血のオークション
エドワード・ワグリエル。
三十二歳、男。
一九九一年十月十五日生まれ。てんびん座。
オランダ・ズンデルト出身。家族は両親と妹が一人。
イギリス・ウェストロンドン大学で調理技術マネジメントの学位を取得、その後ロンドンのホテルで料理人を務める。
趣味はカメラ、主に野鳥を撮影。飛び立つ瞬間まで集中力を高めてシャッターを切る瞬間が最高。
好きな映画はミッションインポッシブル。
けれど、トム・クルーズがサイエントロジーを信仰してると聞いてからはシリーズ続編は見てない。007も好き。
応援しているフットボールチームはアーセナル。特に応援している選手はFW、ブヨカ・サカ。
密かに自慢に思っていることは出身地がゴッホと同じこと。料理も芸術の一つであると思って彼にあやかってひまわり油やアーモンドをメニューに加えることもたまに。
コンプレックスは目。特に瞳。
虹色虹彩症候群という稀な遺伝性疾患で虹彩が虹色に変色する病気のため周囲の視線が気になる。
サングラスが欠かせない。コンタクトレンズはきにいらない。
死因、病死。
俺が入院していた病院はひどく静かな病院だった。止まった部屋も大部屋なくせに人っ子一人居なかった。
その病院は徹底して空気の淀みを許さず、どの病室にも窓があった。そのおかげで代わり映えのしない景色だったが夜になると真っ青な世界に包まれて月だけが静かに俺を見守ってくれているのが心地よかった。その心地よさに身を任せ自分のことを忘れればすぐに眠りにつくことが出来る。惜しむらくはすぐに夢すらない眠りに落ちてしまうから長く月夜を楽しむことが出来なかったことだろう。
しかし、心を落ち着かせる月があるならば太陽のように俺を深い泥の底から起こす存在も現れた。
黒羽の烏である。
鳥のくちばしのような黒革のマスクが目まで覆い隠しており、燕尾服にシルクハットと実に奇妙な男だった。いや、女だったかもしれないがここでは男だとしておこう。
二つ丸くマスクに空けられた穴からは視線が通っているようだったが、こちらからははっきりと双眸が確認できない。それなのに私の瞳を物欲しそうに見ていることはその態度からして察せてしまうので、いささか不思議だが不公平に感じるところだった。ここまで覆い隠されたものならば暴きたかったものではある。
しかし、予想より長い入院にイラついていた俺はそのカラスみたいな見舞客を面白半分で通してしまったのだった。
「お加減は如何ですか、ワグリエルさん。噂に聞いたところによるとナイトクラブで毒を盛られたのだとか。やれやれ世間は不景気ですからな、人の心も荒れているのでしょう。いや、申し訳ございません。当の本人を前に犯人に同情するようなことを言うとは失言でございました。何はともあれわたくしはワグリエルさんの無事が分かっただけでいいのですよ。貴方と『貴方の瞳』が無事で本当に良かった」
三本足の椅子の上で一息でそこまで言い終わったマスク男は足を区切りというように足を組み替えた。翻って俺は自分の瞳の話をされたものだし、不気味なマスクで顔を隠しているのにこちらの瞳を覗きこんでくる無礼さに嫌気が差してそっぽを向いた。しかし、背中までは見せなかった。こういう手合いに背中を見せるのはリスクがあるだろう。
結局のところ、私は最後まででアレの素顔を見ることも本心のようなものを垣間見ることも無かった。
徹底してアレは死神のように私の病床の隣に座り続けたのだった。
「昨日はバーでアーセナルの試合を見て盛り上がりすぎたから早く酔いが回っただけだ。てか、あんたは死神? 死神も贔屓にしてるフットボールチームってある?」
「わたくしはオークションのバイヤーでございます。残念ながらフットボールにはうといもので」
フットボールを見ないということはイギリス人ではないのかもしれない。訛りはヨーロッパ系だと思うが、そう思わせてるアメリカ人かもしれない。大穴でアジア人だろうか?
そもそもこの怪人に生まれ故郷なんてないかもしれないが。
くちばしに手を当てて気味悪く笑う姿がより魔物らしく見せる。
揺れるカーテンの隙間から見える空模様は快晴。瑞天に白染みはなく、太陽のぬくもりが伝わってくる。それなのにこの病室はいやに寒いのだ。まるで霊安室のように。
「申し遅れました。わたくし、血のオークション、バイヤーのカルヴァン・クラインと申します。以後お見知りおきを」
丁寧に頓智来なあいさつだった。
名刺でも渡されそうなものだったが持ち合わせがないのか、その頓智来な名前が嘘だからか懐から名刺入れが飛び出してくることも無かった。よしんば渡されたところで今じっくりと名刺に向き合う気にはなれなかったし、そのまま病床机に投げ出されていただろうから気を廻してくれたのかもしれない。
「ご丁寧にどうも。それにしても、血のオークションだったか……血液銀行か? 生憎だが保険には入っていたから金には別に困っていない」
「銀行員の身なりに見えますかな」
「死神か、カラスだ」
「カラスですか、よく言われます。もちろん赤十字でもありませんよ」
もっとも血も仕入れることはありますけれども。
烏は言葉を正した。正しい言葉の割に背筋を凍らせる。
「人の体に価値を見出したオークションとでもいいましょうか」
「なんだかいかがわしい言い方だ」
「商売はいかがわしい物ですよ。我々は人体の美術価値を評価し、人種年齢性別生死を問わず人体を買っています」
「気味が悪いな。人なんて誰が買いたがるんだ。ただでさえイングランドだと移民政策に逆らう流れだってあるのに」
「ヨーロッパ以外にもグローバルにやらせていただいていますので。例えば輸血やドナーはもとより人髪から作られた“天然”ウィッグ、それから遺骨ダイアモンド。合法・非合法を問わず人体というのは需要があるのです」
「……続けていいぞ」
大学の講義のような粛々とした語り口。
とはいえ、俺が通っていたカレッジはもう少し華やかな話し方をする講師が多かった。これは絶対に生徒を眠らせるタイプの講義だろう。
