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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

籠の鳥

作者: ْ

ーー私は閉じた世界に生きている。


生まれた時から望むものは何でも与えられ。


しかし、外の世界を見る事は許されなかった。


私は何でも持つ事が出来て。


私は何も得る事が出来なかった。


私に傅く使用人達。綺麗な服。豪勢な料理。とても賢い家庭教師方。美しい花々が咲く庭園。広くて豪奢なお屋敷ーー


不満なんて無かった。


でも退屈をしていた。


もう何年もお屋敷の外から出た事のない私は、籠の鳥。


素敵な本を沢山読み、触れた物語から私は外の世界を想像した。


憧れた。


でも、私は外に出ようとはしなかった。


使用人に強くお願いしたり、こっそり抜け出したり、本気になればきっとお屋敷から出られない事もなかったと思う。


ただ、私にはその勇気が無かったのでしょうか。


いいえ、私は籠の鳥。分別はついていた。


籠の鳥は、籠の外では生きられない。籠の中で育った鳥は自由に空へ羽ばいても、餌ひとつ自分で取れずに死んでしまうのだから。


それが自由の代償。


鳥は籠の中で生きた方が幸せなのだろう。


きっと私も外の世界へ羽ばたいた時、死んでしまうのだろう。


お屋敷の中で外の世界に憧れるくらいが私の幸せなのだろう。


そんなある日、貴方が現れたの。


あなたはだあれ?


「お初にお目にかかります、私は今日からお嬢様の護衛を務める事になりました若林と申しますーー」


………

……


2000年代後半。某所ーー


「護衛……ですか?」


そう困惑したように、若林と名乗った青年の前で少女は首を傾げる。


自室で椅子に座るその少女は、シックなデザインながら、嫌味にならない程度にフリルをあしらわれて可愛らしさも合わせ持つ、丈の長めのスカートのツーピースに身を包んでいた。一見して上質な生地の使われた物だと分かる。


艶やかで細いストレートの髪を背中に流した少女の歳の頃は恐らく十代後半か、まだ少しあどけなさの残った顔立ちはしかし整っており美しく。またちょっとした仕草に品が感じられ、育ちの良さが伺える。


それはそうだろう。彼女は、業界では一代グループを築く一族、その現当主の実の娘である。つまりは正真正銘のお嬢様。名を夏河皐月といった。


そして、突然に皐月の前に現れた護衛の青年。若林。彼はかなり若く見えた。恐らく二十歳くらいか、二十歳を少し過ぎた頃だろう。下手をしたらまだ成人前かも知れない。要人の護衛の仕事に就くには若すぎるような気もするが。


身の丈は175センチ程度だろうか、体格はやや細め。顔立ちは比較的整っているが、どちらかと言えば中性的に見える。黒縁の眼鏡の奥は糸目、口元には常に微笑を湛えており、知的で人の良さそうな印象を受ける。体格と合わせて護衛と言うには少し頼りない気もするが。


服装は良家の子女の前に出るのに相応しく白シャツに黒のベスト。その上からやはりブラックのジャケットとスリーピースのスーツに身を包んでいた。まだ年若い割にはスーツの着こなしがそこそこ様になっている。しかしそのようにしっかりと身嗜みを整えているようなのに何故かノーネクタイだった。


「はい。僭越ながら、秋永様より申し付けられました。何分田舎育ちの粗忽者なので失礼もあると思いますがご容赦下さい」


そう若林は言った。秋永とは夏河の当主。つまり彼女の父である。


「お父様がですか?しかし……」


目の前の青年が父親が雇った人間と聞き驚きを見せる皐月だが、やはり釈然としない様子で続けた。


「こういう言い方はそれこそ失礼になるかも知れませんが……私に護衛の方が必要だとは思えないのですが……?」


その疑問は最もである。子供の頃以来から外に出ることが許可されていない彼女に護衛なんてこれまでついては居なかった。当然だが屋敷のセキリュティは厳重で、屋敷から出ない以上危険な事などないし、護衛の必要があるとは考え難い。


「その事ですが、秋永様より言付かっている事があります」


その言葉に皐月はどきりとした。父からの言葉とはなんなのか。


「お父様はなんと?」


「端的に言いますと、お嬢様に外の世界へと出てほしいそうです」


「えっ?」


若林の言葉に驚愕した。何故?今まで私に屋敷から出る事を禁じていたお父様が。


「お父様が本当にそう言ったのですか?」


皐月は愚かではない。父親が自身を屋敷に軟禁するような事をするのにも事情があるのだと理解している。何せ自身の生まれは名門、夏河家なのだ。


政財界では途轍もないしがらみがあるのは分かる。皐月には優秀な兄や姉達もいる。世間知らずと自負している皐月だって、具体的な事情は分からずとも父親が自分を持て余しているのだという事はわかる。


「はい。秋永様は、皐月お嬢様には夏河の人間としてこれから様々な所に出向いて見聞を広めて欲しい、との事です。その為、外出時の護衛として私が遣わされました」


外の世界へ出て、いい?


若林という男の来訪と共に、突然憧れていた世界へと急に開けたという事実に皐月は、喜びより困惑を深めた。


「どうしてお父様は、そのような事を突然……」


「私はあくまで護衛として秋永様に派遣されただけですので秋永様のお考えまでは分かりかねます。ただ、秋永様にも、もちろんお考えがあって、それは皐月お嬢様を思っての事なのではないでしょうか」


若林の言葉に、皐月は考える。お父様が私を思って?しかし何にせよ。


「私は……外の世界へ出て、いいのですか?」


「もちろんです。私がここにいる事がその証左です。もし信じ難いのでしたら、他の使用人の方を通じて秋永様へ事実確認すると宜しいかと」


「いえ、貴方を疑っている訳ではないのです。申し訳ありません」


流石に皐月も今この屋敷の自分の部屋に居る事が出来る人間が、そんな大法螺吐くとは思えない。ここに居る以上、本当に父親の手の人間なのは間違い無いのだから。


つまり外の世界へ羽ばたける、のだろうか?


「あぁ、どうしましょう」


「如何されました?」


「いえ……当然外へ出てもいいと言われましても、恥ずかしながら子供の頃以来何処にも出てこなかったので、何処へ行ったものかと困っているのです」


そう言いつつ皐月は嬉しさ、高揚を隠し切れずに紅潮した頬を抑えていた。


クスリ、と若林は一つ笑って答えた。


「お嬢様の思うがままに何処へでも。何処へだって行けるように私がいるのです」


………

……


「わぁ〜〜」


街中の人々を見て、皐月は言葉にならぬのか歓喜と感嘆の混じったような声を出した。


あの後、突然の外出許可にやはりどうしたものかと迷う皐月に若林は、別に焦らずとも良いのですからまずは身近な所からは如何でしょう。という進言をした。


皐月は、それがいいと思った。何せ屋敷の外に出るのは子供の頃以来なのだ、それでいきなり海外旅行を画策するのは性急に過ぎるだろう。何せ十年近く振りに外に出るので少し怖くもあった。


それでまずは屋敷から程近い駅前まで出向く事になった。皐月からすればまずはちょっとしたリハビリ感覚だ。屋敷の使用人が運転手も出来るとの事なので、車を出してくれた。


そうして、皐月は半ば遠い世界だと思っていた屋敷の外に降り立っていた。


「人がいっぱいいますね」


「いますねぇ」


皐月の言葉に護衛として唯一人お付きになっている若林が目を細め、微笑しつつ相槌を打つ。


彼は皐月の少し後ろで護衛としては泰然自若と佇んでいるが、一応周囲には気を配っているのだろうかその佇まいからは分かりにくい。ただいるだけのようにも見える。


「とても昔ここには来たこともありますが、何だか大分様変わりしているようにも感じますね」


私の記憶があやふやなだけかも知れませんが。と皐月は続ける。確かに外に出るのは子供の頃以来。ここもその時の事しか記憶にないが、どうも印象と違う。


それに答えて若林は言う。


「実際変わっていると思いますよ。近年は変化の激しい時代ですし、ましてや駅前なら数年でも様変わりします」


「そうなのでしょうか」


そういいつつ、皐月はあちこちに顔を巡らせていた。良家の子女らしく、淑やかさを保とうとしているらしいがやはり好奇心を隠せないらしい。


それを見てとって若林は目を細めつつ言う。


「ともかく好きに探索したらいいのではないでしょうか。もし困った事があったら言って下さい。お助けしますので」


若林はそう進言した。どうでもいいが、華美な服装に身を包んだ皐月とその後ろに控えるブラックスーツの若林は少し人目をひき皆すれ違い様に一瞥していた。


「そう、ですね。ともかく少し歩いてみます」


皐月は頷いて、一歩踏み出した。と、そこで思い直したようにくるりと若林に向き直った。


「どうしました?」


「若林さん。色々ご迷惑をお掛けすると思いますが、今日から宜しく致します」


初対面で挨拶してくれた若林にちゃんと応じられなかったのを非礼だったと思ったのだろう。改めてそう微笑んで言った皐月に若林も答える。


「えぇ、こちらこそ改めてまして宜しくお願いいまします」


クスリ、と一つ笑って皐月は改めて歩き出した。少し遅れて若林も追随する。


そうして皐月は街をゆっくりと歩いて見て回った。外の世界は目新しいものだらけで、興味をもったが何を取り扱っているのか分からない店などは若林に積極的に尋ねた。若林はそれに一つ一つ丁寧に答える。


長年外に出る事はなく、人とも殆ど決まった人としか交友がなかった割には今日初対面の若林にも物怖じせずに接していた。恐らく皐月は生来人懐っこい性格なのだろうと見てとれる。若林が歳がそんなに離れておらず、また彼の物腰も柔らかい事で親しみやすいのもあるのだろうが。


「あれ?あれは……」


そうして特に何処に立ち寄るわけでもなく散策を続けていた皐月が大きな店舗を見てとって興味が湧いたのか足を止めた。


「本屋ですね」


「本屋さん!あのように大きな……」


若林が教えると、皐月は軽く感激したように声をあげた。彼女は屋敷に閉じこもっていたので良く本を読むのだ。


「寄ってみますか?」


「いいのですか?」


「もちろんです。見聞を広げるなら、どんどん飛び入るくらいのつもりのでいいのですよ」


若林はそう進言すると、皐月は高揚を隠せず頬を少し紅潮させて頷いた。


「では、寄ってみます」


そう意気込んで、皐月は書店へと足を踏み入れた。そうして店内を見て目を丸くした。


「わぁー、本がこんなにいっぱい……」


広い店内には見渡す限りの書棚に、平積みにされた、本、本、本。本好きの皐月からすると目を回しそうな光景だ。


皐月は普段外に出れない為新しく欲しい本はみなネットでの通信販売で購入していた。単純に品揃えという点ではネットの方が大抵の書籍が手に入るだろうが、しかし、現物として本がこれ程山のようにあるのは初めての光景で圧倒される。屋敷の書庫ですらこんなに本はない。皐月から見て垂涎ものだ。


「結構品揃えが良さそうですし、ゆっくり見て回っては如何でしょうか」


「そうします!」


控えていた若林がまた声をかけると皐月は今度は一二もなく本棚を回り始める。棚ごとに分けられた広範な分野の本の数々に興奮を隠せず、彼女はかなりの時間をかけて見て回った。


「あ、この人の新刊出てたんだ……」


そんな折、皐月は平積みにされている一冊の本に目を止めると呟きながら手に取った。若林が一瞥すると新作の青春小説らしかった。皐月がファンの作家なのだろう。


「買っていきますか?」


「でも私お金持ってなくて……」


そういえばと、皐月は今更自分がクレジットカードも現金も何も持っていない事に気がついた。それはそうである。彼女は長らく屋敷から一歩も出ない生活をしていたのだ。彼女自分がお金を持つ必要があるはずもなく、自分の財布すら所持していない。


「あぁ、私が出しますよ」


「え!?」


「あ、いや。私が自腹を切るという訳ではないですよ」


驚愕した様子の皐月に何か勘違いされている気がした若林は継げ足した。


「必要経費として後で落としますのでご安心なく。そもそも様々な体験をするのにもお金は必要なので、お嬢様は興味を持った事には好きに使ってもいいと仰せつかっております」


