悪役令嬢のいたって平凡なる断罪劇
春の柔らかな陽射しが、王宮の広大な庭園を輝かせていた。咲き誇る花々は、どれも手入れが行き届き、どの一輪を取っても欠けたところがない。そんな完璧な美しさが広がる中で、一人の少女がベンチに腰を下ろしていた。
クロエ・フォン・アーデンベルグ。彼女は公爵家の嫡子として、この庭園の花々よりも美しいと周囲に噂される少女だった。しかしその顔は今、不機嫌そうに歪んでいる。
「どうして私が、こんなに嫌な思いをしなきゃならないの?」
クロエは小さな靴の先で地面を軽く蹴った。今日もまた、同じ年頃の子供たちとの集まりで、誰からも声をかけられなかったのだ。彼女の整った容姿も、流れるような金の髪も、吊り目も公爵令嬢としての教育もすべてが人を寄せ付けなかった。
その時、カツカツと足音が聞こえた。見上げると、同じ年頃の少年が立っていた。
「君、こんなところで何をしているんだい?」
彼はあどけない笑顔を浮かべていたが、どこか緊張した様子も見て取れる。その金髪と青い瞳。容姿の特徴から、一目でこの国の第二王子、セリオス・クラウゼルだと分かった。
今回のお茶会の主役である。
このお茶会は名目上は貴族の子供たちの交流の場として開かれたが、その実は第二王子の婿入り先を見つけることを目的としている。
特に、クロエのような一人娘がいる公爵家とは仲良くしろと言われている可能性が高い。
「……何の用かしら?」
クロエはツンとした態度で答えた。自分が不機嫌なのは相手のせいではないと分かっていたが、どうしてもこういう態度になってしまう。それに、王子相手に弱みを見せるなんて、なおさら許されないと思ったのだ。
しかし、セリオスは怯えるどころか、笑顔のまま彼女の隣に座った。
「君、みんなのところに行かないの?ここで一人なんて、寂しくない?」
「寂しい? 私が? ……馬鹿なことを言わないでちょうだい」
クロエはぷいと顔を背けた。しかし、王子の柔らかな声には、どこか安心感があった。
「でも、僕は分かるよ。僕もね、みんなとうまくやれる自信がなかったんだ。でも、そういう時は誰かと話してみるといいよ」
クロエは驚いて、彼の顔を見た。目の奥にあるのは本気の優しさだった。そして、その一瞬の隙をついて、彼が手を差し出す。
「君の名前は?」
「クロエ……クロエ・フォン・アーデンベルグよ」
「クロエか。いい名前だね」
セリオスの言葉は、胸の奥に静かに響いた。
その夜、クロエは奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼女は美しいドレスをまとっていた。しかし、周囲にいる貴族たちは冷たい目を向け、指を差して何かを非難している。
「悪役令嬢、クロエ・フォン・アーデンベルグ、あなたの罪を糾弾します!」
低く響く声とともに、一人の少女が前に進み出た。平民のような質素なドレスを着ているが、その目は輝いている。彼女が何かを叫び、周囲が一斉に拍手を送る。
次に目を向けたのは、セリオスだった。彼は冷たい表情で告げる。
「クロエ、君との婚約は破棄する」
その瞬間、クロエの心が崩れ落ちた。膝が震え、周囲の嘲笑が耳元で大きく響く。
「嫌……嫌……!」
クロエは叫びながら、夢の中で何度もその場に崩れ落ちた。
クロエは飛び起きた。夜明け前の薄暗い部屋の中、彼女は胸を押さえて荒い息を繰り返していた。
「……何なの、あの夢……」
体は汗でぐっしょりと濡れている。恐怖がまだ全身にこびりついていた。あの少女は誰? どうしてセリオスが私を見放すの?
