第二十九.五話 秘密を照らす月光
見たこともないくらいに幸せそうに微笑んだリリアーナは「だいすきです」という爆弾を私の心臓に打ち込んで、眠ってしまった。
はっきり言うと正直、私の鋼の理性にだって限界というものはある。鋼だって折れる時は折れる。
色々あって忘れているようだが、リリアーナは寝間着の前のボタンを外したままで私の腕の中に居る訳で、シュミーズの薄い布を押し上げる二つの立派なふくらみと谷間が良く見える。そんな姿で極上の笑顔を浮かべて少し舌足らずに名前を呼ばれて「だいすき」と言われてしまったら、食べたいと思ってしまうのが男の性だ。
伸びそうになる手をぐっと抑えて、息を吐き出す。
「だめだ、だめだ、私は騎士だ。誇り高い騎士だ。国の英雄だ、頑張れウィリアム」
私は何度か深呼吸を繰り返し、在りし日の思い出を手繰り寄せてむさい男だらけの演習を思い出して心を鎮めた。
私の腕の中でリリアーナは、安心しきった寝顔を浮かべている。冷たい月光に照らされるその寝顔は、触れたら熱を持っているのが不思議なほど、美しい。
ベッドの中で人の動く気配がして、リリアーナがベッドから出て行ったのが分かって、セドリックを起さないように離すのに手間取りながら、階下へ降りるとリリアーナは、この椅子に座って月を見ていた。
青白い月の光を浴びる彼女の姿は、どこまでも清閑で、そして、怖くなるほど儚くて美しかった。
そのまま月に帰ってしまったとしてもなんら不思議ではなくて、私は咄嗟に「リリアーナ」と彼女を引き留めるように呼んでいた。
足音も気配も普段の癖で消してしまっていたから、彼女をとても驚かせてしまって可哀想なことをしてしまった。
けれど、起きて来て、追いかけて来て、そして、話をして良かったと思う。そうしなければ、アルフォンスの言っていた通り、彼女はいつの間にかセドリックと共に私の手の届かない場所へと行ってしまっていたのかもしれなかった。
クレアシオンの修道院には二種類ある。一つは何らかの罪を犯した貴族女性や平民の女囚が入る刑務所と同じ意味合いを持ち、険しい山の上などにあって規律も厳しく、一度入れば二度と生きては出て来られない場所だ。
もう一つ、リリアーナが行こうとしているのは町中にある修道院で既婚女性がそこへ行って望めば、夫側の意思に関係なく離縁が成立し女性は自由の身になる。更に貴族女性は平民になるという手続きを取ることも出来るのだ。そこから修道院の世話になりながら働いて平民として生きるか、神に仕える修道女になるかは女性個人の自由だ。
しかし、どちらも成人前の子供を除く男性と一部の特別な処置を受けた男性以外は立ち入りが禁止されている男子禁制の場所で私たち男は迂闊には近づけないし、敷地内に入ることすら許されない場所だ。もし屋内での作業になる針子を仕事に選ばれてしまえば、会うことさえままならなくなる。離縁した夫が妻に会いたいと申し込んでも、修道院側がそれを許可してくれることはほぼない。結局、ここへ逃げ込んだ女性たちは夫の暴力や暴言などに怯えて、救いを求めて門を潜っているから、向こうも警戒しているしそもそも女性がそれを望まない以上は成立しない。
ふっと息を吐きだして改めてリリアーナに顔を向ける。静かな寝息が虫の声に混じって聞こえて来る。
痛くはないと言っていたから、と前置きして私はシュミーズを少しだけ捲って、彼女の傷痕を見て、直接触れる。汗腺や毛穴というものが焼け爛れて無くなってしまったのだろう肌はつるりとしていて、本当に痛みはないのかと心配になる。だが今まで抱え上げた時、恥ずかしそうにはしていたが痛がってはいなかったので、彼女の言葉を信じることにする。リリアーナが痛がっていれば、普段の生活でエルサが気付いて報告をくれている筈だし、リリアーナが痛がっているのに私が無理をすれば鉄拳も飛んで来る筈だ。だがモーガンにでも聞いて、肌に良い何かしらのクリームを贈ろうと決めた。