「そういう事ですか。でしたらこれは買っていきます」


若林の答えに嬉しそうに皐月は言った。よっぽど欲しかったのだろう。


その後も少し書店内を見て回ったが、結局皐月はその一冊だけを購入しーー支払いをしたのは若林だがーー紙袋に入れられた本を手にホクホクとした顔で書店を出た。


「お持ちします」


「いえ、このくらいは大丈夫ですよ」


令嬢に荷を持たせるべきではないと気を利かせたのか若林が申し出るが、皐月はそれを微笑んで断った。むしろ大事な物を自分で持っていたいという風だった。


若林の役割りはあくまで護衛なのだが、このような気遣いは護衛というよりまるで使用人だ。


しかし、皐月は長々と店内を見ても購入したのは僅かに一冊だったからいいが、もし片っ端から何冊も買っていたらどうなっていたのか、ビブリオマニアなら充分あり得る事だ。


仮にその場合、重くて嵩張る荷物はどちらにせよ若林が持つことになるだろうが、そしたら今度は護衛として差し支える事になりそうだ。


ーー最も、それでも彼の仕事には全く差し支えはないのかも知れないが。


そうして、また皐月は若林と連れ立って暫く散策していたが、先程の書店に比べると随分小さな店舗に目を止めた。


「あら、あれは……」


「所謂、ファーストフード店の一つですね」


「それくらいは知っていますよ。ハンバーガー屋さんですよね」


端的に説明した若林に、クスリと笑って皐月は応じた。まぁシェアNo. 1の有名ハンバーガーチェーンである。如何に世間知らずとは言えそのくらいは流石に知っているだろう。


「食べた事はありますか?」


「いいえ、一度もないです」


子供の頃は外に出る事もあったが、しかしその時もそんな機会は無かった。というか、そもそも考えてみれば、皐月はハンバーガーに限らずファーストフードフードの類いは口にした事はない。


外食した事はあった記憶もあるのだが、彼女が行ったことがあるのは料亭や高級志向のレストランくらいで、ファーストフード店や大衆向けレストランとは縁が無かった。そう考えるとそこまで絵に描いたようなお嬢様もそうそう居ないだろう。


「なるほど……」


呟きながら、若林は右手に嵌めた腕時計に目を落とす。丁度正午を過ぎた辺りだ。


「もし、興味があるなら食べていきますか?」


「え、いいのですか?」


「はい。昼食には丁度良いかと。最もお嬢様のお口に合うかは分かりかねますが」


「食べてみたいです!」


若林の提案に皐月は軽く身を乗り出す勢いで言った。そこで少しはしたなかったかと身を引き、少し頬を紅潮させて取り繕うように言った。


「いえ……実は小説の中でもこういう所はたまに出るので、どのような物かずっと興味があったのです……すみません、子供っぽいですよね」


顔を赤くして縮こまるようにポツポツと言う皐月に若林は一つ笑いかけて言った。


「そんな事はありませんよ。ではいい機会ですし試してみましょうか」


そうして、若林は皐月を引き連れるように入店した。


「いらっしゃいませー」


入店した二人に、クルーの挨拶がかかる。若林は目を細めたまま店内を一瞥する。昼時だが、幸いというか客は疎らだった。平日だからだろう。同じく皐月も物珍しそうに店内をキョロキョロと見回していた。


なお、カウンターのクルーは妙に身なりの良い子女とブラックスーツを着こなした若者の二人組の来店に少し目を丸くしていた。


「注文はこちらから」


若林はそういいながら注意があちこち散っている様子の皐月をカウンターへ何気なくエスコートする。


「こちらでお伺いします」


応じたクルーに若林は制するように手を挙げ少し待って欲しいと合図する。他に並んでいる客はいないから多少もたついた所で迷惑にはならないだろう。


「このメニューの中から食べたいものを注文するんです」


「色々ありますね……どれにすればいいか……」


初めてのハンバーガーという事で、皐月も迷っている。まぁ、ボリュームも分からないだろうし、それ以前にどのようなものが出てくるのかも見当もつかなければ決めるのは難しいだろう。


「食事ならセットメニューが量的にも宜しいかと。最初なら割とベーシックな方が……」


適当に助言をしながら、若林は皐月に選択を促す。そうして後から来た客が後ろに二人程並んでしまう程度に時間をかけつつ注文と支払いを終えた。


そして、二人は注文した品を受け取り店内の席に着いた。皐月が注文した品はチーズバーガーにポテトとコーラのシンプルなセットだった。さほど量はないが、あまり沢山買ってファーストフードなど食べ慣れないお嬢様の口に合わなかったら困るので無難ではあるか。


「あの……若林さんはそれだけでいいのですか?」


対面の席につく若林に皐月は遠慮がちに声をかけた。彼はアイスコーヒーを一つ頼んだのみだったからだ。


「ん?えぇ。私はこれでも護衛として仕事中ですから。流石に無警戒に食事を摂っていて不覚を取る訳にもいきませんから。お気になさらずに」


眼を細めたまま一つ笑って若林はそう答える。さっきからこの男はあまり護衛らしくはないが、普通に考えれば確かに警護対象と護衛が一緒に食事を摂るはずもない。とはいえ何も注文もせずに店内に居座るのも憚られる為に折衷案として飲み物だけ買ったという所だろうか。


そう言われればそうなのだろうが、何せ自分に護衛がつくなんて事が恐らくは初めてだから流石は少々恐縮する。


正直な所、皐月は自身に護衛が必要だとはいまいち思えない。そもそも外に出た事自体幼い頃以来で、誰も自分の事等知らない筈だし何かあるとも思えないのだ。


そんな事を言っては若林の存在否定になりかねないので間違っても口には出来ないが。しかし、護衛云々は兎も角としても今日は彼にずっと世話になりっぱなしなのは確かだし、有難かった。


「まぁ、お構いなく。どうぞ召し上がって下さい」


「ありがとうございます。では、頂きます」


若林に促され、皐月は手を合わせる。若林はあまり見つめては食べにくいだろうと配慮したのかコーヒーを啜りながら目線を逸らす。


ハンバーガー自体は初めて食べるが、本や映像作品の描写で食べ方自体は一応分かる。食器を使わずに素手で食べられる筈だ。


まずは付け合わせのフレンチフライ。つまりフライドポテト。これ自体は食べた事くらいある。しかし、屋敷の食事で出るものとは大分違いそうだ。手で摘んで一つ口にする。


……細めのポテトは歯ごたえが良かった。しかし、細切りの為かあんまりジャガイモという感じがしない、何というかチープな印象も受ける。味付けはシンプルな塩であり、香ばしいフライには合っているか。


「なるほど、このような物なのですね」


「ポテトっていうのはファーストフードでもチェーンによって結構カットの仕方や食感が色々違って個性があるものですよ。人によってどのようなモノが好きかという好みもありますね」


ポテトを口に運びつつ小さく頷く皐月に、若林は穏やかに説明した。


「でしたらこちらも……」


そう呟きつつチーズバーガーを手に取り包みを捲るとハンバーガーが現れる。これはこのまま手に持ってかぶりついてしまっていいものの筈だ。


いい、筈だが間違っていないだろうか?と一瞬不安になり皐月はさりげなく周囲を伺う。客の一人がそのようにハンバーガーにぱくついているのを見て問題ないと判断した。


なので改めて一口齧ってみた。


……これは何とも、先程のポテトに輪をかけてチープだった。パティにしてもチーズにしてもパンズにしてもだ。味付けも濃くて大雑把だ。


だが、不味いという訳ではない。粗雑でありながら不思議とよく纏まっていて、このようなモノを食べ慣れない皐月からしてもそこそこ食べられる味であった。


「これは、初めて食べる味ですね。今まで私が食べたものでは例えるものがないような……」


「確かに独特かも知れませんね。基本的に低コストに抑えて低価格が強みの店ですし、良くも悪くもジャンクフードと言った若者や子供向けの味ですしね」


「えぇ、でも中々美味しいですね」


そう言って皐月は嬉しそうに小さな一口でぱくぱくと食べ進める。


「お口に合ったようなら良かったです」


流石に感動する程美味しいという訳ではないが。しかし、ジャンクフードというモノを試したかったお嬢様にとっては十分楽しめるようだった。


コーラは流石に皐月でも飲んだ事くらいはある。特に変わり映えしないコーラだった。しかし、ジャンクな食事には不思議と合っているような気がする。


「……食べますか?」


しかし、さっかからどうにも一人だけ食べているのが居心地悪く、皐月はポテトの容器を差し出した。お昼だし仕事中とはいえお腹もすいているだろうと慮っての事もあった。


「いえ、いや、では少し頂きます」


若林は一瞬断りかけたが、ここは厚意を受け取った方が適当だと考えたのか結局頷いて一つポテトを摘んで口にした。


「私も普段は余りこういったものは食べないのですが、たまに食べると中々美味しいですね」


「若林さんもあまり食べないのですか?また違うお店が好きだとかですか?」


若林のこぼした感想に、口の中のモノを呑み下してから何気なく皐月は聞き返す。


「いえ、私もそんなにファーストフード店等は利用した事はない方なんですよ。と言ってもお嬢様のように育ちが良いから等ではなく、むしろ私は育ちが悪い方なのですが」


「単に私は田舎育ちでして。何せ何もない所だったので、こういった若者向けチェーン店なんて気の利いたものすらないくらいでした」


そう、軽く生い立ちを話す若林に対して、なら田舎から出てきてなぜこんな仕事を等と皐月は興味を抱いた。何せ若林という青年がプロの護衛というのはどうにもそぐわないというのは世間知らずを自覚している皐月でも分かる。


まずもって歳が若すぎる。皐月と比べ、少し歳上だろうという程度で然程歳が変わらないのだ。プロのSPというのはもう少し年嵩ではないだろうか。


それに皐月には護衛というのはもっと分かりやすく強そうだったり、強面だったりして威圧感があるイメージがあった。こんな事は失礼でとても言えないが物腰穏やかで細身の若林は強そうには見えない。無論護衛として遣わされている人間が弱い筈がないとは分かっているのだが、少なくとも見た目での威圧等は出来そうにないのではないか?


