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第四.五話 零れた涙に立てた誓い ウィル視点



 待ちきれずに迎えにいった妻の部屋の前で聞こえてきた妻と侍女の会話に私はノックしようと上げた手を止めた。

 そこに出て来たのは明らかに男だと思われる「セドリック」という人物の名前。その名を語るリリアーナの声は弾んでいて、求婚までされた上に王子様とまで言っていた。

 しかし、私の燃え上がった嫉妬心は、乳兄弟でもあるという私の専属執事の言葉によって一瞬で鎮火する。


「例え花で作った儚いものでも、不要だと指輪の一つも作らなかった旦那様よりは間違いなく花の指輪を下さったその方が奥様にとっては王子様でしょうねぇ」


 ぐうの音も出ないとは正にこのことだった。

 私は、むっつりと顔を顰めてノックを止め、ダイニングへと踵を返した。フレデリックは涼しい顔で後ろをついてくる。

 ダイニングに入り、後ろでドアを閉める執事を呼ぶ。


「……フレデリック」


「はい」


「……セドリックとは誰だ」


 ベッドの上にいた昨日までの一週間、アーサーとフレデリックに私が忘れてしまったありとあらゆる人々とその関係を姿絵つきで教えてもらった。自分の家族のことは勿論だが、騎士団のこと、幼馴染のこと、貴族関係のこと、その中には勿論、リリアーナの話もあった。しかし、セドリックという名前が出て来た記憶はない。


「……さあ、奥様に直接尋ねてはいかがですか?」


 乳兄弟は素気無い返事をよこした。

リリアーナは、屋敷の使用人たち皆に愛されて大事にされているのをこの一週間でひしひしと感じた。何故なら世話をしにくる使用人たちが一様に冷たいのだ。特に顕著なのがリリアーナの侍女のエルサだった。私がリリアーナに害をなすと思っている節のある彼女は隙あらば子を護る母のようにリリアーナから私を遠ざけようとする。そして皆、口を開けば「優しい奥様」「淑やかな奥様」「控えめで気遣いの出来る奥様」と彼女を褒めるのだ。私に対しては「あれもこれも綺麗さっぱりお忘れになってさぞご気分もよろしいでしょう」と丁寧ながら辛辣な苦言しかないというのに。エルサに至っては人を平然とヘタレ呼ばわりする。

 ドア付近で私は行ったり来たりしながらリリアーナを待つ。

アーサーにもこっそりとセドリックが誰か尋ねたのだがにっこり笑った執事は「奥様に直接お聞きになったら宜しいかと」とフレデリックと同じことを言った。

 私より十歳も年下のまだ十六歳の少女と言って差し支えないリリアーナにそういう相手がいたとしても責められるものではない。私とは私の都合だけの政略結婚だったし、結婚した当初の彼女はまだ十五歳だ。それになにより今の私も記憶を失くす前の私も彼女の王子様になるには、身勝手過ぎるというのも重々承知している。


「……フレデリック」


 ドアの前でうろうろする私を半目で見ていたフレデリックが首を傾げる。


「その、以前の私は、リリアーナに本当に何も贈らなかったのだろうか」


「そうですね、旦那様が自らというのは一つも御座いません。ドレスも旦那様が当家贔屓の仕立て屋に既製品を頼んだので、エルサたちが全て奥様のサイズに仕立て直しましたしね。旦那様が一縷の望みを抱いていらっしゃるかもしれない裁縫箱と刺繍糸は、旦那様は買う許可とお金を出しただけで選んだのは私とエルサです」


「……花の一つも?」


「花の一つも、帽子の一つも、菓子の一つも、恋文の一つも、結婚指輪の一つでさえも、旦那様は奥様に贈っておりませんし、奥様の好み一つご存知ありませんでした。ふむ、こうして言葉にするとなかなかに最低ですね」


