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第三十二話 凛と咲く花


 ウィリアム様がお強いのは勿論、騎士様というお仕事上、知ってはおりましたが私が考えていた以上に強かったです。こんな月並みな感想で申し訳ないのですが、それしか出て来ないのです。

 たった一振りで敵の方たちがあっというまになぎ倒されて、床に転がります。公爵様も奮闘されていらっしゃるのですが、ウィリアム様とは根本的な何かが違うのだと、剣術などよく分からない私にさえも分かるのです。

 私は、戦って下さっているお二人の邪魔にならないようにクローゼットの影に隠れております。公爵様が私の目の前で盾の役目を買って出て下さり、その向こうでウィリアム様が剣の役目を務めて下さっています。

 敵の方から血が出たり、呻き声が聞こえたりと恐ろしいのですが、それより私はずっとこっちを見ているサンドラ様の方が百倍くらい怖いのです。

 いつもと変わらず微笑んだまま、ナイフを片手にサンドラ様は一瞬たりとも目を逸らすことなく私を見つめているのです。


「あーあー、やっぱりね」


「ぐっ!」


 場違いなほど暢気な声が聞こえたと同時に目の前にいた公爵様ががくりと膝を尽きました。公爵様は腕を押さえていて、その指の隙間から赤い血が溢れ出しています。


「こ、公爵様!」


 私の叫びに最後の一人を殴り飛ばしたウィリアム様が、すぐにこちらに駆け寄って来ようとしましたが、公爵様の目の前に立つ男性に気付いて足が止まります。

 男性は線が細く背の高い、とても綺麗な方でした。

 首の後ろで一括りにされた真っ黒な長い髪、蝋燭の灯りに際立つ青白いとさえいえるような白い肌のその人は、細身の剣の先から血を滴らせながら、公爵様を見下ろしていましたが、不意にゆっくりと顔を上げました。

 夜よりもずっと深い闇色の瞳が私を捉えると少しだけ見開かれたような気がしました。


「驚いた。女神がいる」


「貴様、誰だ」


 ウィリアム様が剣を片手に構え、男の人を警戒しながらこちらへと少しずつ近づいてきます。


「俺は、そうだな。皆、好き勝手に呼ぶけど、仲間たちはアクラブとも首領とも呼ぶぜ。……にしても、想像していた数倍、綺麗な奥様だ」


 カツン、と靴音がしてアクラブという人が公爵様を横目にこちらにやって来ようとしました。

 ですが、公爵様の血で汚れた手がアクラブさんの腕を取り、その一瞬の隙にウィリアム様が私に背を向けるようにして体を滑り込ませました。ガキンッと鉄と鉄のぶつかり合う音がして、アクラブさんが公爵様の腕を振り払い、剣を構えたまま後ろへと飛びます。


「彼女は私の妻だ。近づくな下郎」


「ははっ、英雄殿、男の嫉妬は醜いぜ?」


 アクラブさんは剣で自分の肩をトントンと叩きながら、面白そうに言いました。


「醜くて結構。私はそれほど彼女に限っては余裕のある男ではないのでね。女神を繋ぎとめるには英雄であっても油断ならないものでね」


「ウィリアム君、惚気は他所でやってくれたまえ」


 公爵様がふらつきながらも落ちていた剣を拾い、構えます。


「こ、公爵様っ」


「大丈夫、死ぬような傷ではないよ」


 振り返った公爵様は、穏やかに微笑んで再び前へと顔を向けました。

 私は、そのお言葉を信じるほかありません。


「ねえ、アクラブ。英雄殿は貴方にあげる。だから、あの娘を私の下に頂戴」


 サンドラ様がアクラブさんの腕にそっと手を添えて彼を見上げます。


「それは難しい問題だ。俺は、ちょいと英雄殿に別れの挨拶をしに来ただけだからな」


「別れだなんて寂しいことを言うなよ。お前は私が鎖に繋ぎとめて、洗いざらい吐かせてやる」


 ウィリアム様が不敵に告げて、一気に間合いを詰めました。ガキンッとまた鉄と鉄のぶつかり合う甲高い音がして、サンドラ様がたたらを踏みながら尻餅をつきました。公爵様が私の方へと下がり、私を庇うように剣を構えて下さります。