今日の立ち居振る舞いを見ても、護衛というより、使用人だ。使用人と言うなら皐月の屋敷にも若い人はいるから分からなくもない。


ならば、父は護衛という体で実質は使用人として若林を雇ったのかも知れない。皐月はそう考えた。


しかし、滅多に会う機会もない実の父親を思う。思慮深く、徹底的で、そして冷徹。そういう印象の人だ。あの人が単に体裁だけ整えた護衛など雇うだろうか?皐月はそうも考えた。


「では、地元から出てきてどうしてこのようなお仕事をされているのですか?」


会ったばかりで少々不躾かとも思ったが、食事をしつつ皐月は聞いてみた。


「それはですね、私は田舎にいた事子供の頃から古い武術を伝えている道場で学んでいましてね。こう見えても腕に自信はあるのです」


「なるほど、所謂古武術というものですか?」


「えぇ、そうです」


皐月は専門外な為、古武術については良くは分からないがしかし、護衛等やるくらいなのだから何かしらの武道、武術の心得があるのは当然の事だと頷ける。


ーーまた、所謂古流の武術は現代では流派の数も少なく、現代武道に比べて遥かにマイナーだが各地に散在しており辺鄙な田舎に歴史ある流派の道場が今も現存しているという事はままある。


元来が戦場、合戦、修羅場から発達してきたその技術体系は大変血生臭く、極めて合理的な殺人術であり実戦的……と信じられている節があるが、現実にはそうではない。


平和な現代の日本ではそのような殺人的武術を収めようと、そもそも使う機会がまずない。というか使えない。これは実際にルールのある試合で腕を試し、競い合える現代武道とは大きな違いだ。


つまり、明治の文明開花……そして第二次大戦より後の平和な世で使われる事の無かった古流はほぼ形骸化してしまっている。道場など実際は型の保存会に等しいのだ。




何故ならもう先の時代の実際に遣えた人々がもう残ってはいないのだ。如何に型に合理的な殺人の理合が含まれていても、それをやっている人が型に含まれた重要なエッセンスを理解していないケースが圧倒的なのだ。つまり活きた殺人術など遣える人は現代ではまず居ない。


型はあくまで型である。それに如何に素晴らしい術理が含まれようと、やっている本人がそれを理解せずにカタチだけなぞっているだけでは児戯にも劣る。



しかし、そんな流派が大半の中でもごく一部に活きた武術を伝える事が出来る達人も現代でも確かにいたーー


閑話休題。詰まる所、腕がいいからお父様に見込まれたのだろうか?と皐月は思った。


「つまり、若林さんはお強いのですね」


「はい。強いです」


皐月がそう何気なく返した言葉に、若林は迷いなく即答した。それに皐月は思わずぐっ、と詰まった。


これまでの若林の物腰からして皐月は、相手が謙遜すると思ったのだろう。しかし、若林はさも当然の事実だというように己は強いと返したのだ。


別に強そうに見えないとか、強くないのでは云々以前に、そこまで当たり前の様に返されて皐月は続く言葉が思い浮かずに閉口してしまった。


それに対して若林は一つ微笑を深めて言った。


「意外ですかね?」


「いえ、お父様が雇いになる人は皆凄い人ばかりなので、意外なんてことはありません」


そうだ。皐月の言う通り、自身の父が無能を雇うわけがないとわかっているから当然弱い護衛をつける筈がないと分かってはいた。そこに意外性はない。


ただ、意外なのはこれまでの印象で非常に物腰柔らかな若林が、謙遜するでもなく絶対な自負を感じるように己が強いと言い切った事だ。


「いや、私は弱いです。暴漢が現れても誰も勝てませんと言う人が護衛についてもお嬢様も不安でしょう?」


「まぁ、そう、かも知れません、ね」


言われてみれば最もではあると皐月は思った。私はピアノが弾けません。と言う人にピアノの演奏を任せるか、絵が全然描けませんと言う人に絵画を描かせるかという話だろう。それはまぁ、自負と自信のある人に任せるに決まっている。


「とはいえ、私は自分の強さにまだ納得が言ってないのですよ。もっと高みへ至りたいのです」


そう、若林はコーヒーを一口飲みながら続けた。


「つまり、若林さんは強くなりたいのですか」


「平たく言えば。今はこの様に護衛を務めさせて頂いてますが、私は護衛が専門という訳ではなく、他にもリスクのある所の警備だとか、フリーランスに色々やっているんですよ」


自分とそんなに歳が変わらないのに、そんなに色々やっているのかと尊敬の念を抱きつつ、ハンバーガーを咀嚼して呑み下し、皐月は言った。


「それでお父様に頼まれたのですか」



「はい。ありがたい事に私の今までの実績が評価されてまして……今回お嬢様の護衛を務めさせて頂く事になったのも私の事を秋永様が目にかけて頂けたからなのです」


「それは……つまりそれだけ今までご活躍して来たのですね」


「はい。まぁ、活躍と言うには聞いていてあまり面白い話ではないので人にはあまり話せませんが」


それは皐月としては幸いだ。彼女は正直暴力が嫌いだった。仮に武勇伝など語り出されたら困ってしまっただろう。


しかし、そのような事もしない若林に武に携わる人間としては品格もあり人格者だと皐月には感じた。


「節度を保つ。という事が出来るのは素敵だと思います」


偉そうにすみません。と一つ頭を下げながら皐月はそう述べる。


「兵は不詳の器也、天道之を悪む。という言葉もあります。元より武術など人に誇れるような技術ではないですし、結局の所私みたいなものは外道なんですよ」


「いえ!そんな事はありません。若林さんは御立派な方だと思います。それにどんな技術でも努力して身につけたモノは誇ってもいいと思います」


それは流石に卑下し過ぎだろうと、皐月は直ぐに強く若林を肯定した。


ーーしかしどうであろうか?それが外法だと理解しながら、進んでその道に堕ちる者が果たして単なる人格者か……


「ともかく話を戻しますと、あえて危険な事態に直面する可能性のある仕事に就くことで、少しずつでも自分の腕を高めたいと思ったのです」


「向上心が豊かなのですね。素敵だと思います」


そう自身の仕事への動機を締めくくった若林に、皐月はそう答える。社交辞令ではなかった。皐月の趣味とは異なる武の道だが、直向きにそれを極めんとする姿勢は眩しかった。


そう言われて、若林はふと微笑に苦味を交えて首を小さく振って言った。


「いえ、少々不謹慎でしたね。まるで私が仕事でお嬢様に危険があればいいと思っているみたいに聞こえたら申し訳ありません」


「まぁ、それは確かに私も困ってしまいます」


クスクスと笑って若林の言葉を受け流す皐月。流石に皐月も若林がそんな事を望んでいるとは思っていない。


「ですが、お父様がそんなにお強い護衛をお付けになったなら私は実は危険な身の上なのでしょうか」


含み笑いを漏らしながらそう皐月は続けた。もちろん冗談である。


「いえいえ、とんでもない。秋永様もまず何もないだろうが。とおっしゃっていましたが、それでもお嬢様様が心配だったのですよ」


微笑して手を振り若林は否定した。


「まぁ、結局のところ護衛なんて何事も起こらずに、役立たずで終わるのが一番なんですよ。私みたいなのが働かずに済むのは一番平和です」


ーーしかし、それは違う。例え何も起こらずに平和に終わったとしてそれは護衛が役立たずだったのではない。


護衛とはいざ実際に危険が迫り、暴漢に立ち向かい。あるいは身を盾にして護衛対象を守る。そういう英雄的行為。戦士としての働きを人々から称賛される……というのは本意ではないのだ。


孫子に曰く、善く戦う者の勝ちに、智名無く、勇功無し。これは余りに優れた兵法者の働きは誰が見ても分かる見事さなどない為、誰にも賞賛されないという事だ。


誰が見ても分かりやすく凄いという領域はまだ武芸としては未熟である。


優れた護衛の働きとは、例え良からぬ事を考えた暴漢が近寄ってきても何も出来ずに断念させる事。何気なく立ち居振る舞いで護衛対象へ一切付け入る隙を与えない。故に護衛を危険に晒す事は無く。そして自身が賞賛される事などない。


護衛対象が暴漢に襲われ、体を張って対象を守り、暴漢を取り押さえる。護衛は人々から絶賛されるだろう。しかし、少なくとも暴漢に攻撃されてしまい、武技を持ってするしかなかった時点で実は護衛としては下手を打っているのだ。


やはり孫子に曰く、百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者也。


居合術の世界なら抜かずして勝つ。鞘の内。つまり武の極地は戦わずして勝つ事。


若林の言う役立たずの護衛とは、その域であろう。役立たずなのは見かけだけ。しかしその実その者の働きで危険は表面化する前に耐えず潰されている。


では、若林はどうなのか?


ーー食事を終えて、満足そうな皐月を見てしかし、少しの気疲れも見てとった若林はそれとなく帰宅するかどうか提案した。


皐月は今日の所は。と頷いた為、若林は携帯を取り出して運転手に連絡して迎えを頼んだ。


帰りの車の中、後部座席で皐月はうつらうつらとしていた。恐らく子供の時以来の外出で、楽しんだ反面気疲れも大きかったのだろう。若林は隣に控えていたが目を細めてぼんやりしていた。走行中の他の車等に注意を払っているのか、そんな感じはしないが。


「今日はありがとうございました」


「いえいえ、これが私の仕事ですから。お役に立てたなら良かったです」


屋敷に着いた後、皐月は若林に礼を言った。彼女はまだ眠そうだった。


「えぇ、若林さんのおかげでとても楽しかったです。外の世界は本の中だけでは分からない事が沢山あるのですね」


「はは、ありがとうございます。まぁ、今日の所はお休みください。またいつでも行きたい所には行けるのですから」


「また、外へ行く時には私を守って下さるのですか?」


皐月の問いかけに若林は微笑して頷いた。


「はい。もちろんです。お嬢様は私が必ずお守りします」


その力強い言葉を聞いて皐月は若林の顔を直視し続けられずに思わず目を逸らした。頬は紅潮していた。


「外出する時にはいつでも、いやそれ以外にも御用がありましたら気軽に呼んでください。暫くはこの屋敷に滞在しているので」


「はい。そうさせて頂きます」


「では私はこれで失礼します。ごゆっくりお休みなさいませ」


「今日はありがとうございました。若林さんもお休みなさい」


実際にはまだ大分就寝には早い時間だが、そう挨拶を交わし

若林は一礼するとその場を辞する。皐月は彼の背中を見送るとまだ少し上気した頬を押さえて一つ息を吐くと自室へと戻った。


若林は皐月の前を去ると、スッとそれまで浮かべていた微笑を消した。まるで自宅かのような気軽さで歩いて休憩室へと向かい、ドアを開けて入室した。


休憩室の先客に一人歳若いメイドが居た。栗色の繊細そうな髪を一纏めにして縛り、綺麗な顔立ちをしていた。若いとは言っても若林より少し歳上だろうか。その彼女は見慣れない男に怪訝そうな目線を送っていた。


そして、ハッと気がついたように言った。


「貴方はもしかして、お嬢様の護衛という……」


流石に屋敷内でも噂になっているのだろう。メイドはそう訊ねた。


「はい。今日からお嬢様の護衛として務めさせて頂く事になりました若林と申します」


若林は口調こそ丁寧だが、全く表情を変えずにそう挨拶した。そしてメイドは彼の眼を真っ直ぐに見てしまった。


「ッ!」


「あぁ、この部屋は喫煙しても大丈夫ですか」


「……えぇ、大丈夫です」


一瞬絶句したメイドは、抹茶色の煙草のソフトパックを取り出して訊ねる若林に目を逸らしながら少し遅れて答えた。


「ではごゆっくり」


メイドは余所余所しい態度でそれだけ言い、若林の挨拶には結局返礼はせずにさっさと退室してしまった。


若林は、椅子に座るとポケットから先程の外出時についでに買ってきたブラックの缶コーヒーを取り出して、灰皿を引き寄せながら紙巻き煙草を咥えたーー


………

……


それからの皐月は様々は所へと出かけた。


本で読んだ中で行ってみたかった場所。動物園、公園、フラワーパーク、図書館、神社、様々な所に出向いた。流石にまだ何処かに泊まるような事はしなかったが、日帰りで行ける範囲は色々試した。


それに常に護衛として若林が着いていた。彼は堅苦しくない柔らかな物腰で皐月を時にフォローし、時に色々な事を解説し、時に何気ない雑談相手になった。


皐月にとって毎日が眩しかった。


それまでの屋敷の中だけの日々が不満だったというというつもりはなかった。しかし、同じ事の繰り返しの毎日から、毎日違ったものが見れる今は眩しかった。


いつかはーーもっと遠い所に旅に出てみたい。そう皐月は思った。数日何処かに泊りがけで遠出。もっと遠い所をゆっくりとみて回れるだろう。


それにはお父様の許しがやっぱりいるだろう。でも、私が外の世界へ出る事を許してくれたお父様なら頼めばあるいは許可してくれるのではないか。皐月はそう考えた。


そうしたらその時は、若林も一緒に自分と来てくれるだろうか?今みたいに旅先でも私を助けてくれるだろうか?彼はお父様が頼んだ自分の護衛なのだから


ーーそのくらい期待してもいいよね。


そして、皐月はいつしか漠然と思った。いつかは、もっと世界中を、もっとたっぷり時間をかけて旅をしてみたい。そうして、自分が見聞きした世界を元に自分が今まで読んできた素敵な本達のような物語を自分も紡いでみたい。


