蝦や沙魚を獲っては焼いて食っていた頃の雪とは似ても似つかない姿だ。
雪は恥じらいながら笑顔を見せた。
父は府中の西の領主であったが、八歳の時、佐竹に攻められ落城し父親は自刃した。
母親は大叔母にあたる義国の正妻を頼り落ちのび身を寄せていたが、春虎が竹原城から外城に移った一年後、一族に縁づき母親共々竹原城を去ったのだ。
「なぜお雪がおる。母御も一緒か」
雪を連れ廻して何度も叱られた覚えがある。
七年前の事とはいえ少し気まずい。
「いえ。母は二年程前に身罷りました」
春虎は知らなかった。
叔父から聞かされた覚えもない。
「すまぬ。知らなかった。大変であったな。それで竹原に来ているのか」
「いいえ、伯母上に養女にしていただきました。もう、一年になります」
綾姫は側室の子で正室とは血の繋がりはない。
血の繋がりある雪を側に置きたいと思ったのだろうか。
雪としても母の嫁ぎ先よりは、大伯母の元の方が気兼ねはしないだろうが、それにしても、叔父はなぜ言わなかったのだろう。
「もしや、嫁ぐのか?」
雪の母親の再婚相手は、一族とはいえ百姓の名主と聞いていた。
大掾家一族の後見家老の養女ともなれば箔がつく。
身分の高い武士に嫁がせるため養女にしたのかも知れない。
「いいえ、その様な話はありませぬ」
美しい笑顔を浮かべる雪が、どうしても同人とは思えない。
試してみるか。── 春虎は右手を油断なく構えた。
「お雪もよき女子になったな。なかなかに身が入った。今宵は部屋に忍んでいこうかな」
指をワキワキ動かしながら雪の胸を見る。
容赦ない握り拳が顔面に飛んでくはずだ。
「まあっ」
雪は走って綾姫の元に戻ると振り向きざまあかんべをした。
がっかりした。
春虎の知る雪は、ちょっとでもからかうものなら、躊躇なく鉄拳が飛んできたものだった。
それが普通の女子になってしまった。しかも美しく成長している。
喜ばしいことだが、思い出が無くなったようで寂しかった。
春虎は肩を落とし、馬を門番に預け大手門を潜った。
竹原城の広間には義国が、ただ一人仏頂面で座っていた。
障子も襖も開け放たれているのは、盗み聞きを警戒しているためで、重要な話のときは大概そうしていた。
「足労をかける。これは御屋形さまも兄上も承知していることなのだ」
挨拶早々、辺りを見廻し義国は小声で、
「徳川大納言さまのところに行ってくれぬか」
と、いった。
「徳川大納言。なるほど」
春虎は瞬時に理解した。
徳川大納言家康は小田原征伐で、自領の三河、遠江、駿河、甲斐、信濃合わせて百十九万石から相模、伊豆、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸、合わせて二百五十石に国替えとなった。
墳墓の地を取り上げ、征伐したばかりの北条の領地に徳川を追いやったのだ。
しかも、常陸の殆どは佐竹の領地となり、家康の領地というのも土浦の十万石だけで、それも秀吉の養子となった結城秀康に与えられたものである。
徳川は西に進むには北の佐竹が邪魔になる。
佐竹を足止めするのには、結城秀康だけでは心もとないだろう。
わずか二万石程度の大掾家でも常陸の名家となれば利用価値は高い。
味方につけて損はないはずだ。
佐竹臣下を試みても、拒否されたときのために徳川の後ろ盾を得ておく。
実に上手い手だ。
「受けたまった。して、誰のもとに参ればよろしいのか」
徳川は鎌倉と下総の間の江戸という地に居城を築いている。
知らぬ土地ではあるが下総の先なら不安はない。
「つ、伝手は、ない」
「へっ⁉」
きまり悪そうに鬢を掻く義国を虎春は凝視した。
「徳川に知り合いなどおらぬ。佐竹の手前、表立って動くことも出来ぬのだ」
春虎は呆れた。
伝手もなく、極秘に八カ国の太守に会えと言うのか。
「わたしには無理です。他の者を行かせてください」
おそらく常慶叔父が言い出したことだろう。
知恵はすごいが現実と乖離している。
「大掾の一族でなければ徳川は信用しまい。お前意外におらぬのだ。頼む」
義国が春虎に頭を下げることなど滅多にある事ではない。
世話になった叔父の役に立ちたいと思うのだが、どう考えても無茶な話だ。
「おんつぁま。いくらなんでもそったらこと、無理だっぺよ」
春虎の口から溜息と共に言葉が漏れだした。
「それよ! それ!」
義国は扇子でぴしりと膝を叩いた。
「その訛だ。江戸に潜り込んでも常陸の百姓で十分押し通せる」
春虎は言葉を失った。
興奮するとつい百姓のような言葉使いになる。
五年間、村で百姓相手に育ったからだろう。
それが裏目に出ようとは。
結局春虎は、頷いてしまった。
どうにでもなれと諦めた。
「おお、受けてくれるか。あとのことはワシが引き受けた。安心しろ」
義国は満面の笑顔で立ちあがり奥に入って行った。
広間に取り残された春虎は呆然と南の空を仰ぎ見た。
「江戸‥‥ はぁ」
しばらくして義国は僧侶を連れ戻ってきた。
「武蔵府中に行かれる慶岳どのだ。さっ、そなたはこれに着替えろ」
若い僧侶は畏まり頭を下げた。
やられた。 ──
叔父常慶の寺の僧侶だ。
既に否応なしに段取りは出来ていたのだ。
春虎は用意された小袖と四幅袴に着替え脚絆を巻いた。
腰には懐剣が一本。僧侶の従者に化けるのだ。
「叔父上、徳川大納言が、佐竹と意を通じていたら、わたしはどうなるのでしょう?」
家康に二心が無く、本当に豊臣に従属していたらどうなる。
春虎は胸によぎる不安を吐き出した。
「そ、その時は‥‥ あ、諦めてよい。隙を見て逃げ出せ」
叔父の返答は、かなりの間があった。
恐らくその様な事は想定すらしていないのだ。
春虎は愚痴りたいのを我慢した。
その日の内に竹原城を出された春虎は、四目の昼前に武蔵府中の寺に着いた。
同行した慶岳が旅慣れており、道々の寺に宿泊して大した苦労はしなかった。
「近在の村よりも手間取りに行くものが多い。名主に話は通してあります」
すでに住職は春虎を人足として働けるよう手配をしていていた。
翌朝、春虎は村人の一団と共に江戸に向かうことになった。