しかし、そんな頭の中の強がりを体は受け入れていないようで、事実ベットの上のはずなのに眠気は全く感じなかった。寧ろ交感神経が逆撫でられてより興奮を誘われているようなもの。ベッド上で煽情的に興奮を誘われているのならよかったが、これから滔々と注がれる話は淫猥なものではなく、死体を掘り起こし、損壊する殺人鬼の陶酔した自己弁護のようなものであることを察していた。
「会社で働く従業員や技術者を人的資源――ヒューマンリソースという時代がかつてありましたが、今はなんと呼ばれているかご存じですかな。人的資本――ヒューマンキャピタルというんですよ。人を消費する社会からいかに人に投資する社会になったかがうかがえますね。そして、それはオークションでも変わりません」
「サザビーズオークションでチャールズ・ストリックランドの絵画が数百万ポンドで取引されるように、『血のオークション』では人体を取り扱わせていただいているのです」
人体。
腕。脚。髪の毛。内臓。歯。舌。性器。顔。
そして、眼。
それらを取り扱うオークション。そのバイヤーが俺の瞳を甘く見つめる。まるで長い舌で巻き取って葡萄のようにちゅぷんと飲み込みたいと言っているようだった。
烏の獣性。
それは狡猾さだ。
不気味な雰囲気の中でも外見だけは小奇麗なものだとみえていたが今ではその胸ポケットから干からびた薬指が出てきても不思議ではないように感じた。病室を包む特殊な薬品の匂いは医薬品だと思っていたが、もしかしたらコイツから漂うホルマリンの匂いだったのかもしれない。
「じゃあ、ただの人体売買組織じゃあないか」
「もっと高尚な言い方をなさってください。私どもはお金のためにやっているのではないのです。ドナーを運ぶようにとても、聖なる役目なのですよ」
「聖なる……? 少し気位が高すぎるな」
「かもしれませんね」
「違法組織だろ」
「その違法とやらはどこの国の法ですかな?」
「お前質が悪いぞ。非倫理的過ぎる」
「……ご理解が得られなくて残念です。ですが、もう少し時間をください。説明を聞いていただければご納得いただけるはず」
カラスは俺の焦りを意に介していない。というか、狂信者のように確信している節がある。自分たちが行っていることが間違っているはずがないというそんな気位の高さ。
とまらない暴走機関車の予感を感じ、俺のこめかみのあたりを冷や汗が走る。叶うことなら俺もこの窓から排水管を伝って逃げ出したいが、生憎か、計画的にか、窓側には烏が座っている。奴はまた足を組み替えた。
「ヒューマンキャピタル、資産形成に人を使うのは企業だけじゃありません。もはや人類の獣性は鹿や虎を撃ち抜いて剥製にするだけじゃあ納まりきらんのですよ。戦争に勲章がつきもののように、そういった力を持つ人間は人を虐げ従えられるという証が欲しいのですよ」
お得意様をこのように言うのはバイヤーの信用問題に関わりそうですが、と誰に配慮したのか一言クラインは付け加えた。
それともそういうことにして自分の中の野卑な暴虐性をブルジョワジーのそれと同列に扱って自己弁護しただけかもしれない。
どちらにせよ虫唾の走ったマニュフェストだ。
「人は人を支配できる証を欲しているのです」
あなたも思ったことはないですか?
自分が好意を寄せている相手が自分のものになればいいのに、と。
普遍的な恋心を比肩に人身売買を語るこの男に生理的な吐き気を催したがそれはずっと前から、眠りから覚める前から漂っていた匂いを濃くしたものに過ぎなかった。
まるで話の通じない化け物を相手にしているときの恐ろしさだ。
俺と奴との距離は一メートルも間がありはしない。
そして隔てる檻もない。なぜなら俺とコイツは明確に同じ人類だった。見た目通り動物で会ってくれたらどれだけよかったか、或いはパノプティコンに収監された囚人であれば。
しかし、隔てはない。
だから避けられない。
そうであるならば逃げられない運命に短距離で向かうのも少し怖くなかった。
「……質問してもいいか」
「では、どうぞ」
「お前は何をしに来た? いいや、当ててやろう」
「あなたの瞳を買いつけに来ました」
「急ぐなよ」
「これ以上の長話はワグリエルさんとワグリエルさんの眼に悪いと思いまして」
「つまり、アレか。俺を殺しに来たのか?」
「答えづらい質問ですね。究極的には、はい」
長い話の割にあっさりと短い答えだった。その答えが今後の俺の行動にもクラインの行動にも一切影響がないというような感じだ。まるでゲームで出てくるどちらを選択しても返答が変わらない選択肢のように、手ごたえがない。
手ごたえがないのに胸の中には殺人者への恐怖が浸潤してくる。
俺はナースコールを瞬時に押した。
「あれ? ご気分が優れなかったですか?」
「もちろんだ」
つばが飛ぶくらい激しく答えてやったが、奴が態度を崩すことはなかった。
足を組み替えることもなかった。
フォンコールとは程遠い奇妙な呼び鈴を二度ほど鳴らして、ちょうど三回目が鳴る前に受話器が取られたようだ。
「ワグリエルさん、どうされましたァーー?」
嫌に間延びしたナースの声を無視して俺はまくしたてる。
「俺の病室に変な奴がいるんだ。さっさと退かしてくれ!」
「あァーー、相部屋の患者さんたちですかァーー? お隣さんって選べないんですよぉ」
「ちがう。そんな下らねぇご近所づきあいのためにナースコール押したと思ってんのか!」
「たまにあるんですよ。特にワグリエルさんみたいに酔っ払って搬送された人には。あれ、なんか盛られたんでしたっけ? レイプドラッグ自分で呷ったとか?」
「ふざけてんのか、お前……いいか、俺の病室に鳥みてぇなマスクした男が居座って人身売買持ちかけてくんだよ! 『ヤクでもやってるんですかぁ?』って言ったらテメェぶっ殺してやるからな!」
「聞く限り幻覚っぽいですけどぉーー」
「マジでいるんだって、本当に助けてくれよ……」
「分かりましたよ。まァ、事実にしろ、幻覚にしろ、容態見にナース送りますねぇ。ご安静に、ですよぉーー」
無情にもガチャリとキレるナースコール。
今時のナースってのはこんなもんなのか。
いつからイギリスの医療はこんなにも遅れてしまったんだ。
フローレンス・ナイチンゲールの精神性なんて過去の栄光だとでもいうのか。EU脱退して迷走しているイギリスが歴史や伝統を蔑ろにする教育を始めたんだったらいよいよ終わりじゃないか。
