遥か空への挑戦
私が初めて空を美しいと思ったのは、一体いつだっただろうか。
物心ついた頃には、もうその想いは完成していたと思う。
そのきっかけは確か……風の暖かい、よく晴れた日のことだった。
両親に連れられて、初めて空を見た時、私はどこまでも続いているその青さに、ずっと魅入られていた。
いや、その日がもし曇り空でも雷雨でも、きっと同じ想いを抱いただろう。
その日から私は、近所の公園に出掛けては毎日空を見るようになった。
来る日も来る日も同じように見続けた。
ああ、なんて広い空、なんて大きな雲!
あの小さな雲一つが実際はとてつもない大きさなのだと知った時は、空の高さに感服し、そしてその憧れをより強めることになった。
私は、空に夢中になってしまったんだ。
◇
私が空に囚われてから、何度目かの冬の日のことだった。
体が切り裂かれるような寒さは、しかして私の情熱を凍てつかせるには至らず、その日もいつものように私は空を見上げていた。
長い間空を見続け、すっかり日は落ちていた。日の光が失われた街には、もはや灯りは瓦斯灯のみとなり、その僅かな灯が煉瓦の家々の壁に反射する。
私のいる公園は明かりが全くなく、自分の黒髪は夜の闇に溶け込み見えなくなった。当然、空も闇に閉ざされ、目を閉じても違いが分からないほどだ。
もう空を見る意味もないだろう。そう思って私はベンチから起き上がる。
防寒用のジャンパーが擦れ、乾いた音が夜の公園に響いた。
白く染まった息を吐きながら公園が、少しずつ遠ざかっていく。だというのに、それでもまだ私は未練がましく空を見上げて———
そこで私は、天使を見た。
暗く、暗く、さらに暗いこの夜に、それは何故かはっきりと見ることができた。
夜の闇を吹き飛ばすような純白の布が肩からかけられ、その肌の色も、人ではありえないほどに白かった。
そして何よりも、その背中からは鳥の翼のようなものが生えている。
その翼は人間よりも遥かに大きなもので、そしてこの世の全ての宝石でさえ、その美しさの前にはただのゴミとなるだろうと確信した。
それほどまでに美しい天使たちに、わたしの目は釘付けだった。
いや、正しく言えばそんな天使たちすら存在する空に、私は釘付けだった。
———あそこに、行きたい。
完全に心を射止められた私がそう思うのは、最早当然のことだった。
我に帰った私はすぐさま家へと帰ることにした。
天使を、そして空をもっと見たい気持ちは当然あったが、それよりも今は、彼らのことを知りたいという欲のほうが優っていた。
今以上に私が全力になることはもうないのではないかと思うほどに私は走った。
必死に走りすぎて、何度か躓き転倒しそうになる。
それでも、速さを落とすことはしなかった。
冷気で痛む喉を酷使してなんとか家に帰った頃には、私はもう倒れる寸前で。両親が驚いた様子で声をかけてきたが、私は彼らを無視して、書斎へと駆けていく。
普段は家では走らないルールを守っているが、そんなものを守るだけの理性を、その時は持ち合わせていなかった。
木製の床がドタドタと大きな音を立てる。
廊下を曲がり、遂に目的地が見えてくる。
私は走って近づいて、書斎の扉を勢いそのままに開け放つ。
あの天使について知りたい。空について知りたい……!
私の頭の中はそれでいっぱいになっていた。
几帳面な父が毎日あいうえお順に整頓している本が棚一面に並べられている。
私はそれに駆け寄ると、一冊の本を取り出す。
“この世界を包むのは”
この世界の空についての学術本だ。
父は私のために空についての勉強をしてくれている。そのせいか、この本棚の殆どは空についての本だ。
先程のことを調べようと私は本を開き、ふと、その手を止める。
あれって、なんて名前なんだろう……?
その一瞬は、私を冷静にするには十分だった。
冷静になった体に、今までの疲労が全て押し寄せてきて———
私は意識を失った。
◇
次の日の朝。私はベッドの上で目を覚ました。
寝ぼけた頭で状態を起こし、今日も空を……と、ここまで考えて、
「天使!」
一気に思考がクリアになった。
昨日のことを思い出したからには、もう居ても立っても居られない。
体を回してベッドから落下。すぐに立ち上がりベッドメイクもせずに部屋を出る。
昨日の失敗から学び成長した私は、人を頼ることを覚えた。
父の部屋へ行くと父に飛びつき、彼を質問攻めにする。
空ってなぁに? あそこにはなにがあるの? どうすればお空に行けるの?