 フレデリックは、ははっと爽やかに笑った。

だが、その目は微塵も笑っていない。この乳兄弟もまた私より奥様を大事にしているのだろうか。


「……私が大事に思うのは、私の主である旦那様です」


 どうやらあの侍女同様、主の心を読む技能も持ち合わせているようだ。


「旦那様と奥様が崖からぶら下がっていたら、私は誰が何と言おうとまずは旦那様を助けます。それで誰に恨まれようが憎まれようが構いません。ですが、この一年の貴方は……人として、紳士として、騎士として、最低だった。……だから僕は君に怒っているんだ、ウィリアム」


 フレデリックの緑の瞳が寂しそうに細められた。

 口調が変わって、名前を呼ばれた。自分のものだとしっくりこない名前は、彼に呼ばれることにはしっくりきたのを感じた。私の失われた記憶の中に確かに彼がいた証拠だった。

 次の言葉を探してとりあえず口を開けた時だった。不意にドアの向こうから悲鳴にも似た声が聞こえて顔を見合わせる。


「確認して参ります」


 そう言ってフレデリックがすぐさま背を向けていたドアに向き直り、廊下へと出る。しかし、ドアを開けた瞬間、エルサが焦ったように「奥様」と彼女を何度も呼ぶ声が聞こえて私はフレデリックを押しのけるようにして慌てて廊下へと出た。

 目と鼻の先にリリアーナと彼女の肩を掴むエルサの姿があった。リリアーナは、何故か耳を両手で塞いで首を横に振っている。


「リリアーナ!」


 リリアーナの体がぐらりと揺れて、私は慌てて駆け出してその細い腕を掴んで引き寄せるようにして受け止めた。ずるずると座り込むリリアーナにつられるように私も膝をつく。私の腕の中でリリアーナは耳を塞いで、ガタガタと震え、まるで逃げ出そうとするかのように足掻く。その目は私を見ているのに、私ではない何かをその銀色の瞳に映して怯えている。


「リリアーナ、私だ、しっかりしろ」


 色を失った唇が震えて、彼女は泣きそうに顔を歪めた。騒ぎを聞きつけた他の使用人たちもぞろぞろと集まって来る。


「おと、お父様……お願いです、許して下さいませ……っ」


 吐き出された言葉と共に彼女は身を強張らせて、何かに耐えるように目を閉じた。細い手首を掴んで耳から外させる。


「リリアーナ!」


 何回目かの呼びかけに漸くリリアーナは、私を認識したのかぴたりと抵抗を止め、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。

 虚ろな銀色の瞳が私を見て、私の背の向こう、そして反対側へと向けられる。

 自分を覗き込む私たちの顔を見てリリアーナは唇を震わせた。


「だいじょうぶですよ」


 確かに色を失った唇がそう言葉を模ったのを私は見つけた。

 言いようのない怒りや焦燥が私の胸を覆った次の瞬間、私は泣きたいような気持を抱いた。リリアーナは、静かに微笑んでいたのだ。真っ青な顔でその華奢な体を震わせたまま、ただ静かに微笑んでいる。


「リリアーナ、絶対に落としたりはしないから身を任せてくれ」


縋ることも知らない彼女の投げ出されたままの細い手が酷く悲しくて、私は全てを誤魔化すように彼女をそっと横抱きにして立ち上がる。拍子抜けするほど軽く小さな体だった。


「大丈夫、大丈夫だ、リリアーナ」


 囁くように告げた声が震えてしまった。

リリアーナは、再び目を閉じる。少しだけ増した重みに気を失ったのだと分かった。


「エルサ、来てくれ。フレデリック、モーガン医師を大至急呼んでくれ。アーサー、後は頼んだ」


 三つの返事を背に私は、彼女の寝室へと歩きだしたのだった。







 時折吹く風がガタガタと窓を揺らした。傍らに置かれた燭台の炎がゆらりと頼りなく揺らめく。

 風が吹き去ればリリアーナの少し荒い呼吸が静かな部屋に落ちる。私は、洗面器の縁に掛けられていた布に右手を伸ばし、リリアーナの額に滲んだ汗を拭う。ベッドの脇に置かれた椅子に座って彼女の手を握り、時々、こうして汗を拭うくらいしか私には出来ることがなかった。

