第二十七話 紅茶のシミが残るストール
少しの間を置いて、エルサが紅茶を運んで来てくれました。薫り高いアッサムティーで、お茶菓子に小さ目のパウンドケーキが用意されていました。
「改めて私は、フックスベルガー公爵、ガウェイン・クレアシオン=ザファウィーだ」
「私は、スプリングフィールド侯爵の妻、リリアーナ・オールウィン=ルーサーフォードと申します」
お互い、分かってはいることですが改めて挨拶を交わします。
倒れた紳士が公爵様だと知った後、私はアーサーさんに改めて、公爵様について教わりました。とっても優秀な方でこの国の外交の最高責任者だそうです。切れ者で男性と仕事仲間には厳しいですが、社交界では女性に優しいので昔から人気のある方だそうです。ですが五年ほど間に亡くされた奥様を深く愛しておられていたそうで、奥様と結婚なさってからはあまり浮いた話は聞かなかったとアーサーさんは言っていました。浮いた話ってなんなのでしょうか。エルサに聞いたら「お可愛らしい」と言って教えてくれませんでした。
「……侯爵夫人、先日は本当に助かった。改めてお礼を言うよ、ありがとう」
「い、いえ……私はお傍にいただけですので」
「いいや、いち早く君が気付いてくれたおかげで軽く済んだ。そちらのお嬢さん方もありがとう」
御礼を言われて、エルサとアリアナさんが恐縮した様子で頭を下げました。
「少々、激務が祟ってね。年は取りたくはないが昔のようにはいかないね」
「ですが、今日はお顔の色もよろしくて安心いたしました」
まだお疲れは見え隠れしていますが、先日のあの真っ青な顔色に比べれば天と地ほどの差があります。
「ああ、家の者にも怒られてね。仕事も休み休みにしているんだよ。そういえばクッキーも貰ったが、もしかしてあれも夫人が?」
「……はい。孤児院の子どもたちが喜んでくれるので、お菓子作りを時折するのです。本職の方々には敵いませんし、素人のものですのに押し付けるような形になってしまって申し訳ありません」
「いやいや、とても美味しかったよ。なあ、ジェームズ」
「はい。私も旦那様の好意に与りまして二枚ほど頂きましたが、とても美味しゅうございました」
お世辞だと分かっていますが、褒められるのはやっぱり慣れません。
後ろの執事の肩は、ジェームズさんというお名前のようです。
「あの時、夫人が濡らしたハンカチを当ててくれただろう? あれだけで随分と心地よくてね。だがそのままハンカチを借りてきてしまったから返したかったんだ」
公爵様がジェームズさんを振り返るとピンク色の薄くて四角い小さな箱が渡されて、公爵様はそれを受け取ると私へと差し出しました。
「遅くなってしまってすまないね」
「いえ、わざわざありがとうございます。お気に入りのハンカチだったので嬉しいです」
私は素直にそれを受け取りました。確かめてくれ、と言われてリボンを解いて箱を開ければ、あの日、私が公爵様の目元にあてたハンカチでした。広げてみますが、シミ一つ、シワ一つありません。
「とても綺麗にして下さって、ありがとうございます」
「損なわれていないようで、何よりだ。ところで、そのハンカチの刺繍は夫人が?」
「はい。私の唯一の趣味でして……」
このハンカチのピンクの薔薇の刺繍は、私が侯爵家に嫁いできて、あのお裁縫箱を頂き、初めて刺したものなので思い入れのあるものです。
公爵様は、やはりそうか、と呟くとまたジェームズさんを振り返りました。ジェームズさんが今度は正方形の赤い箱をどこからともなく取り出して、公爵様に渡しました。公爵様はそれをまたテーブルの上に置いて、私に差し出します。
「うちのメイドたちに聞いて、街で一番人気だという店の焼き菓子だよ。この間、助けてもらったお礼にと用意したんだ。殿下に聞いたら夫人は甘いものが好きだと教えてくれたのでね」
