ご令嬢たちの憧れの的の侯爵令息様が、なぜかめちゃくちゃどもりながら真っ赤な顔で私に話しかけてきます
婚約破棄された。
婚約破棄されてしまった。
もう十六歳なのに。七年間も婚約してたのに。
彼との……アリソン伯爵家嫡男、スチュアート様との婚約関係は、うちの命綱でもあったのに。
週末突然、彼は老朽した我がセレント男爵家を訪れ、私の部屋でサラリとこう告げた。
『すまないね、シャーリーン。キャンディスがどうしても僕と結婚したいと言うものだからさ……。悩んだ末に両親に相談したら、君との婚約を白紙に戻して、コーリー子爵家との縁談を進めようと言ってくれたんだ。キャンディスがね、僕じゃないとダメだって言うんだよ。あんなに引く手数多の、社交界の華がだよ? 信じられないよね。僕も最初は、何かの間違いかなって。でもさ、キャンディスの僕への情熱は本物なんだよ。結婚してくれないなら死ぬなんて言うんだ。あの大きな瞳に涙を浮かべてさ。へへ。可愛い』
スチュアート様はまるで惚気話でもしに来たかのようなだらしない顔でそう言うと、困ったなーといった具合に自分の頭をポリポリと掻いたのだった。
『だからごめんね、シャーリーン。あ、セレント男爵領との取り引きの一部は続けてもいいって父も言っていたから、まぁ、互いの家にとって悪くない解決方法を見つけてくれると思うよ。……じゃ、また来週学園でね』
最後まで一方的に身勝手なことを言いながら、ただただ呆然とする私を置き去りにして、スチュアート様はデレデレしながら帰っていったのだった。
(……どうしよう。そこそこ裕福で領地経営も順調なアリソン伯爵家とのご縁は、貧乏なうちにとって本当に唯一の命綱だったのよ。このままじゃ、弟や妹たちまで食うに困る生活を強いられることになるかもしれないわ。学園入学も難しいだろうし、まともな縁談も結べるかどうか……。いや、その前に、私も退学しなきゃじゃないの……?)
狭い領地はただでさえ不作が続いており、その上バカ正直な父は商売下手で、いつか自力でこの苦しい生活から脱却できる見込みは、今のところその兆しもない。
あの日以来まだ呆然としたままの私は、翌週、半ば無意識に身支度を整え、学園に登校し、先のことを頭の中でグルグルと考えながら廊下を歩いていた。周囲の生徒たちの声が、時折耳に飛び込んでくる。
「ほら、シャーリーン・セレント男爵令嬢よ。婚約破棄されたんですって。アリソン伯爵令息から……」
「ええ、聞いたわ。あのどなたにも愛想を振りまいているキャンディス・コーリー子爵令嬢と、新たに婚約なさるそうよ。お可哀想にね。シャーリーンさんのご実家って、とても貧しいって聞いたわ」
「うちの母も言っていたわ。年々追い詰められていっているみたいね。そりゃアリソン伯爵家も、自分のところと同じくらい裕福な家と縁を結んだ方が利があるとは思うけれど……」
「退学するのかしら」
「学費も厳しいわよね、きっと」
……社交界、おそるべし。すでに生徒全員が知っているんじゃないかと思うほど、歩いているだけであちこちから私に対する同情の声、好奇の視線がビシバシと届く。げんなりするくらいだ。
その時。廊下の向こう側から、しっかりと腕を絡めて互いに顔を近付け、蕩けたような表情でイチャイチャしながら歩いてくるスチュアート様と、キャンディス・コーリー子爵令嬢の姿を見つけた。
(……最悪だわ。最っ悪。何なの? 週末に婚約を破棄されたばかりの私の立場とか、気持ちとか、欠片ほども考えてくださらないわけ……??)
