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第二十九話 月光に照らされた秘密


 喉の渇きを覚えて目を開けると久しぶりに帰って来て下さったウィリアム様とセドリックのあどけない寝顔がありました。

 今が何時かは分かりませんが、丸い満月の光が窓から差し込んでいます。私はベッドから二人を起さないように抜け出して、カーテンを閉めて臣寝室を後にしました。

 階段を降りて、キッチンに行きお水を一杯、グラスに汲みます。それを飲んで、ふぅと息を吐き出しました。

 早いものでここへ来て三週間と少しが経ちましたが小さなお家での生活は、不思議とどこにいた時よりも呼吸がしやすいように感じます。

 コルセットをつけていないという点もそれを応援してくれているのかも知れませんが、小さなお家の中の小さな世界はとても平和で小さいからこそ目が行き届き、尚のこと安心するのです。

 エルサやフレデリックさんのお手伝いをさせてもらったり、刺繍を嗜んだり、来客はマリオ様(時々、マリエッタ様)、他に時折アリアナさんやメリッサさんが来るのみです。一度だけアルフォンス様がいらっしゃいましたが忙しいようでそれ以降はお姿は見ておりません。

 ここにいる間は、私は侯爵夫人ではなくて騎士団で下働きをしている(という設定らしいです)夫の妻のリィナです。そこには血筋も貴族としての責任も矜持もありません。ただ穏やかな日々のなかでゆっくりと時間が流れて行きます。

 セドリックも何だか楽しそうに過ごしています。最近は庭いじりが楽しいらしく、フレデリックさんやお休みの日はウィリアム様と楽しそうにお庭で草花のお世話をしています。

 私はお料理の楽しさに目覚めてしまい、毎日、フレデリックさんのお手伝いをするのが楽しみです。なんと今夜の夕食には、私が一人で作ったクリームシチューが並んだのですよ。たくさん作ったのですが、ウィリアム様とセドリックが、美味しい美味しいとたくさんおかわりしてくれたのであっと言う間になくなってしまいました。とっても嬉しくて、感動しました。一生懸命作ったものを美味しいと言って貰えるととても幸せですね。

 なんとなくリビングに行って、お庭を見ようとカーテンを開けました。


「……きれい」

 

 夜空には小さな星の瞬きを飲み込んでしまうほど眩しくて明るい満月が浮かんでいました。花壇でコスモスの花が青白い月光の光を浴びて、ゆらゆらと風に揺れています。

 夜は危ないので外には出てはいけないと言われていますので、出られないのが残念です。

 私は眼が冴えてしまったことを自覚して、傍らにあったロッキングチェアを少しだけ動かして向きを変え、そこに腰掛けました。カーテンの隙間から私もゆらゆらと揺れながら窓の外を眺めます。

あんなに賑やかだった夏は、いつの間にか物寂しい秋へと移り変わっています。

 町はとても静かで、青白い月の光が降る世界は風と庭どこかで鳴く秋の虫の声が穏やかな時の流れを教えてくれます。顔を上げれば大きな満月が浮かんでいて、手を伸ばせば届くような気がします。伸ばした指先に触れた冷たいガラスで、その上からそっと月をなぞりました。


「……リリアーナ」


 急に聞こえてきた声に私はびくりと体を竦ませました。

 驚きながら振り返れば、リビングの入り口にウィリアム様が立っていました。


「ああ、ごめん、リィナ。驚かせてしまったな」


 足音一つしませんでしたので、びっくりし過ぎて声が出ず、とりあえず首を動かして頷きました。ウィリアム様は、こちらにやって来ると私の隣に立ってまた少しカーテンを開けました。


「満月か」


「お、起こしてしまいましたか?」


 月を見上げるその横顔に問いかけます。


「いや、起きたら君がいなかったから、どうしたのかと思って……大分、薄着だな。ガウンを羽織ってくればよかったのに、ほら」


 ウィリアム様がご自分のそれを脱いで私に差し出します。私は、慌てて首を横に振ってガウンを押し戻します。


「だ、だめです。ウィリアム様が風邪を引いてしまいますっ」


「これくらいじゃ私は風邪は引かないよ」


「いえ、いけません」


 私は絶対に受け取るまいと手を握りしめてそれを押し返します。ウィリアム様は、むーっと唇を尖らせると、何かを思いついたのか徐に私を立ち上がらせました。そしてくるりと大きなガウンで私を包み込んだかと思えば、私を抱き上げてそのままロッキングチェアに腰掛けました。必然的に私はウィリアム様のお膝の上です。