「い、いえ、そんな……私はお傍にいただけで、助けたと言われるようなことはなにも……っ」
私が慌てて首を横の降ると公爵様は、何故か優しく微笑んで箱を更に前に押し出しました。
「貴女は本当に……とても控えめで謙虚で心優しい女性だ。清廉潔白なスプリングフィールド侯爵の妻に相応しい人だね」
いきなりそんなことを言われて、嬉しいやら誇らしいやら恥ずかしいやらで私は言葉に詰まってしまいました。身内以外の方にウィリアム様に相応しいのだと言って頂けると社交辞令と分かっていても、こんなに嬉しいものだとは思いませんでした。
「それにその菓子は実は……賄賂、でもあってね」
公爵様がどこか躊躇いがちに仰いました。賄賂という少々物騒な言葉に私はエルサと顔を見合わせて首を傾げてしまいました。物騒なお言葉の割に何故か公爵様はどこかそわそわしていらっしゃるのです。不安とか緊張の類ではなく、照れているといったほうがぴったりかも知れません。
「とりあえず開けてみてくれないか」
そう言われて私は、リボンを外して蓋を持ち上げました。
中にはチョコレートが掛けられて、ドライフルーツや飴細工で飾られたバームクーヘンが入っていました。アリアナさんが顔を輝かせたのが視界の端に映ってほほえましくなって笑ってしまいました。アリアナさんは、甘いものが私の何倍も大好きなのです。
「二段重ねになっているから、その菓子も持ち上げて欲しい」
「まあ」
言われるままにバームクーヘンが入っていた部分を持ち上げると外からは分からないようになっていますが、上げ底になっていました。そこには青、白、濃い緑がグラデーションを描く刺繍糸が詰め込まれていました。バームクーヘンを隣へそっと置いて、中の刺繍糸を持ち上げます。真ん中で糸を束ねている紙に書かれていた小さな蝶々の絵にいつも私が使っている刺繍糸と同じものだと気付きました。
「普通は妻や恋人へのプレゼントを隠すところらしいんだがね……賄賂を隠してみたんだ」
「なんの、賄賂なのですか?」
私の問いに公爵様は、ジェームズ様が差し出した何の装飾もないただの箱から、一枚のストールを取り出しました。淡い淡い水色は白にも見えますが、角度によっては少し濃い蒼にも見える綺麗なストールでした。正方形のそれは三角形に折りたたんで使うものなのでしょう。
ですが残念なことに三角にした時の丁度真ん中に紅茶か何かを零してしまった薄いしみが広がっていました。
「これは私の妻が普段、羽織っていたストールで……彼女がいなくなってしまった後、ひざ掛けとして書斎で使っていたんだが、不注意で紅茶を零してしまってね。メイドたちが頑張ってくれたんだが、この通り完全には消えなくて……元々は私が彼女にプレゼントしたものなんだが彼女は最期の日までこれを使ってくれていて、なんだかどうしても申し訳なくてね」
公爵様は、膝の上に広げたそれを寂しそうに、そして、哀しそうに目を伏せて撫でました。
「……このシミを隠すように刺繍をして欲しいんだ」
「私に、ですか?」
この状況からしてどう考えてもそうなのですが、一応、確認のために尋ねると公爵様は、ああ、と頷かれました。
徐に懐に手を入れると、何かから破り取られたような紙を一枚、取り出しました、テーブルの上に置かれたそれには、小さな丸い五枚の花弁に縁どられた青い花が描かれていました。セドリックの爪くらいの小さな青い花がたくさん咲いた花束を男性の手が握っています。
「これは最期にイスターシャが私に宛ててくれた手紙に入っていた。もう文字が書けなかったようで、これだけが封筒に入れられていたんだ。だからこれが何の花なのか、何の本からちぎり取ったのかは分からないんだが……出来れば、この花をモチーフにしてこれに刺繍をいれてくれないか。この絵の通りのものではなくて、この花をメインにして欲しいんだ」
「こちらが絵の写しになります」