 高熱という訳ではないがリリアーナは少し熱を出してしまった。客間に下がったモーガン医師によれば、精神的なショックからくる熱だそうだ。この屋敷に来た当初はよく熱を出して寝込んでいたと彼は教えてくれた。

 私は、そんなことも知らない。フレデリックやアーサーが報告してくれたのだろうが記憶にない。記憶を失ってなかったとしても、覚えていたかどうかは怪しかった。

 リリアーナが言っていた通り、私の中には思い出すなんて言えるほど彼女に関する記憶がないのだ。

 握りしめていた左手を離し、手ぬぐいを洗面器に浸して絞り、縁に掛けておく。濡れた手をハンカチで拭って、再びリリアーナの手を握りしめた。

 時刻は既に午前一時を回っている。二時間ほど前にエルサを下がらせようとしたが頑として聞かなかった。「信用ならない旦那様に大事な奥様は預けられない」ときっぱりと言われた。しかし、フレデリックがどうにかこうにか言い包めて彼女とともに出て行き、今は私とリリアーナの二人きりだった。


「リリアーナ」


 小さな声で呼びかけるが無論、返事はない。

 ただ苦しそうな呼吸が聞こえて来るのみだ。

 彼女は一体、この小さな体に何を抱え込んでいるのだろうか。

リリアーナは、エルサを姉のようにも母のようにも慕っているが絶対に肌を見せないのだという。下着を先に自分で身に着けてから、エルサにコルセットを締めてもらう。風呂も自分で入り、夜着にも自分で着替え、徹底して肌は見せないらしい。エルサは男たちを追い出すとメイドをもう一人呼んで、リリアーナを着替えさせてくれたが「ドレスを脱がせてコルセットを外し、汗を拭って、ネグリジェを着せただけで肌は一切見ていませんと必ず伝えて下さいね」と念を押された。首を傾げる私に、唯一、医師としてその肌の秘密を知るモーガン医師はそうしないとリリアーナはエルサですら拒絶してしまう可能性があると教えてくれた。


『……若い娘さんがその身に背負うには、絶望にも似たものですよ』


 モーガン医師はリリアーナの秘密について悲しそうにそう呟いた。

 私は一応は夫だ。リリアーナの服を捲って、肌を見たところで神にも法にも咎められることはないが、私の腕の中で震えていたリリアーナにそんなことが出来る訳が無かった。

 今日の昼もそうだった。継母と姉の所為で自分を醜い勘違いしているらしいリリアーナは、彼女も無意識の内に細い手で左の鳩尾を押さえていた。まるでそこにある秘密が顔を出さないように押し込めているかのようだった。

 私は、どうしてリリアーナに辛く当たっていたのだろう。貴族であることから親が決めた政略結婚で他に好きな女でもいた私は彼女を妻と認めなかったのかと思ったが、アーサーは違うと言った。

記憶を失くす前の私は、女嫌いで有名で結婚などしないだろうと思っていたと。年の離れた弟がいるので私が結婚しなくとも後継ぎに問題は無いから一生結婚しないだろうとも思っていて、だからいきなり結婚すると言われた時はとても驚いたのだという。だがしかし、自分で結婚を決めて娶って来たくせに何が気に入らないのか私はリリアーナを一年もの間、無視し続けたと壮年の執事は淡々と告げた。

私が女嫌いだった理由は、先の戦争で武勲を収め英雄として名を上げた大貴族という肩書に群がった女性たちの所為らしい。覚えていないのでさっぱりと身に覚えがないのだが、女の醜さを目の当たりにした私は女嫌いになってしまったのだそうだ。

自分のことなのに今一つ、ぴんと来ない。

だって、今の私はリリアーナを好ましく思っている。一目惚れとは実に厄介だと自分でも笑ってしまうほど、ウィリアムという男はリリアーナという美しい妻に心惹かれているのだ。

