第五話 踏み出す一歩
寝返りを打とうとしたのですが、どういう訳か全く身動きが取れません。
それになんだかとても硬いお布団に包まれているような気がしましたが、優しい温もりを持ったお布団はとても心地が良いです。すりすりとそのお布団に擦り寄るとますますぎゅうとお布団に包まれました。爽やかなコロンの良い匂いまでします。
もう一度、深い眠りに落ちそうになりましたが、そこでふと『お布団は自分から抱き着いて来ないのでは?』という疑問を抱き、一気に意識が覚醒しました。
ぱっと目を開けた先にあったのは、男らしい胸元でした。シャツのボタンが外されているので私の頬がぴったりとくっついていました。
「っ!」
おそるおそる顔を上げて、あやうく上げそうになった悲鳴をどうにかこうにか飲み込みました。
旦那様の綺麗な寝顔が目と鼻の先にありました。薄く開いた唇の隙間から、すーすーと穏やかな寝息が零れています。
抜け出そうにもがっしりと抱き締められていてぴくともしません。どうりで寝返りが打てない訳です。いえ、納得している場合ではありません。
そもそもどうしてこんなことになったのでしょうかと一生懸命、記憶を遡りました。
昨夜は旦那様にディナーに誘って頂きましたので、エルサに手伝ってもらって仕度を整えて部屋を出て、そうです、向かっている途中で実家にいた頃のことを思い出してしまったのです。そこらへんはよく覚えていないのですが、次に目が覚めた時には自分の部屋にいて、傍に旦那様がいてくれたのです。
折角誘って頂いたのに台無しにしてしまった私を旦那様は怒ることもせず、逆にとても心配してくださいました。
その上、私が零した過去の話を受け止めてくれたばかりか、旦那様は私を抱き締めて、本当の夫婦になりたいのだと言ってくれました。それだけではなく、私に涙を我慢しないでくれと願い抱き締めてくれて、私は旦那様の胸を借りて泣いてしまったところまでは覚えているのですが、そこからの記憶がさっぱりとありません。
「ど、どうしましょう……っ」
申し訳なさが溢れてきてとりあえず、どうにかこうにかここから抜け出そうとするのですが、やっぱり旦那様の腕はびくともしませんでした。鋼か何かで出来ているのか疑いたくなってしまいます。
すると、私がもぞもぞしていたからか旦那様が、ふぁっと欠伸を零してゆっくりと目を覚ましました。寝ぼけて輪郭がふわふわとしていた青い瞳と目が合って、私はまたも石のように固まってしまいました。
ですが、私が謝ろうと口を開いた瞬間、旦那様がふわりと微笑みました。
「おはよう、リリアーナ」
蕩けそうな甘さを孕んだ笑顔と声に私は今度は別の意味で固まりました。頬がじわじわと熱を帯びて赤く染まっていくのを感じました。それでなくとも密着しているのにさらにぎゅうと抱き寄せられます。
「だ、だんなさまっ」
私の髪に鼻先を埋める旦那様をかろうじて呼びます。
「んー? ああ、そうだ、気分はどうだ?」
大きな手が私の頬を包み込むようにして撫でてくれます。つい先日、知ったばかりの体温は寝起きだからかいつもより温かいような気がしました。それとも私の頬が熱いのでしょうか。
「あ、あのっ、昨夜、私……っ」
「何もかも大丈夫だ。君が謝るようなことも怖がるようなことも何もない」
そう言って、旦那様は優しく笑って下さいました。
私は安心して泣きそうになるのを堪えながら、「ありがとうございます」と精一杯、お礼を言いました。旦那様は、うん、と一つ頷くと徐に枕元に手を伸ばして金色の懐中時計を手に取りました。私のものでは無いので旦那様のものでしょう。旦那様は時間を確認するとまた懐中時計を枕の横に戻しました。
「そろそろ朝食の時間だが……」
「で、でしたらもう起きませんと……っ」
このままでは私の心臓が持ちませんので、私は必死です。旦那様は、私の心を見透かしたように目を細めるとくすくすと可笑しそうに笑って、漸く私を開放してくれました。解かれた腕の重みがなくなり、ようやく私は体を起します。心臓がばくばくと破裂しそうなほどうるさいですし、頬はまだ熱を持っています。旦那様も、ぐーっと伸びをしながら起き上がりました。
私はエルサが着替えさせてくれたのでネグリジェを着ていましたが、旦那様はディナーの時の格好のままでジャケットやベスト、スカーフなどがベッドの足元の方に無造作に置かれていました。
「なぁ、リリアーナ」
「は、はい」
放置されているジャケットの皺を心配していた私は名前を呼ばれて慌てて旦那様に意識を戻します。
旦那様は、なんだかとても優しい眼差しで私を見つめています。
「まず、私と食事するのに慣れよう」
「え?」
「君はいつも自分の部屋で食事をしているんだったな」
話が掴めず頷くほかありません。