ジェームズさんがエルサに紙を渡して、エルサがそれを私にくれました。公爵様のものと全く同じ絵がそこに描かれていました。
良かったです。奥様からの最期のお手紙という大事なものを預かるのかとヒヤヒヤしました。
「……ですが、本当に私でよろしいのですか? 私より腕の良い針子さんはたくさんいると思いますし……」
公爵様は緩やかに首を横に振りました。
「ああ。私を助けてくれた心優しい君が良い」
真っ直ぐに私を見つめるハシバミ色の瞳は、懇願すら宿しているように見えました。
公爵様はとっても偉い貴族で、ウィリアム様とはあんまり仲が良くないことも本当は、アーサーさんに教えられています。だから私に会いに来たのは、何か思惑があるのかも知れませんし、もしかしたらこのお話だって嘘である可能性があるのは承知しています。シミの付いたストールだって、この絵だって偽装しようと思えば幾らでも出来ますものね。
でも、私には何かが公爵様を追い詰めているような、このストールに出来てしまったシミのように淡くけれど確かな不安が彼を苛んでいるように見えたのです。
「……分かりました。私が公爵様のお力になれるのなら」
ハシバミ色の瞳が安堵したように細められて、公爵様は微かに笑って下さいました。
箱に戻されたストールと絵をお預かりします。
「公爵様、もし公爵様が嫌でなければ、奥様のことを教えてくださいませんか? 奥様のストールですからお二人のことを知りたいのです」
「もちろんだとも」
公爵様は嬉しそうに頷いて、紅茶で口を潤します。私もバームクーヘンと刺繍糸を箱に戻してもらって紅茶を一口、いただきました。思っていたよりも喉が渇いていて、ぬるくなった紅茶が美味しいです。
「妻はイスターシャと言うんだが、私が三十二歳の時に夜会で出逢ったんだ。彼女は私より十二歳も年下の可愛らしいご令嬢だった。綺麗な紫の瞳に君と同じ淡い金の髪だが癖っ毛で彼女はそれが気に入らないようだったがふわふわしたその髪が私は好きだったよ。美しく気高く、でも、素直ではなくてそこがまた可愛くて、猫のように可愛くて愛しい人だった。言葉がきつくて誤解されることもあったが……彼女は、人の痛みや悲しみや寂しさに寄り添ってくれる心優しい人だった」
ハシバミ色の瞳を愛おしそうに細めて公爵様は語ります。
「彼女は、とても活発でお転婆なご令嬢でね。そして、とてもはっきりした性格で……くくっ、十六の時に一度、結婚が決まったらしいんだが相手の男が浮気をしたから、思いっきり殴って破談にしたそうだ。それで嫁の貰い手がなくなって行き遅れになってしまったんだよ」
公爵様は、可笑しそうに笑っています。私は驚きを隠せず、目を瞬かせました。
「あの日、イスターシャは、親友の令嬢が悪い男に言い寄られているのを庇っていてね。庇っていたんだが、相手の男があまりにもしつこいから見かねて私が間に入ったら、タイミング悪く彼女が相手に掛けようとしていたワインを私が被ってしまってね」
「それは困りましたねぇ」
「ああ。私もワインをレディにかけられるのは初めてで困ったし、相手の男も私が誰か気付いて逃げ出すし、令嬢は卒倒してしまうし、イスターシャはびっくりし過ぎて固まっていた。だが我に返った彼女も私が誰か分かった途端に随分と慌てて混乱してしまったようで、くくくっ」
公爵様はその時のことを思い出して、耐えきれなくなったのか皺の寄る目じりに涙を溜めながら耐えきれなかった笑いを零しました。
「彼女はワインを掛けてしまった私に対して「責任をとりますわ! お婿に来てくださいませ!」と叫んでね、私はもうそれが面白くて可笑しくて、迷わずに「喜んで」と頷いたんだ。まあ立場上、流石に私は婿には行けなかったから、彼女をお嫁さんとして我が家に貰ったんだけれどね」
「ふふっ、まるで物語の始まりを聞いているようです」
私も思わず笑ってしまいました。すると公爵様は「だろう?」と頷いて、笑います。