いや、こんなことを考えている暇はない。
政治批判よりもまず先に対処しなくちゃならないのはこの烏の化け物だ。
以前黒羽をしまって優雅に足を組んでいる。逃げる様子も、戦う様子もない。ナースコールを取らせた時からこいつには異様な余裕があった。まるで鍋で茹でられているロブスターに料理人が動じないように、生き物を生き物として見ていない冷酷な目だ。以前ジビエ料理のためのシカ肉を提供してくれる猟師に会ったことがあったが、この烏の残酷な冷静さは猟師に似ているというほかなかった。
「虹色虹彩症候群。アイリス・シンドローム。世界でも百万人に一人いるかどうか。いやしかし、実際にここに一人いる。私は本当ラッキーだ。あなたに会えて」
「こんな眼のどこに魅力がある。移植でもしてみるつもりか? 俺の視界には普通の人間に見えないものが映りこんでる、みたいな思春期じみた妄想でのことなら不愉快だ」
「だから、売れないと?」
「だから、俺に関わるな。こんなもの希少でもなんでもない。ただの病気だ」
烏は鼻で笑った。
「確かにあなたのそれは遺伝性疾患だ。いずれ遺伝コードをベクターに転写して簡単に“複製”できるようになる代物でしょう。クローンでも、人工授精でも、デザイナーベイビーでも」
けれどね!
烏は窓ガラスが割れそうなほど大きな声でそう叫んだ。
憎しみを込めたように。
その時初めて俺の肩を掴んでペストマスクの下の瞳をはっきりと交差させた。くたびれたサラリーマンの細腕とは違う人を殺したことがある血の匂いの染みついたその腕は鳥ではなく熊のように強く、恐ろしく、人ならざる力を宿していた。
そして、レンズの向こうに爛爛と光るその目は烏の卵のように青く淀んでいた。
「違うんですよ。そんなもので人の収集欲が満たされるんだったら、3Dペイント技術が出来た時点でレンブラントも! ゴッホも! モネもノワールもピカソもゴーギャンもダリもみぃんな死んでる」
だけどね。
次に放たれたそれは穏やかなものだった。俺の頬を皮手袋が撫でそのまま進んで瞳に向かう。烏のくちばしが今にも木の実を啄むように俺に向く。
「この時代に人を“買う”という行為は盛んになって、価値がある行為になっているんです。人を支配するというのは至上の幸福ですから。そうでしょう? 金で愛は買えなくても、金で人は買えるんですから。人を買うということはね、特権的に愛するということなんです」
それが我がオークションで貴族が費やす大欲なのです。
烏は囀り終わった。
酷く醜い声で。
そして、次に発せられた言葉はオークションのバイヤーとしての言葉だった。
それもまた醜い言葉だ。人が発する猫なで声と嘘は総じて酷いものである。烏のそれよりも。
「一玉二百万ポンド、二玉で四百万ポンドでどうでしょう。そして、オークションで買い手が付いた際には落札価格の十パーセントはワグリエルさんの妹さんの銀行に振り込みましょう」
四百万ポンド。
俺二人分の生涯年収以上の値段だ。人生が二回仕事せずに暮らせる価値が俺の瞳にはあるらしい。気味の悪いことだ。奇形に過ぎないのに金持ちの琴線に触れてしまったがために俺は略奪の渦の真ん中に座らされている。その周りを囲む影が各々手を伸ばしてくるが、お互いにけん制し合っている。今まで普通に生きてこられたのはその求めあうパワーバランスが均衡点を維持していたからだ。けど、とうとう崩壊したのだ。俺の肩に多くの手が乗っている。
もしかしたら俺を狙ってヘンタイの金持ちが誰かに命じて俺を殺そうとしていたのかもしれない。もしそれが成功していたら俺は両目を刳り抜かれて汚い路地に放り込まれていたかもしれない。
そんなことを想像するだけでぶるぶると体が震え、眼に薄く恐怖が溜まる。
夜海のさざなみが虹色の灯を沈めていった。
この瞳がある限り俺はこういう人種に狙われ続ける人生に怯えるしかないのだ。敵は一人じゃないし、真正面から現れてはくれない。大きな金の力を使ってペンチで俺の両目を引き抜こうとしてくるのだ。
そういう支配者には慈悲も情もないのは分かっている。人の中には誰かに対する同情心というものを持たないものが一定数存在するのは明白な事実だ。そういうやつらが自分の律の中で他人のことをぐちゃぐちゃと踏み荒らす。
この烏はまだマシな方なのだ。マシなんて言葉、さっきまでは絶対にコイツに働くことはなかったけど、そういうしかないのだ。これがマシという現実がこの病室の外を深き宇宙のように覆っている。
「俺が断ったら、どうする?」
生唾を飲み込んで俺は尋ねた。
「また方法を変えて考えますよ。けど、あなたの瞳を欲しいと思っているのは私たち血のオークションだけじゃない。個人のコレクターにとっては安く瞳だけ抉り出せるほうがよっぽどいいですからね。オークションで値段を吊り上げられるよりも」
決断を迫られている。
断るのも自由ですよ。という風体だが、この紳士的な態度がいつ打って変るかは分からない。あくまでそういう風に俺の機嫌をあやしているのは他のやつらよりスムーズに交渉を進めるために違いない。
違う方法を考えるというのが、すぐにこの場で両目を抉り出すことではないとは言えない。
最悪の場合は妹に、エドナに手が及ぶかもしれない。
そういう想像をさせるためにさっき奴は俺に妹の存在を想起させたのだろう。
喉が渇いて声が出ない。
もし、ここでイエスと、交渉に乗ったら、二度と俺は光を見ることはなくなるってことだ。
もう自由に羽ばたく鳥の姿を見ることはできない。
料理人の腕を振るうこともできなくなる。
アーセナルの試合も見ることはできない。
これまで築いてきた俺の人生の全てを奪われる。
その代価が四百万ポンド。
俺の人生の対価。
破格だと言ってもいい。けれど、恐ろしく真冬のように凍えてしまうのだ。見えない世界に放り出されることが。そんな世界で腐るほど金を持っていても生きていけるとは思えない。
俺はベッドの上で三角座りをして蹲った。顔を覆うため。
隣の化け物のことも今自分が病院にいることも自分の瞳のことも忘れられる。
呻いて、藻掻いて。