「……君には、不似合いな傷だな」
赤と紫の斑点が浮かぶ肌は、傷口の部分だけがボコボコしている。
私の体にはあれこれ傷痕があって、このような傷が増えた所で何の支障も無い。男であり騎士である以上は気にもならないが、十六歳のリリアーナがその体に抱えるにはあまりに不似合いだ。
どれほどの覚悟を持ってこの傷痕を私に見せてくれたのだろうか。
多分、彼女は私に嫌われて、私を諦めるために見せてくれたのだ。私が受け入れる可能性などこれっぽっちも考えてはいなかったに違いない。
痛々しく涙を零しながら、私を遠ざけるために微笑んだ彼女に胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。
それと同時に、暴漢の恐怖に縋りついた娘を突き飛ばしたエイトン伯を殺してしまいたいほど憎らしい。そんなことは七歳の幼い娘にして赦されるような所業ではない。
もし、馬車が襲われることなくリリアーナが、母方の祖父母であるエヴァレット子爵家で育っていたとしたらこんな傷はなく、もっと朗らかに微笑む女性だっただろうか。
だが、そうなるとセドリックはどうなってしまうのだろう。リリアーナという母にも似た存在を知らず、もしかしたらセドリックがリリアーナの代わりに鞭で打たれる生活に身を置くことになっていたのかもしれない。
もしもの話だと上げればきりがないことは分かっているが、結局、私は何が正しいのかは分からなかった。
けれど、彼女は私を信じてくれた。
酔っぱらった彼女が心から私に願ったように「忘れないで」と言ってくれた。
「君の信頼を私は二度と裏切らないと誓うよ」
額に口づけを落として頬を撫でる。
シュミーズを戻してボタンを掛けて前を閉じ、ガウンの前も閉じて細い腰の辺りでリボン結びにする。私のガウンでは大きすぎて余計に小さく見えて、愛おしくなる。
この傷痕を見て、私の胸に溢れたのはリリアーナが生きていてくれたことに対する喜びと安堵だった。致命傷でなかったとはいえ、傷口からの感染症で人は呆気無く死ぬ生き物だ。
それでもリリアーナは生き残ってくれた。生きて、私の腕の中にいるという事実に自然と涙が零れた。
「……私は君を失ったら、生きて行けないんだ。私の愛しいリリアーナ」
少し赤くなった瞼に口づけを落として、彼女を抱えて立ち上がる。
いつも思うが軽すぎて心配になる。
狭い家の中、彼女の足や頭が壁にぶつからないように慎重に二階へと上がり、寝室へと入る。家のベッドよりは格段に小さく、三人で眠るには窮屈なベッドは、しかし、くっついて眠るには最適だった。
リリアーナを降ろせば、眠っていたセドリックがリリアーナに抱き着いて、リリアーナも無意識の内にセドリックを抱き締める。私はセドリックの背後から、愛しい二人を抱えるように寝ころんだ。
明日、サンドラのことをリリアーナには話さなければ、と思っている。セドリックについては、リリアーナに相談してから決めるつもりだ。セドリックにとってはあんな女でも母親だ。幼い彼の心を思えば迂闊には話せなかった。
無邪気な寝顔に胸が痛む。
良い夢を、と囁いて私も目を閉じる。
開けたままの窓から秋の虫の物悲しい鳴き声がリィンリィンと風と共にカーテンを微かに揺らしていた。
「こんな夜更けに人の屋敷に押し掛けるとはまあいい度胸ですね、アルフォンス殿下」
「仕方がないだろう? 私は多忙だし、公爵も多忙だ。眠る前に捕まえないと、碌々話も出来ないだろう?」
飄々と笑う親子ほども年の離れた従弟殿は、ジェームズの淹れた紅茶を美味しそうに飲む。
