足元の一歩
ものをいたわってみると、五感を通じていたわりの手触りが自分に伝わります。
横から見たら右と左を行ったりきたりしているだけでも、自分の課題をみつけたら、それは同じことではない。課題を中心に螺旋を上り続けています。
怒りと悲しみの間、喜びと苦しみの間、また行き来している、自分はそう思ったとしても。
つまり他人もその人の道で、必要あって今をそう生きているでしょう。他人からは同じようなことを行き来してるだけにしか見えなくてもそれがその人だけの道でしょう。
自分から自分への課題、それは自分が行きたい所、したいこと。自分の必要としていること。
人生とは?
やはりよくわからないけれどやりたいことが課題なのではないでしょうか?
版画の凹凸のように、フィルムのネガのように、裏返してしまうと、人生の成果は人生の代価なのかも知れません。
昔のわたしは目標は親離れ、でした。
やがて親がそれをやったかやらないかに関わらず、選ぶべき時は使うことも覚えました。親の選択の外側に自分の世界ができた時に。
親が選んだかどうかはほかの人のうちの一人の意見。そう思えた時です。
より選択肢が増えるよう 可能性が広がるようにと
だから何かを選ばないことも生き方の一つです。
全てを選ぶことはできない。体があるのだから。
あるとき
右と左に引き裂かれると思うことがあり、私は止まりました。
自分の意に反して他人の望みをきき続けるのか。
そうやってすごす、そこにしたいことがないことをどうするのか。
自分はなぜここに来たのか。
これが唯一自分の楽しみだったから。
その楽しみをどうして自分のために使えなかったのか。
自分を励ます言葉が本気なら、だれかを励ますことができるかもしれないとずっと思っていたから。
だからやりたかったんだ。技術をキープする努力を何とも思わずいられたくらい。
でもそこでの人の期待は違った。
人の期待に反することを、望まれないと知りながらこれからもずっとし続けるのか。
引き裂かれる思い。
楽しみから手を放す?
続けても止めてもどちらを選んでも地獄かもしれない。
おまけに病気かもしれない。もう力をキープできなかったら。
その思いに向かい合い続けた。
死ぬのならそれで仕方ない。
辞めてまわりじゅうの人を落胆させたとしてもそれは仕方ない。
続けることを期待されてもその道は私のではないから。
そんな覚悟をしたこともありました。
そんなときでも本当の気持ちは家族にもだれにも打ち明けて言えませんでした。
滝つぼに飛び込む気持ちで、すべて手をひくことを選び結局止まりました。
それからもう十年近く。
このことは、私が私をどう扱ってきたか、無意識の中で何があったか。
さまざまな深い意味があり、いろんな発見がありました。
そこでの見方がわかるまで、それはそこで自分に聞くしかなかった。
今のところ、私はこういう見方でそう思っていると
それならそうと正直にそう思おう。
自分の入院を経てのち家族が鬼籍にうつってからは
ほとんどの日を帰宅した夫とのみ話し
ひがな一日誰とも会わず話さないという日も多くなりました。
独立した子供とメッセージのやりとりは月に一度くらいの日々だけれど。
最近はとても穏やかでただ向き合いたいこと、やりたいことがあったのだと今は思えるようになりました。
そして気づけば、今度は出てくるまま文章を書いています。
止まっているかにみえるその足元にある、人から見えない小さな一歩。
自分が納得できることだけをし続けるしかない。
それが小さな私の一歩でした。
それは、ほんの小さく思えることでも私にとって嘘ではない。
他人から見えるほど派手なことだけが一歩ではないと。
そんなことにさえ気づかなかったのです。
ーーー
古い車があります。
私の人生の一歩を踏み出したときにうちにやってきた車。
生まれたばかりの赤ん坊の私の子供を乗せてくれた車。
病気の家族が旅立つまで、ずっと病院への道を乗り続けた、古い車。
窓やドアもシートも故障し修理しながら、なんとか乗り続けた車。
その家族をあちらに送り出して数年、ある時、ほんとにご苦労様と思った。
それは、自分にご苦労様のドライブをしようと出かけた時でした。
子どもが大きくなってから、所用でしか乗らなくなっていた。
思えば行き交う車の中でも、ひときわ目を引くほど古くなった車。
最近故障続きだった車。
ひとまずほんとにお疲れ様でした。
と、つくづく掃除をしたく思いました。
掃除は得意じゃありません。
ですがきれいにしたくなりました。
するとひとりでになんだか涙が出てきました。
車の掃除をしながら、気がつきました。
私の身体もそうでした。
自分にもおつかれさまでした。
私の課題は何。
「今まで使ってきたもの、おつかれさま。
ほんとにありがとう」
まずは労いたい。
古いものにも意味があるからこそそこにあったと。
ほんとに意味がありました。
道の一部、考え方、そこを通ってきた。
体も心も、表に何かを出すには、中にそれが必要で
全体からするとそれがそこをその時支える意味があったのだと。
死んだら体はいらなくなることは誰がみたって最初から決まっています。
だからと言って、ここに生まれておいて体を最初から捨てることが最善の答えでないでしょう。
労うことは自分を愛することです。
放り投げるのではなくいたわりです。
労わってみると、五感を通じて己に伝わってきます。
自分を愛することの、感覚が。
それをまた自分にも使ってみました。
今は家をねぎらっています。
ほんの少しづつ、気づいたところから。
労り力?のレベルアップ(笑)私もできるかなと思いながら。
車はまた、持ち直して今も動いてくれています。
殴って壊すと自分が傷つきます。
そこに私がいます。
最初の一歩を踏み出したとき、
殴られればイヤというほど痛いことがわかってるから外へ歩き出した、私がそこにいます。