息をしないうちにだんだんと暗い瞼の裏から暖かい光が見えてきた。それは淡い、暖炉の炎のような幻影。それとも、酸素欠乏症に陥った脳が発する危険シグナルだろうか。パチパチと弾けている。
暖炉じゃない。
もっと瞬きのようなもの。
もっと鼓動のようなもの。
それは俺の――みたいな――
夏の熱帯夜に家族で見た光。
夜のスタジアムの外から花火が揚がる瞬間を、親父の肩に乗せてもらってみていた。その時の光だ。
ぼんやりとしているけど、その日は暖かくて誰よりも背が高い気分になれたのを覚えている。でも、背の低い群衆になんて目を向けている暇はなかった。花火は一瞬でそれを目に焼きつけるためにずっと瞼を開いていた。まるで夜空に自分の瞳が光を発して投影しているみたいだったから。
どぉん。
どぉん。
ティンパニーをたたくオーケストラみたいな音。
そのたびに花は咲く。
圧巻の光景に人々が熱狂する。
今夜はアーセナルが優勝したらしい。
「もー、お兄ちゃんばっかりずるい!」
不貞腐れた妹の声が地の淵から聞こえてくる。
すると突如として自分の背丈が縮むのだ。彼女の言葉は魔法の言葉だから。
「そうだなぁ。じゃあ、今度はエドナを肩車してあげよう」
そういって親父が俺を下す。
まだもう少しみていたかったけど、その抗議はきっと花火の破裂する音にまぎれて消えてしまう。
それにすぐに忘れるはずだ。花火なんてまたどこかで見れるから。
「わぁー花火! 花火!」
ご機嫌なエドナはそう言って喚く。
そのうちに幼稚園で習ったとかいうクリスマスソングを歌いだすんだ。時期外れの歌声がクリケットのオーケストラを抱えるのは童話のような不思議な世界だ。
これがまた適当で、歌詞のどこかをプディングって読み間違えてたのはいつまでも直らなかったな。
そして、最後の花火が打ちあがる。
金色の花火。
きらきらと妖精の粉のように舞って、萎んだ後も空に星を描き続ける。
ティンカーベルの粉のようにあの粉を浴びれば空を飛ぶことだって夢じゃないだろうさ。
ここはロンドンなのだし。
「きれいだったね!」
少し日に焼けた小麦色の肌。
夕日を浴びた金髪は本当に無垢金でできているみたいで、そばかすをお前は気にしていたけどそんなこと関係ないくらい美人だった。昔喧嘩してできた耳の傷のことを見るたびに申し訳なくなった。
けど、ずっと覚えている、その顔のことを。
ずっと見ていたい。ずっとじゃなくてもいい。一年に一度でもいい。いつかまた会えたのならその顔が見たいのだ。オランダの故郷にいるのだろうか。それとも俺と同じでヨーロッパを転々としているのか。でも、いずれまた出会う。俺たちは兄妹だから。
「本当に変な奴がいる!」
若い金髪の男性看護師が病室の扉のところで立ち往生してそう言った。
いきなり耳に入ってきた声に俺は伏せていた顔を上げる。間一髪に一縷の希望が見えた気がした。
「出てってくださいよ。さもないと警察呼びますよ!」
「おや? オークションバイヤーのクラインです。病院側は事情をご存じのはずでは」
「訳のわからないことを、不法侵入者め」
「はぁ、手続きに誤りがあったか……? まぁ、良いでしょう。時間はまだありますので。また来ますね、ワグリエルさん」
がたいのいい男性看護師にあっさりと取り押さえられたクラインはなにやら食い違いがあることを説明しようと抗議の声を上げていたが、看護師のパワーには勝てないようでずるずると引きずられて病室から消えた。
誰の気配もしなくなった病室に、一陣の風が窓から入る。
白いレースのカーテンをスカートのようにはためかせ、新鮮な空気が舞い込んでくる。
今日の空気は澄んでいるが、冷たい。
まるで霊安室のようだ。
「エドワード・ワグリエルさぁーん。大丈夫ですかぁ? 不審者、退治しましたよぉ」
嫌に間延びする声が受話器のくぐもった音ではなくちゃんと生体を通った生の声として廊下を響く。
入れ替わり立ち代わりでずけずけと入り込んできたのは赤髪の女看護師だった。
もちろん俺のナースコールを受けた奴だと一声で分かった。
「窓、閉めときましょうか。またカラスが入ってきたら難儀ですもんねェ」
ウェーブの入った赤髪はリトル・マーメイドのアリエルみたいだが、その特徴的な頭髪を更に特徴で覆うようにその頭にはエナメルの艶のある黒のバニーイヤーが生えていた。看護師というより看護師のコスプレをしたアダルトビデオの女優みたいなやつだ。
もともと釣り目っぽい目を鋭いアイラインが更に鋭くしていて、エメラルドグリーンの瞳には人魚姫というより魔女の魔力がこもっているようだ。
ジョークのつもりなのか、首には聴診器を掛けているのがおかしさに拍車をかけている。現役のナースというより、ナースコスプレをしているやつにしか凡そ見えなかった。
仮称バニーナースは両開きの窓を閉じるとカーテンをシャッと乱雑に閉めた。
「お加減、いかが?」
「自殺したくなる気分だ……」
俺がげっそりとそう答えるとバニーナースはくすりと笑った。
笑い方にピラニアのようなどう猛さを覚えるのはなぜだろうか。
「あはは、見れば分かるわ。あんた今不幸のどん底にいるの」
がらりと言葉遣いを変えてナースは俺に語りかける。どうやらこれが素の彼女らしかった。そうするとあの間伸びした口調はやはりわざとだということになるが、今の俺にはそれを指摘する余裕なんてなかった。
「占いとか迷信とか信じる気はないし、ましてや君の勘なんてお断りだったが、今日はぐうの音も出ない。生まれて以来ここまで自分の眼のことを呪った日は数少ないね」
「チャーミングな目じゃん。レインボーってあたし好きだよ? 多様性の色、LGBTQばんざーい」
両手を上げてヒールを打ち鳴らす。
まるでサンバカーニバルに来ているみたいに能天気な女だ。
彼女は首にかけていた聴診器を蛇を下すようにゆっくり引き抜くと、いきなり俺の首にまわしかけてきた。そして、グイッと引っ張って俺の瞳を覗き込む。度アップになった顔を目を見開いてみると、ファンデーションで仕上げられたミルキーな肌の下にそばかすが潜んでいるのがなぜかわかった。
「あのね。この病院はね、あのオークションに加担してるんだよ」
ナースが耳元でささやいた。まるで小悪魔みたいに。