そんな、夢を抱いていた。


「ーーいつか、一度でいいからここに来たかったのです」


「なるほど……綺麗ですね」


その日、皐月は若林と共に水族館を訪れていた。皐月が本で読んだ中で、一番心惹かれる描写の舞台だった。


水族館の通路は暗く、しかし大きな水槽のアクリルを通して蒼い光が差し込んでいた。水槽の中では色とりどりの煌びやかな魚達。また時にはマンタのように何処か恐怖感を煽る魚もいて、非日常的で幻想的な空間だった。


「本当に……想像していたよりずっと綺麗」


そう、感じ入るようにアクリル板の向こうで泳ぐ魚達を眺めながら皐月はこぼす。若林はその後ろに自然と控えていつものように糸目に微笑を浮かべていた。


やはり本で読むだけじゃわからない事がこの世界には沢山ある。こうして外の世界を見て回って今まで知識で知っていた事を、初めて実感として楽しめる事が出来た。


あぁ、そうか。唐突に皐月は気がついた。これが


「自由……」


そう言って、皐月はそれを身体一杯で満喫するように手を広げた。


私は、これが欲しかったんだ。


自由に泳ぐ魚達を仰ぎ、手に入れたそれを両腕いっはいに抱くように蒼光を浴びる皐月は、絵画的な美しさがあった。


「私、鳥に憧れていたんです」


「鳥、ですか?」


大小、種類も様々な沢山の魚達が泳ぎ回るトンネル型の水槽。まるで海の底を進んでいるような淡い青の光の中の通路を歩きながら皐月はそう言った。


「えぇ、大空を自分でどこまでも飛んでいけるなんて、とても自由じゃないですか」


「……なるほど。確かに鳥は自由の象徴ですね」


若林が頷く。でも、と皐月が続けた。


「こうして水族館に来て考えたのですが、大海を泳ぐ魚達もまた自由なのではないか、と」


「鳥と魚が、ですか」


皐月の少し後ろを歩く若林が曖昧に相槌を打って少し考える。


「鳥は飛ぶ事は出来るけど泳ぐ事は出来ず。魚は泳ぐ事は出来るけど飛ぶ事は出来ない。鳥は地面より高い空を飛び回り魚は地面より低い海を泳ぎ回る。そう考えると対照的ですね」


「ですが、仰る通り鳥も魚も自由という同じ根を持つ存在なのかも知れません。ですが向かう方向は真逆と考えると面白いですね」

 

若林が考えついた事をそう語ると、皐月もクスリと一つ笑って返した。


「真逆とか対極、相容れないように見えて根っこは同じ事って案外あるのかも知れませんね」


皐月の思いつきはある面で正しいだろう。例えば古代ギリシャの哲学書ヘラクレイトスはエナンティオドロミナという概念を唱えた。これは対立物の同一性の原理だ。


「あと、魚はキリスト教では割と出てくるモチーフですね。例えば磔刑にかけられて死んだキリストが三日目にして復活した後にまず魚を食べたなど。言わば魚は復活や再生を象徴しているのでしょうか」


若林も思いつきを深く考えずに言った。しかし、であるならばその対照となる鳥は何の象徴だろうか?例えば受難。あるいは……


「若林さんは……自由、ですか?」


今まで皐月は自由に憧れていた。そこでふと皐月は思った、若林はどうなのだろうと。


「私が自由か、ですか?」


問われた若林は少し虚を突かれたような顔をした。そうして、一考すると口を開いた。


「言われてみると自分が自由かどうか……というのは考えた事はありませんね」


その無関心な様子は、有体に言って若林という人間はあるいは自由なんてものに興味はないのかも知れない。自分が自由だろうが奴隷だろうがどうでもいいのではないだろうか?


二人はトンネル水槽の通路を抜ける。皐月は引き続き、水槽の魚や解説のパネルを見学しつつ若林との話を続けた。電気ウナギなのど少々物珍しい魚類が多い所になってきた。


「鳥に憧れている。と仰いましたが例えばお嬢様もその身一つで空を飛び回りたいと思った事はお有りでしょうか?」


「そうですね、やはり子供の頃は空を自由に飛べたら。なんて考えていましたよ、子供っぽいかも知れませんが」


事実子供だったのですけれど。などとはにかみつつ皐月は答えた。


「別に子供っぽいとは思いません。むしろ空を飛んでみたいというのは人類にとって太古からの普遍的な欲求なのだと聞きます」


でも、と若林は続けた。


「私はその手の事を欲求した事がないのです」


「もちろんお嬢様の夢を否定する訳ではありません。しかし、人間はずっと地面を蠢いてやっていけた訳ですし、特に空を飛ぶ必要もないと私は思ってしまうのですよ」


「確かに別に空を飛ぶ必要自体はありませんね。私だって飛べたらいいなぁ、程度に思うだけですし」


皐月の相槌に若林は微笑を絶やさずに頷いて続ける。


「それに……鳥にしても魚にしても、私は特別自由だとは思わないのですよ。人間が地面を歩くように鳥は空を飛んでいる。魚は泳ぐ。どれにしろ、生息域と手段が違うだけで皆生きているだけだと。あまり大差はないのではないか?とも思います」


つまり、若林という人間は現実主義者なのかも知れない。或いは純粋に自身に関わりない能力というものに興味が無いのか。


「では……若林さんは自由とは何だと思うのですか?」


普段、そつのない立ち居振る舞いだが余り自分の事を語らない若林が珍しく自身の思想を語るので、皐月はそれに興味を持って尋ねた。


「そうですね……強いて私が思う自由の形を挙げるなら……」


ス、と若林は皐月の歩いている先を示した。


そこは深海魚が展示されている区画だった。二人は足を踏み入れる。


「わぁ……」


そこにある水槽の数々。深海をイメージしているのだろう。殊更に暗い中で深い藍色の光の中、様々な深海魚達に皐月は恐れとも感心ともつかぬ声を出した。


恐ろしい風体の魚もいれば、グロテスクなフォルムの魚もいる。極めて特徴的な魚達ばかりだ。中にはあまり特徴の無いのっぺりとした魚もいたがしかしそんな魚も何故だか何処か生理的嫌悪感を催させるものがあった。


「なんと言うか不思議ですね。怖いんですけど、何だか見ていると夢中になってしまいそうな……」


そう皐月は漏らした。怖いもの見たさというのにも近いのか、不気味なのにどうしても良く観察したくなるような奇妙な魅力が深海魚にはあった。


「陽光なんて一切差さない深海。ロクに何もない完全な黒の世界で彼らはゆらゆらと泳いでいる」


若林は独言るようにそう呟いた。一切の光のない深海の闇を漂う事を想像して皐月は空恐ろしいものを覚えた。そんな上下左右すら分からない黒の世界にもし自負が放り出されたらと思ったらぞっとしない。


「深い海底で自分以外の生物とすら、まず交わらない底生性深海魚ただただ黒の世界を一匹で沈んでいます」


「ーー思うに、本当に世界で一番自由なのはそんな深海魚なのではないでしょうか」


それは皐月に考えつかなかった自由の観念だった。


どこまでも澄み渡る蒼穹。その空を自分の翼で何にも遮られる事も無く自在と飛び回る鳥。あるいはどこまでもも広がる碧海。その海水の中を思うがままにどこまでも、どこまでも泳ぐ魚。


自由と言われてイメージするのはむしろ皐月のものの方が一般的であろう。しかし、屋敷の外にすら出る事の出来なかった皐月。友人との交友すら出来なかった日々。


そんな皐月の閉鎖的生活。孤独。そんなものすら生温い深海の底の孤独を若林は自由と言った。


「……世界の底で一匹。彼は一体何を思っているのでしょうね?」


若林はそう結んだ。そして皐月は理解した。若林にはきっと自分とは違う世界が見えているのだろう。


「何もない世界。何もないからこその自由……ですか」


「いえ、何もない訳ではないのですよ。むしろ何かだけが有る」


「何かが、有る……」


皐月がその言葉を考えこんでしまうと、若者は喋りすぎたと思ったのか苦笑を浮かべて言った。


「まぁ、ただの戯言みたいなものですので聞き流して下さい」


確かに、正直皐月には良くは分からない話ではあった。だが。


「私は若林さんの話なら例え戯言でも聞きたいですよ」


「はは、ありがとうございます。まぁまた機会があれば」


皐月の言葉を若林は笑って流す。皐月もあしらわれたと感じた。やっぱりあまり自分の事は語ってはくれない。


皐月がここ最近ずっと行動を共にしてきて思ったのは、若林は親切で紳士的だがしかし、何処か一線を引いているような距離感を感じるのだ。


無論あくまで護衛という仕事の上での対象だという関係だと考えればそれは当たり前のことなのだが、私の事あまり興味ないのかな?と皐月は少し気分が沈む。


皐月が得た自由は少なくとも深海魚の自由ではない。


ただ水槽の中で泳ぐでもなく佇む一匹の細長い体をして恐ろしい顔のグロテスクな魚を見る。説明が書いてあるプレートを見るとホウライエソという魚らしい。


彼女は鳥籠から飛び立った鳥なのだ。


この魚になれば或いはあの人に少しは近づけるのだろうか。


水族館を一通り回って、皐月と若林は外に出た。これからどうするかと若林が尋ねると皐月は少し歩きたいと答えたので、街を散策する事になった。


「若林さん」


「はい」


「私、ずっと自由が欲しかったんです」


皐月は歩きながら、少し後ろに控える若林に口を開いた。


「ずっとお屋敷の中から出られなくて。でも必要なものは何でも用意して貰えますし、生活に困るわけではありませんでした。でもやっぱり外の世界に憧れていたんです」


「外の世界へと出てみて実際如何でしたか?」


若林は問い返す。


「毎日が楽しいです。私はこれが欲しかったんだと思います」


「でも」


ーーそれでも、憧れていたものが手に入ったと舞い上がりから少し落ち着いて色々考えるようになった。


「これが私の自由なのでしょうか?」


「と、言いますと」


「私が外に出ても良いと言ってくれたのはお父様なんですよね」


若林は肯首した。


「はい。故に私が秋永様に護衛を仰せつかっております」


「でも私がお屋敷の中から出られなかったのも、またお父様の意向だったのです」


つまり、彼女が籠の鳥であったのも父の意思ならば今こうして籠の外に出る事が出来るのもまた父の為。


「確かに外に出る自由は手に入れました。でもこれって本当に私の自由なのでしょうか?」


有体に言って、籠の外にいるのも父の手で出されたに過ぎない。故にいつでもまた父は皐月を籠の中に閉じ込める事が出来る。皐月は思う。そんなものが果たして自由と言えるのか?自分は何処まで行っても家のしがらみからは逃れられはしないのか。


……考えてみれば傲慢なものだ。外に出たいという憧れが叶ったら、もうこれは自由なのかと考えている。本に人間とは強欲なものなのだろう。


「ではお嬢様は、秋永様の御意向からも脱したいという事でしょうか?」


「そう、ではないのです」


その時、若林の表情が消えた。彼はごく小さく一つ息を吐いた。


前を歩く皐月はそれに気付かずに続けた。


「分かってはいるのです。夏河の家は私などでは把握出来ない程大きな家です。お父様は当主として家を第一に考えてなくてはならないのだと」


「とはいえ、少し寂しいのです」


皐月が父と直接会ったのは何時が最後だろうか。確か去年の年明けだった。もう一年以上も顔を合わせていない。


最近は連絡もあまり来ない。いや、今の屋敷暮らしになってからずっとそうだった。


多分どうでもいいのだろう。


「お姉様やお兄様は優秀です。対して私は……」


皐月は自身の無能を理解していた。とはいえ別に卑下している訳ではなく、公正に自分の能力を人並みだと評している。しかし、兄や姉を踏まえると相対的に無能だと考えざる負えない。


今の屋敷暮らしになる以前は、皐月も兄達と同様に様々な教育、習い事をやっていた。皐月も熱心に取り組んでいた、しかしその結果は全て平凡。


同世代の子供と比べればもちろん優秀な方だったろう。しかし、神童と言うに相応しい結果を出してきていた兄や姉の才覚に比べたら、何処までも凡夫。


ただ単に兄や姉と比べて劣等というだけなら良かったろう。しかし、父にとってはそれだけではない。皐月は私生児なのだ。故に父は自分を持て余している。そう理解していた。とどのつまり。