「ウィリアム様っ」


「ほら、月が良く見えるぞ。これなら私も君も温かいし、更に私は楽しい」


 こうなるとウィリアム様は私を降ろして下さらないのは、この数か月で身に染みて分かっておりますので私は、諦める他ありません。私は有難くウィリアムさアのガウンに袖を通してみましたが、手が出て来ませんし肩はずり落ちてきます。


「……小さいなぁ」


 ウィリアム様が私の手を袖の中から見つけ出してしみじみと言いました。手のひらと手のひらをくっつければ、その大きさの違いは一目瞭然です。

 指の長さも細さも手のひらの大きさも厚みも柔らかさもまるで違います。私の手より一回り以上も大きな手のひらは、皮が固くなっていて剣を握り続けた証のように肉刺があります。


「あなたの手は、騎士様の手です。私たちを護って下さる優しい手です」


 私は、ウィリアム様の青い瞳の次にこの手が大好きです。

 ウィリアム様の手はいつも私やセドリックにとても優しく触れて、力強く抱き締めて下さいます。護るための手は、いつも私たちを誠実に守り続けてくれています。この手の温もりがあるだけで、私はあれほど怖くて仕方がなかったお父様や姉様、そしてサンドラ様の前にすることができました。

 でも、だからこそこの手は私だけのものにはなり得ないのです。彼はこの国を護る人、アルフォンス様を支えクレアシオン王国の全ての民を護る人なのです。


「…………君の秘密のことを、私は領地に出発する前のエイトン伯から聞いていた」


 はい、と私は顔を俯けたまま返事をしました。


「記憶も、ほとんど戻っている。まだ思い出せないのはここ一、二年のことだけだ」


「……はい」


『さあ、リリアーナ。貴女の夢は終わりよ』


 あの人の声が聞こえて、温かった筈の心が冷えて行きます。

 大丈夫です。大丈夫です。私にはセドリックがいます。あの子が居れば、私はなんだって出来ますし、どんなことにも耐えられます。


「お、お掃除もお洗濯も基本的なことは覚えましたし、お料理も本を見ればもっと出来るようになると思います」


「ん?」


「セディは、父親はいましたが父の愛は知らない子でしたが、最後に……ウィリ、すみません。……侯爵様の優しさで父親の愛情も知ることが出来ました」


「んんー??」


「侯爵様、我が儘を承知でお願いがあるのですが、あのお裁縫箱と三日分の着替えだけ頂けないでしょうか……そうすれば針子のお仕事が出来ると思いますので」


「待て待て待て、待った! お願いだ、待ってくれ!」


 朝、家を出るなら今のうちに準備をしようと思い立ち上がろうとしたのですが、どうしてウィリアム様に抱き締められて止められてしまいました。


「なんで急に出て行く話になっているんだ……!?」


「……記憶もほとんど戻られたのならもう私がいなくとも大丈夫ですし……それに、こんな、傷のある女、貴方には相応しくありません」


 記憶がないことに不安になることももうないでしょう。そうなれば、お飾りの妻はもういりません。

 鳩尾を服の上からぎゅうと握りしめて私は囁くように告げました。

 サンドラ様が私の秘密をバラしてしまったあの日から、ずっと覚悟は出来ていましたし、ここ三週間のこの生活はウィリアム様が貴族の暮らししかしらない私とセドリックに修道院でも暮らして行けるようにと教えてくれていたのですから、寧ろ、三週間以上も時間を下さったことに感謝しなければいけません。だというのに私の身勝手な胸は張り裂けそうに痛むのです。