俺は、えっ? と聞き返そうとしたときにはもう次のアクションが起こされていた。
肩を押されベッドに俺は押し倒される。
せかいがぐるんと回転して、見知らぬ天井を見上げることになる。
すぐにエナメルのバニーが視界にフレームインする。
「あんたの病気が治ることはない。だから、あんたずっとここに入院するんだよ」
「何言ってるんだ。俺はだから飲みすぎただけだ!」
もォー、馬鹿だなァー。
目が馬鹿だと頭も馬鹿なのかみゃ?
ミャオミャオ、とウサギの耳を付けているくせに猫の声真似をしてくる。
息がかかってすごい不愉快だ。
「毒盛られたんだって。予言してあげる。いずれあんたはがんになって死ぬよ」
「がん?」
突拍子もない予言だ。バニーナースというふざけた女がいかに真剣に言葉を発したところで信用度なんて地の底だし、ましてやそれもガンであるとピンポイントで言うのはなおさらだ。バーで飲んで、倒れた次の日には覚えのない重病にかかっているなんてことがあるだろうか。
しかしながら、この女はまるで俺のレントゲン写真を見て、診断書を書く医者のように的確な言葉を述べた気がした。彼女は医者ではなくて、かなり疑わしいがナースであるから、診断を下すことなんてできないのに彼女はそう言ったのだ。
医者か、神の声でも代弁するように。
そういうのを予言っていうのだったか。
毒?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓は空いている。カーテンが靡いていた。
もし鳥かごの鳥ならばそう知った時に羽ばたいているのだろう。
俺は一夜を明かした。
こんなところすぐさま離れるべきだったが、みょうちきりんな格好をしたオークションバイヤーを引きずっていった男性看護師に医者から説明があることを伝えられ、足が悪いわけでもないのに車いすに乗せられて診察室へと向かわされた。
昨日の一件があって朝から体が水を吸った綿のように重かったからそんな病人じみた扱いに断る気力もなかった。
からからと回る車いす。一定のリズムで蛍光灯に当てられ、陰りに入り、瞳の奥が明滅に晒される。
「昨日泣いてたんですか」
男性看護師があっけらかんとしてそう尋ねてきた。
「あ、いやぁ、眼が真っ赤になってますんで」
白目のところが。と付け加えたのは普通の人もそうだろうが、瞳の部分は赤くなったりしないからだろう。俺の瞳は泣いた程度では色褪せない。なおも鮮やかに明星のようにそこにある。
「どうでもいいでしょ……」
「いえいえ、体調が悪いかどうかを確認するのも看護師の仕事です」
大真面目にそういうところから彼は熱心な看護師なのだろう。
あのバニーナースとは真逆に思える。
「ワグリエルさんの眼は綺麗ですからねぇ。大事にしなくちゃですからねぇ」
カラカラカラカラ。
俺はどうとも答えず、男の方も黙ってしまった。
突き当りの角を右に曲がってエレベーターの車いすのマークが施されたボタンを彼は押した。
ずっと先の病室から老人のせき込む声が聞こえる。それから子供のすすり泣く声。
どうもこの病院は薄暗い雰囲気を讃えていてかなわない。
チーン、という音ともに扉がぎこちなく開く。
設備が少し古いのか一々動きが不気味だ。
「乗りますね」
宛先のない口ぐせをかわきりに一度止まった車輪がまた動き出す。
ところで、車いすの人やベビーカー用のエレベーターというのは出るときに自分の操作を見やすくするように鏡が付いている場合が多い。なのでその時ようやく俺は自分の車いすを押している人間の表情を見ることができた。
声の調子が爽やかそうなのにその表情は真顔でずーっと私の頭を見下ろしていた。ゆっくりと看護師の顔が鏡の方に向けられて、その中にいる私と目が合う。鏡越しに目が合うと、どうしてだろう、雰囲気がとても不気味に感じた。
ねっとりとした不気味さ。それはあのオークションバイヤーと同じようなものだった。
「どうか、しましたか?」
「……いいえ」
扉が閉まり、エレベーターはゴウンゴウンと地の底へと向かいだす。
そこにウェルギリウスとダンテが目指した煉獄があるとでも言うように。
この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ。
ダンテの神曲においてダンテが地獄の門をくぐるときの言葉がふと頭を横切った。
希望を捨てることが出来なかったのなら。
どうなってしまうのだろうか。
地獄の門が警告するタブーを犯した人間はどんな罰を受けるのだろうか。
ゴウンゴウン。
もはや過ぎたことだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白く四角い部屋。しきりのカーテンがあるけれど、窓がないから靡くこともない。
男の看護師は医師に俺を任せて自分の業務に戻っていった。
最後にくれた一瞥もなんだか冷たいものだった。
光を放つ白いホワイトボードのようなものに俺のレントゲン写真が載っている。撮影した覚えはなかったが、どうやら気絶している間に撮影されていたらしかった。
肺や心臓の位置がおぼろげに分かる。しかしながら、下腹部のあたりになんだか白いゴルフボールのようなものが埋まっていて、それはなんだろうと思う間もなく医師が診断を下した。
「すい臓がん。それもステージ3です」
義務的に告げられたその言葉に俺は大きくたじろいだ。
車いすのホイールがミシミシと軋む音を立てる。
「……は?」
俺は何が何だか分からず、すくっと立ち上がり自分のレントゲンに呆然と触れた。
「その白い丸の部分が癌の場所ですね。恐らくですが、既にリンパ節に転移しているものだと思われます」
医師は五年生存率が五パーセントほどだとか、有効な治療法はなく、手術よりも化学療法や放射線治療を試して延命をした方がいいだとか、まるでマニュアル的につらつらという。
キーンと鉄がちぎれるような耳鳴り。世界が途端にぐわんぐわんと左回転で歪み始めて俺はふらりと平衡感覚を失う。脚がもつれ、自分の体が左に倒れる。運よく患者用の診察ベッドのヘリに手を掛けられたから何とか地べたに這いつくばらずに済んだが、既にもう崩れかけだった。
俺の何?