 首を薙ぐように迫る細い剣をウィリアム様は体を捻って交わし、長い足で逆にお腹を狙って蹴りを入れます。アクラブさんはそれを腕でガードすると顎を狙って拳を繰り出しました。それを避けたウィリアム様が激しい剣戟を繰り出せば、アクラブさんは踊るように避けて、躱して、受け流します。銀色の刃がぶつかり合う度に薄闇の中で火花が散ります。


「強いな。流石は黒い蠍の首領というだけはある」


 公爵様が苦々し気に呟きました。

 確かに床に転がっている人たちとは全く実力が違うのが見て分かります。


「ウィリアム様、大丈夫でしょうか」


「大丈夫、君の夫君は化け物のように強いからね……っとと」


 公爵様がふらついて私は慌ててその腕を支えましたが、膝をついてしまった公爵様を支えきれずに私も一緒に座り込みます。

 斬られた腕から血が沢山溢れていることに気付いて、私は腕に嵌めていた肘まで覆う手袋を外して公爵様に聞きながら傷口を縛りました。


「良い様ね、ガウェイン」


 はっとして顔を上げると目の前にサンドラ様が立っていました。

 冷たい微笑みを浮かべて私たちを見下ろしています。ウィリアム様に助けを求めようとしましたが、激しい剣戟に一瞬でも気がそぞろになればウィリアム様の命が危ないと気付いて口を噤みました。


「あの人、剣に毒を塗るのが常なのよ。命を奪うようなものじゃないけれど、体が痺れて動かなくなるようなものをね。甚振り殺すのが好きなんですって」


 ふふっとまるで可愛い子犬の話でもしているかのような口調で赤い唇が悍ましい言葉を紡ぎます。


「サンドラ、もう、やめなさい……っ」


 公爵様は腕で私を庇うことを辞めず、片方の手で床に突き立てた剣に縋りながら倒れそうになるのを必死に耐えています。


「ここでやめたって、私は断頭台にあがるだけだわ。それくらいのことをしてきた自覚はあるもの」


「……分かっているなら、やめなさい。リリアーナ夫人は、カトリーヌ夫人とは全く別の人間だということくらい、君だって本当は分かっているのだろう?」


 サンドラ様は、一瞬、私に視線を向けた後、天井を見上げました。


「そうね、そんなことはとっくの昔に知っていたわ。でも……赦せないのよ」


 目を閉じて、ゆっくりと息を吐きだしたサンドラ様は、嫣然と微笑みながら私に顔を向けました。

 そして徐にナイフを取り出した時と同じようにフリルの下の隠されたポケットから、透明な液体の入った小瓶を取り出しました。


「これ、貴女の傷に掛けられた液体と同じものよ」


 その言葉に鳩尾に手が伸びます。ドレスの上からそこに手を押し合てて彼女を見上げました。


「だって、おかしいでしょう?」


「何が、だい?」


「その子ばかり、守られているなんておかしいじゃない。私が泣いて叫んでも、誰も……誰も助けてくれなかったのに」


 ほんの一瞬、本当に一瞬だけサンドラ様が悲しく、寂しそうに微笑みました。

 けれど、もう一度、良く見ようとした時には、嫣然とした微笑みがそこに張り付けられていました。


「ここまで来たらもう戻れないわ。戻りたくもないわ」


「サ、サンドラ様」


 私は、ゆっくりと立ち上がり、サンドラ様を真正面から見据えました。

 一瞬、ウィリアム様と目が合ったような気がしましたが、私は深呼吸をして、サンドラ様だけを見据えます。


「貴女が感じた苦しみや悲しみに私は同情しません。貴女が私に与えた苦しみや恐怖を、貴女が理解しないように」


 震えそうになる体をどうにかネックレスを握りしめて耐え抜いて、私は言葉を紡ぎます。


「でも、もし……セドリックを想う心が少しでもあるのなら、あの子のためにもうやめて下さいまし」


 ヘーゼルの瞳がほんの僅かに揺らいだような気がしました。


「あの子は、父と貴女の子なのでしょう?」


「…………ええ、そうよ。セドリックは私とライモスの子よ。私にも夫にもちっとも似ていないけれど、嫌になるほど先代にそっくりだわ。にこりともせず、泣きもせず、感情があるのかないのかも分からないようなお人形みたいな子」


