第二十七.五話 その4 布告
「マーガレットを取り戻してきて」
案内された部屋に入るなり、私は窓際のテーブルで一人、チェス遊びに興じていた男に向かって言った。
黒い切れ長の瞳が、ゆっくりと私を振り返り細められる。男の本名は、誰も知らない。色々な偽名を持っているのは知っているけれど、仲間は皆彼をアクラブと呼ぶ。
「やあ、サンドラ。無事に逃げ出せたようでなにより」
「逃げ出せた? 貴方が勝手に連れ出したんじゃない。私は公爵家にそのまま帰るつもりだったのに」
「ははっ、まだ夢を見ているのか、サンドラ。フックスベルガーは君を後妻には娶れないよ。だって君には貴族としての戸籍がないんだもの」
アクラブの言葉の意味が分からず、私は眉を寄せた。
男は懐から取り出した折りたたまれた紙を、ほら、と私に投げてよこした。足元に落ちたそれを一瞥すれば、後ろに控えていた私をここに連れて来たアクラブの従者がそれを拾い上げて私に渡す。ひったくるように受け取り、中身を改める。
「……なによ、これ!」
ぐしゃりと紙を握りしめ、けれど、信じられずにもう一度、皺を広げて中身を目で追う。
それは私の戸籍とエイトン伯爵家の戸籍だった。私の戸籍には生家であるディズリー男爵家の記載がなく、伯爵家の戸籍には私の名とマーガレットの名が消されていた。
「どういう、ことなの?」
彼に詰め寄り震える声で私は問いかけた。アクラブは、くすくすと笑いながらもう一枚の紙を取り出して、私の目の前で広げた。それはマーガレットの戸籍だ。
「……マーガレット・ボニフェース?」
「ボニフェースは名の知れた商人だよ。といっても君の愛娘が嫁いだのは、兄の方らしいが、兄は兄で一部では有名な画家でね。かなりの金持ちだよ、おめでとう」
「私は同意してないわ!! 母親の私が同意していないのにどうして……っ!」
「俺は言ったじゃないか、サンディ」
アクラブがテーブルに肘をつき、薄く笑いながら私を見上げる。
「伯爵の娘でない以上、スプリングフィールド侯爵には手を出すな、と」
「あれの娘ではないけれど、間違いなくエイトン伯爵夫人だった私の娘よ? あの女の娘より優れている素晴らしい娘だわ!」
「君が忌み嫌うリリアーナ嬢は、生粋の伯爵令嬢だ。母君はエヴァレット子爵家のご令嬢でエヴァレット子爵家は爵位こそ低いがクレアシオンでは由緒ある素晴らしい血筋だよ。子爵家にいたってリリアーナ嬢は、スプリングフィールド侯爵の下に嫁ぐにはなんの問題もない」
アクラブはふふっと可笑しそうに笑って肩を竦めた。
「サンディ、スプリングフィールド侯爵はね、好青年に見えるけれど先の戦争で、見事な戦術を用いて圧倒的な不利を覆し皇国を落とした英雄だよ? 王太子殿下が最も信を置く家臣でもある。そしてヴェリテ騎士団次期団長と言われている男だ。俺たちだって迂闊に手を出せば、手痛いしっぺ返しを食らう。それに侯爵はリリアーナ夫人を溺愛しているそうじゃないか。弟君まで迎え入れて、仲睦まじく暮らしている。手は出さない方がいい」
「知ったことじゃないわ、今すぐマーガレットを取り戻してきて、ついでにリリアーナも連れてきてちょうだい」
アクラブは、はぁとこれみよがしにため息を零して、私からチェスへと顔を向けた。
「アクラブ!」
「無理だよ、サンディ。幾ら俺たちが優秀だとは言ってもね、手を出したくない場所というのは山とある。騎士団の地下牢の一番奥にいるであろう最悪の犯罪者を連れ出すのは不可能に近い。侯爵家はガードが固くてね、俺の手先も潜り込めないが……騎士団の護送馬車が来て君の娘が連れて行かれたと報告が来ている。何をしたんだい?」
「私の娘を犯罪者呼ばわりしないでちょうだい! ちょっとリリアーナに向かってティーカップを投げただけよ!! それの何が問題なの!?」
私の答えにアクラブは、あーあー、と声を漏らして肩を落とした。
「それはもう犯罪者なんだよ、君の娘は。侯爵夫妻を襲ったんだ」
「違うわ! あの醜い娘がマーガレットの場所を奪ったから取り戻そうとしただけよ!! それにあの女の侍女がマーガレットに乱暴したの!!」
「侍女は主人を護る義務があるからねぇ。話を聞く限りだと、どうせ君はマーガレットを止めなかったんだろう? だとすればその場で二人そろって侯爵に首を刎ね飛ばされていたって不思議じゃない」
すっと冷たく鋭く細められた黒い双眸に私は言葉を詰まらせる。伸びて来た冷やりとした手が私の頬をそっと撫でた。
「マーガレットのことは諦めな。彼女は近い内にボニフェースの下に贈られる。ボニフェースのところで幸せになれるさ。生かされているだけ有難く思わないと」
ね、サンディ、とまるで子供に言い聞かせるように言ってアクラブはまたチェスへと顔を向け、冷たい手が離れていく。
「クロル。サンドラは疲れているようだから、部屋に案内してやれ」
「話まだ終わってないわ!!」
従者の手から逃げるように彼に向き直り、私は叫んだ。
アクラブは、瞳と同じ長い黒髪を掻き上げて、困った子だと言わんばかりの顔をする。それに苛立ちが増して、テーブルの上のチェスセットを薙ぎ払った。ガッシャ―ンとけたたましい音を立ててそれが床に散らばった。けれど、アクラブは動じた様子もなく、ましてや、困った子という顔を辞めもしない。