「……違う。そんな未来なんて、絶対に認めない」
クロエはゆっくりと拳を握った。その瞬間、頭の中に記憶の断片が蘇った。前世の記憶……これはゲームだった。自分はその中で「悪役令嬢」として存在している。それがあの断罪シーンの未来。
「私が悪役令嬢……?悪役?」
その事実を理解した瞬間、クロエは激しい嫌悪感と恐怖に襲われた。しかし、同時に心の奥底で何かが燃え上がるのを感じた。
「でも、だから何だというの?」
クロエはベッドから立ち上がると、カーテンを勢いよく開いた。朝日が彼女の髪を照らし、輝きを放つ。
「私はクロエ・フォン・アーデンベルグ。誰が何と言おうと、私の未来は私が決める。」
それが彼女の運命を覆すための、最初の決意だった。
朝日が重厚なカーテンの隙間から差し込む頃、クロエは大広間での朝食の席に着いていた。学園の制服を着たクロエは、ただ黙々と朝食を口に運ぶ。
「最近の振る舞いについて聞いている」
父親の冷静な声が、部屋の空気を冷たくした。公爵である彼の鋭い目は、クロエに向けられている。
「学園での評判を維持するのは、フォン・アーデンベルグ家の令嬢として当然だ。分かっているな」
クロエは表情を変えずに返した。
「もちろんです。私はいつでも家の名に恥じない行動を心がけていますわ」
「ならいい。だが、セリオス殿下との関係も含め、隙を見せるな。平民の女に遅れをとるなど許されない。王家との婚約は、お前一人の問題ではない」
彼の言葉には、暗に「家の名誉を傷つけるな」という意味が込められている。クロエは小さく息を吸い込んだ。
「心得ています」
だが心の中では、小さな疑問が膨らんでいた。セリオスとの関係が噂され、彼女の周囲で何かが変わり始めている。それを敏感に感じ取る父親の視線が、クロエをさらに追い詰めるようだった。
その日の学園は快晴だったが、クロエの気分は晴れるどころか曇り空のように重かった。父親の言葉が頭の中で反響し続け、心を落ち着ける暇もない。
教室に向かう廊下でふと目に入ったのは、花壇の近くで談笑するフィオナだった。明るい光の中で、彼女はまるで輝いているかのように見えた。
「あの光……」
クロエの目は鋭く細められた。フィオナの手元には小さな花束が浮かび、その周囲に柔らかな光が漂っている。それは、魔法の一種だとすぐに分かった。
「光魔法をあんなに自然に使うなんて、さすが特待生ね」
光魔法は王国の中でも特に希少な属性であり、歴史的に強大な力を持つ者に限られて受け継がれてきたものだ。それを目の当たりにした瞬間、クロエは自分の背中を冷たい汗が伝うのを感じた。
昼休み、クロエが一人で中庭を歩いていると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。振り返ると、そこには微笑みを浮かべたフィオナが立っていた。
「クロエ様、少しお話があります」
フィオナの声は柔らかかったが、その瞳には何か鋭いものが宿っていた。クロエは内心で警戒しながらも、表向きは冷静な表情を崩さずに答えた。
「何かしら」
二人は周囲に人がいない場所まで歩いていくと、フィオナは突然その表情を変えた。微笑みが消え、真剣な目でクロエを見つめる。
「あなた、前世の記憶があるのではなくて」
その言葉に、クロエの心が一瞬止まるような感覚がした。だが、すぐに冷静を装った。
「前世の記憶? 何のことかしら」
「そんなことを言っても分かるわ。私は分かっているの 私、この世界がゲームだって知っているの。あなたはどうなの」
クロエは表情を崩さなかったが、胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。この少女は自分の曖昧な夢とは違い、何かの確かな記憶を持っている。それがどれほど危険なものか、クロエには直感的に理解できた。
「何の冗談かしら そのような奇妙な話、聞いたこともありません」
クロエはあくまで平然と振る舞い、フィオナに隙を与えないようにした。しかし、内心では焦燥感が膨らんでいた。
「私はヒロインよ。そして、あなたは悪役令嬢。悪役令嬢としての務めをちゃんと果たしてよね。私、ここから」
「ヒロイン」なるものは知らないが、「悪役令嬢」なら心当たりがある。
「ヒロイン」がどんな力を持っているのか分からないが、もしこの少女が「ヒロイン」として周囲を動かす力を持っているなら、自分の立場は危うい。
すると、フィオナは突然、顔を歪ませ、涙を流し始めた。
「そんな……どうしてそんなことを言うの……! 私、ただ仲良くしたかっただけなのに……」
