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第三十二.五話 悪に散る花


なぜ、なぜ、何故。

どうして、あの娘は堕ちて来ないの。

 真っ直ぐに背筋を伸ばし、折れそうなほど細くくびれた腰が曲げられ、深々とその頭が私に向かって下げられる。


「ですが、貴女がセドリックを産んで下さったことだけは、心よりお礼申し上げます」


 鈴を転がしたような美しい声が、心からの感謝を私に向ける。

 命を狙い、その体に醜い傷跡を負わせ、そして、十五年もの間部屋に閉じ込め、鞭打った私に嘗ての継子は、ゆっくりと顔を上げて微笑みを浮かべる。


「私は、貴女の何もかもを赦します。私にとって貴女は、もうたったそれだけの存在でしかありません」


 思わず見惚れてしまうような、縋りたくなってしまうような微笑みは無垢そのもので、穢れなど一点の曇りもなく、いっそ恐ろしいほど綺麗だった。

 けれど、紡がれた言葉は私の心を乱すには十分だった。

 何故、どうして、あの子は私と同じように憎しみに身を焦がさないのだろう。怨嗟の念を抱え、私を恨み抜き、憎悪を持って私と同じような存在になればいいのに。

 娘は夜空に浮かぶ手の届かない月のように凛として、清らかだった。

 その姿はまるであの女を見ているようだった


――カトリーヌ・マリア・ドゥ・エヴァレット


 私から全てを奪い、私を憎しみに染めた、女神のように美しかった女。


「…………さない、ゆるさない、赦さないっ!!」


 返してと何度叫んだか分からなかった。

 

「私から、愛する人を奪ったお前を絶対に赦さないっ!!」


 小瓶から肌を焼く猛毒が飛び出していく。

 公爵が娘を庇い抱き締める。だが、私の視界を覆ったのは鍛え抜かれた屈強な騎士の体だった。白い綿のシャツの左の肩から胸に液体が掛かる。

 けれど、青空を思わせるような鮮やかな青い瞳は、微塵も揺らぐことなく私を射抜く。


「……ったく、なんていうものを私の妻に向けてくれるんだ……っ」


「ウィリアム様っ!」


 娘の叫ぶ声がする。

 どうして、どうして庇うのだ。女など男にとって欲望のはけ口でしかないのに、どうして、こんなものを前にしても公爵もこの男もその身を挺してまでも護ろうとするのだ。

 私の世界には、そんな存在は居なかった。

 よろめくように下がった先で温かいものに触れ、背中に一瞬の冷たさを感じた。瞬間、胸に激痛が走る。


「ほらね、言ったろう? 手は出さない方がいいって。君と違って、リリアーナ嬢は愛されているんだから」


「どう、し、て……ごほっ」


 口から溢れたそれを拭うことも出来ず、胸から突き出る銀の切っ先に私は呆然と男を、アクラブを見上げた。

 美しい微笑みを浮かべ、彼はまるで愛おしむように目を細めて、私の頬を撫ぜた。ぐっと引き寄せられて、唇を塞がれる。


「君は確かに美しかった。俺のお気に入りだった。苛烈で残酷な君は本当に美しい。……だが、この国を出て行くにあたって、君を生かしておくのは不都合なんだ。――さよなら、サンディ」


 ナイフが抜け、背中を覆っていた温もりが離れていく。

 糸が切れた操り人形のように私の体は床の上に転がる。

 騒々しい足音や怒声が膜で覆われたかのようにくぐもって聞こえ、私の目には公爵に庇われ、夫に手を伸ばすリリアーナに注がれている。駆け付けた侍女や執事が慌ただしく、主人たちの惨状に顔を蒼くしている。