案の定、周囲のご令嬢方が色めき立った。
「見て! ほら、アリソン伯爵令息とキャンディスさんよ!」
「すれ違うわ! シャーリーンさんとすれ違うわよ」
「やだぁ、可哀想。セレント男爵令嬢、なんて惨めなのかしら……」
もはやただの余興だ。見物客と化した令嬢たちが一斉に私のことを見る。
だが肝心のスチュアート様は、私の存在にまるっきり気付きもせず、隣のキャンディス嬢のことだけを見つめながらスーッと通り過ぎていったのだった。学園一の美貌と謳われる華やかな容姿のキャンディス嬢は、ほんの一瞬チラリと私を見たけれど、すぐに目を逸らし、スチュアート様と見つめ合いながらキャッキャとはしゃいで行ってしまった。
「ねぇ! 気付かれもしなかったわよ、シャーリーンさん」
「嘘でしょう。いくらあの方が地味だからって……」
「仕方ないわよ。キャンディスさんはピンクブロンドに空色の瞳の華やかな美女、対してシャーリーンさんは……」
はいはい。対して私はよくある普通の栗色の髪に栗色の瞳の、パッとしない平凡顔ですよ。すみませんね地味で。
そんな無数の目とヒソヒソ声の中を、魂の抜け殻のようになって歩いていると、中庭辺りにいつも見かける華やかな集団がいることに気付いた。
私のことをヒソヒソしている下位貴族のご令嬢方とは雰囲気の違う、気品漂う美しい高位貴族のご令嬢方。
髪の毛の艶も、身に着けるものの高価さも段違いな彼女たちの集団の中央には、おそらく話題のあの人がいるのだろう。
でも私には何の関係もない話だ。そして興味もない。
そんなことより、どうしよう。これからどうしよう。私の頭にあるのはそれだけだった。
(でもとにかく、ひとまずは教室に向かわなくちゃね……)
ぼんやりと視線を落としたまま、私は足を止めることなく廊下を進み、ただこれからのことだけを考えていた。
「…………あ……あの……っ」
(どっちにしろ、もう卒業までここに通うことは無理だわ。こうなった以上覚悟を決めて、一刻も早く退学の手続きをしなくては……)
「たっ、……大変、し、失礼いたしますがっ、そ、その……」
(お父様やお母様は気を遣ってくれているけれど、ちゃんと私の方から退学を言い出さなきゃね。そして私も働き手の一人として、何かできる仕事をやらなくちゃ……)
「す、す……すみ、すみま」
(何もせず修道院に入るよりも、こうなったらどこか、大店の経営者の後妻とか……、貴族にこだわらなければ、私をもらってもいいと言ってくれる人がいるかもしれないわ。一応、若さと健康だけはあるし。とにかくセレント男爵家にとって少しでも利になる縁談を、誰かに見繕ってもらって……)
「シ、シャーリーン・セレント男爵令嬢!」
(……。……ん?)
ひたすら自分の世界に没入していた私は、ふと、自分の名を呼ばれた気がして顔を上げた。……誰もいない。
気のせいだったのかな? と思って後ろを振り返ると、すごく近い距離に大きな男性が立っていた。その人は振り返った私と目が合った途端、ビクッ! と大きく肩を揺らして顔を真っ赤に染めた。
(誰かしら、この方。ものすごくまぶしい……)
見上げるほど高い身長。たくましい肩幅。陽光を浴びてキラキラと輝く繊細な金髪に、エメラルドのような美しい瞳。スッと通った鼻梁に、キメの細かい肌。後光が差すほどに整った見目の男性が、自分を見上げる私の顔を凝視し、その綺麗な唇の端をフルフルと震わせている。
「……すみません。今、私のことをお呼びになりました?」
念のため私がそう尋ねると、男性は再びビクゥッ! と大きく肩を跳ねさせた。
「は、はいっ。ええ。よ、呼び、ました。あの……も、もし、よろしければ……っ! そ、その!」
「……?」
……一体何が言いたいのだろう。どもりすぎていてよく分からない。
小首を傾げて注意深く彼の様子を伺ってみる。……よく見ると、同じ制服を着ている。学生だろうか。
私がそのことに気付いた時、彼は耳まで真っ赤にして額にうっすら汗を浮かべ、ますます混乱した様子を見せていた。
「……あの、大丈夫ですか? 具合でも悪いんですの?」
「っ!? いっ! いえっ! ちち、違いますっ。す、すみません……っ! き、緊張してしまいまして……っ」
(……何に緊張しているのかしら)
全く意味が分からない。けれど、美男子はまだ何か話したそうにしているので、立ち去るわけにもいかない。根気強く言葉の続きを待っていると、彼はようやく自分の名を名乗った。
「お、俺は、ククククリフトン・ローダムと言います! ローダム侯爵家の息子です。次男です」
ククククリフトン。
たぶんクリフトン・ローダムと言ったのだろう。それがこの美男子の名前か。
……ん?