俺が、何?
「俺は、おととい酒場で飲んでて、それで酔っ払ってて……倒れたのだって毒だとか、レイプドラッグだとかのせいじゃないのは分かってるんだ。それがなんだって? すい臓がん?」
「落ち着いてください。ワグリエルさん」
剥げ散らかした眼鏡の医師がなだめようと立ち上がるって手を差し伸べるがその手を俺は振り払った。強く、怒りが湧いてきたからだ。
「あ、あぁ、あの看護師の言うことは本当だったんだな! 病院とあの烏野郎のオークションが繋がってるってあの話は嘘じゃなかったんだな!」
「なんのことですか。ワグリエルさん」
しらばっくれるんじゃねぇ!
と、俺は医師に飛びかかった。まるでサバンナで獲物を見つけたハイエナのように鋭く、犬歯を覗かせるほど憤怒に表情を染め上げて、医師を丸椅子から引きずり落とす。
カランとスチールのパイプ椅子が転げる音が軽快に響き、その裏で医師のでっぷりと超えた豚のような体が硬い地面に叩きつけられて鈍い音を発する。肘がやつの腹にめり込む感触はなんとも気持ち悪く、腐った果物とチーズの混合物を捻りだしている気分だった。しかしながら、この表皮の下にあるのは消化管で、その中に詰まってるのはもと臭くて醜いクソなのだ。
この醜く肥えた金喰い、人食いの豚の内臓をぶちまけ、骨という骨をへし折らねば気が済まないと確信していた。
「すい臓がんだなんて嘘の診断を下して俺が諦めるとでも思ったのか!? 殺してやるッ! 殺してやるッ!」
がつり。がつり。と拳を医師の唇に叩きつける。歯と拳にすり潰された唇はあっけなくルージュを伸ばし、怯えた表情に赤く花を咲かせた。
どこからこの殺意はきっと怒りより悲しみより、恐怖から来る。
ハイエナはサバンナで獲物を探しているが、同時に草陰から豹に襲われることも恐れている。
自分が食う側だったのにある日食われる側になって、今自分が貪っている凄惨な血肉の塊のように尊厳なく地にバラまかれ砂埃と蠅に塗れる死を賜るのではないかと知っている。
今俺は砂と蠅がたかる瀕死のハイエナなのだ。
ここでこの大きな豚を殺さねば、もっと大きな肉食獣に食い殺されてしまう。
だから、拳を振り下ろす。
力強く。なりふり構わず。
ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。
ぐちゃ。ぐちゃ。ぐちゃ。
びちゃ。びちゃ。びちゃ。
白いリノリウムの壁に青くボーっと照らされる血飛沫。大きく俺の影が怪物のように伸びている。
ようやく拳を振り下ろすのをやめた俺は馬乗りになりながら、振り下ろす先を失った拳をブリキ人形のように固まって停止させた。
分厚くて、ボトリと拳から唇の肉が落ちた。
医師の顔は徹底して粉砕されまるでトマトソースが伸ばされたピザ生地のようになってしまった。
「俺はおととい、酔っ払って……倒れたのだって、飲みすぎで……毒なんて盛られてなくて……誰にも俺の眼は奪わせないし……そうだ、オークションと病院は繋がってて……これは生き残るためで……ためだから……」
目の前の白衣の肉塊は一体何なんだろうか。
俺はどうしてこんなに興奮していて、しかし死ぬほど疲れているんだろうか。
立ち上がってみる。
まだフラフラする。
拳の骨がいくつか折れてしまったみたいで主に小指の側面が両手とも痛みをジンジンと感じる。あぁ、これは病院に行かなくちゃならない。スマートフォンがあればグーグルマップで最寄りの整形外科を調べられるはずだ。俺は両手を見た。まだ血がドクドクと溢れてる気がした。そんなはずはないのに。でもぬめった血液が滴ってズボンに赤い星柄を沢山作っていく。もしかしたら涙柄かもしれない。
血でぬめった手でズボンを触りたくなかったから、ひとまず血が乾くまで車いすに座ることにした。
ぼーっとレントゲン写真を眺める。
スマホと同じブルーライトを発しているから、自分が何かちゃんと行動したいように行動できていると錯覚してしまって、呆然としているだけなのに多幸感にあふれていた。
「うわぁー派手にやったね」
奥の部屋からモップを担いでバニーガールな看護師がやってきた。
心底嫌そうにため息を吐いたかと思えば、俺の瞳を覗き込んでくすりと笑った。
瞳孔に力が戻ってくる。ピントが合って世界が俺の精神と同期する。
血と薬品の匂いが充満した薄暗く白い診察室。これが俺の精神だ。
「良いツラしてんじゃん。あんた今幸せそうだよ」
幸せそう。
そう見えるだろうか。そんなの絶対真実じゃないのに。
俺は気分が変わらないうちに返事をした。