旦那様は、少し考え込むように顎を撫でた後、名案を思い付いたかのように得意げに頷きました。
「なら私も君の部屋で昼と夜、食事をしよう」
「えっ?」
「堅苦しいコース料理は無しだ。私もそういうものは性に合わないからな。食事をしながら色々な話をしよう。私は君のことが知りたい。私の空っぽの記憶にリリアーナのことを刻み込みたいんだ」
思ってもみなかった言葉に私は、返事に困ってしまいました。
すると旦那様は、膝の上にあった私の両手を大きな両手で包み込みました。
「私の我が儘を聞いてくれないか、私の可愛いリリアーナ」
またあの甘い笑顔を浮かべて旦那様が下から私の顔を覗き込んできます。
私はどうしてかこの笑顔にとても弱いのです。
「絶対に、怒らないでいて下さるなら……」
まるで旦那様を試すような失礼な言葉を口にしたというのに旦那様は、それはそれは嬉しそうににっこりと笑ってくれました。そのことに驚いて目を瞬かせます。
「私が君に怒られることはあっても、私が君を怒ることなんて絶対にありえない。ありがとう、リリアーナ!」
「きゃっ、だ、旦那さまっ!」
はしゃぐ旦那様にまたぎゅうと抱き締められました。けれど、旦那様はなにがそんなに嬉しかったのか、朝の仕度を携えてエルサがやってくるまで放してはくれませんでした。
その腕の中の心地よさに馴染んでしまっている私がいることに、この時の私はまだ気付いていませんでした。
「エルサ、私、変な所はないですか? 大丈夫かしら?」
オロオロと部屋の中を行ったり来たりする私にエルサは、くすくすと笑いながら頷きました。
「今日の奥様も大変、お可愛らしいですよ。それに旦那様如きにそんな緊張しなくても大丈夫ですよ」
「だ、旦那様だから緊張するんですもの」
両手で胸を押さえて、ふうと息を吐き出しました。
朝食を終えた今は、いつもならお裁縫をしたり、読書をしたり、日によってはマナーレッスンやお勉強があるのですが今日は、なんと旦那様に屋敷の中を案内して欲しいと頼まれてしまったのです。
エルサが用意してくれたのは淡い水色のドレスです。髪もエルサが綺麗にまとめて結ってくれました。両サイドは編み込みになっていてとても可愛いです。エルサの手はいつも魔法のように私の髪を綺麗に結ってくれるのです。
ですが中身は私なので折角のエルサの魔法も完全に生かしきれないのが申し訳ないところです。
「ねえ、エルサ」
「はい、奥様」
私は足を止めて、エルサを振り返ります。
「……私、旦那様はもっと怖い方だと思っていたんですけれど、今の旦那様はあんまり怖くないのです。記憶を失くしたことは……関係あるのかしら?」
エルサは私の言葉に少し考えるような仕草を見せた後、ふっと表情を緩めました。
「ご安心くださいませ。旦那様は、本来はああいった性格でございます。奥様の前では不機嫌でむっつり黙ったままの最低野ろ……失礼、無礼な紳士だったかもしれませんが、本来は喜怒哀楽のはっきりした非常に分かりやすい性格をしておいでです。もちろん、貴族という階級に属しておりますし、立場のある方ですので外では相手によりけり適当な仮面を被っておいでですが、身内の前だといつもあんな感じです」
「そうなの?」
「はい。図体の大きな子供だと思って接していた方が、気が楽になるやもしれませんよ」
「まあ、エルサったら。ふふっ、冗談が上手ね」
エルサがあまりにも真剣な顔で言うのでついつい笑ってしまいました。あんなに大きくて立派な旦那様を子どものようには見えません。それに旦那様は私よりも十歳も年上です。
「でも、ありがとうございます。なんだか緊張が解れたような気がします」
「それは何よりでございます……あら、来たみたいですよ」
コンコンとノックの音が聞こえてドアの方を振り返ります。エルサが応対に行く背を見ながら去ったはずの緊張がまたも私の心臓を掌握しようとしてきます。
僅か開けたドアの隙間から二言三言なにか言葉を交わしたエルサがこちらを振り返ったので、私は小さく頷きました。
ガチャリとドアが開いてエルサが脇に避けると旦那様が現れました。今日は、藍色を基調とした服に身を包んでいました。シンプルなデザインで派手な装飾のない普段用の服であっても旦那様は迫力があります。がっしりした体つきが更に旦那様の姿を引き立てているのかもしれません。
旦那様は部屋の中を見回して私に気付くとぱっと顔を輝かせて、さっそく私のところにやってきました。
私の前で足を止めるとさっと上から下へと視線を走らせました。
「うん、とても可愛らしい。まるで愛らしい水の妖精のようだ」
するりと手を取られて手の甲に口づけが落とされました。一気に色んなことが起こり過ぎて処理できない私の心と頭は破裂しそうです。かぁっと一気に熱を持った私の頬は苺のように赤くなっていることでしょう。
「十五点ですね。一応言っておきますと百点満点中の十五点です」