(クリフトン・ローダム……?)
あれ。それってもしかして……。
「騎士科のローダム侯爵令息様ですかっ? あの有名な!」
「ゆっ、有名……かどうかは分かりませんが、は、はい。そうです。その騎士科の、ローダムで、間違いあ、ありません。セレント男爵令嬢」
その人の名ならよく知っている。毎日毎日、こっちの耳にタコができるほど学園中のご令嬢たちが噂話をしているプリンス様だからだ。私の友人たちも何かにつけては“騎士科のクリフトン様”のことばかり話している。学園一のモテモテご令息で、いつも高位貴族家の美しいご令嬢たちに囲まれている、雲の上の殿方だ。近くで見るのは初めてのことだった。
さっきまであそこの集団の真ん中に、きっといたはず……。
そう思って、中庭の辺りに視線を送ると。
そこには高位貴族家の美女軍団が、信じられないといった表情でこちらを凝視していたのだった。……どうやらこの人はあの中心から抜け出して、私に声をかけてきたらしい。なぜ。
あ然とする美女たちを、私もあ然と見返していると、目の前のクリフトン・ローダム侯爵令息様が、相変わらずものすごくどもりながら私に言った。
「たっ! 大変、不躾ではございますが、セレント男爵令嬢! その……っ、あ、あ、あなた様が、こ、婚約を破棄されたと伺いまして……! よければ、その、き、今日、ふた、ふたり、……二人で、お茶でもいかがでしょうかっ!!」
「……。……はい?」
◇ ◇ ◇
(……なぜ、こんなことに……?)
その日の放課後。私はどもりまくりの美男子の気迫に押され、本当に彼と二人でカフェに来てしまった。
あの後学園は、とんでもない騒ぎになった。ローダム侯爵令息様の声が大きかったから、周りでこちらの様子を伺っていた生徒たち全員に、彼から誘われるところを見られ、聞かれてしまった。下位貴族家のご令嬢たちはキャアキャア騒ぎながら「もう次の人よ! 婚約破棄されたばかりなのに、もう次の人からアプローチされているわ!」「しかもあの騎士科のクリフトン様よ!」「隅に置けないわねシャーリーンさんったら!」と黄色い声を上げているし、遠巻きにこちらを見ていた高位貴族家のご令嬢方は、凍てつく空気をその身にまとい、私の心臓を凍りつかせる勢いで睨んできていた。
(……そして、この人は何がしたいんだろうか)
お、お願いします! お願いします! と何度も大きな声で言われたものだから、つい「分かりました」と答えてしまったけれど、いざこうして学園を出てカフェに来てみると、向かいに座った美男子は一向に話をしようとはしない。ただ私と目が合うと露骨に動揺し、忙しなく目を泳がせ、真っ赤な顔で額の汗を拭っている。
……こんな完璧な美男子が、私ごときを相手に何をそんなに動揺しているのだろうか。何かよほど言いづらい用事でも……?