「あんたの言う通りだった。この医者は嘘つきで俺を癌だと誤診しやがった。患者を売るためにそんなこと言う医者なんていらねぇよ」
ヒヒヒッ、上ずった笑い声が喉を通った。それがくすぐったくて何故か咳き込むフリをした。
ナースはモップを近くの水のたまったバケツに突っ込むと、医者の死体の周りの床を掃除し始めた。その様子は看護師というより清掃員のようなしぐさで慣れた手つきに見えた。
「病院は吐しゃ物の処理なんかも多いからね。こういう掃除もナースの仕事だったりするのよー」
まるで真っ当な言い分だが、恐らく本当の対応ではモップで吐しゃ物を拭く真似はしないだろう。勿論血液を拭きとることもだ。赤く染まったモップをバケツにばちゃりと入れると、一気にその赤が鳳仙花で作った絵具みたいに広がる。
床を拭く要領で看護師は次は壁を拭きだした。
「あぁ、嘘じゃないと思うよ」
「何が?」
「あんたが癌だってこと」
血飛沫の痕跡が徐々に溶けていく。
モップのずりずりという湿り気を含んだ音が嫌に鼓膜を擦る。
「この病院はさぁ、血のオークション様の提供でお送りしてるわけだからさぁー、こっちから患者を提供するみたいにあっちからは資金とか技術とかが提供されるわけなのよォー」
ギブアンドテイク。
イソギンチャクとニモの関係よねぇー。
看護師は淡々と掃除を続けている。親子のイラストが使われたインフルエンザワクチン接種のポスターも水拭きをし、血を落としていく。
「死体をいじくるヘンタイ集団に何の技術があるってんだ」
「殺す技術かしら。いや、それは病院側の土俵でもあるけどさぁー」
ナースブラックジョーク、と彼女はこちらに笑いかける。
俺は無視をして彼女の二の句をさっさと引き出したかった。
「例えばIPS細胞とか、STAP細胞とか、色んな細胞に変身できる多能性細胞っていうのが発明されたのよ」
「講釈の時間は昨日でいっぱいだ。結論から聞かせろ。どういうことだ?」
「ガン細胞にも変身できる多能性細胞があるってわけ。つまり癌を引き起こす技術があんのー」
ここまで言えば分かるでしょ、あんたの癌はホンモノだよ。
俺は歯を食いしばった。こめかみのところに三叉の血管が浮き出、目尻が火を灯したように熱くなる。
「そんな……そんな、お、お前も俺を騙すのか!!」
「だましてなんかないよ」
看護師はうさ耳を傾けてかわい子ぶる。
俺は立ち上がってまた医者を殺した時のように殴りかかろうとしたが、モップの柄が俺の咽頭を勢いよく突いた。
えづく。喉に生じた痛みが咳を生じさせ、吸い込む空気がしょっぱく感じる。鉄の臭いもして、俺は地べたに土下座するように丸くなった。よだれがだらだらとリノリウムの床を塗りたくった。
「やつらは副産物的に医療技術の発達にも貢献しているのよね。二十一世紀のジョン・ハンターとかもてはやされてるわけだけど。でも、副産物の副産物が癌細胞化技術っていうのも皮肉よねぇー、元々はどんな内臓組織でも再生できる万能細胞の予定だったのに、まさか癌細胞を発生させる細胞って使い道少なすぎよねー」
でも、そのおかげで患者農園こと、この病院では不自然な点なくターゲットを殺せるから重宝している技術だけど。
ぼんやりと聞こえてくる言葉。だが、俺はそれらを上手く呑み込めずなんて反応していいか分からない。もうまともに思考できていないだろう。だから、できるだけ酸素を吸い込まなければ。脳に酸素を送って思考を活性化させるんだ。どうすればいいかを考えなくちゃならない。
スー、ハー。スー、ハー。
「じゃあ……俺は、確実に……」
「助からないってこと。大人しく死になよ。それでその目玉は瓶詰にされな」
「納得できるか。だいたい、おかしいと、思わないのか、お前看護師だろ……」
「優先順位ってのは金を持ってる奴が決めることなの。現場のあたしたちが決めるより前に命のトリアージは決まってることなのよ」
「あぁそうかよ。いいさ。俺も人を殺しちまった……もう生きてる資格がない。でも、あのオークションで見世物にされるのは絶対に嫌だ。だから、お願いだ。あんたが、俺の眼を抉り出してくれ」
「は? それってあたしに何のメリットがあるのさ」
「俺の片目はあんたにやる。俺の眼はあのオークションで売り出せば、最低でも一玉二百万ポンドの値が付く、らしい。良い額になるさ」
「……じゃあ、もう片方は?」
「これからいう住所に送ってくれ。勿論、ホルマリン漬けの瓶詰めだ。あんた、看護師ならできるだろ?」
「看護師は司法解剖医でも、猟師でもないんですけれど――でも、良かったね。あたし、副業しているの」
副業?