「お父様にとって私は、邪魔なのでしょうね」


皐月のその言葉は、酷く寂しげだった。


「いえ、それは違いますよ」


しかし若林はーー先程一瞬見せた素の表情をもう微笑で取り繕いーー否と言った。


「秋永様はお嬢様の今後を思って見聞を広めてる欲しいと思ってお嬢様を自由にしたのです。私は娘を宜しく頼むと仰せ使っております」


つまり、と若林は告げる。


「お嬢様は間違いなくお父様に想ってもらってますよ」


「そう、なのでしょうか?」


そう問い返す声は震えていた。皐月とて今回の事でもしかしたら少しは父に想われているのかも知れないとは思ってはいた。同時にそれは都合が良すぎる考えだとも。


「えぇ、私がここにいるのがその証左です」


それを手放しで信じこみ喜べるほどに無垢ではないけれど。


「……ありがとう、ございます」


でも、少し心が軽くなった。父の考えはわからない。でも若林がそういうなら、若林と、父を少しは信じてみてもいいのではないかと思った。


「お父様が若林さんをお雇いになったのが何となく分かります」


「?」


だって、と皐月は眩しく笑って言った。


「若林さんのような真摯な方ならどんな仕事でも信じて任せられるような気がします」


「過分な御言葉恐悦至極に存じます」


若林はそう殊更慇懃に言って芝居がかっている程に恭しく一礼をした。そのある種戯けた仕草を後ろ目で見ていた皐月はクスクスと笑う。


「若林さん。私はもっと広い世界を見てみたいのです。いつかは旅に出たいですね」


「旅ですか」


「えぇ、国内のもっと遠い所まで泊まりがけで。いつかは海外の色んな所へ行ってみたいです」


「それは素敵な夢ですね」


若林は微笑したまま肯定した。


「どうでしょうか?お父様は見聞を広める為に外の世界へとの事でしたが、旅、というのも許されるのでしょうか?」


皐月のその問いに若林は一考する。


「それを決定する権限は私にはありませんが、しかし旅というのは見聞を広めて欲しいという秋永様の御意向とも重なります。伺ってみて許可を頂けるのは充分可能ではないでしょうか?」


ならいつかお父様に頼んでみよう。そして本当に許されるなら。


「その時は若林も一緒に着いてきてくれますか?」


少し勇気を出して皐月は言ってみた。


「えぇ、何処へでもお供します。それが秋永様から任されている事ですから」


若林は迷いなく答えたが、皐月は少し不満げにむくれた。嬉しいけどちょっと違う。


「もし、仕事じゃなくっても……若林さんは私と一緒に来てくれますか?」


「……仕事じゃなくても、ですか?」


「いえ、何でもないです!ごめんなさい」


皐月は振り向いて顔を真っ赤にして慌てて言った。


「ちょっと私飲み物買ってきますね!」


そう言ってそのまま皐月はその場から逃げるようにーー実際に逃避なのだろうがーー走り出した。


何言ってんの私。そう皐月の頭の中はグルグル巡っていた。きっと呆れられた、のぼせあがった小娘が色気付いてるって呆れられた。


遠ざかっていく皐月の背中を見送り追うでもなく見送り、若林は微笑を消すと、一区切りついたというように溜息を吐いた。


………

……


皐月は少し離れた所で足を緩めて一息ついた。


まだ顔が熱く、きっと赤みが引いていないだろうと鏡をみなくとも分かった。少し頭を冷やしていこう。


きっと若林も直に追いかけてくるだろうからそれまでに落ち着かなくては。とりあえず宣言通り飲み物でも買っていこうと自販機に近寄る。


自分は適当でいいが、若林は何がいいだろうか?あの人は無糖のコーヒーを口にしているのを何度か見た事を思い出すつつ、そこで皐月は自身の間抜けさに気がついた。


そもそも自分は現金どころか財布も持ち合わせていなかった。外出時の支払いは必要経費として全部若林が行っていたためだ。


自分は何をやっているのかと頭を抱えた。のぼせ上がるにも程がある。これじゃあ完全にただのばかだ。


皐月は思わず空を仰いで大きく溜息をついた。


その時道を走ってきた一台の黒塗りのセダンが滑るように滑らかに減速して皐月の後方の路肩に止まった。


そして後部座席から一人の男が降りてきた。ドアの開閉音で気づいたのか皐月も振り返る。


降りてきたのはどちらかと言うと小柄で、顔立ちは整っているが童顔の若い男だった。あまり服装に頓着がないのかラフな格好で、何か困ったような顔をしてキョロキョロと辺りを見回している。


そこで男と皐月と目が合った。


「ちょっとすみません」


「はい?」


歩み寄りながら声を掛けてきた男に多少警戒しつつ皐月は答える。


「少し道をお尋ねしたいのですが」


「道、ですか?申し訳ありませんが私もこの辺りの事は詳しくはなくて……」


ハキハキとしながらも礼儀正しそうな男の様子に警戒心を和らげつつも皐月は困惑した。助けにはなりたいがこの近辺には初めてきた皐月では道を聞かれても如何ともし難い。


「多分ここからすぐ近くなのです。地図がありますのでどこか目印なるものでも教えてもらえれば……おっと」


男はポケットに手をやってそこに何もない事に気がついて、一旦車へと戻り、後部座席に向かって地図を取ってくれないかと、どうやら同乗者に声をかけた。


「ここ多分この辺りなんですけど見てもらえますか?」


小さな地図帳を受け取り開いて、男は言った。


つい最近まで屋敷に引きこもりきりだった皐月には、正直見ても分かる気がしない。しかし、もしかしたら力になれるかも知れないし、とにかく見るだけは見てみようと思い歩み寄った。


「ここなのですが」


男が差し出した地図、指差した所を皐月は覗き込む。何となく確かにこの近辺らしいのは分かった。先程までいた水族館が描いてあるからだ。


「と、ちょっと失礼」


「え?」


その時地図を見る皐月の背中に男は自然と背中に手を回した。


そのまま、まるでエスコートでもするように強引とまではいかない自然さで皐月を押してドアが開いたままの後部座席の側へ移動する。すぐ近くなのであっという間の事だ。


「わぁ!」


そうすると後は乱暴に皐月を後部座席へ突き飛ばす。すかさず後部座席に居た同乗者の男が座席についた皐月の腕を取って引っ張り込んだ。


ほぼ同時に皐月を突き飛ばした優男も後部座席に乗り込みドアと鍵を閉める。


「出せ」


そう優男が声を出すと運転席の男が直ぐに車を発進させた。


「えっ、あの」


あっという間である。皐月は後部座席で左右を男に挟まれ自力での脱出は見込めない。何が起こったのか理解出来なかった皐月も段々と理解が追いついてみるみるうちに顔面が蒼白になっていった。


ーー護身術を教える場に行くと、まず大抵の場合は戦う事より逃げろと教えられる。それは決して間違いではない。しかし、現実はこうである。


人を害そうとする人間は相手をそう簡単には逃がしてはくれないのだ。ましてや慣れている人間相手ならまず逃げられない。例えば話しかけて逃げる機を奪う。逃げ場を潰す。そういうやり方が上手い。


大抵の武道武術では逃げろと教えながら、指導者の想定が甘すぎて現実的に遁走に使えるものは余りないのだーー


閑話休題。そして、皐月も簡単に誘拐された。本人も訳がわからぬ内に。かなり手慣れた手口。人通りはあったし目撃者もいたろうが、あまりにあっという間なので多分皆スルーしてしまうだろう。最も仮に誰か通報したとしても手遅れだが。


「あ、あの、出して下さい」


「馬鹿かアンタは?出すわきゃないだろ」


自分が拐われた事を自覚して皐月は、半ば混乱して口を開くが、横の優男に一笑に付される。彼の口調は最初の丁寧さとは打って変わって嘲るような色を帯び、彼の人の良さそうな表情をしていた童顔は悪辣な笑みに歪んでいた。


「ま、大人しくしてなお嬢ちゃん。あんたのお父さんが賢明ならこっちも悪いようにはしないさ、無事に返してやるからさ」


運転席でハンドルを握り車を走らせるスーツの男はそう言った。皐月は夏河の家の面倒ごとに巻き込まれた事を悟った。


どうして自分は若林の近くを離れてしまったのか。もしかしたらこの人達はそういう隙を伺っていたのかも知れない。皐月は自身の迂闊さを呪った。


恐怖が段々大きくなっていき、身体が小刻みに震える。そんな中で必死に皐月は願った。


助けて。


………

……


先程迄は晴れていた空は雲行きが怪しくなってきた。厚い雲により日が陰ってきた。一雨来そうだ。


皐月を拐い走り去っていく黒のセダンを見送ると、若林は建物の影から姿を表した。


彼はのんびりと歩いて自動販売機の前に行くと無糖の缶コーヒーを購入した。


少し移動してビルの周りを囲う植込みの塀に腰掛けて、缶コーヒーを開けて一口飲み。懐にから煙草のソフトパックを取り出してシガレットを一本咥えた。


使い捨てライターで着火して一口吹かして風味を楽しみつつ、GPSの受信措置を取り出して、対象の現在地をモニターする。


若林の口元には吊り上がった不吉な笑みが浮かんでいた。


………

……


「カシラ、連れてきました」


皐月を拐った一人の優男がそう声をかける。


「おぅ、上手くやったみてぇだな」


「ま、俺はこういう事は得意なんで」


スキンヘッドでがっしりした体格をした、強面の如何にもという風体の中年の男がそう返すと優男は悪辣な自信を感じさせる返答をした。


当の皐月本人は、現在地を知らせない為であろう車内で強要されたアイマスクをつけた状態で両脇を男に固められて引き連られていた。


手足は拘束されている訳ではなかったが、荒事になれた男二人相手に逃走はまず無理だろう。いや、そもそも彼女は恐怖で身体は完全に萎縮しており、男に引かれなければまともに歩けないような状態で逃走を図る事すら不可能だ。今だって男が支えてなければその場に崩れ落ちてしまいそうだ。


「ま、かけなよ嬢ちゃん。生憎大したもてなしも出来ないがな」


男はそういいつつ皐月を突き飛ばした。バランスを崩してそのまま用意された椅子に尻餅をつく。


そこで皐月のアイマスクは乱暴に剥ぎ取られた。一瞬眩しさに眼をしばたたかせつつ周囲の様子を伺った。


そこはプレハブの事務所だった。結構広い空間、大した物もなく、事務的な机に、椅子がいくつか。その中でも丁度皐月の座った椅子に正対する位置にある一番立派なものに座って紙巻き煙草を吸っているのが若頭か。さらに周りにはざっと十人程の暴力的な雰囲気を纏った男達が詰めていた。何やら日本刀らしきものを担いでいる者もいて皆武装しているらしい。


プレハブの外ではしとしとと雨が降り始めていた。


周りを見渡している内に一人の男が皐月の手をとり、淀みなく手錠を左手に嵌めた。もう片側の輪を皐月の座る椅子の肘掛けにかける。これで皐月は椅子に拘束されてしまった。別に椅子は床に固定されている訳ではないから椅子を抱えれば移動する事も出来なくはないがそんな事しても逃走はまず不可能だろう。


「な、何が目的、なの、ですか」  


皐月は眼前の若頭に、必死に気丈に虚勢を張って、しかし張りきれずにつっかえながらそう問いかけた。


「目的、ね。まぁ、嬢ちゃんの親父さんにこっちは要件があってよ」


ニヤリと笑って紫煙を吐き出しつつ若頭は応じる。


「まぁ、そう怖がんなよ。嬢ちゃんの親父さん次第でアンタは無事帰れるさ。ま、あくまでアンタの親父さん次第だがな」


怖がるなといいつつ、あえて不安を煽るようにそう告げるのはおちょくっているのか、無駄な嘘を吐きたくない主義なのか。


「お、父様に何、を?」


「嬢ちゃんがそんな事を知る必要はないと思うがね。知りたいか?」


皐月の問いかけに若頭はにやけながらそう言う。


「しかしカシラ、この娘で秋永が折れますかね?正直こいつが大事にされているとは思えないのですけどね。護衛だってたった一人ついていただけ、そいつも出し抜くのは難しくなかったボンクラですよ」