どうしようかな、と困っていると、店員さんがお待たせしましたと声をかけながら、私が頼んでいたミルクティーとタルトを運んできてくれた。彼もミルクティーだけ注文していだ。「え、遠慮なく何でも頼んでください」とのお言葉に甘えて、厚かましくもフルーツたっぷりのタルトまで頼んでしまった。目の前に置かれた素敵なタルトに、思わず心が浮き立つ。妹たちの分も持って帰ってあげたいけれど、目玉が飛び出すような金額だったし、きょうだいの分もいいですか? とはいくら何でもこの人には頼めない。それくらいの常識はある。
「……」
「……。あの」
「っ!? は、はいっ!!」
「食べてもいいですか?」
「っ!! も、もちろんですっ! すみません、ど、どうぞっ」
「……ありがとうございます。いただきます」
何も言ってくれないから、ついに自分から聞いてしまった。だってあまりにも美味しそうなんだもの。早く食べたかったのだ。
私は本当に遠慮なく、手に取ったフォークをタルトに入れ、口に運んだ。
(っ! お……美味しい……っ!)
サクサクのタルト生地と甘くてふわふわの生クリーム、そして瑞々しいフルーツたちの酸味と甘味が口の中いっぱいに広がって、私は夢見心地になった。そのまま半分くらい夢中で食べ、ふと、目の前のローダム侯爵令息様の存在を思い出す。
(やばっ。今完全に彼の存在を忘れちゃってた)
慌ててパッと顔を上げると、彼は美しいエメラルドの瞳をキラキラと輝かせ、私のことをジーッと見つめていた。まるで食べる私の姿に感動しているかのように。そして目が合うと、彼はまたビクッと肩を跳ねさせ、私から視線を逸らし露骨に動揺しはじめた。
「……」
私は静かにフォークを置いた。
「あの、ローダム侯爵令息様」
「っ! は、はいっ」
「……これは、一体何なのでしょうか」
「……こ、これとは……?」
おそるおそるといった雰囲気でそう問い返してくるローダム侯爵令息様に、私はミルクティーを一口飲んでから再び尋ねる。
「このお茶会です。あなた様と私は同学年ですが、入学以来これまで、ただの一度も親しくお話ししたことはございません」
「……」
「それなのに、なぜ、このように突然のお誘いを……? 思わず承諾してしまいましたが、不思議でなりません。ローダム侯爵令息様はいつも学園で、気品漂う美しいご令嬢方に囲まれていらっしゃいます。引き替え私は、ただの貧しい男爵家の長女です。……ご存知ですわよね?」
「……」
「何の接点も共通点もない私を、どうやら婚約破棄されたらしいというだけで、なぜ急に二人きりのお茶会などにお誘いくださいましたの? 皆さん驚いていらっしゃいました。あなた様と私とでは、あまりに釣り合いがとれませんし……」
彼が黙って俯いているので、私はひたすら自分の疑問を彼に投げた。
するとローダム侯爵令息様が、ごく小さな声で何かを言った。
「……とう、に」
「? はい? 何か仰いましたか?」
「……ほ、本当に、……俺のこと、全然分かりませんか……?」
(……ん?)
「いえ、ですから存じ上げておりますわ。クリフトン・ローダム侯爵令息様です。騎士科のエリートで、ローダム侯爵家の次男で、学園のアイドル。ご令嬢たちの憧れの的」
「ち! 違うっ。そうではなくて!」
彼は真っ赤な顔を上げ、真正面から私を見据えると、唇の端を少しプルプルと震わせながら衝撃的な言葉を放った。
「お、俺とあなたは、その昔、将来を誓い合った仲です!」
「……。……はい??」
彼の言葉があまりにも予想外だったため、一瞬頭が真っ白になった。この人は一体何を言っているのか。こんな美男子と将来を誓い合ったことなど、私にはない。絶対にない。そんな美しい思い出があれば、若い女は絶対に忘れたりしないものなのだ。
その恐ろしいほどに整った顔面をポカーンと見つめていると、ローダム侯爵令息様はまた額の汗を拭い、しどろもどろになりながら私に説明を始めた。
「お、俺は、幼い頃、よく西方の別荘に、家族と避暑に行っておりました。……あ、あなたも、ご家族で、うちの近くの別荘に、いらして……いました」
「……別荘……」
そう言われて、私はぼんやりと思い出した。別荘。たしかに、うちにも昔は別荘が一軒だけあった。まだセレント男爵家が羽振りが良かった頃の話だ。王国の西側に、小さいけれど可愛らしい別荘を持っていたっけ。もうとっくの昔に手放してしまっていたから、すっかり忘れていた。