その声は悲しみで震えており、クロエが何か酷い言葉を投げかけたように見えた。その時、遠くから貴族の令嬢たちがこちらに近づいてくる。
「フィオナ様、大丈夫ですか」
「クロエ様、何があったのですか」
令嬢たちはフィオナを囲むようにし、その悲痛な表情に驚きの声を上げた。クロエはその光景を見て、すぐに状況を理解した。
フィオナは自分が被害者であるかのように振る舞い、周囲の同情を引き寄せるためにクロエを利用している。だが、この状況で無理に反論すれば、かえって逆効果だ。
クロエは深く息を吸い込み、冷たい微笑みを浮かべた。
「どうやら誤解をさせてしまったようですわ」
「でも、クロエ様が……!」とフィオナが抗議しようとするが、クロエは淡々と続けた。
「フィオナ様が少しお疲れのようですわ。皆さん、どうか彼女をお連れして休ませて差し上げて」
その堂々とした態度に、他の令嬢たちは少し困惑しながらもフィオナを連れて行った。その後ろ姿を見送りながら、クロエは心の中で冷たく呟いた。
「こんなことで、私を貶められると思ったら大間違いよ」
だが、その裏には小さな焦りも芽生えていた。この少女の存在が、クロエの世界を揺さぶり始めている――その事実を、彼女は確かに感じ取っていた。
学園の昼下がり、クロエは図書室の一角にいた。広々とした窓から差し込む陽光が、整然と並べられた本棚を柔らかく照らしている。クロエは開かれた本に目を落としながら、手に持つペンを小さく回していた。
しかし、文字は目に入っていなかった。近くの机にいる生徒たちの小さな囁き声が、彼女の耳に引っかかっているからだ。
「ねえ、聞いた 最近、セリオス様とクロエ様って、あまり一緒にいないらしいよ」
「やっぱり、平民のあの子のせいじゃない フィオナ・ローレンスっていう……」
クロエは一瞬、息を飲んだ。その名前が耳に入った途端、心臓が強く脈打つのを感じた。
「だって、最近セリオス様、あの子にすごく優しいんだって。それに、クロエ様には冷たいって噂よ」
「ええ でも、クロエ様は公爵令嬢よ そんなことあるの」
「分からない でも、フィオナって本当に“特別”みたいだもの……」
クロエは静かにペンを置き、目を閉じた。
「くだらない噂……ただの憶測にすぎない」
そう自分に言い聞かせても、心はざわつく。確かに最近、セリオスと話す機会が減っている。彼が忙しいと言って、婚約者として予定されていたお茶会を何度も延期されている事実が、そのざわつきを静めるどころか煽っていた。
本のページを閉じる音が、図書室にわずかに響いた。クロエは立ち上がり、何事もなかったように歩き出した。だが、その足取りには、少しだけ力が入っていた。
その日の夕方、クロエは学園の花壇を眺めていた。整然と植えられた花々は手入れが行き届き、どれも見事に咲き誇っている。
「……私は、この花のようにありたい」
そう呟いた声は、どこか空虚だった。
クロエは公爵令嬢としての誇りを常に胸に抱いてきた。幼い頃から、どんな場でも完璧な振る舞いを心がけてきた。地位と名誉、そして婚約者としての立場を守るためなら、どんな努力も惜しまなかった。
しかし、フィオナが現れてから、心の奥に小さな不安が芽生え始めていた。
「私の未来は、本当に守れるのかしら」
彼女の視界には、花壇を手入れしているフィオナの姿が入ってきた。平民らしいシンプルな服装だが、その笑顔はどこか眩しい。貴族の少女たちがその周りで楽しそうに話している光景に、クロエの胸がわずかに締め付けられる。
「平民が花を手入れするなんて、似合っているじゃない」
クロエは冷たくそう呟いたが、その声には力がなかった。
その時、不意に声をかけられた。
「クロエ」
振り返ると、セリオスが立っていた。彼の表情は穏やかだったが、どこか距離を感じる。
「セリオス様……」
「少し話があるんだ」
クロエは内心、息を飲んだ。このまま彼に何か告げられるのではないか――婚約破棄の話をされるのではないかという恐怖が、瞬時に頭をよぎる。
セリオスと二人きりになった場所は、学園の中庭だった。柔らかな風が、彼の金色の髪をわずかに揺らしている。
「クロエ、最近……少し元気がないように見える」
意外な言葉に、クロエは目を見開いた。
「……そんなことありませんわ」
「でも、僕には分かるよ」
セリオスの声は優しい。しかし、その優しさがかえってクロエの心に痛みを与えた。彼の優しさが、自分だけに向けられたものではないと分かっているからだ。
「君は公爵令嬢として、たくさんの責任を抱えている。でも無理をしすぎないでほしい。なにかストレスなどはないだろうか」