彼女の性格が好ましかったのもある。控えめで穏やかで、誰に対しても優しい彼女は見た目の美しさがなくとも人として私よりずっと素晴らしい人だ。


「……ん」


 身じろぐ声が聞こえて顔を上げる。瞼が痙攣し、握りしめていた左手が私の手を握り返した。


「リリアーナ」


 驚かせないように小さな声で彼女の名前を呼んだ。

 ゆっくりと長い睫毛が震えて、銀色の瞳が現れた。緩慢な動作でこちらを振り返った。ぼんやりとしていた銀色の瞳は、暫くそうして私を見つめていたが私を「旦那様」と認識したのだろう次の瞬間、大きく見開かれて彼女の体が再び強張った。


「だ、だんなさ、ま、わ、わたしっ」


 起き上がろうとする彼女の細い肩を片手でそっと押さえてベッドに戻す。


「大丈夫だリリア―ナ。私はこれっぽっちも怒っていないよ」


 出来る限り優しく笑って、穏やかに言葉を掛けた。流石の私もリリアーナが「怒られること」に対して恐怖を抱いていることくらいはこの数日で気が付いている。

リリアーナはベッドの中で泣きそうな顔で私を見つめている。

 

「旦那様、私……ここは、デ、ディナーは、」


「焦らなくていい。ここは君の寝室だ。私もエルサもアーサーもフレデリックも料理長のフィーユもメリッサやアリアナも他の使用人たちも、この屋敷の誰も怒っていないから、安心しなさい」


 私は名残惜しかったがリリアーナの手を離し、サイドボードに置かれた水差しを手に取り、グラスに半分ほど注ぐ。リリアーナが体を起そうとするのでグラスをサイドボードの上に一旦置いてベッドの縁に腰掛けて彼女の背中を支える。


「私に寄り掛かりなさい。倒れては大変だ」


「でも……」


「君が十人くらい寄り掛かっても私はなんともないよ」


 茶化すように言えば、リリアーナが少し表情を緩めて私の胸に寄り掛かってくれた。グラスを渡すと両手で包み込むように持って、そっと口に含んだ。ゆっくりと空になったグラスを受け取り、おかわりを尋ねるがリリアーナは首を横に振った。

 水を飲んで落ち着いたのか、リリアーナは自分の体を見下ろしてドレスからシルクのネグリジェになっていることに気付いたようだった。


「あ、あのっ、着替えは……っ」


 真っ青な顔で振り返ったリリアーナにエルサとモーガン医師の言葉は正しかったのだと思いながら、もう一度、大丈夫だと声を掛けて細い肩をぽんぽんと撫でた。


「エルサとメリッサが着替えさせてくれたが、シュミーズは脱がせていないから肌は見ていないと伝えてくれと言われた。汗ばんで嫌なようならいつものところに替えも出してあると言っていたぞ」


 リリアーナは、エルサからの伝言に分かりやすく表情を緩めた。

 しかし、またすぐに悲しそうな怯えを滲ませた表情になって、躊躇いがちに私を見上げる。


「ほ、本当に……申し訳ありません。折角、旦那様が誘って下さったのに……」


「気にしなくていい。具合が悪くなることは誰にだってあることだ。転んで記憶を失った間抜けな私がリリアーナを責められる訳がないだろう?」


 リリアーナの心を少しでも軽くしてやりたいが、これがなかなか難しかった。

 ぷつりと途切れた会話は、沈黙を連れて来る。自分からはあまり喋らないリリアーナと自分のことすら分からない私には、彼女に話せるような想い出や話題がない。

 だが、ここで何か残さないとの彼女の関係がこれきりになってしまうような気がして、私は次第に焦り始めた。

 そして焦った結果、彼女があんなに取り乱した理由以外で私が最も気にかかっていた話題が勝手に口から出ていた。


「ところでセドリックとは誰だ?」


 言ってから、しまった、と思った。

 しかし、私の焦った口は止まらない。


「その……求婚をされたのだろう? 私とは政略結婚であったし……結婚の約束をしていた男がいたのか?」


 いると言われたら私はどうすればいいのだろうと後悔したところで言葉として口にしてしまったことを取り消すのは不可能だった。できればリリアーナから見た私の顔は「余裕のある大人の男」の顔であってくれと祈った。