「私は、あの女の娘の幸せを赦す訳にはいかないのっ!! マーガレットにはあの娘よりも幸せになってもらわなければいけないのよ!!」
思い出すだけで苛立ちに苛まれて発狂しそうになるほど、リリアーナは母のカトリーヌにそっくりだった。違うのはあの髪の色くらいのもので、あの忌まわしい曇り空と同じ色の瞳もその顔立ちも何もかもが生き写しだった。
カトリーヌは、子爵令嬢の分際で社交界の花と呼ばれていた。誰からも愛でられ、老若男女問わず慕われて大事にされていた花だった。
まるで私とは正反対だった。
「オールウィンの執事は、私に最後まで妻の部屋を使わせなかったわ!! こんな屈辱が他にあって!?」
他の使用人は従順だったけれど、先代を敬愛し忠誠を誓っていた老執事だけは、私に対して一歩も譲らなかった。あれはカトリーヌだけを伯爵夫人と認め、妻が使うその部屋を絶対に明け渡しはしなかった。それどころか彼が伯爵家の人間として認めていたのは、カトリーヌと彼の大事な先代によく似たセドリックだけで、夫であったライモスでさえ先代が使っていた当主の部屋は使わせてもらえなかった。
それどころか先代が遺した財産は全てライモスの後継者のものになっていて、ライモスも私も一切手出しが出来ないようにされていた。あの執事は、どういう訳かマーガレットの出生の秘密を知っていて、夫に知らされたくなければ大人しく今の部屋に甘んじていてくださいとのうのうと宣ったのだ。そして、夫は自分が産まれる前から家に仕えるこの老執事にだけは逆らえなかった。
だから夫共々あの娘を始末しようとうセドリックを産んだ瞬間に思いついたのだ。セドリックだけは間違いなくライモスの子どもだったから爵位を継ぐのに問題はないし老執事が隠した財産もあの子のものだ。だから夫も忌まわしい娘も殺してしまおうと考えた。だが偶然、騎士が居合わせるという悲劇に見舞われて夫も娘も生きたまま屋敷に帰って来てしまった。
表面上は良い妻を演じて心からライモスを心配したが内心は憎悪の炎が身を焼くほどだった。
だが娘は、醜い傷跡をその体に刻み込まれ、美しさを喪った。
だから、生かしておいてやることにした。顔だけはあの女に似て美しいのだから、年頃になれば良い値で売れるだろうと思ったのだ。傷があってもそれが良いという変態だって世にはわんさかいるのだ。
――だというのに!
「その上、侯爵が突然、リリアーナを奪ったのよ! 夫は三千万リルに目が眩んで呆気無く娘を引き渡したわ! そしてあのイカれた侯爵は私の可愛いマーガレットでは無く、どれだけ言い募られてもリリアーナを選んだのよ!!」
今日、屋敷を訪れた時、あの娘はその醜さゆえに邪険に扱われていると信じて疑うこともしなかった。結婚して一年は侯爵が多忙で家に帰れず、夫婦は不仲だという噂がまことしやかにささやかれていたのもそれに拍車をかけた。
だが、現実はまるで真逆だった。
リリアーナは私やマーガレットよりも仕立ての良いドレスを身に纏い、夫の独占欲を象徴するような夫の瞳と同じ色の高価なサファイアのネックレスを身に着けていて、侯爵はそのリリアーナを護るように隣に座っていた。そしてリリアーナを慕い護るように使用人たちでさえ、私に歯向かった。
間違いなくあの娘はあの家で、幸せに暮らしている。夫に愛され、使用人に大事にされ、弟を可愛がり、幸せに生きているのだ。
「リリアーナの倖せは赦されないものよ」
「なぜ? 幸せになるのは人の自由だ」
アクラブは可笑しそうに笑って肩を竦めた。
テーブルの上に残っていたチェスの駒を掴み、アクラブに投げつけた。アクラブはひょいと首を捻って交わし、飄々としている。
「サンディ、君はリリアーナ嬢のことになるとどうにもこうにも癇癪を起しがちでいけないね。普段の君はもっと冷静で美しいのに。本当に休んだ方がいい」
「……リリアーナを私の目の前に連れて来て」
私は黒い双眸を真っ直ぐに見据えて言い放つ。
「報酬も責任も全て私が払うわ。その代わり、何が何でも生きたままあの娘を私の目の前に連れて来て」
「……かなりのことになるよ? 君の命だって保障できない」
アクラブは、ゆったりと微笑んで首を傾げた。
私もつられるように微笑んで小首を傾げた。
「それでも構わないわ、いっそ一緒に――地獄に引きずり込んでやる」
アクラブはその笑みを深めると私を引き寄せ、私の唇を塞いだ。
欲望に満ちた眼差しにぞくぞくとしたものが背筋を駆け抜ける。
「ああ、サンディ。苛烈な君はなんと美しいんだろう。いいだろう、用意してあげよう。だけれど流石の俺でも侯爵相手にすぐには動けない。少々、時間を貰うよ」
「ええ、勿論よ、アクラブ」
ドレスを脱がせる彼の手に応えながら私も彼の首に腕を回し、その唇を奪った。
心の中で燃え盛る憎悪の炎がまたその勢いを増していくのを感じながら、私はあの娘の絶望に染まった顔を想像して、とびきり幸せそうな笑みを零した。
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シリアス回が続きましたが、次話はリリアーナと旦那様がイチャイチャしてセディが可愛いお話です!