その言葉に、クロエの胸の奥で押し込めていた感情が少しずつ溢れそうになる。だが彼女は、絶対にそれを見せないと決めていた。
「……お気遣いありがとうございます、セリオス様」
彼女は微笑みを浮かべた。だがその微笑みは、まるで薄い仮面のように張り付いていた。
セリオスは一瞬、何かを言おうとしたように見えた。しかし、言葉を飲み込み、ただ曖昧な表情で彼女を見つめた。その視線が、クロエの胸に小さな棘のような痛みを残した。
学園の廊下には冷たい空気が漂っていた。クロエは、自分に向けられる微妙な視線の変化を敏感に感じ取っていた。
「最近、クロエ様ってなんだか怖いわね」
「フィオナ様がかわいそうだわ……きっと、いじめられているのよ」
そんな囁きが廊下をすれ違うたびに耳に飛び込んでくる。
クロエはその都度、何事もなかったかのように微笑む。しかし、胸の奥では冷たい怒りが静かに燃えていた。
「フィオナ……」
彼女がこの状況を作り出しているのは明白だった。泣き落としや噂を操ることで、クロエを「悪役」に仕立て上げようとしている。それが目的なのは間違いない。
昼休み、クロエは図書室で一人本を開いていた。表向きは冷静を装いながらも、頭の中ではフィオナが自分を追い詰めようとしている目的を探っていた。
そこに、一人の侍女が足早に駆け寄ってきた。
「クロエ様、申し訳ございません……実は……」
侍女が差し出したのは、ある貴族の令嬢たちが集めている「証言」をまとめたメモだった。そこには、クロエがフィオナにいじめを行ったとされる詳細な「証拠」がいくつも書き込まれていた。
「こんなこと……私はしていない」
クロエの目が鋭く光る。メモに書かれた内容は、すべて作り話か、あるいは意図的に捻じ曲げられたものだと直感的に分かった。しかし、これが真実かどうかに関係なく、彼女を追い詰めるための計画が着々と進行していることを悟る。
その日の午後、クロエは中庭でフィオナと再び顔を合わせた。フィオナは周囲の生徒たちに囲まれ、笑顔を振りまいている。その笑顔を見るたびに、クロエの胸に刺さる棘が増えるようだった。
やがて、フィオナは彼女に近づいてきた。周囲には誰もいない。
「クロエ様、最近の噂、気にされているのではなくて?」
フィオナは無邪気な顔でそう言った。しかし、その瞳には明らかな挑発が浮かんでいた。
「噂など気にする必要はありませんわ。事実ではないのですから」
クロエは冷たく答えた。だが、フィオナは笑みを深める。
「でも、クロエ様。あなたは本当に何もしていないの?」
クロエの表情が微かに硬くなった。それを見逃さなかったフィオナは、小さな声で続けた。
「断罪イベントって、ご存じかしら。あなたがこの学園のすべてを失う日が来るのよ。もしかして、あなたも記憶が……」
クロエは一瞬、息を飲んだ。だが、すぐに冷静さを取り戻し、表情を変えずに返した。
「おっしゃっている意味が分かりませんわ。そのような作り話、興味がございませんのよ」
フィオナはその反応を見て少しだけ眉をひそめたが、すぐに無邪気な笑顔を浮かべると、言葉を変えた。
「それならいいの。でも、私がヒロインであることを、みんなが分かってくれる時が来るわ」
その言葉を残し、フィオナは去っていった。クロエはその場に立ち尽くしながら、静かに拳を握りしめた。
ある日の放課後、クロエは偶然耳にした会話に凍りついた。
「卒業パーティで、クロエ様の真実が明らかになるらしいわ」
「断罪イベントって聞いたわ 彼女の婚約も破棄されるとか……」
クロエはその場を離れ、深い息を吐いた。予想していたこととはいえ、断罪イベントが計画的に進められていることを確信する瞬間だった。
「私は負けない……」
断罪イベントが計画されている――その言葉がクロエの胸に深く突き刺さっていた。
廊下を歩くたびに、ひそひそとした声が耳に届く。自分に向けられる軽蔑や冷笑を感じるたび、胸の奥で恐怖が小さく形を作る。
教室に戻ると、フィオナが既に席に座り、周囲の令嬢たちと楽しそうに笑い合っているのが目に入った。柔らかな光に包まれるようなその姿は、まるで彼女こそが主役だと周囲に告げているようだった。
セリオスが教室に入ってきた瞬間、クロエの視線は無意識に彼を追った。
しかし、彼の青い瞳が一瞬フィオナに向けられたことを見逃すことはできなかった。
フィオナの光魔法が、王族や貴族たちの中でどれほどの影響力を持つのか、クロエはよく理解していた。もし、セリオスさえ彼女の側に付けば、自分は完全に孤立する。
「クロエ」
名前を呼ばれ、顔を上げるとセリオスが立っていた。
だが、彼の表情には曖昧な微笑が浮かんでいる。