「懐かしい……。末の妹がまだ生まれる前ですわ。私が四歳の頃までは、夏になると家族で行っていました。たしか」
「ご、五歳です! あなたがいらしていたのは、五歳の夏まででした」
「そうなのですか……? よくご存知で」
すごい勢いで修正されて、少しビックリする。
「えっと……。つまり私とあなた様は、そこで出会ったことが?」
「……あ、あります。結婚の誓いをしました」
「……えぇ?」
申し訳ないと思いつつも、露骨に訝しげな声を上げてしまう。目の前のこの人は、とても不誠実そうには見えない。私を騙そうとしているわけではなさそうだ。だが、私はこんな美男子、絶対に出会ったことがないと断言できる。いくら五歳だったとしても、会えば覚えているはず。そのレベルの顔面だ。加えてキラッキラの金髪に、エメラルドのような瞳に、この王子様のようなオーラ。本当に出会っていれば誰が忘れるものか。
私は一つの結論にたどり着いた。
「……ローダム侯爵令息様。とても残念なのですが、あなた様は人違いをしていらっしゃいますわ」
「っ!? し、しておりません! 俺が結婚の誓いを立てた相手は、間違いなくあなたです! セレント男爵令嬢!」
向こうは思い込んでしまっているから、引く気配がない。私はできる限り冷静に、穏やかに言い募る。
「えっと、ですね。ごめんなさい、たしかにうちが以前、西方に別荘を一つだけ持っていたことは事実なんですの。でも、あなた様が幼少の頃、その美しい思い出を重ねたお相手と私が、たまたま別荘に遊びに来ていたという事実だけが共通しているようです。……お分かりになりますか? 私はそこまで記憶力に劣るタイプではございませんし」
「いえ! いえいえ! セレント男爵令嬢! あ、あの、俺は」
「もしもあなた様と一度でも出会っていれば、ふふ、忘れるはずがございませんもの。どうか、よーく思い出してみてください、ローダム侯爵令息様。……シャーリーン・セレント。この私の名前によく似た昔のお知り合いが、他にいらっしゃるのではなくて? シャーロット・セメント、みたいな」
「い、いません!」
……うーん。困ったなぁ。もう完全に私だと思い込んじゃってるものだから、もしかしたら俺の間違いかも? という思考にならないのだわ。どうしましょう。
さてこの話どう切り上げるべきか、と小さくため息をつくと、目の前のローダム侯爵令息が少し泣きそうな顔をして言った。
「あ、あなたの方こそ、お願いですから思い出してください! あなたは、お、俺を……、」
そこで一旦言葉を区切って俯いた彼は、意を決したようにパッと顔を上げた。その表情の凛々しいこと。さっきまでの彼とは全然違う。私は思わずドキッとした。
「あなたは……、将来騎士になってこの俺を守ると言ってくださったんです!」
「…………はい?」
今何て言った? この人。
私が、騎士になって……守る?
「えっと……、あなたではなく、私の方が、ですか?」
「そ、そうです。……あなたは、悪ガキどもから虐められて泣いている俺を庇って、木の枝を振り回しながら奴らを追い払ってくれました。そして、蹲って泣いている俺に向かって言ったんです。心配しなくていい、と。自分がもっと強くなって、騎士様になって、あなたを守ってあげるから、と」
(……あ……、あれ……?)
ローダム侯爵令息様の言葉を聞いているうちに、私の脳内に在りし日の思い出がふんわりとよみがえってきた。
だだっ広い草原。蹲って泣いている、……一人の丸々と太った男の子。
仕立ての良い服を着た、意地の悪い男の子たち。
泣いている子を虐めながらゲラゲラ笑う彼らを、拾った太い枝を振り回しながら、必死で追い払う私。逃げていく彼ら。
太った男の子が、鼻水と涙を垂らしながら私を見上げる。私は肩で息をしながら、その子に……言った。
『ハァハァ……。そ、そんなに、泣くんじゃないわよ! だいじょうぶだから! あ、あたしね、つよいのよ! おおきくなったら、もっとつよくなるの! あたし、きしさまになるんだから! きしさまになって、あなたをずっとまもってあげるから! ね? あなたのことも、おとーともいもーとも、みんなあたしがまもるんだ!!』
そう高らかに宣言する私のことを、泣きながら見上げていた……金髪の、真ん丸い、男の子……。
(────っ!!)