私の口は途切れることなく、勢いのまま問いを紡ぐ。
だが、幼い子供といえどそれほど絶え間なく話しかけられ、父は何もできずに呆然としてしまった。
そこで私も一旦口を閉ざす。そして、改めて一番気になっていることを、つまり天使のことについて尋ねた。
父はそこで手を顎に当て少し考え込むと、何かに納得した様子で頷いた。
「そうか、お前ももう八つになるんだなぁ」
そうしみじみと呟くと、父は私に天使について語り始めた。
「あれはお前のいう通り、天使で合っているよ。 といっても、物語に出てくるように奇跡を起こしたりはしてくれないがね」
そう言って父は肩をすくめる。
そして、こう続けた。
「彼らは何故かは分からないが八つになると見えるようになるんだよ。 つまり、お前が大人になった証ってことさ」
大人と言われて、少し嬉しそうにする私に父は優しく微笑むと、大きな手で私の頭を撫でてくれた。
その後しばらくの間談笑して私が部屋を出ようとした時、最後に父は私を呼び止めた。
「さっきお前が言った空への行き方だけどな、あれはあんまり他所で言わない方がいい。 信心深い人にとっては天使への侮辱に受け取られかねないからな」
その言葉に私は一瞬足を止めて、振り返り父にウィンクを返した。
ドアを閉じる直前にため息が聞こえたが、きっと気のせいだろう。
父にああ言われてはいるが、私は諦めるつもりなど毛頭ない。
天使と共に空を飛ぶことは、既に私の人生の全てを傾けるべき夢となっていた。
それを諦めれば、私が私として生きることはできないだろうと確信する程に。
◇
その日を境に私の生活は一変した。
まず、空を見る頻度が減った。
今までは週に七日、一日十時間だったものを、週に四日で一日五時間にした。
そのかわりに、空いた穴を埋めるように勉強の時間が大きく増えた。
といっても、その殆どが空についてのものに偏っていたが。
勉強する方法も大きく変えた。
今までは父が本を読み、私が分るように噛み砕いて話してくれていたが、それをやめて自分で本を読み、分からないところを父に質問するようになった。
父曰く、「本文が一番正しいし、今後お前の助けにもなるから」らしい。
最後のはあまり意味はわからないが、確かに本を直接読むことで新しい発見も得ることができた。……というか、やめろといっておいて助けてくれる父はなんだかんだ優しい人だ。
母はこのことについてはノータッチだった。
昔から勉強が嫌いな母は、楽しそうに本を読む私も、それに付き合っている父も信じられないといった様子でいつもこちらを見つめては、こわいこわいといって去っていった。
私と父は、いつもそれを見て二人で顔を見合わせて笑っていた。
時々夜になると二人は毎日どこかに出かけているが、どうやら勉強の為の道具を探してくれているらしい。 なんとも優しい人達だ。
そうして毎日は飛ぶようにすぎていき、小学校を卒業する頃には街、いや、下手をすれば市一番の空博士となっていた。
そうなると、その知名度は同じ街の人は殆どが知っているほどに広まって、昔も一日中空を見る不思議な子として有名だったが今は拍車をかけて有名だった。
それでも、私の夢は少しもブれることはなかった。
父は今も変わらず私と一緒にいてくれたし、母だって私が有名になっても何も口出しをしないままでいてくれた。
その頃はもう私は空以外に興味は失っていた。
中学校からは殆ど登校もせず、数週間に一回行くか行かないかとなっていた。
それが「普通」でないことは分かっていたが、そんなことは関係なかった。
友情も恋もないが、私は間違いなく青春をしていると胸を張れる。
私は間違いなく幸せだった。
今日も天使たちは相変わらず、青い空を飛び回っている。
◇
「なあ、お前に一つ提案がある」
中学を卒業した次の日、父が私にある話を切り出した。
「空に行く。 その夢はまだ変わってないか?」
その質問に、私は首肯する。
ボサボサに伸びた髪が動きに合わせて上下に揺れる。
何故急にそんな話をし始めたのかを少し考えて、ある答えを得る。
「……行って、良いの?」
父は悪戯好きな子供のような顔を浮かべ……頷いた。
その瞬間、私は確かに大空の風を感じた。
遂に、遂に空へと行ける! 私の長年の努力が実を結ぶ———!