皐月を拐ってきた優男がそう言った。


「わ、若頭さんは、盆暗などではないです」


優男の言葉に、皐月はきっとなって言った。その侮辱に恐怖よりも怒りが上回ったのだろう。しかし、彼女が反論した点は自分が父に大事にされていないという事ではなく、若林への侮辱だった。


それにその場にいた殆ど皆が嘲笑を浮かべたし何人かは噴き出した。一人などは腹を抱えて爆笑している。そのように笑われて皐月はますます腹に据えかね顔を紅潮させた。


この場にいた皆は、要は、身近な男に対してガキが色気付いてのぼせ上がっている事に笑ったのだ。この手の裏の世界にいる人間は、男と女はのぼせ上がると、それが普段は理性的な人物であっても、とんでもなく馬鹿げた言動をする事を良く知っているから殊更にその手の話は馬鹿馬鹿しい笑い話なのだ。


「くくっ、まぁ確かに若林さんとやらは一人だけで箱入りのおもりを良くやっていたとは思うがな」


若頭自身も笑いを噛み殺しつつそう皐月に答えた。


「だが、まぁ嬢ちゃんがアンタの兄や姉に比べて明らかにザルだったのは事実なんだよ。ま、アンタが大好きな若林さんかお父様かどちらを恨むかは好きにしたらいいぜ」


「ですが、そのお優しいお父様がこいつをあっさり見限るかも知れないというのが問題じゃないっすかねぇ?」


先程の優男が、またほぼ同じ内容を大分皐月を馬鹿にしたニュアンスで改めて繰り返した。


「何、如何に冷徹であろうとしている奴だって情ってのは必ずあるもんさ例えばな」


若頭はそこまで言って、煙草を一口吸い紫煙を吐いて続ける。


「覚悟して身内を切り捨てられる奴ってのは割といるもんだ。こちらの条件を飲まなければ殺すっつっても折れない。それで殺されてしまいましたってな。だがな」


「そういう奴も少しずつ精神を削っていくと案外簡単に折れるもんだ。まずは軽い前菜として、みんなで輪姦してるデータを送る。次は指を潰して切り落とす。そん次は耳を削ぎ、眼玉を抉りって少しずつちぎりながら逐一データを送ってそれでも捨て置ける奴ってのは稀だぜ」


まぁ、それでも平然と切り捨てられる奴もいない事はないけどな。とえげつない事をニヤつきながら若頭は語る。


そのなんて事なさそうな口調に、本気で言っている事を直感した皐月の顔は上気していたのがあっという間にみるみるうちに蒼白になった。


頭から急激に血の気が引いて、目の前が暗くなり危うく自分が失神しそうになったのを皐月は感じた。仮に椅子に座らされていなかったらその場に倒れていただろう。


恐ろしい現実が迫ってきているのだ。犯され輪姦されるくらいならまだまだ幸いだ。それどころか生きたまま少しずつ肉体を千切られ泣き叫び許しを乞いそれでも無残に殺される。


いや、仮に命だけは助かっても心身ともにボロボロにされて残りの人生を過ごさねばならないのか。


「まぁそうビビんなよ嬢ちゃん。あんたの父さん次第じゃ五体満足。何事もなく無事お家に帰れるんだからよ」


顔面蒼白で震える皐月を見て若頭は気楽な口調で慰めをかける。そんなこと言われてもはいそうですか。と安心できるわけがない。お父様は助けてくれるだろうか?お父様は……


いや、何とかなる。だって若林さんはとっくに私の行方不明に気づいているはずだ。だったらお父様にも連絡が行って、もう警察は動いているかもしれない。まだ動いていなくてもすぐだ、ならお父様と交渉を始める頃には警察が助けてくれる。何故なら自分が攫われた時周りに人も多少は居たのだから、すぐに調べなんてついてしまうはずだ。小説やドラマじゃないんだから。


そう考えると皐月は大分気が楽になり、自分の考察が正しくこのヤクザ者達が考えなしの愚か者だと思えてきた。それは恐怖からの一種の防衛機制なのだろうが、あながち的外れな考えでもないだろう。


「でもそうなると兄貴は出番なしですねぇ」


「当然オレぁ秋永のやつが出来るだけ折れずに頑張ってくれるのを期待してるぜぇ」


体格がよく顔に刃物傷の入った危険な匂いのする男はそう言って愉悦と期待を滲ませて、好色でサディスティックな眼を皐月に向けてきた。いざ実際に凌辱、拷問という時に活躍する類の人材なのだろう。


「おいおい」


その言葉に若頭は苦笑いして首を振った。秋永との交渉が上手くいかないと困るのに、この男は完全に手段が目的と化してしまっているようだ。


「と、すみません」


「まぁ、いまのは聞かなかった事にしてやるよ」


失言に気がついた男が詫びると、若頭は苦笑したままタバコをもみ消しながら大目に見る。


「お、お父様、が」


そのやり取りをみてやはり全身の細かい震えが止まらなくなってしまい、このままでは恐怖に呑まれてしまいそうな危機感を覚えた皐月は、あえて虚勢を張って口を開いた。


「お父様が、私、が、何をしたというのです、か?こんな、のは、卑劣です」


「ほぅ、何をしたかねぇ?そんで卑劣ときたか」


声も震えてしまいそうになりつっかえながらも、糺弾する。それに笑みを浮かべながら若頭は応じる。その笑みは明らかに嘲笑だった。


「それ、に、もう私が拐われた、事は、若林さんが気がついて、警察につ、通報されているはずです。こんな事し、てもすぐ捕まるにき、決まっているでしょう」


「なるほどねぇ。嬢ちゃんはそう考えるか」


その皐月の訴えを若頭はニヤけながら聞いていた。まるで余裕の崩れない若頭の不敵さにますます皐月は不安になる。


「違うとでも、いうのですか?」


「いいや、確かに真っ当に考えて嬢ちゃんの言う通りだと思うぜ」


皐月の言葉に相変わらずニヤケつつ若頭は飄々とそう返す。


だが、と新しいタバコを咥えて火をつけつつ続けた。


「嬢ちゃんが思うほどこの世界は真っ当なんかじゃねぇとしたらどうだ?」


「それは、どういう……?」


「そうさなぁ、多分だが嬢ちゃんの中では俺らはお金持ちのお父様を逆恨みしている、あるいは単にカモになると思っている悪どくて、道理の分からないヤクザもんって思っているんだろぅが」


紫煙を吐いてニッと皮肉に笑って若頭は言った。


「そいつは違う。と、いうか現実の世の中は物語みたいに単純な悪者と善良な者とで区別なんて出来ねぇのさ」


「嬢ちゃんが思っているほど、世の中は単純でも綺麗でもないって事だ」


「な、にが言いたいのですか?」


「そうさな。まぁ、別に隠すようなものでもなし。暇つぶしに話してやってもいいぜ」


そう言って若頭は語りだした──


まずな、アンタが思っている通り俺らは悪者だ。それを否定するつもりはねぇぜ。


だが、必要悪なんて言われるように悪者ってのは必ずいつの世も必要とされてきたんだぜ。考えてもみろよ、善人はなんで善人でいられると思う?対となる悪人がいるからだろ。漫画や映画を見てみろよ、ヒーローである主人公側に対して敵となる悪役がいなかったらどうやってヒーローはヒーロー足りえるんだ?


だから俺は手前がどうしようもない悪人だと思っているが、だからこそ世の中に必要な人間だと思ってんだ。


それにアンタはどう思っているのか知らねえがそもそもあんたの父親、秋永だって善人とはいえねぇ。


たしかにあいつは一大企業を築くグループの人間だ、そりゃ社会という観点から見れば秩序側の人間だろうよ。


だけど、善人では無ぇ。


しょうがないのさ、アンタみたいな箱入りはしらんだろうが経営、財政界でやっていこうって奴はそいつがどんなに善良で厳格だったしても必ず後ろ暗い手段や出来事に関わらずにはいられねぇんだ。


綺麗な手のままではいられねぇのさ。


だが……そういうやむを得ないって部分を抜きにしても俺からみても秋永は善良とは思えねぇ。手段を選ばないえげつねぇマキャベリストだ。


ん、なんでそんな事が分かるのかって?


最初に言ったよな?俺らみたいな悪人も必要とされているってよ。


そしてこうも言った、奴らは後ろ暗い手も使うってよ。


お?顔色が変わったなやっとわかったかよ。


そうさ、言ってみりゃ俺らは秋永のビジネスパートナーだよ。


しかし、暴対法も出来て以来俺ら反社への締め付けは年々酷くなっていきやがる。もうこの業界はすっかり斜陽だな。


そんで俺らの組も最近旗色悪いんだ。当局に眼ぇつけられちまってよ。そしたら秋永の奴は、自分の所に飛び火する前に俺らを切り捨てようって訳よ。


ま、客観的に秋永の立場から見れば賢い選択だと思うぜ。だがな、裏の社会にも通すべき筋や仁義ってもんがあるんだよ。


嬢ちゃんもまぁ考えてみろよ。俺らは秋永と持ちつ持たれつでやってきたんだ。あいつが表立っては出来ない汚れ仕事を俺らが変わってやってきた。なのに呆気なく手を切りやがる。


俺らの組のシノギとしちゃ秋永は一番の大口だったんだぜ。そこを失っちゃいよいよこっちも不味い。あいつなら組の為に裏から手を回す事だって出来るにも関わらずだ。


まぁ、俺らが抗議の一つも起こしたくなる訳もわかんだろ?


そうさ、巻き込まれたあんたにゃ悪いがつまり今回のこれが秋永に対する抗議活動って訳さーー


語り終えた若頭は暗く皮肉な笑みを皐月に向けた。


「まぁ、つーわけで嬢ちゃんが考えるように警察が助けに来るってこたぁねぇ。秋永の奴は当然俺らの仕業だと気付いているが、そうなると俺らとの繋がりを知られる訳にいかない奴は警察に頼るなんて勿論できねぇって訳さ」


「そ、んな」


若頭の話、父親の一面を聞かされたのは皐月には少なからずショックだった。しかし当面一番の問題は助けが来ないかも知れないと言う絶望だった。


「ま、さっきも言った通りそう怖がんな。秋永の出方次第じゃちゃんと無事に返してやるからよ。向こうが考えを変えてくれりゃあこちらとしても奴の大事な娘に傷付ける訳にゃあいかねぇからな」


「違ぇねぇですわ。あくまで考えを改めてくれりゃあですがね」


若頭の言葉に若い者が一人茶々を入れ、それに周囲の者も下卑た笑いを漏らす。


この連中は皐月を安心させたいのか絶望させたいのか、あるいはそうやって精神的な揺さぶりをかけ判断力を奪う狙いなのか。ここでの皐月の心証などこの状況においてあまり意味もないからやはり深い狙いなどないのかも知れないが。


「カシラ。繋がりました」


「あぁ、じゃあ嬢ちゃん。いよいよお父様との交渉だ。奴のより良い返事をお互い祈ってようや」


そういいつつ若頭は差し出された携帯電話を受け取る。皐月は言われるまでもなくただ父親に助けて欲しいと願った。


流石にこの極限状態でただの少女に自分はどうなってもいいから父親の枷になりたくないなんて自己犠牲精神を発揮するはずもない。誰がそれを責められようか。


「よう、秋永さん。もう状況はそっちに伝わってんだろ?……なら話は早いな。ご想像の通りアンタの娘は俺の目の前にいるぜ。安心しな、傷一つつけてない、だが、俺の言いたい事はわかるだろ?」