 リリアーナがきょとんとして私を見上げる。


「セドリックは、私の異母弟です」


「……え?」


「旦那様は記憶喪失ですから覚えていなくても無理はありません。お会いしたこともないはずですし……セドリックは、私の七つ下の弟です。もしかしてエルサに聞いたのですか? とても優しい子で私を慕ってくれて、あの子が五歳の時にプロポーズをしてくれたのです」


「そ、そうか……そうか、弟か、うん、弟か、弟なら問題ないな、うん、だって弟だものな!」


 私は自分の頬が安堵に勝手に緩むのを感じた。リリアーナが手を伸ばし、枕の下から白い布に花と小鳥が刺繍された袋を取り出した。倒れそうになったのでさりげなく細い腰に手を回すがリリアーナは、その袋の中身に夢中で気付いていないようだった。

 リリアーナが中から取り出したのは、手紙の束だった。


「月に一度、こうして手紙を交わしております。でも今月はまだ届いていなくて……いつもならもう届いているのですが」


 リリアーナが不安そうに手紙を撫でた。子どもらしい幼い文字が「大好きなリリィ姉様へ」と宛名を綴っている。

 リリアーナが中身を取り出して広げた。宛名と同じ幼い文字が近況を綴っている。庭の薔薇が咲いたこと、家庭教師に褒められたこと、冒険小説をこっそり読んだこと、そして最後に「姉様に会いたい」と書かれていた。その文字が滲んでいるのに私は気が付いてしまった。

 彼女の細い指がその文字をまるで幼子の頬を撫ぜるように優しく辿る。

 私でもそのインクが何で滲んでいるのかは、見当がついた。

多分、これは「涙」だ。


「お父様とお継母様は……マーガレット姉様のことはとても愛しているのですが、セドリックのことに関しては伯爵家の後継ぎであること以外に興味がないのです。これまでお継母様やお父様、姉様の苛立ちは私に向けられていましたが、幼いセドリックにそれが向けられていないか……それだけが心配です」


 記憶をなくす前の私はリリアーナに興味など持っていなかった。そのことを加味すれば、リリアーナの弟のことなど歯牙にもかけなかっただろう。そもそもリリアーナとの交流がないのだから、彼女が弟の身を案じていたことなど知らず、彼女が実家に行くことも弟を客人として招くことなどしなかったのだろうし、リリアーナが言い出せるわけもないのは、想像に容易かった。

 この一年、彼女はどんな思いで涙の滲んだ弟からの手紙を受け取って、どんな思いで返事を書いたのだろうか。

 しかし、それとはまた別に私は引っ掛かりを覚えて、躊躇いながらも問いを投げる。


「……苛立ちを向けられていた、とは……君が取り乱したことと関係があるのか」


 私に寄り掛かる細い背がびくりと揺れた。手紙を持つ手が震えていることに気付いて、私は自分が間違ったことだけは分かって慌ててその手を包み込んだ。


「すまない、失言だった。忘れて、く、れ……リリアーナ?」


 彼女の手に沿えた私の手が弱い力で握り返されたのだ。

リリアーナが手紙を膝の上に置いて、そっと私の手を握っていることに気付く。


「あ、あれは月に一度くらいの頻度でした」


 震える声が言葉を紡ぎ出し、私は彼女の名を呼ぼうと思って開いた口を閉じる。


「お継母様が私を家族で過ごすリビングに呼ぶのです。その部屋には大抵、お継母様と姉様しかいません。お父様は殆ど留守にしていましたし、セドリックには、家族の前では私の顔を見ると吐き気がすると言いなさいと言ってあったのでセドリックは私の言い付けを守って、私が部屋に入ると入れ違いに出て行きます。お父様やお継母様も姉様もセドリックには興味が無いので呼び止めることはありませんでした」