そう考えると、私は体を震わせて、大きな声で雄叫びをあげた。
「おいおい、そんなに喜ぶなよ。 スポンサーがついてくれたってだけだぞ」
これ程喜ばれるとは思わなかったのか、慌てて父は釘を刺す。
しかし、その顔はやはり喜びの色が浮かんでいたのを、私は見逃さなかった。
父によると、スポンサーについてくれたのはある宗教家らしい。
まさかの出資者に私は驚いてしまう。 確か、信心深い人にとっては天使への侮辱だとかなんとか言ってはいなかったか。
だが、父曰く宗教家も一枚岩ではないらしく、寧ろ天に近づきたいと思う人もいるんだとか。
パトリックだかカトミールだか知らないが、まったく感謝しても仕切れない。
兎に角、遂に私たちは空への一歩を踏み出したのだ。
それから、私たちの生活は激変した。
スポンサーがついたのだ。 当然ゆっくりなどできない。
空を飛ぶ方法を本格的に考える必要ができた。
といっても、実は完全に最初からではない。
今まで人は一度も空を目指さなかったのかというと、案外そうでもないのだ。
はるか昔から天使は存在し、空を飛んでいる。
ならば、二、三度空を目指すことは当然あるだろう。
例えば、グライダーと呼ばれる滑空技術は存在するし、それにエンジンをつけて飛ぶ飛行機というものも一応存在はする。
あくまで、天使にとどいたことがないのだ。
だから私たちのすべき事は、高度限界を伸ばす事だ。
勿論それも簡単なことではない。
それができるなら、大きな力を持つ教会は既にそれをやっている。
だからこそ、私達のような木端すら頼っているのだ。
だが、そんな事は私達もずっと前から知っている。
それでも私達は空へ行くと言い続けてきたのだ。
例え幾つ問題があろうと、それをクリアして見せる。
私は自分の胸にそう誓った。
◇
あれから数年が経ち、私達の研究はゆっくりと、だが確実に進んでいた。
大気の薄い空でどう飛ぶのか。
機体を安定させるにはどうすればいいか。
一つ問題が解決すると、五つ問題が出てくる。そんな毎日だったが、それでも私は苦には感じなかった。
確かに空の研究とは少し違うかもしれない。
だが、自分の夢が確実に近づいているのが分るからだ。
それに、父も母もいつも通りそこにいてくれた。
それだけで、私はどんな努力だってできた。
パーツ製作の為に工房のおじさんに頼み込んだり、スポンサーとの軋轢があった時に大芝居を打ったり、何度も一筋縄では行かない問題に突き当たったが、それらも全て乗り越えてきた。
そして、空が五千回は回った頃、ついに研究は大詰めとなっていた。
◇
その日は、生憎の雨だった。
試作飛行機の実験の予定だったのにそれを邪魔され、手持ち無沙汰となった。
別にそれを恨む事はしない。
空のこういうところに私は惹かれたのだから。
せっかくのお休みだ。 久しぶりに空の観察をしようと思い、すっかり白髪が増えた父にそのことを伝え、あの公園へと向かった。
こんな雨の日に公園で遊ぶ子供などおらず、地面には大きな水溜りができている。
私は新しく上に屋根が作られたベンチに腰掛けた。
噂では、雨の日も空を見上げる子供を見てこの屋根は作られたという。
いったい誰のことだろう、と一人でとぼけるフリをして苦笑する。
ベンチに寝転がり空を見ると、雨に打たれているはずなのに変わらずその美しさを保つ天使達が飛んでいる。
彼らは、あの日見たまま、何も変わらない。
そんな彼らの永遠性への憧れか、この公園への懐かしさかはわからない。
だが、私の心はすっかり感傷的になってしまった。
「すっかり、変わっちゃったなぁ……」
ぽつりと、そう呟く。
あれだけ人がいた街は、ここ数年で少し過疎化が進んだらしい。
公園から聞こえる声も年々少なくなっている。
小学校の時の同級生は、殆どがもう都会に出て働いているらしい。
この街にいる人は、私のような物好きか、家業を継いだ人だけだ。
そんな土地だからこそ、飛行機の実験などということが堂々とできるのだから感謝はしている。
……しているが、それでも、やはり少し寂しい。
そこで、自分がやけに落ち込んでいることに気付いて、私は頭を振る。
こういう時は、空を見るに限る。
空は全てを忘れられる。
そこに、全てがある。
もうすぐで、あそこに行ける。
そう思うと、少しずつやる気が湧いてきた。
「よーし! やるぞー!!」
