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第三十三.五話 お見舞い


「ごめん、もう一回言って?」


 僕は耳に手を添えて、もう一度、聞こうと耳を欹てた。


「ですから、主人夫妻は、痴話喧嘩の真っ只中でございます」


 侯爵家のダンディな執事、アーサーは冷静に淡々と馬鹿みたいなことを教えてくれた。僕の後ろにいるカドックと連れて来たマリオが、は?と顔をしているが僕だって同じ顔をしていると思う。

 アーサーは「百聞は一見に如かずでございます」と言って、歩き出し僕らは慌ててその背を追う。

 侯爵家の使用人たちは今日もきびきびと働いているが、心なしかいつもより楽しそうだ。

 誘拐事件から今日で四日、僕もマリオもカドックも、というか騎士団全体が大忙しでお見舞いに来るのが遅くなってしまったけど、まあ、仕方ないよね、仕事だもん。

 僕たちは、お見舞いの品をそれぞれ携えて、中途報告とついでに、僕は公爵のお見舞いにも来たんだけど、もちろん、先ぶれは出してあるからウィルもリリィちゃんも僕たちが来ることは知っていたと思うんだけど、何故、痴話喧嘩なんだろう。


「なんで喧嘩?」


 僕は前を颯爽と歩くアーサーに問いかける。少しだけ首を捻って僕らを振り返ったアーサーは何だか楽しそうに小さく笑った。


「土下座をしたい旦那様とそんなことはして欲しくないという奥様で揉めているのでございます」


「は?」


 説明されたけどますます分からない。

 後ろの二人だって首を傾げている。


「記憶が完璧に戻った旦那様は、自分がこれまで仕出かした奥様への非道な仕打ちを悔いて土下座がしたいのですが、奥様は土下座する必要はありませんと断固拒否の姿勢なので御座います。ですが、我々使用人一同は旦那様の土下座に反対する理由がございませんので、奥様はセドリック様だけを味方に奮闘しているのです」


「セディに言ったの? 大好きな義兄上が大好きな姉様を蔑ろにしてたって」


「いえ、それは奥様が「セディに言ったら離縁です!」と言ったので、建前は三日前の誘拐事件を防げなかったということになっております。……奥様は、あの一年を必要な時間だったとお考えのようでして」


「放置されてたのに? 僕も友達辞めようかなっていうくらいにあの頃のウィルは最低だったと思うけど、ねえ」


「まあな。それで挙句の果てに記憶喪失だろ? 俺だったらその時点で修道院に駆け込んでるな」


 マリオがひょいと肩を竦め、カドックはその意見に賛成なのか、こくこくと頷いた。

 アーサーは、ふっと苦笑を零して「私もです」とまさかの同意をした。でも、アーサーは苦笑を浮かべたまま「ですが」と先を続ける。


「奥様は、あの一年があったから記憶喪失になったウィリアム様に向き合えたと思っておられるのです。エルサや私やアリアナやメリッサ、フィーユやジャマル、たくさんの使用人に囲まれて心穏やかに過ごせた日々の中で、奥様は旦那様と向き合う自信が持てたのだと。確かに奥様はよく「エルサが教えてくれたんだもの」と仰いますので、その言葉に嘘はございませんでしょうし……確かに当家に嫁いでこられたばかりの奥様が、女嫌いの女性不信の旦那様を相手にすることは出来なかったと思います」


「甘すぎるなぁ。僕がリリィちゃんの立場だったら土下座するウィルの頭を踏んで、尚且つ、宝石やらドレスやらをこれでもかって買わせるけどな」


「我々もそれくらいしても良いと思っておりますが、当家の奥様は慈悲深く慈愛に満ち溢れ、謙虚な淑女でございますので」


 割とこの冷静な執事もウィルの所業には怒ってたんだなと僕はしみじみする。そしてやっぱり皆、リリィちゃんに甘い。

 そうこうしている内にウィルの寝室が近づいて来る。


「そういえば、怪我の具合は?」


「旦那様は頑丈な方ですので、鞭で打たれたくらいではなんとも。ですが、火傷の方が少々酷いようで、痕は確実に残るだろうと……まあ、旦那様は男性ですし、騎士ですし、気にはならないのでしょうが、奥様は少々、気に病まれているようだとエルサが言っておりました」