 先ほど手を添えたままだった細い腰を抱き寄せる。


「部屋に入ると……私は絨毯が敷かれていない床の上に座るように言われます。そこに座ると床にスープが置かれて、ティースプーンを渡されるのです。『今夜こそ、上手に食べるのよ? スープを一滴でも零したら鞭打ちの上、当分、食事を抜きにしますからね』……紅い口紅を乗せた唇で愉しそうに弧を描いて毎回、同じ言葉をお継母様が言うのです。それはとても難しいことでした。お皿を持ってはいけませんし、体を屈めてもいけません。ティースプーンはとても小さくて……それに何より、恐怖で手が震えてしまい、毎回、どうしてもスープを一滴、垂らしてしまうのです。二人は私がスープを垂らすのを待っていて、下手くそだとか汚いだとか言いながらくすくすと笑っていました」


 私の手を握る細い手に力が込められて、リリアーナが何かに耐えるようにゆっくりと息を吐きだした。


「リリアーナ、無理して話さなくても良い」


 リリアーナは頑なに首を横に振る。私は痛くないようにと気を配りながらも細い手を強く握り返した。


「そして、その時が訪れたらお継母様は鞭を取り出して、最初の約束通り私の手や肩、背中を打ちます。お継母様の気が済んだら姉様が私を鞭で打つ番でした。二人の気が済んだら部屋に帰ることを許されて、私は「ご指導、ありがとうございました」とお礼を言って部屋に戻るのです。そして、最低、三日は食事を抜かれました……それ以外にも時折、思いついたように私の部屋に来て、私を鞭で打つことがありました。でも、その苛立ちがセドリックに向けられないのなら私は構いませんでした」


 力強く言い切られた私は言葉も出なかった。

 躾の一環で鞭を、それも娘に向かって使うなどありえないことだった。それにリリアーナに向けられたそれはどう考えても躾ではない。言葉は悪いが、憂さ晴らしだ。

 私の腕の中で父親に赦しを乞うた彼女の姿を思い出して、私は思わずリリアーナを後ろから包み込むように抱きしめた。リリアーナの手が私の腕に添えられる。この強く抱き締めれば折れそうなほど細く華奢な体でリリアーナはどれだけの哀しみや恐怖や痛みに耐えて来たのだろうか。だが、それでも尚、彼女は弟のことを想っているのだ。何と強く、優しい(ひと)だろう。


「鞭で打たれて寝込む私の枕元でセドリックはいつも声を押し殺して泣いておりました。痛みで動けない私を想い、私の手を強く握りしめて泣いてくれる優しい優しい弟なのです……っ」


 涙に濡れた声が静かな部屋に落ちる。

 リリアーナは、自分の左手を右手で包み込み唇を寄せた。そこに幼い弟のぬくもりを探しているかのようだった。


「旦那様っ、私が居なくなったあの家で、セドリックは泣いていないでしょうか。私の代わりに鞭で打たれていないでしょうか。手紙にはそんなことは書かれていません。向こうの様子を知りたくとも私には手紙を出せる使用人もおりません。仲介役の馬番見習いの少年は、残念ながら字が読めないので手紙で尋ねることも出来ません……あの子は、私の唯一の家族なのに……っ」


 私は家族ではない、と言われたも同然だったが私にはその言葉を訂正する権利も抗議する権利もない。私はこれまで家族になる努力を一つもしてこなかった。

 泣いているのだろうか、とその顔を覗き込んで息を飲む。

 リリアーナは、唇を噛み締めて涙を耐えていた。今にも零れそうなそれを必死に抑え込む姿は痛々しくて、彼女を抱き締めた。


「……泣いてもいい」


「……だ、旦那様は、泣く女は嫌いだとおっしゃいました……これ以上、不愉快な思いをさせるわけにはいきません……っ」


 たった三度しか顔も合わせていないというのに以前の私はそんなことを言ったのか、と自分自身を酷く嫌悪した。

 私とリリアーナがまともに言葉を交わしたのは、私が彼女を置き去りにした初夜だけだとアーサーは言っていた。だとすれば私は、夫婦が初めて共にする夜に彼女にその言葉を投げつけたのだろう。