そこで若頭は相手の返答を聞いているように携帯に耳を傾け一拍置いた。しかしみるみる表情が険しくなっていく。


「おいアンタ、状況は分かってんだろ。だったらこっちの話くらい……おい!」


そこで若頭はチッと舌打ちして携帯を耳から離した。どうも一方的に通話を打ち切られたようだ。


若頭は大きく溜息を吐きながら深々と椅子に背を預けて脱力した。


「糞ッ!」


次の瞬間急変して椅子を蹴り倒しながら立ち上がり叫びながら携帯を床に叩きつけた。床で携帯が砕けた。


「糞っそがぁ!」


それでも収まらぬ様子で怒号を上げながら腕を薙ぎ払って、机を横殴りに倒した。乗っていた書類が音を立てて散乱する。その剣幕に皐月は竦み上がった。


しーん、と事務所内は静まり返った中で若頭は荒い息をついていた。誰も発言しないまま一分程が過ぎ若頭は椅子を起してどっかと座った。


「糞が……秋永の野朗……舐めやがって」


そして苛立たしげにかつ、心底忌々しそうに低い声を出した。


「……カシラ、秋永は」


「……あぁ、そう言う事だ」


男の一人が恐々と声をかけると若頭は一転、冷静な声で答えた。


くふっ、と妙な声が小さく上がった。


皐月は凍りついたままそちらに目を向けた。


くふっ、ひくっ、と必死に抑えようとして抑えきれない歓喜の笑いを上げていたのは先程若頭に嗜められていた刀疵の顔の男だった。


自分の出番が来たと悟って、組には不都合な流れだと分かっても愉悦する事を隠しきれない救えない性。


皐月は異常者という者を目の当たりにして、自身が失禁しているのすら気が付かなかった。尿が服を濡らし椅子に溢れて床へと伝う。


「さて、嬢ちゃん。悪い知らせだ」


若頭は疲れた顔を皐月に向け、穏やかですらある口調で告げた。


「秋永の言葉はこうだ。交渉の余地などない、好きにしろ。だとさ。あいつはアンタを見放した」


その事実を告げられてもーー最も既に悟り言われなくても分かりきっていたがーー皐月は凍りついたままだった。


「こうなればアンタにはなるべく苦しみ、のたうち回ってもらうしかない」


「カシラ、どうしますか」


「カメラを回せ、まずは輪姦せ。いや、それだけでは奴には手ぬるいから片耳も落とせ」


その声に、周囲は動きだした。多くは好色な笑みを浮かべてーー少数はよりサディスティックな笑みに歪め——皐月を取り囲む。撮影係と思わしき男がカメラの調整を行なっていた。


皐月は凍りついていた。父親にも切り捨てられて最早少女に救いはない。拠り所を失った皐月が最後に縋ったのは


助けて、若林さん。


自らの護衛である彼だった。


ーー現実は物語のように都合良くはいかない。実際に少女を救い出してくれるヒーローや白馬の騎士等現れる訳はない。


パキン、と一つ高い音がその時事務所のドアから響いた。


「何だ?」


誰かが言った。皆、動きを止めてドアの方を注視していた。


カチャリ、と音を立ててドアノブが回り扉が開かれた。勿論ドアは施錠されていた為部外者は入れない。ならば外に見張りで詰めていた者が入ってきたのか?


しかし、入って来たのはダークスーツに身を包んだ若い男。


ーー現実はそう都合良く行かない。故に当然ここに現れた男はヒーローでも白馬の騎士でもない


異様な風体の男は若林だった。右手に抜身の刀を一口、無造作に引っ提げて、腰にはその刀の鞘と脇差を差していた。まるで武士さながらの二本差だ。その場違い故に滑稽ですらある姿を笑える者は誰もいなかった。


大多数の男達は怪訝そうに、あるいは唖然と若林を見ていた。しかし、僅かな危機察知能力に優れた者は完全に凍りついていた。


「若林さ」


ん、と皐月は奇跡的な救いの手を見て上げかけた声を最後まで言い切る事が出来なかった。


見たのだ。


いつも黒縁眼鏡の奥で糸目に微笑んでいた表情は、能面のような全くの無表情だった。そして、いつもかけていた眼鏡をしていないその眼を皐月は見た。


前髪の奥から覗くのはどこまでも深く昏い瞳の三白眼。息をするように命を簒奪する、悪鬼の凶相だった。


彼が皐月の前で、いつも伊達眼鏡の上で目を細めて微笑していたのは余りに不吉な目付きを隠す為だったか。


ーー現実はそう都合よくはない。故にここに現れたのは一匹の剣鬼。ただの、修羅にすぎなかった


彼は左手に二つ、何かをぶら下げていた。


それが何か正しく把握出来た者はまだいない。しかし若林がそれを重そうに無造作に放り、鈍い音を立てて転がるのを見てそれが何か、何人かは気がついた。


「高橋!香川!?」


誰かが声を上げた。それは、事務所の前で周囲の警戒に当たっていた二人の組員の生首だった。二つの生首は自分が死んだ事にも気がついていないというような間の抜けた表情を浮かべていた。


二人の首を刈った若林の手に下げられた彼の愛刀、二尺三寸、良業物、奥州政長はしかし殆ど血脂に濡れていなかった。


「殺せ」


若頭は冷静な声で事務所内の組員に指示をした。しかしそれに直ぐに応じられた者は少ない。次の瞬間無造作に踏み込んだ若林の袈裟の一閃で首筋を断たれまず一人が死んだ。その近くにいた日本刀を携えていた男は慌てて抜刀したがゆるりと間合いを詰めた若林に、抜いた刀を構える暇すらなく喉笛を真一文字に切り裂かれた。


若林は切ったそのままに相手の刀を握る腕を左手で取り入身して足を払って投げた。死体処理の投げ技がてらに男の刀を奪刀していた。


若頭は自らが倒した机の引き出しから自動拳術を取り出す。マガジンを装填しスライドを引く。回りの男達も狼狽が収まらぬまま各々の武器を構える。しかし皆、判断も行動も遅いし動作も洗練されていない。


それも無理からぬ事だろう。暴力を武器にする反社とて所詮は平和な日本の組織に過ぎない。その一介の構成員が皆、殺し合いの修羅場なれしている、なんて事があるはずもない。


故に皆が戦闘準備に入っている頃、若林は左手に下げた奪った刀を一振りした。ピュンとわざとらしい刃鳴りがする。若林は顔を顰めた。二尺四寸余の長めの刀身に良く刃鳴りするように深い棒樋が彫ってある。刃も明るく冴えて如何にも美しい化粧研ぎが施されている。


明らかに、英信流系の現代居合道の人間が好む造り込みで、刀工もそれに向けてこういうのがいいんでしょう?と言わんばかりのあざとい現代刀だった。はっきり言って若林にとって最も気に食わない類の刀だ。


だが、最低限の粘りはある。そしてこんなものは使い潰すにはちょうど良い。そう判断するとその刀の本の持ち主である死体に自分の愛刀、奥州政長を刺して立て。奪った刀に持ち替えた。彼は愛刀を消耗させるのを嫌ったのだろう。


そして、皐月はずっと凍りついたままだった。絶体絶命の最中、自身の護衛が駆けつけて来てくれた。間違いなく希望の光な筈なのに、若林の眼を見た瞬間から皐月は全く状況が好転しているとは思えなかった。そうしたら護衛は容赦なく殺人を始め、最早彼女の思考は停止してしまっていた。最も頭が回った所で今彼女に出来る事なんてないのだが。


若頭が銃を発砲した。耳に痛みが走る程の乾いた鋭い銃声が響く。だが、その瞬間風のように若林が踏み込み、銃撃は外れた。踏み込んだ先に居たのは刀を構えていた若い組員。


一瞬の事である。瞬きの間に走る袈裟懸けの一閃に、咄嗟に刀で受けようとしただけその男の反応速度は卓越していたと言える。


しかし、その速度には技術が伴わなかった。火の出るような若林の剛剣に対して、その受けは拙かった。刃筋を立てる事なく、横っ腹に受けて、その剣圧を止められる訳もなく大きく、くの字に刀は曲がってそのまま鎖骨から胸腔までへし切られた。まるで受けられるのが分かっていて受けられるものなら受けてみろと言わんばかりの剛の太刀筋。


若林の刀も流石に相手の刀諸共に斬りつけて、物打の刃が大きく欠けたが元より鹵獲したものなので頓着はしない。


若頭は銃を向けるが、照準を定めあぐねて舌打ちした。射線に組員が入ってしまいそうで同士討ちしかねず発砲出来ないのだ。若頭だけではなく、何人か銃を持った組員はいたが、丁度若林がいる位置は彼らからは事務所内の他の組員と同士討ちしかねず迂闊に撃てない位置だった。彼は銃を持った者を把握して意識してその位取りを行っているのか。


だが、その内の一人がリボルバーを二連射した。同士討ちしかねないにも関わらず発砲するのは、誤射せずに標的を確実に撃ち抜く自信のある凄腕か、あるいはまともな判断も出来ない馬鹿か。  


「あ……」


そして若林にとって幸いにもーーいや彼はそれも織り込み済みかーー後者だったようだ。発砲した男は明らかに恐慌状態だったようで間の抜けた声をだした。若林は一歩も動かなかったが銃弾は二発とも外れ、そして案の定一発が仲間の組員の胸に当たっていた。


「てめ、ごぶっ」


誤射を喰らった組員恨み事を言いかけて喀血した。肺をやられたのだろう、膝から崩れ落ちる。


「お前ぇっ!」


「辞めろ!撃つな!」


誤射をした男に別の一人が激昂して銃を向ける。最早統率もクソもない。若林はそれを尻目に呆れたようなような息を吐きつつ別の一群へと飛び込んだ。銃を向けてきた一人のその前腕を断ち切り銃を腕ごと落とすと更に踏み込みつつニの太刀で首を刎ねた。


その間に隣にいた男は、短刀を振り翳し吠えながら若林に襲いかかってきた。刀を巧みに扱う相手に躊躇わず踏み込む胆力は中々のモノだと言えるだろう。それが功をそうして短刀の間合まで入る事が出来たのだ。


しかし、振り下ろされた短刀を若林は体を切りながら自身の左手でいなして外した。と、同時に右手の刀の柄頭で相手の鼻頭を強かに打ち据えた。間合が近いが故に柄での当身を用いたのだろう。


鼻骨が砕け、鼻血と涙を流しつつ堪らず顔が上がる。その瞬間には若林は左手でいなした相手の右腕を軽く捕っており、同時に更に間合を詰め相手の首の後ろに柄を引っかけて手前に引くと共に足を蹴り払って、相手を前のめりに床に叩きつけた。


ごきゃ。と倒れた所をすかさず震脚で頭蓋底と頚椎の付け根を踏み折ってトドメを刺す。射線を確保出来た一人が拳銃を連射するが、若林はゆるりと左右に不規則に動く歩法で悠然と間合を詰めていく。それに幻惑されるのか、不可思議な程当たらない。


業界では俗に赤星などと呼ばれるその自動拳銃は装弾数がさして多くない為にスライドが後退した状態で止まり弾切れ(ホールドオープン)を示す。射手の男は狼狽するがその瞬間滑るように直線的に若林は間合を潰すと左袈裟に刀を一閃。


それは男の右の肋骨下部から腹に食い込んで刀が止まった。相手に刀が食い込み抜けなくなる実戦で見られるミス……ではなかった。そのまま手首を返し食い込ませまま刃を九十度捻りその場に折り敷きながら袈裟に刀を通した。


刀が走り抜けると、男の右の脇腹の肉、下部の肋骨、肝臓、腸が三角形の一塊が抉り取られて床に落ちる。脇腹を大きく欠損した男はドロドロと溢れる内臓を零しながら悪夢を見るような顔で床に倒れ伏す。辺りに未消化の内容物の酸鼻な悪臭が広がる。そのあまりの凄絶さに残った男達は若林に襲い掛かる所か皆顔面を蒼白にさせていた。中には戦意喪失を通り越して床に嘔吐しているものまで居た。


若林は何の感慨も見せずに刀を軽く払いつつ彼らへと歩き出した。


チッ、と一つ舌を打ち若頭は決断した。もう若林を仕留めようとする事はせずに、鍵を取り椅子に拘束した皐月に取り付き手錠を外す。そして強引に引き立てた。皐月の足腰はガクガクと笑い、拘束を外しても逃げられる心配はない。