 ずきりと胸が痛みを訴えました。

 私の知るセドリックは、泣いたり笑ったりと感情豊かで、甘えん坊で素直な愛おしい子です。お人形という言葉はまるで相応しくない、愛らしい子どもです。

 けれど、セドリックはきっと、サンドラ様の前では感情を出さないお人形のような子だったのでしょう。そうすることで幼いあの子は、両親の“無関心”から自分の心を護っていたのかもしれません。


「私は、」


 心臓がバクバクして口から飛び出してきそうです。


「私は、貴女が嫌いです」


 こんな言葉を初めて他人に向けました。

 ナイフを突きつけてしまったかのような不安が私の胸を過ぎりました。


「あら、気が合うわね。私も貴女が大っ嫌いよ。でも私に怯えて泣いていた貴女は好きだったわ」


 くすくすと愉しげな笑い声が落ちます。

 私は、そんな彼女に向かって深々と頭を下げました。驚いたように息を飲む音が確かに聞こえました。


「ですが、貴女がセドリックを産んで下さったことだけは、心よりお礼申し上げます」


 数拍の間を置いて、私はゆっくりと体を起しました。

 そして、出来るだけ穏やかな微笑みを彼女に向けました。


「私は、貴女の何もかもを赦します。私にとって貴女は、もうたったそれだけの存在でしかありません」


 サンドラ様の顔から、初めて微笑みが消えました。彼女の手からナイフが落ちて、すすけた絨毯の上に転がりました。公爵様が「サンドラ」と彼女を呼びましたが、ヘーゼルの瞳は瞬き一つせず、私を見つめています。


「…………さない、ゆるさない、赦さないっ!!」


 彼女の顔が醜く歪んで、瓶のコルクを抜いてそれを頭上に構えました。少し離れたところで、ガッキンッと一際甲高い音が確かに聞こえました。


「私から、愛する人を奪ったお前を絶対に赦さないっ!!」


 そこからはまるで時間の流れが緩やかになったかのようでした。

 公爵様が私のドレスを掴んで無理矢理座らせ、その体を盾にするように私を抱きすくめました。奥様、と叫ぶエルサの声と旦那様と叫ぶフレデリックさんとジェームズさんの声が確かに聞こえたのです。けれど、その瓶の中身が零れるのを止められる人間は誰も居ませんでした。

ですが、振り下ろされた瓶の中身は私にも、そして、公爵様にも一滴たりともかかることはなく、目の前に立ちはだかったその人が、全てを受け止めました。

 コロン、と瓶が絨毯の上に転がって、サンドラ様でさえ驚いたように目を見開いて自らを盾にしたその人を――ウィリアム様を見上げていました。


「……ったく、なんていうものを私の妻に向けてくれるんだ……っ」


「ウィリアム様っ!」


 公爵様の腕の中から私は叫ぶようにその名前を呼びます。肩から胸にかけられたのか、そこを抑えてウィリアム様が激痛に顔を顰めて膝を着くのと同時にエルサを筆頭にフレデリックさんやジェームズさんが部屋になだれ込んできました。

 サンドラ様は驚いたように後退り、そして頬を腫らして口端から血を流すアクラブさんにぶつかり、何故か表情を強張らせました。


「ほらね、言ったろう? 手は出さない方がいいって。君と違って、リリアーナ嬢は愛されているんだから」


「どう、し、て……ごほっ」


 赤い唇が驚愕に震え、その唇より紅いものが彼女の白い肌を汚しました。公爵様が「見るんじゃない」と叫んで私の顔を肩口に押し付け、視界が塞がれてしまいました。一瞬、本当に一瞬、彼女の胸から銀色のナイフの先が出ていたような気がしました。


「君は確かに美しかった。俺のお気に入りだった。苛烈で残酷な君は本当に美しい。……だが、この国を出て行くにあたって、君を生かしておくのは不都合なんだ。――さよなら、サンディ」


 カラン、とナイフの落ちる音がして、どさりと何かが倒れた音がしました。アルフ様の「逃がすな!」という叫びと同時に窓ガラスの割れる音がし静寂を切り裂くように響き渡りました。



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