 リリアーナは、私の腕から抜け出そうと身をよじる。けれど、大人げない私はそれを許してやることは出来なかった。ひょいと彼女の体の向きを変えて、その顔を私の胸に押し付ける。


「こうすれば私には君の泣き顔は見えないから、大丈夫だ。信じられないかもしれないが……私は君を嫌いになどならないと誓うよ」

 

 柔らかな淡い金の髪に鼻先を埋める。

 リリアーナの体が強張ったのに私は離してやれない。顔を上げたリリアーナの小さな頬を片手で包み込む。


「泣いてくれ、リリアーナ。」


星色の綺麗な瞳を覗き込み、私は彼女の手を取って、その掌に唇を押し付けた。懇願するように彼女を見つめて、リリアーナ、と今の私が込められるだけの想いを込めてその名を呼んだ。


「私は、不誠実で酷い夫だった。だから、これはとても自分勝手で身勝手な願いだと分かっている。記憶を失い、君を妻だとも認識できなかった夫だ。それでも……私は、君と本当の夫婦になりたい」


 リリアーナは、呆然と私を見つめている。

 握っていた手を離し、彼女の頬を包み込む。


「で、も……旦那様が記憶を取り戻したら、きっとまた私のことなど……忘れてしまうのでしょう?」


 私の手の中でリリアーナが微笑った。

 その瞬間、胸が軋むほどの痛みと切なさが私を支配した。

 期待することも望むことも全てを諦めてしまっている儚い微笑みは、とても綺麗で、とても――哀しかった。


「私を嫌いだった気持ちを思い出して、きっと、私のことをまた嫌いになってしまうのです」


「そんなことはない」


 即座に否定したのにリリアーナは、信じてはくれなかった。哀しい微笑みを湛えたまま、そっと私の胸を押して体を離し、また淡く微笑んだ。


「……わたし、充分、幸せでした」


「だったら、もっと幸せそうに笑ってくれ、リリアーナっ」


 彼女が作ろうとした二人の間の空白を押しつぶすように抱き締めた。


「君が壊れてしまう前に、どうか……泣いてくれ。君は私の大事な妻だ。もう二度と君を忘れないと誓うから、どうかどうか……私を信じてくれ、リリアーナ」


 みっともなく縋るように耳元でささやいた。


「……ほんとうに、きらいになりませんか……?」


 弱々しい声が一縷の望みでも託すかのように問いかけて来て、私は一も二もなく頷いて、リリアーナを抱き締める腕に力を込めた。


「ならない。絶対にならない、神と剣と君に誓うよ、リリアーナ」


「わたしの、秘密を知っても……?」


 腕の中でまたリリアーナが自分の鳩尾を押さえたのが分かった。


「君にどんな秘密があろうともだ」


「ほんとうに?」


「本当に」


 リリアーナが押し黙り、私は自分の心臓が早鐘を打っているのに今更気付いた。私の心臓は彼女に拒絶されることを恐れているのだろう。

 しかし、リリアーナの手が私のシャツの胸元を躊躇いがちに掴んだことに気付いて息を飲む。リリアーナが私の胸に顔を押しつけて、細い肩を震わせた。


「ふっ……うっ……」


 聞こえて来たのは、押し殺された嗚咽の欠片だった。

 声の上げかたを知らないのだろうリリアーナは声を押し殺して、私の胸で泣いた。縋ることも知らない細い手は、私のシャツをただただ強く握りしめている。

 結局、リリアーナが声を上げて泣くことは無かったが、泣き疲れて眠ってしまうまで彼女は私の胸を涙で濡らした。

 そんな彼女を抱き締めて横になり、私はとある決意をした。

 リリアーナに、心からの笑顔を浮かべて欲しい、その為なら何でもしようと私は決意したのだった。



ここまで読んで下さって、そして、ブクマ登録、ありがとうございます!


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