私は、やれやれと肩を竦めて椅子に座り直し、ティーカップを手に取った。澄んだ赤茶色の綺麗な紅茶は見事な腕前のなせる業だ。雑味は一切無く、茶葉本来の旨味や香りを全て引き出している。
テラスに用意された席で従弟殿は、王太子らしいきちんとした格好をしているが私はシルクの寝間着にガウンを羽織った姿だ。彼の言葉通り本当に寝る前にやって来て、身支度の時間が惜しいからそのままでいいから話をしようと言われたのだ。普段なら礼儀を弁えて下さいと窘めるところだが、時間も時間だったので全て諦めた。この従弟殿は昔から一度言い出したら聞かないのを身に染みて知っている。
「それで、何の御用で……」
「月が見事な夜だ。カップの中に満月が浮いている」
いつの間にか大人になった表情を子どものように緩めて従弟殿は、ティーカップに浮かぶ月を見ている。なんとなく視線を向ければ、確かにティーカップの中に青白い満月がゆらゆらと浮かんでいた。カップを揺らせば、広がる波紋に月の姿もゆらりと揺らめく。
「月を飲む紅茶とは、なかなかに風情があるな」
そう言って、従弟殿はまた紅茶に口を付ける。
言われて見ると確かにその通りだと思えて私も暫し、私も紅茶を楽しんだ。広い庭を吹き抜ける秋の風が心地よかったが少し肌寒いと感じると何も言っていないのにジェームズがひざ掛けを用意してくれた。気の利く執事に礼を言い、カップをテーブルに戻す。
「貴公も、リリアーナ夫人の行方を探っているそうだな」
唐突に口火を切った従弟殿は、まるで明日の天気の話でもしているかのようだった。
「ターシャのストールを預けて早三週間が経ちますからね。進捗を尋ねたいのですよ」
「侯爵が言っていたがなかなかに見事な出来に仕上げているそうだぞ。彼女の針は魔法の指揮棒のようだ。糸を幾つも自在に操って何もない布の上に美しい花を咲かせ、小鳥を囀らせる」
そう言って、従弟殿はポケットから取り出したハンカチを私に見せてくれた。
白いハンカチには見事な王家の紋章の刺繍が施されていた。失礼、と断ってそれを受け取り胸ポケットから取り出した老眼鏡をかけてハンカチに視線を落とす。
彼女のハンカチに施されていた薔薇の刺繍よりも意匠が意匠なだけにずっと緻密で繊細な出来だ。針子の性格が分かる丁寧な仕事が見て取れる。
「ターシャは刺繍が苦手でしてね。生前、彼女がくれたのはハンカチ一枚きりで、そこにあった刺繍が猫かと思って褒めたら熊で機嫌を損ねてしまったという苦い思い出がありますが、成程、リリアーナ夫人ならやはり大丈夫そうですね」
私は礼を言って、ハンカチを返す。
「だろう? 私も気に入っているんだ」
そう言って従弟殿は、頬を緩ませた。生まれた時から知っているが、その目に僅かな恋情にも似た何かを宿すのを初めて見てしまった。
「……おやおや、側室にでも召し抱える気ですかな」
「馬鹿を言え。私は国を護る立場にある者、自ら国の破滅の道を選ぶわけにはいかない」
心底、ごめんだと言いたげな表情に私は、くくっと喉を鳴らして笑う。
確かに英雄殿を敵に回して、この国に良い事は一つもないどころか国が滅ぼされても文句は言えない。英雄殿はそれほどまでに影響力のある男だ。
「それに夫人に対するのは、恋慕の情ではないよ」
こともなげに言って、従弟殿はジェームズにおかわりを要求した。ジェームズが彼のティーカップに新たな紅茶を注ぐ。
親子ほども年が離れ、ジェームズよりも年下の王太子殿下は、しかし、幼いころから非常に優秀で聡い子供だった。人の心を上手に呼んで掌握するその手腕はなかなかのものだ。
「憧れはあるな。彼女はとても清らかで美しくて、眩しい。その眩しさが苦くもあるが私は心地よいとも感じる。侯爵と同じように高潔な魂を彼女も持っているのだろう」