「あ、あなた、あの時のまるぽちゃなの!? ……あ、ご、ごめんなさい!」
ベソベソ泣いていた太った男の子は、たしかに金髪だった気がする。色の白い、可愛い男の子だった。けれど。
まさかあの子が……こ、こんな高身長の美男子になって、目の前に現れるなんて。こんなにスラッと育ってるなんて。夢にも思わないじゃない。
思わず“まるぽちゃ”などと叫んでしまい、私は慌てて自分の口を塞ぎ、謝罪した。
「お、思い出していただけましたか。……よかった……」
ローダム侯爵令息は心底嬉しそうに微笑むと、噛み締めるようにそう言った。……笑顔が美しすぎて、目がくらみそうだ。
「あの時のあなたは、本当に素敵だった。いつも虐められて泣いてばかりの自分を、初めて恥ずかしいと思いました。情けなくて、恥ずかしいと。こんな可愛らしい女の子に庇ってもらって、守られて。……俺はあの時、あなたに心を奪われました。そして言ったんです。……騎士になんて、ならなくていいと」
「……わ、私に、ですか?」
「はい。騎士には俺がなりますから、と。俺があなたより、もっともっと強くなって、あなたを一生守れる男になってみせると。だから、お、大人になったら、俺と結婚してほしいと。……あの日、俺は立ち上がって、あなたにそうプロポーズしました」
「……。へ、へぇ」
(そこ、全っ然覚えてない……)
「あなたは目を丸くした後、こう言いました。本当に私より強くなったら、その時は結婚してあげるわ、と」
「……そ……それは、大変……失礼を……」
なんて上から目線で偉そうなことを。ローダム侯爵家のご子息に向かって。貧乏男爵家の娘のくせに……私め……!
今度はこちらの方が恥ずかしくなり、全身がカッカと火照りはじめた。耳が熱い。けれどローダム侯爵令息様はそんな私の様子など意に介することもなく、幸せな思い出を手繰り寄せるような微笑みを浮かべ、話し続けた。
「あの日から、俺は変わりました。毎日休むことなく鍛錬に明け暮れ、騎士になるための猛勉強をしました。そして、ひそかに探らせていたあなたの進学先と同じ学園を選び、入学した」
……今何か怖いこと言った気がするけど、気のせいかな。
「あなたがすでに婚約してしまっていることも、知っていました。……よりにもよって、あの時のいじめっ子のうちの一人と……」
「えっ!? スチュアート様って、あなたのことを蹴り飛ばしてた、あのいじめっ子だったんですかっ?」
「いえ。一番後ろでニヤニヤ見てた小さい奴です」
「(ダサッ)」
「でも俺はどうしても諦められなかった。だって俺は、あなたを幸せにするためだけに、自分を磨き上げてきたんです。けれど、婚約者のいるあなたに近付くことも、話しかけることもできなかった。いつも遠くから、あなたの姿を見つめていました……」
……あのきらびやかな集団の中心から、この人はひそかに私のことを見ていたのか……。信じられない。
呆然とする私に向かって、ローダム侯爵令息様は真剣な表情で言った。
「で、ですから、……セレント男爵令嬢。あなたが落ち込んでいるところにつけ込むような形になってしまい、心苦しくはあるのですが……っ、俺にとっては、千載一遇の、おそらくはもう、人生で一度きりのチャンスなので、言わせていただきます」
彼はそこで一度言葉を区切り、軽く目を閉じて大きく息を吸い込んだ。そしてもう一度、私の瞳を見つめる。
「シャーリーン・セレント男爵令嬢。どうかこの俺に、あなたをそばで守り続けるという最大の栄誉を与えてください。この王国で最も強い騎士になると約束します。ですから、どうか……俺をあなたの夫に」