その間にも銃声や断末魔が幾つか上がっていた。若頭が顔を向けると事務所内で組員の最後の一人が床に倒れ伏せた所だった。糞、と若頭は悪態をつく。


「動くんじゃねぇ!」


最早立っている者は若林、皐月と若頭の三人だけとなった事務所内で若頭が声を張り上げた。彼は強引に自分の前に立たせた皐月を盾にとりこめかみに銃口を向けていた。


若頭は頭の片隅で俺は一体何をやっているんだ、と思っていた。彼は自分が大物だなどとは思っていない。精々小悪党に毛が生えた程度だと自認していた。だが本当にこんな追い詰められた小物のような真似をする日が来るとは。


しかし、今は自分が生き残る事が優先だ。既に事は秋永への交渉どころではない。それどころか組はこの僅かな間に壊滅状態だ。兎も角命を拾うためには手段は選べない。この男は皐月の護衛である以上、こいつを盾にして人質にするのは有効な筈だ。


その、筈、だ。どだい他に取れる手段が無い。


若林は表情を変えずに血刀を下げたまま昏い眼を向けた。


「刀を捨てやが」


れ、といい終わる前に爆発的な踏み込みで間合を潰しながら放たれた鉄砲のような片手突きが皐月の胸を貫通し、そのまま切先が更に若頭の胸骨を砕き心臓を穿っていたーー


………

……


一ヶ月前。都内某所ーー


品の良い見事な調度品で設えられた執務室。


一眼見ただけで部屋の主人の物と分かる豪奢さと落ち着きの両立した机の前で座っているのは、中年と初老の間くらいと思わしき男性。


高級なスーツを嫌味なく着こなし、顔立ちは年輪のように刻まれた皺に引き締められた口元に思慮深さと威厳を感じさせる。その眼の伶俐な光には酷薄なものがあった。明らかに大人物と分かる風体。


彼が夏河家当主。夏河秋永だった。


しかし、彼が今机の向こうに居る青年へ向けられたその顔は畏怖で僅かに強張っていた。


「俺への依頼は……護衛か」


そう無感情に呟いたのはこのような場所、人物を相手にするにはどうみてもそぐわない若者だった。ろくに洒落っ気も無いシャツにジーンズという服装で立ち、あろう事か咥え煙草というまるで相手への敬意を感じさせない青年は、見る者に否応なく不吉なものを思い起こさせる恐ろしく昏い三白眼が特徴的だった。


彼は若林と名乗った。最も彼を知る業界の人間達には彼の名にはあまり意味がない事は周知の事実だった。彼はその時々で名乗る名を変える。


「その通りだ。君に頼みたいのは私の末娘、皐月だ」


秋永はゆったりとした口調で頷きそう返した。それに若林は紫煙を一つ吐いて応じた。


「護衛は、得意ではない」


端的な言葉だった。


「……そのようだね」


それも知っていた。やはり業界内で知られている彼の()()は、防衛、護衛、と言った守勢ではない。


特定人物の暗殺。そして、特定の集団の鏖殺(みなごろし)。乃至は敵戦力の完全な殲滅。


若林と名乗るこの青年は、とある権力者。それも表には出てこない為一般には知られる事の無い裏の社会の有力者。その人物の子飼いであり、様々な仕事に派遣されて動く駒だ。


秋永にはその人物とのコネがあり。故に子飼いの若林に仕事を依頼する事が出来た。


若林、この青年は年若いが先の用途での仕事は極めて優れており、余りの容赦の無さに恐られながらも重用されている。彼の自身の情報は業界内ではある程度出回っているが、驚くべき事に彼はただの一般家庭で生まれた変哲もない民間人だったのだという。


そしてその能力はなんて事の無い、民間で教えていたとある古流の武術道場で身につけたというのだから信じがたい話だ。


若林はとある達人の薫陶を受け、まだ十代という若さにしてその天性を表した。


そうして、恩師であるその達人を斬殺。結果その流派を事実上失伝させてこの世界に流れた……というやはり信じがたいというか、巫山戯たような経歴だった。


あれは天才などではなく修羅であり、ただの剣鬼。とは秋永が聞いた彼の飼い主の言葉だ。曰く生まれついての破綻者。あくまで風の噂だが、子供の頃に親殺しをやった……などと言う話もある。


秋永とて、この世界で色々な物を見てきた。特に人間に関しては本当に様々な人々に会ってきた。人を見る眼には一家言ある。そんな秋永をして、自分とは親子程歳が離れたこの若者の不吉な眼に見据えられると震えそうになった。


有体に言って、怖かったのだ。


「これまでに護衛の仕事はした事は?」


秋永の質問に若林はゆっくりと一口シガレットを吸って間を開けてから答えた。


「三件ある。内二件は失敗して対象が死んだ」


彼に依頼したくらいなのだから護衛対象の置かれた危険度は三者とも極めて高かった。結果、二名は死亡。一名は助かったが精神に異常をきたし未だ通院治療中。


ーーただし、三件とも襲撃勢力もほぼ全員死亡している。


「なるほど……だが私はそれを承知で頼んでいるんだよ」


「ふぅん」


秋永の言葉に少し愉快そうにしながら短くなった煙草を机の上の灰皿に押し付けた。


「つまり()()()()()か」


「……もう一つ頼みたい事がある」


若林の言葉には直接答えずにそう切り出した。こちらが本命か。


「私にはある反社会的組織と少し付き合いがあったのだがね。……まぁ細かい経緯は君も興味はないだろうから省くが、彼らとは手を切る事にしたのだよ」


それで?と若林は口には出さず眼で続きを促す。


「それが向こうには大変不服らしくてね……不穏な動きがあるのだよ。私の息子や娘の近くで向こうの構成員が目撃されててね、どうも良からぬ事を企んでいるようだ」


ここで言う娘とはほぼ軟禁状態の皐月ではなく姉の事だ。企みはあっても護衛が厚い子息には手を出せなかったという事か。


そして一つ間をおいて、秋永は告げた。


「彼らには消えてもらいたい」


「そっちは、得意だ」


それに若林は事実を答えた


それに筋書きも読めた。


「無能な護衛のせいで娘は攫われて、不幸にも死んでしまう。その上で組織は潰れる、か」


「……仕方ないのだよ、アレは私にも扱いが難しい。いずれは国外の別荘に移り住まわせて、今よりは良い暮らしをさせてやるつもりだったのだが」


しかしもう、存在するだけで困る。そういう状況になってしまったということか。


そんな事情は若林にはどうでもいい事だ、興味も無い。しかし……


「遠回しだな」


彼に気になったのはむしろそこだ。わざわざ似非護衛までつけて消えて欲しい二つを繋げてストーリーなんて立てなくても、強引でも手っ取り早く二つとも消してしまえば良い。秋永ならいくらでも隠蔽も効くはずだ。非効率としか思えない。


「欺瞞なのは理解しているがね……娘には不自由させたままという事になる。最後くらいは好きにさせてやりたい……と思ったのだよ」


最後に娘に自由をやりたいという慈悲。娘に死んでもらう決断をしながら、しかし秋永に親心が無いわけではなかった。冷酷さと親の顔が入り混じり、極めて歪ではあるが。


そして、あわよくば娘本人にもその組織のせいで自分は死ぬ事になると思ってくれれば良いという浅ましい考えもあるのだろう。


その時ゾクリ、と秋永に寒気が走った。


色を失いつつ顔を上げると、若林の恐ろしく冷たい眼と視線が合った。


秋永は、死を覚悟した。自分は彼の逆鱗に触れてしまったのかもと。


実際、若林を怒らせたという程ではない。ただ彼は秋永が嫌いな相手だと認識しただけだ。


別に親心に文句をつけるつもりは無い。勿論実の娘を殺すのも本人の自由だ。


ただ、死んで欲しいから殺す娘に親心を見せる。という整合性を欠く点が若林には酷く気に入らなかった。彼は整合性が取れない人の言動がどうしても不愉快という、そういう人種だった。


「まぁ、いい」


そう言って、若林は視線を切った。それでやっと秋永は生きた心地が戻って来た。しかし手が震えそうになった。


そんな事の為に茶番に付き合わされるのは業腹だが仕事ならする。別に文句もつけないし、やるからには中途半端にはしない。それがこの男だった。


「娘には護衛に着いた上で失敗。組織も消す。それで間違いないか?」


「あ、あぁ、その通りだ」


若林の確認に、頷いて答えた。


「理解した」


「そ、それと、どうか娘には良くしてやって欲しい」


「では今日は失礼する」


秋永の頼みに、答える価値は無いとばかりに若林は最後にそう言って踵を返した。


彼が淀みなく退室すると、秋永は椅子に深く背を預けて手で顔を覆い溜息を吐いたーー


………

……


若林に諸共突き抜かれた二人。力を失った若頭の腕からずるりと皐月の身体は滑り落ちるように床に倒れた。


若頭は何とか足を踏ん張り体を支えたが、右手から力無く拳銃が落ちた。


心臓が破壊された事により、循環機能は停止し一気に血圧の低下に襲われる。若頭は何とか立っていようとしたが、ふらりと身体が傾ぎ、背中を壁にぶつけてそのまま、ずるずると座り込んだ。


クソが。もう口を開く力も無く彼は内心で悪態を吐いた。


秋永、こんな怪物飼っているなんて聞いてねぇぞ。


そう最後に思い、意識を保ってられなくなり座ったまま顔を俯かせて若頭は死んだ。


若林はヒュッ、と穢れを祓うように一つ刀を血振りした。刀は乱暴に扱った為傷みは多少出ている。刃毀れが大小合わせて四箇所、少しの曲がりも生じていた。


しかし現地調達品な為、彼は刀を無造作に床に捨てた。


これでもう、事務所に生きているものは居ない、いや最後の一人。


皐月は床に倒れたままゴボッと激しく喀血していた。若林の突きで肺を酷くやられたようだった。


「ど、どう、し……て」


喀血混じりに、皐月は生理的反応からか眼から大量の涙を流しながらうめく様に言った。


「若、ばや、しさ……どおしっ……あ、さむ、い」


彼女は最早致命傷を負った身で自分を襲った理不尽に問いを投げかけていた。


どうして?助け欲しかった。


若林は皐月を一瞥すらせずに自分の政長を突き立てていた死体に歩み寄り、愛刀を回収した。


そうして皐月に歩み寄る。その昏い眼を皐月は涙を流しながら見据て訴えた。


「わ、か……どお、じ……て」


彼は無言で政長の鋒で皐月の首を突いた。ごりゅ。と刃を半回転させて入念に止めを刺した。ゆっくりと眼から光が消えていき皐月は死んだ。


「知る必要は無い」


彼は懐から取り出した用意していた土竜の革で刀身の血脂を拭い、腰に納刀しながらそう呟いた。


ーーあぁ、彼女は理解していた筈だ。籠の鳥は籠の中でしか生きられないと。籠の外に出る時に自分は死ぬのだろうと。


ならば、彼女を外の世界へと連れ出そうとする者は死神に決まっていたのだ。


彼女は理解していた筈だ。何故彼の手を取ってしまったのかーー


仕事を終えて、彼は血と死臭の漂う事務所の中の椅子の一つに腰を下ろして懐から紙巻煙草のソフトパックを取り出した。


百年もの歴史のある日本最古の煙草、ゴールデンバット。フィルターの無い両切りのそれを一本咥えるとライターで火をつけた。


今回の仕事は面倒な割には、あんまり良い経験は積めなかった。相手のレベルが低すぎたな。彼はそんな事を思った。


外では涙雨が降り注いでいた。


ふぅ、と紫煙を吐く。美味いな、と思った。この煙草はとにかく品質にバラツキがあるのだが、今日は良い。雨のおかげか程よく湿度を吸って煙が甘く、ほのかなラムの香りが立った。


彼は美味そうに喫煙を楽しんだ。


ーー何故彼女は彼の手を取ってしまったのか


それはもう分からなかった。





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