「だめだ! 言っただろう? 君が出て行くと言うなら、私は騎士としての誇りも矜持も捨てて泣いて縋って土下座して、いっそ五体投地して駄々さえこねると!!」


 以前のウィリアム様も流石のエルサもそこまでは言っていなかった気がするのですが、見上げた先でウィリアム様は酷く真剣に私を見つめていました。


「で、ですが……ここでの庶民的な生活は私とセドリックが修道院にいくための練習だったのではないのですか?」


「断じて違う! 気分転換ともう一つもっと重要な理由がある!」


「きゃっ」


 急に立ち上がったウィリアム様に抱き上げられたかと思えば、再びロッキングチェアに下ろされて、何故かウィリアム様が私の足元に膝をついて座り込みました。


「ウィリアム様?」


 まるであの日のようです。

 記憶を失くされたウィリアム様が初めて私の部屋を訪ねて来たあの日のように、私を見上げています。


「君の傷のことは確かにあの母娘に言われる前に君の父上に言われて知っていた」


「でしたら……」


 真っ直ぐな眼差しから逃げ出すように顔を俯けました。


「私はどちらでも良いと思った」


 その言葉の真意が分からず、私は首を傾げました。

 なげやりに私に興味がないと諦めてしまうには、ウィリアム様の青い瞳は真摯に私を見つめています。


「君に傷があろうがなかろうが、私にとって重要なのは君がリリアーナであることだ」


 大きな両手が伸びて来て、私の頬を包み込みました。


「どれほど醜い傷跡があろうが、私は君が良い。いつも穏やかに微笑み、優しさを忘れない美しい心を持ったリリアーナが良い」


 真っ直ぐな眼差しとこのぬくもりとその優しさに縋ってしまえたら、どれほど幸せでしょうか。

 私の頬を包むウィリアム様の手をそっと押しのけて、立ち上がりました。


「リリアーナ?」


 訝しむように眉を寄せて首を傾げたウィリアム様に微笑みを返して、私は寝間着のボタンに手を掛けました。青い瞳が驚愕に見開かれます。

ワンピースタイプの木綿の寝間着のボタンを一つ一つ外していきます。恐怖と緊張で手が震えて、なかなか思うようにボタンが外せません。それでもどうにかおへその少し下のボタンまで外し終えることが出来ました。

 そして、私は中のシュミーズに手を掛け、ゆっくりと震える手で捲り上げます。何故か頬を涙が伝って落ちて行きますし、手も勝手に震えています。自分の体だというのに憎たらしいほど言うことを聞きません。


「私は決して、美しい人間ではありません」


 青白い月光に照らされたソレが鮮やかな青い瞳に映り込んだ瞬間、ウィリアム様はますます大きく目を見開き、息を飲みました。


「私は……醜い化け物です……っ」


 鳩尾から左の腰へと延びるボコボコした傷痕を覆うように赤と紫に斑に変色した皮膚は、成長の過程で皮膚が引き攣れて薄くひび割れた痕まで残っています。人間として残る他の白い皮膚との対比が余計にこの傷痕の醜さを際立たせています。


「……あの日、急に馬車が停まってドアが強引に開けられて、短い剣を持った男の人が乗り込んで来たんです。私は、怖くて咄嗟に向かいの席に座っていた父にしがみ付いて、そして……突き飛ばされて……ここに短剣が振り下ろされて、馬が暴れて馬車が倒れて傷口に何かの液体が掛けられました。ここからはもうあまり覚えていないのですが……騎士様の声が聞こえて、男の人は逃げて行きました。そして、次に目覚めた時は自分の部屋のベッドの上でした」

 

 捲っていた裾を降ろして、傷痕を覆い隠します。


「……もっと、早くに、言わなければいけなかったのに……騙していて、申し訳、ありませんっ。私は美しくなどないのです……私は、我が儘を言っていいような、本当は……大事にしてもらえるような人間ではないのです、忌み嫌われて当然の醜い化け物なのです……っ」