「最近、話せていなかったね 少し話さないか」
「ええ、もちろんですわ」
クロエは冷静を装い、ゆっくりと立ち上がる。その後ろでフィオナが何かを話す声が微かに聞こえたが、振り返ることはしなかった。
セリオスと二人きりになった中庭は、柔らかな風が吹き抜けていた。咲き誇る花々の間に立つ彼の姿は、まるで絵画の一部のように見えた。
「最近、大変だろうね」
彼の声は優しい。それがクロエの心を少しだけ救ったような気がした。しかし、その優しさがどこまで本物なのか、彼女には分からない。
「いいえ、私は何も気にしておりませんわ」
「でも、噂は聞いているよ」
彼がその言葉を口にした瞬間、クロエの胸が冷たく凍るような感覚に襲われた。だが、彼女はそれを隠すように微笑んだ。
「噂とは、根拠のないものばかりですわ」
「そうだね。僕は君を信じているよ」
クロエはぎこちなく微笑んで、それには答えなかった。
翌日、クロエは学園の廊下でまた新たな囁きを耳にした。
「フィオナ様、実はクロエ様にいじめられているって……」
「そうなの? でも、フィオナ様は何も言わないわよね 本当に優しい方だわ」
「ええ それに比べてクロエ様は……」
クロエは立ち止まり、冷たい視線を遠くの令嬢たちに向けた。彼女たちは慌ててその場を離れる。
「フィオナ……彼女は一体、どこまで計画しているの?」
その時、侍女が走り寄り、耳元で囁いた。
「クロエ様、これをご覧ください」
彼女が手渡した手紙には、フィオナが密かに他の貴族や令嬢たちに接触し、断罪イベントの準備を進めていることを示唆する内容が書かれていた。
情報は貴族にとってすべてといっても良い。
「これが……」
クロエは目を細めた。フィオナが裏で学園全体を動かしている。このままでは、確実に自分が断罪される未来が訪れる。
「フィオナが断罪イベントを計画している以上、私も動かなくてはならない」
クロエは静かに呟いた。その瞳には、冷たく鋭い決意が宿っている。
「彼女の計画がどれほど周到であっても、私が公爵令嬢である限り、負けることは許されないわ」
煌びやかな卒業パーティ会場は、王宮の舞踏ホールを思わせる豪華さだった。天井には巨大なシャンデリアが輝き、壁には金の装飾が施されている。美しいドレスを纏った貴族たちが談笑する中、クロエ・フォン・アーデンベルグはホールの隅で一人立っていた。
深紅のドレスに金糸の刺繍が施されたその姿は、まるで一輪の薔薇のようだった。しかし、その表情は冷たく、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
「今夜が最後だ」
クロエは内心でそう呟いた。この数週間、学園内で囁かれる噂、フィオナによる涙の訴え、そして断罪イベントの計画――全てを知りながらも、冷静さを保ち続けてきた。
セリオスがゆっくりと中央へ歩み出ると、会場全体が静まり返る。音楽隊も演奏を止め、貴族たちの視線が彼に集中した。
「皆さん、今日はこの場でお話ししたいことがあります」
その一言に、クロエの周囲の空気が一変した。人々の視線が彼女に向けられるのを感じる。セリオスの言葉の先に待つのが、何か重大な告白であることを、全員が察していた。
その時、フィオナが一歩前に出た。純白のドレスを纏った彼女の姿は、まるで天使のようだった。涙を浮かべた瞳を輝かせながら、彼女は会場全体に向けて声を震わせた。
「私は、今日まで黙っていようと思っていました……でも、これ以上耐えられません」
彼女の声が響くたびに、会場の空気がさらに重くなる。クロエは微動だにせず、冷たい視線でフィオナを見つめた。
「クロエ様は……私をいじめ続けてきました」
その言葉に、周囲がざわつき始めた。フィオナは涙を流しながら続ける。
「私の私物を隠し、悪い噂を流し、皆さんの前で私を恥ずかしめるようなことを何度も……私は、ただ平穏に学びたかっただけなのに……!」
その言葉に、貴族たちの視線が一斉にクロエに向けられる。冷たい非難の色が混じり始めた。
フィオナは続けて数人の令嬢たちを呼び出した。
「私も、クロエ様がフィオナ様を侮辱する場面を見ました」
「ある日、フィオナ様の部屋から物が無くなっていたのですが、クロエ様がそれを持っているのを見かけたのです」
「フィオナ様が泣いているのを見たことがあります その原因はクロエ様だったと聞きました」
次々と繰り返される証言。誰もがクロエを非難する内容ばかりだ。
全員の証言が終わった瞬間、クロエは静かに一歩前に出た。会場の視線が彼女に集中する。クロエは冷静な微笑を浮かべながら、透き通るような声で語り始めた。