横から聞こえてきた声に顔を上げれば、冷めた表情を浮かべるエルサがいました。
「花の一つも持ってきたらいかがですか?」
エルサは旦那様とその後ろに控えるフレデリックさんを見て眉を寄せました。旦那様が私の手を離して、そっとそっぽを向いてしまいました。エルサは一体どうしたのでしょう、とオロオロしているとフレデリックさんがふふっと笑って口を開きました。
「庭師のジャマルに可憐で清楚な花が欲しいと旦那様が頼みに行ったのですが、ジャマルは庭師の腕は確かですが最近、耳と気が遠いので旦那様が記憶喪失になったことを知らず「旦那様みたいな不義理な男に渡す花はねえ!」と門前払いをくらいまして……どうやらジャマルは旦那様が別の女性のところにでも出かけるのかと勘違いを少々していたようです」
「日頃の行いの問題ですね」
エルサは、なんだかとっても愉快そうに言いました。
ジャマルおじいさんは、侯爵家に仕える庭師さんです。白いおひげがトレードマークのジャマルおじいさんは年齢による体力の限界と耳も遠いので今は殆どの仕事は息子のジャックさんと孫息子のフェレさんが取り仕切っていますが、大事な部屋に飾る花を育てる花壇と温室は今もジャマルおじいさんが世話をしています。ジャマルおじいさんは使用人の中でも一番の古株で旦那様のおじい様と幼馴染だそうです。ちなみに旦那様のおじい様とおばあ様はご健在で王都から少し離れた穏やかな田舎町の別宅に住んでいるそうです。
「ジャマルは奥様をそれはそれは可愛がっていますからね」
「そういった理由で旦那様は花を用意するのに失敗したのでございます」
「旦那様、お花が欲しかったのですか?」
旦那様は何故か申し訳なそうに私に顔を戻して、ああ、と覇気のない声で頷きました。
きっと記憶喪失で不安に苛まれる旦那様の心は癒しを求めているのかも知れません。お花というのは見ているだけでもその可憐さや美しさで心を癒して、穏やかにしてくれますからね。
「旦那様、でしたら私があとでジャマルおじいさんに旦那様のお部屋に飾るお花をお願いしてみますね。ジャマルおじいさんは私のお部屋にもいつも綺麗なお花を見繕ってくれるんです」
「え、あ、ああ、うん。ありがとう、リリアーナ……」
旦那様は驚いたような顔をしたあと、どこか遠くを見つめながらお礼を言って下さいました。律儀で優しい旦那様です。
口元を手で覆ってそっぽを向くエルサと俯いているフレデリックさんの肩が震えているような気がしましたが、旦那様が咳払いをすると二人の肩の震えは止まりました。なんだったのでしょうと首を傾げますが、具合が悪いとかではなさそうなので気にしないことにしました。
「リリアーナ、不甲斐ない夫だが屋敷を案内してくれるか?」
そう言って旦那様が私に向かって、何故か腕を差し出しました。
一体、どうしたのでしょう。腕に何かあるのかもしれないと思いついて、顔を近づけますがほつれたり、破れたりもしていません。もしや怪我でもと首を傾げます。
するとエルサが身を屈めて私の耳元に口を寄せました。
「奥様、旦那様は腕を怪我した訳でも肘に穴が開いた訳でもありませんよ、これはエスコートしようとしているのです」
まさか、と思いましたがエルサは冗談を言っているようではありませんでしたし、何よりも旦那様は腕を出したまま私の顔色を窺っています。
大丈夫ですよ、とエルサが背中をそっと押してくれたので一歩前に出ておそるおそる旦那様の腕に手を添えました。服の上からでも剣を握る旦那様の腕はがっしりとしていました。すると旦那様は、とても嬉しそうに笑ってくれて私の頬も自然と安堵に緩みます。
「良かった。私では嫌かと思った」
旦那様の言葉に、とんでもありません、と私は首を横に振りました。
距離が近いので旦那様のコロンの香りが鼻先を撫でて、ますますドキドキします。
「こ、こういったことをして頂くのは、初めてなので……ふふっ、なんだかお姫様にでもなったみたいな特別で贅沢な気持ちです」
侯爵家に嫁いでからは、恥ずかしながら恋愛小説というものを読むようになりました。ヒロインはお姫様であったり、町娘であったり、私と同じ貴族令嬢であったりと様々でしたが、結構な頻度でこうして恋人にエスコートをしてもらうシーンがあったのです。
ダンスのレッスンの時に相手役をしてくれたエルサとこうしたことはありますが、男性、それも旦那様にして頂くのは特別な心地です。
これまで読んだ小説の中のヒロインたちも私と同じようにきっとドキドキふわふわしていたに違いありません。
浮かれていた私は、この時、旦那様が真っ赤になった顔を片手で覆って天井を仰ぎ、エルサが「今日も私の奥様が可愛い」と頬を緩め、フレデリックさんがそんなエルサを温かく見守っていたことには気づきませんでした。