 涙を拭って、無理矢理に微笑みました。


「……無理に、笑わなくていい」


 くしゃりと顔を歪めてウィリアム様が立ちあがり、私を抱き締めました。

 予想外のことに体が強張ります。


「君は醜い化け物なんかじゃない」


 耳元で確かにはっきりとウィリアム様が言い切りました。


「信じられないと言うのなら、何度だって言う。私は君が良い。リリアーナが良い。君のどこが醜い化け物なのか私にはさっぱり分からない」


 苦しいくらいに抱き締められて、息が止まってしまいそうです。


「……痛かっただろう?」


 労わるような声音で尋ねられて、私は反射的に頷いてしまいました。鼻の奥がつんとして、収まったはずの涙がまた目頭を熱くします。


「怖かっただろう? 苦しかっただろう?」


 こくん、こくん、と子供みたいに、ただ頷く私をウィリアム様は強く強く抱き締めてくれます。


「それでも君は、今、私の腕の中にいてくれる。こうして抱き締めて、ぬくもりを確かめることが出来る」


 心の底からの安堵がそこに滲んで、彼の声が震えていました。いえ、声だけではありません。私を抱き締める腕も手もその声と同じように震えています。


「この傷痕は、醜い化け物の証なんかじゃない。君が痛みも苦しみも乗り越えて、生き延びた、君が強いという証だ」


 腕の力が緩んで、頬に添えられた手に促されるまま顔を上げると涙を流しながら優しく笑うウィリアム様がいました。


「……君が、生きていてくれて良かった……っ」


 両手で口元を覆って私は、鮮やかな青い瞳を見上げます。そうしなければ、声を上げて泣いてしまいそうでした。

 ウィリアム様の顔が近づいて来て、涙を掬うようにくちびるが頬に触れます。


「リリアーナ、君は醜い化け物なんかじゃない。私は何度だって言うよ。君が信じられるようになるまでずっと……記憶のない私の言葉を信じるのは難しいかも知れないけれど、でも……信じて欲しい。私はもう二度と君を忘れないと決めたんだ。君の笑顔も声も仕草も、好きな花も好きな食べ物も苦手な野菜も好きな小説も全部、全部、私は忘れない。この傷痕のことだって私は忘れない」


 大きな手が服の上から私の傷痕に触れました。優しく労わるようにそっと触れる手に自分の手を重ねます。


「たったこれだけのことで私が君を嫌いになる訳がない」


 私の心臓がその一言に嬉しそうに鼓動を刻みました。


「……なら、」


 今度は私が青い瞳を真っ直ぐに見つめます。


「わすれないでください」


 弱く小さな声で私は、我が儘を言いました。

 

「ウィリアム様にまた忘れられてしまったら……私、哀しくなって泣いちゃいますからね」


 笑った拍子に堪えていた涙が溢れて、次から次へとぽろぽろと溢れ出してしまいました。


「忘れない。絶対に忘れない。神と剣と君に誓って、私は君の全てを忘れないよ。私のリリアーナ」


 ウィリアム様も泣きながら笑っていて、その涙がとても綺麗でした。

 二人して泣きながら笑っているのが可笑しくなって、ウィリアム様が「お互いに困ったなあ」と言いながら私の涙をぬぐいます。私も手を伸ばして、ウィリアム様の涙を伸ばした袖で拭いました。

 なんとなく甘えたくなって、私はウィリアム様の胸に頬を寄せて見ました。そうすればウィリアム様の大きな手が優しく頭を撫でて下さいます。


「……ところで、あの傷は今も痛むのか? 触ってしまったが痛くなかったか?」


 私は顔を上げて首を横に振ります。


「痛いと感じることはもうありません」


「……そうか。痛くないのなら良かった」


 言葉通りにほっとしたように表情を緩めたウィリアム様に私はますます、好きという気持ちが溢れて来て、再びウィリアム様にすりよりました。可愛いな、君はと小さく笑ったウィリアム様が私を抱き上げて、また椅子に腰かけます。

 ウィリアム様の膝の上でゆらゆらとロッキングチェアの揺れを感じます。耳を当てた厚い胸板の向こうから、とくん、とくん、と心臓の音が聞こえて来て、私はだんだんと瞼が重くなってきてしまいました。ウィリアム様の心音には安眠効果があるに違いありません。私の手を軽く握って、とんとんと緩いリズムを指先で刻むウィリアム様の温かい指先も私を眠りの国に誘います。


「ウィリアムさま」


 眠くてぼんやりしながら、私は彼を見上げます。青い瞳が、優しく細められて嬉しくなって笑いました。

 前は淡いピンク色が好きだったのに、今では私の一番好きな色です。


「だいすきです」


 心の中で密かに囁いて、うふふっと笑って私は眠気に誘われるままに目を閉じました。

 そういえば、ここにいるもう一つの重要な理由とはなんだったのでしょう。許して下さるなら明日の朝、聞いてみましょうと考えながら私は幸せな眠りについたのでした。



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