「フィオナ様の言い分はよく分かりましたわ。それでは、私の弁明をさせていただきます」
その一言で、会場が水を打ったように静まり返る。
「まず、私がフィオナ様の物を隠したという証言についてです。その日、私は王宮に出向いておりました。このことは、王室の記録にも残っております」
クロエは侍女に合図し、書類を差し出させた。それは、彼女がその日セリオスと共に王宮に滞在していたことを示す正式な記録だった。
セリオスが静かに頷く。
「確かに、その日はクロエは私と共に王宮にいました」
会場にざわめきが広がる。証言は崩れ去り、フィオナが青ざめた表情を浮かべる。
「次に、私が悪い噂を流したとされる件について。実際に噂を広めていたのは、この方々ではありませんか?」
クロエは再び侍女に目配せし、数名の令嬢がフィオナと密かに話し合っている場面を写した証拠を写した魔道具を取り出した。それが人々に回されると、令嬢たちは一斉にうろたえ始めた。
「……私は……」
「違うの……私はただ……!」
令嬢たちの言葉は、場の空気にかき消されていった。
最後にクロエは、フィオナの光魔法の能力について侮辱したという主張に反論した。
「フィオナ様の光魔法は素晴らしいものです。その力を私が侮辱する理由などございません。それよりも、フィオナ様。あなたが密かに他の貴族から贈り物を受け取っていたことを、皆さんはご存じでしょうか?」
そう言って、クロエはフィオナの金銭授受の記録を示した。会場は再び大きなざわめきに包まれる。
クロエは静かにフィオナを見つめた。彼女の涙はもはや誰の同情も得られない。
「皆さま、これが真実です。私を断罪しようとするならば、もっと説得力のある証拠をお持ちください」
その言葉に、会場全体が沈黙する。
ホールの中央、フィオナは崩れ落ちるように立ち尽くしていた。純白のドレスに身を包む彼女の姿は、周囲の光を失い、今や全員の冷たい視線を浴びている。
クロエ・フォン・アーデンベルグは一歩前に進み出た。その立ち姿は気品に満ち、深紅のドレスがまるで勝利の証のように輝いている。彼女の目はフィオナを捉え、冷徹な光を放っていた。
「フィオナ様、これ以上の言い訳は不要ですわ。あなたが私を陥れようとした証拠は、これで全て揃いました」
クロエは手にした書類を掲げ、侍女にそれを広げさせた。それはフィオナが学園内外で貴族たちから受け取った贈り物や金銭の記録であり、彼女が光魔法を使って人々を誘惑していた証拠でもあった。
侍女が声を張り上げて読み上げる。
「こちらは、フィオナ・ローレンス様が第一公爵家より受け取った金額の記録です。さらに、この日時に複数の貴族と密会していたことが証明されております」
読み上げられるたびに、周囲の貴族たちの視線が冷たさを増していく。その中には、今までフィオナを擁護していた者たちもいた。
「そんな……違う、私はそんなこと……!」
フィオナの声は震え、会場に響き渡る。しかし、もはや誰も彼女の言葉に耳を傾ける者はいなかった。
クロエは優雅に歩み寄り、静かに語りかけるように話し始めた。
「フィオナ様、あなたは確かに光魔法の才能を持ち、学園内で注目を集める存在でした。それは素晴らしいことですわ。でも……その才能を悪用し、人々を欺くために使ったのなら、それは罪です」
その言葉に、フィオナは顔を引きつらせた。クロエの冷たい視線に耐えきれず、涙が頬を伝う。
「フィオナ様……そんなことを……」
「信じられない……あの無垢そうな顔で、そんな裏切りを……」
貴族たちの間から聞こえる囁きは、フィオナへの非難に変わり始めた。つい先ほどまで彼女を擁護していた者たちさえ、顔を曇らせ、視線を逸らしている。
セリオスもまた、冷たい目でフィオナを見つめていた。
「フィオナ、君には失望したよ」
その一言が、彼女を完全に孤立させた。
「違う! 私は……私はただ……!」
フィオナは叫びながら、クロエに向かって手を伸ばした。しかし、その手が届く前に、彼女の体は力を失い、その場に崩れ落ちた。
涙を流しながら、彼女は最後の言葉を絞り出すように呟いた。
「私が……ヒロインなのに……」
その言葉に、クロエは冷たい笑みを浮かべた。
クロエは会場を見渡し、静かに一礼した。
「皆さま、これが真実です。私が悪役であるかのように語られたこの話は、事実ではありませんでした。そして……私が皆さまに望むのは、この場の秩序がこれ以上乱されないことですわ」
その堂々とした態度に、会場の全員が圧倒された。クロエの威厳に満ちた姿は、誰もが認めざるを得ないものだった。