「リリアーナ様は、繊細だからなぁ。ウィルの体に傷痕が増えたって、俺たちは今更だと思えてもそうはいかないんだろうな」


 うんうんとカドックが激しく頷いた。僕の護衛は僕が思っている以上にリリィちゃん信者だったみたいだ。気持ちは分かるけど。


「それに公爵様も奥様を庇って怪我をしてしまったので、奥様はそちらについてもかなり落ち込んでいらっしゃるようで」


「僕の従兄だって言うのにリリィちゃんを悲しませるなんて不届きな男だな」


 僕が肩を竦めるとアーサーは、困ったように笑って足を止めた。


「旦那様、お客様がいらっしゃいました。お通ししてよろしいですか?」


 ウィルの代わりにフレデリックの声が「どうぞ」と答えた。

 そしてドアが開けられ、僕らはぞろぞろと中へと入る。


「ですから、あの時、土下座はしないって約束しましたっ」


「私は君のお願いは聞いたが、しないとは言っていない!」


 ベッドの縁に腰掛けたウィルの膝にリリィちゃんが座って、反対の膝にはセディが座っている。その状態で土下座するしないで揉めている。確かに揉めているが傍から見ればイチャイチャしているようにしか見えない。何せ、ウィルの膝の上でセディはご機嫌に絵本を読んでいる。


「あれ? 喧嘩は?」


「ですから申し上げた通り、痴話喧嘩をなさっておいでです」


 エルサが真顔で主夫妻を手で示して言った。アリアナが隣で「仲良しですよねぇ」とニコニコしている。


「え? イチャイチャしてんじゃん」


「いえ、あれは奥様が一生懸命考えて「こうすればウィリアム様は、立てないのです!」と大層嬉しそうに実行した作戦で御座います。私の奥様は本当にお可愛らしい」


 エルサが頬に手を当てて、相好を崩す。この侍女は本当にリリィちゃんが好きだ。


「だが、土下座でもしないと気が済まない。私は夫として君を護れなかったのだから」


「私には傷一つございませんし、寧ろ、ウィリアム様と公爵様を巻き込んでしまった私が土下座をするべきで……っ」


「君はする必要ないだろ!?」


 ウィルが慌ててリリィちゃんの腰に回していた腕に力を籠める。


「御覧の通り、膝にいる奥様を留めることも出来るのでございます」


 フレデリックが良い笑顔で教えてくれる。

 あれだよ、本当、心底、どうでもいいよ。僕たちこの四日、事件の後片付けで碌に寝てないんだよ。四徹してるのになんで親友夫婦の茶番を見てなきゃならないんだろうと僕は首を傾げた。


「あ、アルフ様! マリオ様にカドック様も……! ウィリアム様を止めて下さいまし、土下座すると言って聞かないのですっ」


 これがウィルだったら殴って終わりにするけれど、他でもない可愛いリリィちゃんのお願いだ。涙目でちょっと困った顔のリリィちゃんはとびきり可愛い。僕たちはとりあえず四徹してあんまり働いていない頭を働かせた。


「殴ったらどうだ?」


「痛いのはだめですっ」


 マリオの提案はすぐに却下された。

 カドックがぱくぱくと唇を動かした。


「カドックは「土下座させればいいんじゃないでしょうか」だって」


「だからそれはだめなんです!」


 僕が通訳したカドックの一番手っ取り早い方法も却下されてしまった。


「あ! だったらリリィちゃんが一回、ちゃんと怒ればいいんだよ」


「私、怒っておりません……」


「ウィルは一応、これでも騎士だからね。護れなかったことが悔しいんだよ。だから、リリィちゃんが一かい怒ってくれれば、その悔しい気持ちも落ち着くと思うんだ」


 僕はふっと笑ってリリィちゃんに提案した。リリィちゃんは僕とウィルの顔を交互に見た後、少し悩んで意を決したようにウィルを見上げて、人差し指を突き付けた。僕らは首を傾げ、セドリックも顔を上げる。


「い、いいですか、ウィリアム様、今から私、怒りますよ…………めっ!」


 瞬間、僕らの心が撃ち抜かれてウィルがリリィちゃんとセディを抱き締めたのは言うまでもなかった。








 ウィルが悶えて撃沈したので、痴話喧嘩は一応、終息を見せたようだ。

 リリィちゃんが膝から降りて、セディも名残惜し気に膝から降りる。


「はい、リリィちゃん。これ君へのお見舞いの品だよ、セディはこっち」


「私は寝込んでいませんのに、ありがとうございます」


「ありがとうございます!」


 リリィちゃんには可愛い小ぶりの花束、セディには焼き菓子の詰め合わせを用意した。次にカドックが、どうぞ、と二人に読書家カドックおすすめの小説を一冊ずつ渡して、マリオはリリィちゃんには彼がデザインしたレース、セディには小さな騎士様になれる騎士の制服風の洋服だ。セディがとても喜んで、マリオにお礼を言った。リリィちゃんも綺麗なレースに顔を輝かせていた。