「……なんとなく、それは分かりますなぁ」
呟いて視線を落とす。
確かに月の女神のように美しい女性だが、彼女の美しさを際立たせているのはその内面の輝きだ。
「その正反対の存在が、貴公がこの間まで囲っていた性悪女だが、あれはどこにいる?」
「おやおや、随分と口の悪い。紳士たる者、如何なる場合においても女性をそのように言うものではありませんよ」
「答えよ」
従弟殿は私の諫言など聞こえなかったかのようだ。
「どうして、私が知っていると思うのです?」
「貴公は、知っていたのだろう。サンドラが黒い蠍と繋がっていて、人身売買に加担していることを。それを利用して蜜でも啜ろうとしたのか?」
「人聞きの悪い。私はこれでも王家の血を濃く引く者ですよ。この国を愛する私が、そのようなことをすると本気でお思いですか?」
「イスターシャ夫人を喪ってからの貴公は、ずっと空っぽのままだからな」
はっきりと言って、彼は紅茶を飲む。
考えても見なかった言葉に私は暫し、沈黙してしまった。するとそれをどう受け取ったのか、従弟殿は空色の瞳を私にちらりと寄越した。
「空っぽの貴公は、ずっと危うい。私が知るフックスベルガー公爵は愛国心の強い切れ者だが……今の貴公は、まるで抜け殻だ」
「……殿下、こういった繊細なお話はそうやってズケズケと踏み込むものではありませんよ」
「貴公が領地に貯え込んだ大量の小麦で何をするかは大体の見当がついているが、一介の外交大臣如きが私や国王の意思なく、そのようなことが出来ると思うなよ」
空色の瞳が意地の悪い猫のように細められる。
いや、猫なんて可愛い物じゃない。それは猛獣の、捕食者のそれだ。
「この国は私のものだ。この国の民も全て私のものだ。それらを一つでも損なおうとするのなら、私はいつまでもお前の良く知る青臭い若造の可愛い殿下ではいられないのだ」
ぴりりと冷たい空気が威圧に震える。
現王も優秀で素晴らしい統治者であることは間違いない。
だが、現王は私の父と王位を争うという隙があった。だがしかし、この従弟殿にはその隙がない。私の名前が王位継承権争いの槍玉にあげられているのは知っているが、あくまでそれだけだ。普通よりは随分と優秀である第二王子の名すらそこには並ばない。
優しく朗らかな好青年の皮を被ってはいるが、彼の本質は『王』である。自ら剣を握り戦場へと出た彼は現王よりも冷酷で冷徹だ。百を護るために一を殺すことを厭わないのが、時代のクレアシオン王だ。
「殿下」
私はその空色の瞳を見つめ返す。
「強欲は、身を滅ぼしますよ」
そう返して、私は静かに微笑んだ。
従弟殿の整えられた眉がひくりと動いた。
「サンドラ」
満月の明かりが満遍なく降り注ぎ、ベッドの天蓋から落ちるカーテンが透けている。その向こうで衣擦れの音がして美しい曲線を描く女の体の影が起き上がった。
「リリアーナ夫人の居場所が特定できたぜ」
「なら、今すぐに連れて来て」
気だるげな色気を孕んだ声が落ちる。
「……本当に、どうなってもいいんだな?」
その問いに影が震えるように揺れた。くすくすと少女のように無邪気な笑い声が聞こえて来た。
「あの娘を地獄に引きずり込めるなら、なんだってするわ」
軽やかな言葉とは裏腹に随分と恐ろしい響きを孕んだ言の葉に、笑みを深める。
やっぱり彼女は美しい。
美しく、そして、愚かだ。
「分かった、用意しよう」
片手を上げれば、控えていた気配が部屋を出て行く。
「今夜はゆっくりお休み、サンディ」
「……ええ、ありがとう」
影が再びベッドに沈むのを見送って、部屋を出る。
月の光が届かない廊下は真っ暗だ。
「女の嫉妬は国をも滅ぼすが、彼女のそれは、果たして何を滅ぼすんだろうな」
ああ、愉しみだと笑みを零して、足取り軽く闇の中へと踏み込んだ。