「…………ひぇ……」
椅子に座っていて、本当によかった。
立っていたら私は、腰を抜かして尻もちをついていたことだろう。
何と返事をしたのかさえ、よく覚えていない。ただ一つ、その日何よりも彼のことを好ましく思ったのは「ご家族へのお土産に」と、彼がたくさんのケーキやタルトを持たせてくれたことだった。そして彼の馬車で、私を屋敷まで送り届けてくれた。こんな風に気が利く人に、悪い人はいない。たぶん。
◇ ◇ ◇
あの日のあのカフェには、実は学園の生徒たちが何組も来ていて、私たちの会話を盗み聞きしていたらしい。翌日にはすでに学園中に、彼と私のことが知れ渡っていた。
私がオロオロと戸惑っているうちに、クリフトン様はうちの両親に挨拶に来てしまい、私はあっという間に外堀を埋められた。両親は泣いて喜び、私とクリフトン様の婚約はいともあっさりと成立したのだった。
彼の父上であるローダム侯爵は、うちに素晴らしい弁護士を紹介してくれた。おかげさまでスチュアート様の実家であるアリソン伯爵家に上手いこと言いくるめられる羽目にならずに済み、多額の慰謝料をせしめることにも成功した。
その後、ローダム侯爵令息の婚約者となった私とすれ違うたびに、スチュアート様はいつも挙動不審になり無様に目を逸らしていた。その隣に大抵いるキャンディス・コーリー子爵令嬢は、グギギ……とでも言い出しそうな悔しげな顔で私を睨みつけたり、盛大にそっぽを向いたりした。
数年後、学園を卒業した私たちは────
「……はぁ。可愛いなぁシャルは。こうして毎日君の笑顔を見ながら過ごせる時が来るなんて。やっと人生最大の夢が叶ったよ。幸せだ」
「あなた毎日そう言うのね、クリフ様」
「当たり前だろう。一生言い続けるよ、きっと。子どもの頃から大好きだったんだ。もう学園時代なんか、君の顔を見るだけで動悸がすごくて。廊下ですれ違う瞬間なんて卒倒しそうだったよ。君の方は俺に見向きもしなかったけどね」
「だ、だって。あなたはいつも美しいご令嬢方に取り囲まれていたし、私とは住む世界の違う人だと思っていたから……。まさかこうして夫婦になるだなんて、私の方こそ夢を見ているみたいよ」
「勝手に囲まれていただけだ。俺の視線は、いつも君のところにだけあったんだよ」
眠りに落ちる瞬間まで、彼は毎夜こうして私に甘い愛を囁く。クリフ様とローダム侯爵家のおかげで、我がセレント男爵家はいくつもの事業を軌道に乗せることに成功した。弟や妹たちも、私たちが卒業した学園に通えることになるだろうし、本当に感謝するばかりだ。
ちなみに、スチュアート様と例のキャンディス嬢も結婚したようだが、アリソン伯爵家はローダム侯爵家をはじめとするいくつもの領主から大口の取り引きを切られる形になり、今大変な状況にあるらしい。「俺は意外と執念深いんだ」と、クリフ様はサラリと言っていた。何をしたのだろう。恐ろしい人だ。
「……眠いの? シャル」
「そりゃ眠いわよ……クリフ様。あなたが毎晩こんなに……」
「こんなに、何?」
「……。何でもないわ」
毎晩こんなに熱烈に求めてくるから睡眠不足なのよ、と、恨み言を言おうとしたけれど、なんだか気恥ずかしくなったので止めた。そして彼の胸にピタリと顔をくっつけ、瞼を閉じて寝たふりをする。
頭上から小さな笑い声が聞こえた。
「お休み、シャル。愛してるよ」
返事をする代わりに、私は彼の体に回した腕に、キュッと力を込めたのだった。
ーーーーー end ーーーーー
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