「そういえば、名乗ってなかったわね。私、イブ。イブ・サンローラン」
「ブランド見てぇな、名前……そうか、カルヴァン・クライン。イブ・サンローランか! ずっと引っ掛かってたんだ。あぁ、なるほど、あんたもオークションの」
もう最初から詰んでるじゃないか。
絶望の淵に立ってもそれを打破する希望を高めるわけではない。ツルツルのガラス瓶の中に入れられた虫のように壁を這うことすらもできない。
最初から負けてる話だった。
「でも、今回は個人として引き受けてあげるよ。だから、オークションにはアンタの眼は……出品しない。あたしのコレクションにする。だって、初めてだったもの。これだけ胆力のある患者は」
「嬉しくねぇな。死ぬ前に褒められても。足が震えるよ。心臓が凍えるよ」
俺は立ち上がって、彼女の手を取った。
死ぬ覚悟は何時で来たのか分からなかった。
でも、医者を殺したあの瞬間に俺は戻れないところまで来てしまったのだろう。
どこまでも遠いところに来てしまった。
人は人から離れすぎてしまったみたいだ。この時代がそうさせるのかどうかは分からない。けれども、間違いなく俺は人の道を外れた。やり直す機会は与えられない。
だから、地獄の門をくぐる前に全ての希望をこの世に遺しておきたい。
一切の希望を捨てる。けれども、その希望は打ち捨てられてなお誰かに拾ってほしいのだ。
あぁ、どこまでも広がる血と薬品の匂い。
ナースが俺を優しく抱き込んだ。
それが久方ぶりに感じた瞳の奥のぬくもりだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いいんですか。イブさん、こんなこと勝手にしちゃって。絶対後でクラインさんに憎まれますよ」
「良いのよォー。アタシの方が安く早く頂けたしィー。オークションは速さと熱さと値段を競うもの。高尚ぶっていって遅れる奴のほうが悪いの」
「そんなもんですか。にしても、こんなことするってらしくないですね。ワグリエルさんに同情でもしましたか?」
「同情? 同情って?」
「家族思いのところとか」
「家族思いのところがどうして同情に繋がるの? それに同情でアタシの手が止まるわけないじゃない。これは利害の一致」
「はぁ、利害?」
「はじめて命乞い以外に良い交渉する患者がいた。だから、利益も確保できるし、面白そうだから乗ってみた」
「でも、本人がいなくなった今、わざわざ片目を手放す必要ありますか? このまま貰っちゃったっていいわけですし。俺が貰ってもいいですか?」
「ちゃっかりしてるわね、あんた。実際クラインを引っぺがした後、患者つまみ食いするつもりだったでしょ」
「車いすをおしてたら、どうしても眼が食べてみたくなっちゃって……」
「だから、あんた二流なのよ。アタシはオークションバイヤーとして金勘定、品質そして約束にはうるさいの。バイヤーは信頼あってこそ、カラスとあんたはそれができなかった」
「決め手は信頼ですか。信頼ねぇ……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エドナ・ワグリエル。
二十九歳、女。
一九九四年四月四日生まれ。牡羊座。
オランダ・ズンデルト出身。家族は両親と兄が一人。
ウォーリック大学中退。現在ジムインストラクターとサップヨガインストラクターとしてダーリントンの職場で働いている。
趣味は海水浴。ヨガ。ホームパーティー。
好きな映画はホーム・アローン。一時期マコーレ・カルキンの大ファンだった。
コンプレックスは脂肪が付きやすいこと。
ジムインストラクターを始めたのも仕事しながらダイエットにもなるからという理由。
エドナはいつも通り仕事帰り同僚たちと飲んだ後、アパルトメントに帰ってきた。
電気も暖房も付いていない暗い部屋は外と同じように寒い。
まるで霊安室だ、と思ったのは偶然じゃない。
玄関の右手にあるスイッチを押して、背負っていたリュックサックを下ろしてそのまま家に入る。勿論イギリスだから土足で。仕事柄ハイヒールを履くわけじゃなく、スニーカーを履いているから家でもそのままでいられる。スポーツ用品店で足のサイズをきっちり図ってもらったから履き心地は最高なのが自慢だ。
リビングに行って酔いを醒ますためにまずはスパークリングウォーターを冷蔵庫から引っ張り出す。ドクドクドクと朝飲んだグラスに注いでそのまま一気に呷る。むせてしまいそうなほどの一騎のみだが、炭酸が抜けていたのが幸いして喉が蜂に刺されたように痛むことはなかった。冷蔵庫を占めて後ろを振り返る。
「エディ?」
なぜだろう。兄の気配がした気がする。
あの心配性な兄のことだたまに生霊でも飛ばしているのだろう。
それとも心配性なのは私の方か知らん。
仕事の資料やネイル、ティッシュのゴミに、鏡や雑誌が散乱したテーブルの上に見知らぬケースが置かれているのに今気づいた。ケースというにはすこし粗末な段ボールケースだけれど。まるでピザの宅配でも頼んだような感じだが、それよりは分厚いし今日は酔った勢いでピザを頼んだりもしていない。
なにかしら?
と思ってゆっくりと開けてみると、そこにはまず手紙があった。
その下にジップロックに入れられた怪しいお金と、白い玉の浮かんだピクルス瓶。
丁度バスソルトを入れている縦長の瓶と同じだから入浴剤化と思った。
けれど、そうではない。
玉はふよふよと回転し、こちらを見る。
そして視線が合う。
虹色の視線。
花火のように美しい、その瞳孔。
「エディ!」
手紙がはらりと落ちて花がさくように三つ折りが開かれる。
床に落ちたソレの文字を読み、私は何か彼の走馬灯のようなものを追体験した。
全ては分からない。けれど、兄弟が結ばれている不可思議な第六感のようなものが彼の伝えたかった全てを教えてくれた。
冷たい世界の中。夜闇は音を立てない。
この狭く乱雑な私の部屋の外には途轍もない暗黒が立ち込めているのだろう。もう私の兄は何もみることはない。けれど、今だけは彼の瞳をこの質素な灯りの下に置き続けよう。決して暗く冷たい土の下には隠したりはしない。
明日はともに太陽を。
腕の中で私を見つめる小さなエディを私は抱きしめた。
真っすぐと立っていられなくて、冷蔵庫に持たれながらずるずるとしゃがみこむ。
彼はまだ私を見続けている。
私も彼を見続けている。
金銭なんて必要なかった。
私に必要だったのはたまに声をかけてくれる家族だったというのに。
小さな瓶の中、夏の夜を彩る花火が永遠に灯っている。