フィオナは、衛兵によって会場から連れ出された。貴族たちはその後ろ姿を見送りながら、再びクロエに注目した。
「私は負けない……これが私の誇りだから」
クロエは静かに呟き、再び微笑を浮かべた。その微笑は、勝者としての余裕と、何かを秘めた冷たい輝きを宿していた。
古い塔の牢は湿気を含んでおり、壁には苔が生えていた。窓は小さく、差し込む月明かりは薄弱だ。石床の冷たさが、膝を抱えて座り込むフィオナの肌を突き刺す。
「私はヒロインなのに……」
小さな呟きが虚空に消える。どんなに泣き叫んでも誰も助けに来ない。この孤独な空間で彼女を迎えたのは、静かに開く扉の音だった。
扉の向こうに立っていたのはクロエ・フォン・アーデンベルグ。深紅のドレスに金糸の刺繍が施され、その美しさは牢の薄暗い世界には不釣り合いだった。彼女の唇には微笑が浮かび、その瞳は冷たく輝いている。
「お久しぶりですわ、フィオナ様」
その静かな声が、フィオナの心臓を鋭く刺した。反射的に顔を上げると、クロエはゆっくりと中に入り、足音が石床に響く。
「来たのね……私を嘲笑いに……」
フィオナの掠れた声に、クロエは微笑を深めた。
「嘲笑いに? いいえ。私はただ……罪を犯したあなたを少しでも慰めたく、分かり合おうと思ってここを訪れましたのよ」
クロエはフィオナの目の前に立ち、そこに置かれた木の椅子に優雅に腰を下ろした。冷たい牢屋の中でも、その姿勢には高貴な威厳があった。
「フィオナ様、あなたが断罪された理由、本当に分かっていらっしゃいますか?」
「分からない……分からないわ……私はヒロインなのよ! この世界では、私が勝者になるはずだったのに……!」
フィオナは叫び、膝を抱えた腕を強く震わせた。その姿を見て、クロエはまるで哀れむように微笑む。
「あなたがこの世界のルールを理解していると思っているなら、大きな間違いですわ」
クロエは静かに目を閉じ、一呼吸置いた。そして目を開くと、その瞳には冷たい確信が宿っていた。
「この世界における力とは、地位と財力。私はそれらを持って生まれつきましたが、あなたはどうかしら?」
フィオナの表情が凍りつく。クロエは続ける。
「私は、あなたが動き出す前に、先手を打つことにしました。あなたが私を陥れる準備を整える前に、あなたを陥れるための土台を築いたのです」
「なにを……言っているの……?」
「例えば、あなたが学園に転入してから頻繁に贈り物を受け取っていた件。あれはすべて私が仕組んだことでしたの」
「えっ……?」
「あなたが貴族たちから贈り物を受け取ったという記録、あれは一部、本物ですわ。でも、その中には、私が意図的に用意させたものも含まれています。侍女たちを使い、あなたの評判を汚すために、必要な物を“差し出した”のです」
フィオナは目を見開き、震え始めた。
「だって、それは……私は何も……」
「あなたはただ受け取っただけでしたわね。でも、受け取った時点で、あなたは私の掌の中にいたのです。周囲の人々にそれをどう見せるかは、私の自由でしたもの」
クロエの冷たい声が、フィオナの心に突き刺さる。
「さらに、令嬢たちがあなたの悪行を“目撃”したという証言……あれも私が用意させました」
「証言……?」
フィオナは愕然とした表情を浮かべた。クロエは淡々と続ける。
「学園内であなたが怪しい行動を取っていると思わせる噂を流し、彼女たちの“目”を私が望む方向に誘導しただけです。表には出しませんが、数々の高位の令息と浮き名を流すあなたをやっかむ者は多いのですよ。そんな方々に怪しいところを見せれば……証言というのは、見るべきものを見た者だけが話せるものですから」
「そんな……そんなの……!」
フィオナは崩れ落ちるように床に手をつき、声にならない叫びをあげた。
「あなたが私を断罪しようとするために準備した証拠……あれも、私がそのまま利用させていただきましたわ。あなたが“用意した証拠”を崩すための材料を、先に作っておいたのです」
クロエは微笑みながら立ち上がり、フィオナを見下ろした。
「あなたが仰ったのでしょう。悪役令嬢として務めを果たせと。私、上手に悪役ができたかしら?」
その言葉に、フィオナの顔が絶望に染まった。
クロエはゆっくりと扉の方へ歩き始めた。その背中には勝者の余裕と冷たさが滲んでいる。
「お忘れなく、フィオナ様。この世界は“ヒロイン”のためのものではありません。皆、生きた人間なのです。やっかみもあれば、地位に臆する者もいる。貴族社会なんて、足の引っ張り合いです。それに勝つことが出来なければ、生き残れませんのよ」
扉が閉まる音が響き、フィオナはただ呆然とその場に崩れ落ちた。