大きな声で自分を鼓舞して立ち上がる。
そして、空を観察して、夜まで飛行機のことを考えていた。
すっかり夜もふけ、また、空は闇に包まれる。
私はあの日と同じように、天使を少し見て、公園を去った。
……今思えば
今日
この日
雨が降ったのは
私が、空を見ようと思ったのは
やけに気分が沈んで、公園で時間を潰してしまったのは
空を目指す私への天使達のほんの少しの気遣いだったのかもしれない。
彼らは空を飛ぶばかりで、そんな力はないと知ってはいるが。
そう、思わずにはいられなかった。
家に帰ってまず見たのは
椅子の上で冷たくなっている、父の、死体だった。
◇
それからのことは、よく覚えていない。
父の診断を済ませた医者が死因を伝えてきたり、葬式のことを尋ねられたり色々あったがその殆どを私は聞いていなかった。
朧げながら、幸いにも落ち着いていた母に全て任せていた記憶がある。
私がはっきりと覚えているのは、凡ゆる運動を停止し、「物」と化した父。 そして、外から聞こえる激しい雨音だけ。
その他一切のことはわからない。
私が泣いていたのかも、無表情だったのかも。
最早それは、神のみぞ知ることだろう。
何も考えず、ただ流され、父の葬式にも参列した。
教会には、本当に多くの人が来ていた。
ずっと私といた筈なのに、どこでこれだけ知り合いを作るのかと私は驚愕した。
それでも、私の心は晴れなかった。
無駄に騒々しい聖歌に、長ったらしい弔辞。
葬式が進むごとに私の苛立ちは高まっていった。
罪を許すとか、神に祈るとか、その全てが馬鹿らしかった。
私達は自身の力で天使の域にまで行こうとしていたのに、今更そんなことをするとは、なんて愚かなのだと心の中で彼らをなじる。
だが、それも虚しくなって、すぐにやめる。
大体、空を飛ぼうというのも神への憧れから来るものだ。
彼らは何ら矛盾していない。
どこか諦めにも似た感情で、私は自分の感情を律する。
この死を神の罰と思おうが、救いと思おうがそれは人の勝手だ。
私は、私の夢を叶えよう。
私は改めてそう決意する。
最後に、遺体に献花をするときが来た。
父の好きだった青い薔薇を両手を使いしっかりと持つ。
これは、本物の薔薇ではない。 だがいつか本物となるだろう。
私たちの夢も同じだ。
もうすぐ叶う。
二人一緒に見られないのは残念だが、もしも天国があるのなら。 きっとこっちにいるよりも私の夢が叶う瞬間はずっと見やすいだろう。
父の棺の前へ一歩一歩踏み締めて歩き、そっと花を添える。
そうして顔を覗き込むと、父との思い出が私に押し寄せてきた。
私に空を見せてくれた。
私のために勉強してくれた。
わからないことは教えてくれた。
学びたいことは幾らでも学ばせてくれた。
そして、こんな私の夢にも付き合ってくれた。
どれだけ感謝しても仕切れない。
それなのに、夢を叶えるというお礼すら出来なかった。
それが、悔しくて悔しくて、私は涙を流す。
ああ、私の大切な人。
必ず夢は叶えるから、きっと明日は前を向くから。
せめて、今日だけは、私が足を止めるのを、許して欲しい———。
出棺を告げる鐘が鳴る。
今までで一番大きな音のはずなのに、もううるさいとは思わなかった。
◇
太陽が燦々と大地を照りつけ、今日も天使達は空を飛んでいる。
それは、ここまでおいで、という人類への挑発か、それとも期待か。
彼らに感情があるかもわからないが、私は挑戦と受け取った。
「いってきます。 お父さん」
写真たてに口付けをすると、私は小屋を飛び出した。
飛び出した先にあるのは、飛行機。
私と、今は亡き父との合同製作品。
それが、彼方まで続く滑走路の横に駐められている。
「あなたも、お願いね?」
私は手でそっと機体に触る。
当然返事はない。 だが、そこに確かに温もりを感じた。
私は期待に胸を膨らませながらそれに乗る。
帽子を被り、ゴーグルをつける。
そして、最後に空を、そして天使を見る。
「近隣住民には挨拶にいかなきゃね!」
ニヤリと不敵に笑い、前を向く。
通信機から、準備完了の連絡が届く。
もう、覚悟は決めた。
このフライトは必ず成功する。 なにせ、私達の人生の結晶なのだから。
私の頬を撫でるようにさっと一陣の風が吹く。
追い風だ。
その風を浴びながら、私はエンジンをつける。
さあ、天使たち。人類の挑戦を受けてみろ。
今、プロペラが動き始める———。