 不意に公爵の肩越しに、星色の瞳と目が合った。








 陰謀と欲望と香水と酒の匂いと色々なものが混ざり合った世界は、煌びやかで醜くて、美しい。

 蝶のようにも花のようにも鮮やかな色とりどりのドレスが大広間で咲き誇り、紳士たちの暗く深い礼服の色が彼女たちを際立たせている。

 私は、ダンスを楽しみ、歓談を楽しみ、けれど、少し疲れて群がる男たちを適当にあしらって、バルコニーへと出るとその暗がりには先客がいた。

 あまりに綺麗な満月の夜だったから月の女神が空から降りて来たのかと、本当にそう思ったわ。

 深い深い夜に溶け込んでしまいそうな群青色のドレスを身に纏い、艶やかなブロンドを真珠の髪飾りでまとめ、胸には大粒のオパールが虹色の輝きを放っていた。

 透き通るように白い肌は会場の熱気のせいか少し赤くなっていて、驚くほど永い睫毛に縁どられた潤んだ銀の眼差しは女でもくらっとするほど儚げな印象を人に与える。

 先客がいたなら隣のバルコニーに移動しようと踵を返そうとしたところで、若い紳士が二人、現れた。


「此処にいたのか、エヴァレット嬢」


 その名前に彼女が社交界の花と呼ばれるエヴァレット子爵令嬢だと知った。

 確か私と同い年だが、上位貴族である彼女は何の接点もない。


「踊り足りないだろう? 良ければ私と一曲」


「いやいや、僕の方が上手だ。エヴァレット嬢、僕と一曲」


 どうやら彼女はダンスの誘いから逃げてきたようだった。


「あ、あの、わたくし、」


 おどおどと差し伸べられた二つの手にご令嬢は、困惑している。あしらい方を全く知らないようだ。

 ほんの気まぐれで、私は一歩前に出て暗がりから出る。二人の紳士は、漸く私の存在に気付いたようだ。


「ごめんないさいまし、彼女は少しお加減がよろしくないみたいで、今、私の友人が彼女のお兄様を呼びに行って下さっているの」


「そ、そうか、それはすまなかった。久々に君に会えたからはしゃいでしまったようだ」


「もしかしたら今日は人も多いし、私もロルフ殿探しを手伝ってくるよ」


 そう告げて、二人の紳士は一礼して、ご令嬢に別れの挨拶をして去っていく。ご令嬢はあからさまにほっとしたような顔になって、息を吐きだした。


「あの、ありがとうございます。久々に出て来たら、物珍しかったみたいでたくさんの人に囲まれてしまって、具合が悪くなってしまったの」


 どうやら本当に具合が悪かったらしい。そういえば、エヴァレット子爵令嬢は、体の弱い人だと聞いたことがあった。だからあまり夜会にも出て来ず、余計に紳士たちの関心を集めるのだと。


「……そうですか。お大事になさってくださいね、私はこれで失礼致しますわ」


「ああ、待って。名前を教えて下さらないかしら、お礼がしたいの」


 その純粋さに苛立ちを覚えて去ろうとしたのに華奢な手が私の手を掴んだ。ふわりと甘く柔らかな花の香りが鼻先を霞める。


「貴女のような高貴な方に名乗れるような名前はありませんの。もうお会いすることもありませんから、忘れて下さいまし」


「そんな……わたしくとお友達になって下さらない? わたくし、こんなんだからあまり学院にも行けていなくて、お友達と呼べる方がいないの。貴女みたいな美人で格好いい方とお友達になれたら光栄だわ」


 ふわりと花咲くような可憐な微笑みがその顔に広がる。

 可愛らしくて、美しくて、儚げで、純粋で思わず護りたくなってしまうようなお姫様のようなご令嬢。

 まるで私と対極の存在だわ。と可笑しくなって口端に嘲笑が浮かんだ。

 その言葉通り、社交界というものに余り関わらない彼女は知らないのだろう。私が「娼婦令嬢」と蔑まれている存在であることも、大嫌いな男を嫌悪しながらも利用するあさましい女だと、彼女は知らないのだ。

 ただ本当に純粋に彼女は私を、自分を助けてくれた親切な人だと信じているのだ。

 酷く眩しい存在に思えて、彼女の清廉さに私の醜さが浮き彫りになったような錯覚を覚え、その華奢な手をそっと外した。すぐそこに彼女によく似た貴公子が先ほどの紳士と共にこちらへ向かっている姿があるのだから、離れても大丈夫だろう。


「……お友達はきちんと選ばないと、私のように酷い目にあいますわ。……ごきげんよう、お大事に」


 私は微笑みを一つ返して、バルコニーを後にする。

 兄の方は私を知っていたのでしょう、何かされなかったかと妹を案じる声が聞こえて苦笑を零す。けれど、サンドラと私を呼ぶ男の声に顔を上げた時には、いつもの嫣然とした笑みを顔に乗せた。