塔を出たクロエは、冷たい夜風を受けながら一人微笑む。
「これで、私の勝利は揺るがない……」
しかし、その微笑みにはどこか影が差していた。それは、彼女自身の孤独を象徴するかのようだった。
クロエはふとあの夜のことを思い出していた。
卒業パーティの熱気が冷めた深夜、クロエは静かな中庭に佇んでいた。咲き誇る花々が月明かりを受けて淡く輝き、その中に立つクロエの姿は、まるで一輪の高貴な薔薇のようだった。
深紅のドレスに身を包んだ彼女は、冷たい夜風を受けながら、目を閉じていた。全てが計画通りに進み、勝利を手にした安堵の中で、わずかに疲労を感じていた。
その時、背後から聞き慣れた声が静かに響いた。
「こんな夜更けに、君が一人でいるなんて珍しいね」
クロエは目を開け、振り返ることなく冷静な声で答えた。
「セリオス様、私に何か御用ですか?」
その声は相変わらず冷たく、距離を置いた響きを持っていた。しかし、それがセリオスには心地よかった。
セリオスはクロエの隣に歩み寄り、優雅に立ち止まった。その顔には柔らかな微笑が浮かんでいる。
「いや、ただ君の姿を見たくなっただけだよ。今日の君は特に美しいからね」
その甘い言葉に、クロエは眉をわずかに寄せたが、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
「お褒めの言葉はありがたいですが、それを言うためだけにお時間を割くのは、あまりに無駄ではなくて?」
「そういうところが君らしいね」
セリオスは小さく笑った。その瞳には微かな愉悦が浮かんでいるが、同時に冷たさも感じられる。
「君が僕をどう扱おうと構わない。けれど、君が誰にも触れさせない花だということが、僕にはたまらなく愛おしいよ」
その言葉に、クロエは静かに溜息をついた。
「セリオス様、甘い言葉を口にするのは得意なようですが、そういう軽率さは時に信用を失うことになりますよ」
クロエはセリオスを一瞥し、その視線は冷たく刺すようだった。しかし、セリオスはそれすらも微笑みで受け流す。
「僕が君にだけこんなことを言っているとは思っていないだろう?君はきっと、僕を本当の意味で信用していないだろうからね」
その言葉には皮肉めいた響きがあったが、クロエは意にも介さないように肩をすくめた。
「ええ、その通りですわ。貴族社会において、他人を信用するなど最も危険なものですもの。ただ、今回のご協力には感謝申し上げますわ」
その言葉に、セリオスの微笑がわずかに深まる。
「君は本当に冷たいね。でも、そういう君だからこそ、僕は君をこの手中に収めたいと思うんだ」
「残念ながら、私は誰の手中にも収まりませんわ」
クロエの答えには確固たる自信と冷たさが宿っていた。それを受けて、セリオスは彼女の金の髪をそっと指先で梳いた。
「君のその自信もいい。けれど、僕が本気になったらどうなるか……君も分かっているだろう?」
その声は穏やかで優しいが、どこか冷たい圧を感じさせるものだった。
「セリオス様、これ以上何をおっしゃるつもりですか?」
クロエは冷たく問い返したが、その瞳にはわずかに警戒の色が浮かんでいた。
「ただ一つ、伝えておきたいことがある」
セリオスは彼女の顔を見つめ、その瞳には深い感情が宿っていた。
「君がどれほど冷たくても、僕には君を大切にしたいという気持ちがあるんだよ。誰も君に触れさせない、君を守りたい――でも、それだけじゃ足りない」
彼の言葉に、クロエの眉がわずかに動く。しかし、何も言わない。
「君を支配したい。でも君はそれを許さない女だ」
その一言に、クロエは静かに微笑を浮かべた。その微笑には、彼女の圧倒的な自信と余裕が滲んでいる。
「セリオス様、あなたが何を望もうと、私は私の道を進むだけですわ。それ以上のことは必要ありません」
セリオスはその答えに満足したように微笑み、彼女から一歩距離を取った。
「分かったよ。それでも君の隣に立ち続ける。それが僕の役目だからね」
「その役目を放棄しないのであれば、私は協力を惜しみませんわ。ですが、私を支配することだけは諦めてくださいませ」
クロエの声には冷たさの中にわずかな柔らかさがあった。その言葉を聞いて、セリオスは小さく笑う。
「そうだね。共にこの国を支えよう、クロエ」
「もちろんですわ。それが私の務めですから」
二人は並んで夜の庭園を歩き出した。その距離は、どこか絶妙に保たれたものだった。セリオスの瞳には彼女を捕らえたいという欲望が滲んでいるが、クロエの冷たい誇りがそれを許さない。
夜空の月が二人の姿を見守る中、彼らは互いに言葉を交わさず、ただ未来へと歩み続けた。