 早速着てみたいと言うセディが言い出したので、リリィちゃんが気を利かせて弟と侍女と共に部屋を出て行き、男だけになる。


「……お前たち、私の見舞いに来たんじゃないのか?」


「来たからここにいるんだよ。ほら、カドック」


 胡乱な目をするウィリアムの前にカドックが立ち、どさりとリボンのかけられた書類の束をその手に渡した。


「はい、お見舞い」


 にっこりと笑った僕にウィルはますます顔を顰めた。


「だって君にお花を持ってきても楽しくないしねぇ。それより、その書類、明日には取りに来させるから今日中に目を通して処理をしておいてね」


「お前、俺のこと嫌いだろう?」


「大好き大好き」


「椅子をご用意しましたので、どうぞ」


 ウィルの目がますます胡乱になるのと同時にフレデリックが僕らの分の椅子を用意してくれて、ベッドに横になったウィルの傍に並んだそれにそれぞれ腰掛ける。

 ウィルはクッションの山に寄り掛かりながらリボンを解き、早速、書類に目を通す。


「サンドラの遺体はとりあえず検死も終わって、今は安置所にあるよ。……セディには話したの?」


「……まだだ。セディはここのところ精神的に不安定で、私とリリアーナから離れないんだ。昼は一緒に居ればあんな風に元気なんだが夜になると凄く不安になるようで夜泣きまでするようになってしまってな。ここ最近は、大分、落ち着いていたんだが……とてもじゃないがそんな話を出来る余裕はない」


 書類から顔を上げたウィルに、そう、と返す。


「でも、いっそ知らせない方がいのかもしれないね。大人になってからでも、いいのかも」


「かもな」


 複雑な表情を浮かべて頷いたウィルは、再び書類に視線を落とす。


「……それで、アクラブは?」


「それがさっぱり。あの後、すぐに追いかけさせたんだけど見失っちゃったらしくて、王都中に検問を敷いて、今も手配中だけど見かけたとか似たような人物の情報すらないよ」


「俺たちも本腰入れて探してるんだがな、もしかしたらもう王都を出たのかもしれないと思って、そっちにも探りを入れてる」


 マリオが僕の言葉に付け足すように言った。


「それとリリアーナ様が嫁に出されそうになっていた、マクニッシュ商会だが、……ええっと、ああ、これだこれ」


 ウィルの手の中の書類の束へと手を伸ばし、マリオがお目当てのそれを引っ張り出して、一番上に乗せた。


「マクニッシュ商会の会頭、ルドルフの別宅から七体の遺体をとりあえず発見して、今は、検死に回してる。全員、防腐処理が施されてウェディングドレスを着せられていた。一瞬、生きているのかと思ったほどだった。年齢は多分、十七歳前後から二十二歳前後ってところだな。皆、若くて綺麗な子だった。だが、借金の片に売られたのが殆どで身元の照会が難航してるんだ。ちなみに変態爺の別荘に別の隊が行ってる。明日には帰って来る予定だからまた報告に来る」


「本邸は?」


「あっちは息子夫婦が住んでるから、あっちではそんな顔は見せてなかったらしいぞ」


「そうか。隠し部屋や隠し通路も考えられる。本邸含め徹底的に探して洗え」


「りょーかい。リリアーナ様のためだから頑張るぜ。これが終わったら、わたし、リリアーナ様のドレスを思う存分作るのよっ!」


 急なマリエッタ発作にもウィルは動じず、寧ろ「清楚なやつな」と注文を付けた。


「っていうかさ、ウィル。かなり本気出して暴れたでしょ? 片付け大変だったんだからね。全部、殺さないでよ話が聞けなかった」


「私のリリアーナの命が掛かってたんだから、手加減なんかできるか」


「そりゃそうだけどさぁ。一人くらい残しといてよ……っていうか、君が両腕刎ね飛ばした男、リヤンって言って幹部だったからね。あれが生きてたらもう少しまともな話を聞けたのに。他は結局、雑魚だから末端連中の握ってる情報なんて高が知れてるし」