 これが私とカトリーヌが直接会話したただ一度きりの邂逅だった。

 








「……まぶ、しいわね」


 私を覗き込む銀の瞳は、相変わらずどこまでも澄んで美しかった。

 その横に寄り添う青い瞳も同じだけ澄んでいて、本当に苦々しくて嫌になる。


「……サンドラ様。セドリックのことは、心配なさらないで下さいまし」


 セドリック。

 私が心から望んだ愛する人との子。

 けれど、私はどうしても彼の裏切りが許せなかった。その歪みが私の心を日に日に壊して行った。そして、彼に一つも似ていない息子を愛することがどうしても出来なかった。

 愛していたのだ。本当に、ライモスのことを、私を心から愛してくれたたった一人の人を愛していた。

 本当は、今だって心の底では彼だけを愛している。

 

「……セドリックを、たのんだわ」


 愛せなかった、愛しい子。

 きっと、この愛情深い姉夫婦の下で健やかに育つだろう。

 ライモスには似ていなかったけれど、ただ一つ、彼とそっくりなところがあった。


「……ピーマンがきらいなの」


「はい」


誰も信じないだろうけれど彼と交際して彼が婚約するまでは他の男には触れることだって許さなかった。

 でも彼は私を裏切り、他の女を、カトリーヌを抱いた。その結果は間違いなく私の目の前にいる。

 頭では分かっている。カトリーヌとて好きで他に愛する女のいる男の元へ嫁いだわけでは無いことを、好きでもない男に抱かれる恐怖だって私は他の誰より知っている。

 でも、それを赦してしまったら、裏切られ続けた私の心の痛みは誰も知らないまま、消えてしまうではないか。

 もし、そのことを赦せていたら私はこの子を愛せていただろうか。

 ただ純粋に気まぐれで助けた女に、お友達になってくださらないと微笑んだ美しい人の、心優しいこの娘をマーガレットと同じように愛してやれただろうか。


「……だいきらいよ」


 口から溢れた血がそれを言葉にしてくれたかは分からない。

 私は最期の力を振り絞って、その白い頬に手を伸ばして触れ、指でつまんだ。


「だいきらいよ、おまえなんか」


 私が何もかもを赦せる寛大な人間だったなら、私はこの子をマーガレットと同じように愛して、セドリックも同じように愛おしんで、愛する夫と五人で幸福な未来を築くこともできたでしょう。

 けれど、私にはそれが出来ない。

 私の痛みも憎しみも、ただの嫉妬や執着が逆恨みと言われようとも、自業自得と馬鹿にされようとも後悔はしないと決めたのだ。

 馬鹿にするのなら、したいだけすればれいい。愚かと嗤うのなら好きなだけ嗤えばいい。

 だけど私は誰に馬鹿にされようと、嗤われようと後悔など一つもない。

 私は、レディ・サンドラ。

 気高く、悪に咲く美しい薔薇のような女。

 私は、私の信念を持って生きたのだ。











 見開かれたまま光を失った双眸に手を伸ばし私はそっと瞼を降ろす。

 死んで尚、彼女は嫣然と微笑んでいた。

 愚かと嗤われながら、サンドラという女性は誇り高く生きたのよと私たちに知らしめているかのようだった。


「リリアーナ」


 ぽろぽろと彼女の頬を涙が伝う。


「わ、からないのです……悲しいのか、苦しいのか、安心したのか、わからないのにっ、涙がでるのですっ」


 震えるように静かに涙を零す彼女の細い肩を私は抱き寄せた。




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― 新着の感想 ―
他の方の感想を鑑みると、私はすごく捻くれてるのかもしれません。 やったことは到底赦されることではないとわかっていても、サンドラさんがとても好きです。 彼女の生き方はブレずに一貫している。 現実にこんな…
[良い点] サンドラを『悪の幹部』然と扱ったこと。彼女なりの『悪の矜持』を感じられ、その最期に「来世では悪意に塗れない穏やかで幸せな人生を」と祈ります。 [気になる点] 公爵様がはっきりしません。話し…
[一言] Amazonで酷評されてただけはある
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