33 高義。仕える
香澄の海に佐竹の軍船は無く、労せず対岸の土浦領に逃げ込むことが出来た。
高義は旧故の寺を頼り、そこに逃げ込んだ。
土浦は結城秀康の新領で佐竹もおいそれと手は出せない。
皮肉なもので、若い漁師に投げかけた言葉をそのまま自分が実践していたのだ。
半年も経つと状況が分かってきた。
太田に行った南方三十三館衆は全て暗殺されたのである。
祝いと称した席で斬り殺されたのだ。
島崎定安及び嫡男徳一丸、鹿島清秀と嫡男、烟田通幹、玉造重幹、小高清定、手賀幹高、札幹繁、相賀詮秀、武田信房、島並幹家、中居秀幹、沼里新左エ門。──
家臣ごと無残に殺されていた。
中には果敢に立ち向かい、囲みを突破して山に逃げ込んだものもいるらしいが、慣れぬ地のため捕まり首を刎ねられた。
そして、領主不在の南方三十三館を佐竹は襲撃したのだ。
城は燃やされ多くの留守居の家臣が殺された。
怖ろしいのは、この襲撃が南方衆の暗殺より先に行われていた事である。
太田に入った島崎らは決して生きて出られなかったのだ。
高義は鹿島に家人を潜伏させていたため、佐竹襲撃の日時を把握している。
暗殺は二月九日、襲撃は八日の昼前なのだ。
用意周到の殲滅だった。
高義と同様に、病と偽り太田に行かなかった南方衆数人いたが、佐竹に領地を奪われ流浪している。
幸いなことに高義は財産を持ち出すことができた。
領民を放り出して真っ先に逃げ出したのだから戻ることはできないが、生活の苦労はない。
ただ、いつまでも寺に厄介になっているのが心苦しかった。
高義の憂いを汲み取ったのか、ただの厄介払いか、寺の住職が結城家への仕官を打診してきた。
土浦領四万石は、ぐるり四方を佐竹領に囲まれた飛び地であり、結城より十里(約四十キロ)も離れていた。
佐竹の影響を受けやすい地のため、高義のような土地を良く知る武士を欲しがっていたらしい。
禄は四十石。二十貫程度の微禄だった。
南方三十三館の名を隠していたから、陪臣は当然の事である、。
召し抱えられただけ有難かった。
新領地のため仕事は多忙を極めた。
高義は勘定方にもかかわらず、検地や仕法の整備にまで手伝わされた。
中でも香澄の海の海運事業は、代官さえ頭を下げ聞きに来るというほど頼りにされた。
そのせいだろう。二年と経たないの内に禄も八十石になり役も付いた。
城下に屋敷も賜り、家人らもそのまま家士として召し抱えた。
渇々の内情であったが充実した日々を送っていた。
三年目、高義は思わぬ栄達を受けた。
直臣に取り立てられ三百石を加増されることになったのだ。
どうやら、高義が南方三十三館衆というのが、御屋形様の耳に入り名家を側に置きたいと思ったためで、結城に移すことが目的のようだ。
比べるのもおこがましいが、滅びた武田や北条の家臣を抱えるのが徳川の大名の中で流行っていた。
結城秀康も多分それに感化されたのだろう。
土浦を離れるにあたって、どうしても気になる事があった。
高浜の入り江で出会った若い漁師のことだ。
土浦には大掾や薗部に仕えていた者がいるにはいた。
しかし、その者らは口を噤み、けっして旧家のことは話さなかった。
まあ、高義も出自を隠していたのだから気持ちはわからなくもない。
聞きそびれる内に土浦を離れなければならなくなった。
(一言礼を言いたいものだ。あの言葉がなかったらワシも家人らもこの世にいなかった)
常陸に戻れるかどうかも解らない転居である。
高義は家士を使い漁師を探させた。
家士が二年前、大掾の生き残りが竹原城奪回に向け兵を募ったという話を拾ってきた。
大掾討伐の一年後だ。
逃げた後、兵を挙げたというなら丁度合う。
「なんでも、竹原四郎左衛門という若い領主だそうで。はい」
竹原四郎左衛門は高義も知っていた。
大掾家家老。四十を過ぎた豪勇の武者だ。
「竹原なる者は壮年の武者だ。まあ、いい。そこに若い武者がいたのか」
「いえ、まだ元服間もない若武者と聞きましたが。それに家臣に斬り殺されたそうです。斬った者が若いかどうかは解りませぬ」
家士は若武者だと言い切るが、高義が知る竹原四郎左衛門とは違うようだ。
名を間違えて伝わったのか、騙り者なのだろう。
いずれにしても漁師の男と関連はないと思った。
結局、大掾の話しはこの一件だけで、これはと思う話を聞いてきた者は誰もいなかった。
よくよく考えれば、名家の武士だと勝手に思い込んだだけで、どこにでもいる地侍だったのかもしれない。
気品ある顔立ちと見て取ったが、十日も佐竹の山出し足軽の汚い髭面ばかり見ていれば、商家の番頭でさえ貴人に見えただろう。
高義は一族郎党を引き連れ土浦を発った。