「お前だって下っ端のリーダー格の首を刎ねただろが」


「あれはさあ、うん、景気づけ? ほら士気を上げなきゃじゃん?」


 自分のことを棚に上げれば、ウィルはやれやれと言わんばかりにため息と苦笑と共に零した。


「カドック、マリオ、あとは君たちで説明しておいて。僕、公爵のところに顔出してくるから」


 僕は立ち上がり、腰に剣を差す。


「公爵様はほとんど眠っているからな、起きているかは分からないが、寝ていたらすぐに戻って来いよ」


「んー」


 おざなりに返事をしてウィルの寝室を後にする。子どもの頃からよく遊びに来た勝手知ったる屋敷だから一人で行こうかと思ったのに、律儀にフレデリックが案内を買って出てくれた。


「公爵はそんなに容体が悪いの?」


 前を歩くその背に問いを投げる。


「まあ……旦那様は若いですし、体力が化け物並みにありますので回復も早いのですが、公爵様は毒との相性もよくなかったようで小康状態が続いております。モーガン先生が隣の部屋に常駐して下さって、奥様も甲斐甲斐しくお世話をして下さっているのですが、やはりあちらに行くことに躊躇いがないのも原因かとは思います」


 フレデリックは淡々と告げながら階段を降りていく。

 僕は、そう、とだけ返事をして目を伏せた。

 僕の父と母も大概仲が良かったし、ウィルのご両親に至っては砂糖吐きそうなほどの仲の良さだったが、公爵もまた負けていなかったように僕は思う。

 彼ほどの優秀で狡猾な人物がクレアシオン王国に留まり、そして、その身を粉にして外交に力を注いでくれているのは、イスターシャ夫人が居てこそだ。彼女はこの国を愛していた。この国に住まう人々とこの国の豊かな自然を愛していた。だから僕は、多少の悪事を働いていようとも、公爵に限っては最後の最期にはこちらに味方するであろうという確信があった。

 彼は、いつだってイスターシャ夫人が愛したものを護ろうとしているのだ。


「……フレデリックです。王太子殿下が面会を求めておいでです」


 いつの間にか客間のドアの前にいてフレデリックが訪いを立てていた。ややあってジェームズの声が「どうぞ」と返事をした。

 ガチャリとドアが開き、僕は中へと入る。カーテンが閉め切られた部屋は、昼だというのに薄暗く、天蓋付きのベッドはカーテンが閉められていて中の様子は分からない。


「……公爵は?」


 こちらにやって来たジェームズに僕は小声で問う。


「今、起きておりますのでお話されるようでしたら、どうぞ。私共は外に出ておりますので」


 そう言ってジェームズはフレデリックと共に部屋を出て行く。心なしか彼は少々やつれていたように見えた。だが無理もないかと肩を竦める。主人の具合が悪ければ、心労も疲労も溜まるというものだ。

 僕はベッドに近付き、そっと指先でカーテンを開ける。

 力を失ったハシバミ色の瞳がゆっくりと僕の方に向けられて、口元に小さな笑みが浮かんだ。僕はカーテンを開けて中へ入り、ベッドの縁に腰かけた。


「たった四日で随分と老け込んだな」


「…………ええ」


 干からびたような声に僕は目を細める。

 大きなベッドに沈むように横たわる公爵は、嘘みたいに小さく見えた。頬がこけて、無精ひげが伸びている。紳士然としていた風貌は見る影もなく、今にも死にそうだ。

 周囲を見回すと枕元に水飲みがあった。飲むかと尋ねると、少しの間を置いて頷いたのでその背に腕を回して起こし、口元に水飲みを寄せた。ごくり、ごくりと嚥下する音が聞こえた。三口も飲むと公爵は僅かに顔を背けて意思を伝えた。僕は、それを傍らに置いてそっと公爵の体を横たえる。


「……殿下も、大きくなられましたな」


 先ほどよりはマシになった声で公爵が言った。


「つい昨日まで、私に抱っこを、強請っていたような気がするのに……いつのまにか私を支え起こすことが、できるようになったのですなぁ」


「何を馬鹿なことを言っている。お前に抱っこを強請っていたのなど、五つか六つまでの話だろう。二十年も前のことだ。私は今年で二十六、年が明ければすぐに二十七だ」


「……そう、ですか」


 ふっと笑って、公爵はゆっくりと息を吐きだした。

 部屋の中がまたしんと静かになって、空気が少しだけ重くなったような気がして振り払うように口を開く。


「貴公が勝手に蓄えた小麦だが、私が個人的に押収した」


 ハシバミ色の瞳が驚いたように瞬いた。


「明日、貴公が望んだとおりに小麦はデストリカオに送られ、その見返りに私はデストリカオが隠し、フォルティス皇国に流そうとした武器と火薬をもらい受ける。――そして、デストリカオ北部のカウスクザフ山脈で計画されていた砂鉄の採掘事業は中止させた。事実上、以前より属国ではあったがデストリカオは我が国の完全な統治下に入る同盟国となった」


 なぜ、とその唇が模った。


「あまり私を見くびるなよ。……貴公の奥方であるイスターシャ夫人のもう一つの故郷がデストリカオのまさにカウスクザフ山脈の麓の自然豊かな村であることくらいは私だって知っている。イスターシャ夫人が育ち、生涯愛し続けたその場所を……貴公は守りたかっただけであろう? 例え謀反の疑いをかけられようとも。……私が反対するとでも思っていたのであろう?」


「武器や火薬の、取引が、公に、なれば……また戦争がっ」


「フォルティスは、我が国が与えた小麦の半分も用意出来なかった。あの国は、それでいてデストリカオを乗っ取ろうとしていたのだ。その情報を向こうのトップに報せた。デストリカオは、武器と火薬でわが身を護って来た小さな国だ。フォルティス皇国が相手では従わざるを得ない。そのフォルティスは我が国を兎に角破滅させたいと躍起になっているが、他の属国は正直な所、フォルティスの配下にいるより我が国の配下である方が平穏であることを知っている。隙あらばとは思っているだろうが、余程の愚か者ではない限り、民草の命を無駄に散らせはしまい。デストリカオ国は小国ながら知恵を絞り、長い歴史を紡いできた国だ。クレアシオン王国と手を組んだ方が良いという判断を下したのだろう」


 私はゆっくりと立ち上がり、公爵を見つめる。


「私はあの満月の夜に言ったであろう? この国は私のものだ。この国の民も全て私のものだ。それらを一つでも損なおうとするのなら、私はいつまでもお前の良く知る青臭い若造の可愛い殿下ではいられないのだ、と……私より幾ら年上であろうとも、お前もまた私にとっては愛すべき我が子であることに変わりないのだ。私は寛大で、寛容なる王となる男だからな。だから、」


 毛布の上に出ていた公爵の手を力強く握りしめた。


「勝手に死ぬことは許さん。デストリカオとの外交は全てお前に一任するつもりだ。だからさっさと治せ」


「……殿、下」


「お前がこのまま弱って死ねば、リリアーナ夫人が誰より悲しむ。あの可憐で心優しい夫人が一生、己を責め続けることになるのだぞ。それを最も赦さないのは、正義感が強く誰に対しても優しかったイスターシャ夫人だ」


 私は小さく笑みを零して、彼の手を取り、預かっていた公爵家の指輪を少し根元が細くなっている中指へと嵌めた。公爵は呆然と指輪を見つめ、私を見上げる。


「イスターシャ夫人に褒められるような死に方を選べ。それが今では無いことは分かっているであろう?」


 公爵は片手で顔を覆い、静かに頷いた。私はそれを見届け、カーテンに手を掛ける。


「良く休んで、さっさと治せ。分かったな」


 公爵はまた一つ、静かに頷いた。


「では、おやすみ」


 そう声を掛けてカーテンを閉じ、踵を返す。

 部屋を出れば、話し込んでいたらしいジェームズとフレデリックが顔を上げた。


「ジェームズ、私に出来ることが何かあれば遠慮なく申せ。公爵は私の従兄弟であり、父の甥だからな。父も母も公爵の身を案じて心を痛めておられる。元気になったらば、城に顔を出すようにな」


「はい。確かに主にお伝えいたします」


「よし、では私は戻る。あと一時間は滞在している予定だ」


「かしこまりました」


 ではなと手を上げ、僕は再びウィルの寝室へと足を向ける。フレデリックがすぐに後に着いて来た。


「フレディ」


「はい」


「お前も大分、エルサを溺愛してるけど……僕も結婚したいんだが何か良い相手はいないか?」


「それを一介の執事に聞く方が間違っておられます。王太子殿下ともあろう方に紹介できるようなご令嬢を私が存じている訳ありませんでしょう」


「ははっ、それもそうだ」


 僕がケタケタと笑うとフレデリックは、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 王太子殿下の粋な計らいが良いです。腹黒で情もあり為政者の器を持つ王太子が描かれて良いです。 謀反かと思われた公爵が、奥様ラブ過ぎイケオジなのが明かされて安心しました。“貌が無い男”は王族と…
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