「父と母も裏表のないイスターシャを可愛がってくれて、イスターシャも父と母を大事にしてくれた。彼女との毎日は、本当に面白くて、楽しかった。出会いが出会いで、育った国が違ったからこちらの社交界では大変だったろうに、彼女は持ち前の明るさと元気でたくさんの友人を作り、外交を担う私を支え続けてくれた」
「奥様は他国の方なのですか?」
「いや、国籍はクレアシオン王国だったが、母君が王国の当時の同盟国の出身でね。当時はまだそこら中で戦争をしていたから幼い頃の彼女は、比較的安全だった母方のおばあ様のもとで育ったんだ。新婚旅行で一度行けたきりだったが、自然が豊かで美しい場所だったよ」
懐かしそうに過去に想いを馳せる公爵様は、とても幸せそうに見えました。幸せそうで、けれど、寂しそうなそのお姿に奥様を亡くされた公爵様の哀しみと奥様に向けられていた深い愛情があるような気がしました。
それから公爵様は、奥様との楽しく幸せな想い出を幾つも話して下さいました。
庭の木から降りられなくなった子猫を助けようとして奥様が木に登って肝を冷やしたお話、夫婦喧嘩をして何故か公爵様が家出をしたお話、夜会の時に美しく変身した奥様に見惚れたお話、メイドの格好をした奥様に驚いたお話、本当にたくさんの幸福な想い出が公爵様の中に溢れているのが伝わってきました。
ですが、突然、それまで穏やかに時に楽しそうに笑っていた公爵様の笑顔が陰って、その悲しみが濃くなりました。
「……残念ながら私と彼女は子どもには恵まれなかったが、それでも幸せだった。本当に幸せで豊かな日々だった。けれど彼女は……流行り病に罹って呆気無く逝ってしまった。床に臥せってたった二週間の出来事だった」
悲しそうに歪んだそのお顔に掛ける言葉が見つけられずに私は黙ってしまいました。
「あの時、私は……仕事で同盟国のサザンディアにいた。移動を含め一か月の予定で……その半ばにイスターシャは病に倒れた。家の者も医者も全力を尽くしてくれた。だが……イスターシャは病には勝てなかった。報せを受けて私は予定を一週間早めて屋敷に戻ったが、その時にはもう既にイスターシャは天国へと旅立ち、私を笑顔で送り出してくれた彼女は冷たくなって、もう二度と私に笑いかけてくれることはなくなってしまった」
膝の上で組んだ手に視線を落として、公爵様は自嘲の浮かんだ唇を隠されました。
けれど次に顔を上げた公爵様は、少し冷たい微笑みを浮かべていました。
「彼女にとって最期まで良い夫ではいられなかった」
「……そんなことは」
「いや、いいんだよ。この事実だけは変えようがない」
慰めの言葉は拒まれて、公爵様が急に遠くの人になってしまいました。
ジェームズさんが何かを耳打ちすると公爵様は、面倒くさそうにため息を零して顔を上げました。
「すまない、夫人。午後の会議の時間が迫っているようだ。名残惜しいが戻らねば。ストールの件は期限は決めないから、夫人が満足できるまで時間をかけてくれて構わないよ。出来上がったら手紙でもいいし、ウィリアム君を通してくれても構わないから教えてくれ」
そう言って公爵様が立ち上がりました。
「分かりました。あの、お見送り、を」
立ち上がろうとしますがやっぱりセドリックは離れてくれません。本当は起きているのでは、と疑いたくなってしまうほどがっちりです。
「ははっ、いいよ。弟君を起しては可哀想だ、ではまた」
公爵様はウィンクをして軽く会釈をするとジェームズさん共に出口の方へ歩き出します。エルサが私の代わりにお見送りに行ってくれました。
バタンとドアが閉まる音がして、私はゆっくりとソファに身を沈めました。体中を覆っていた緊張をソファが吸い取ってくれているような気がします。
「……ふぅ」
小さく息を吐きだして目を閉じます。
何だか今日は目まぐるしい日です。
「大丈夫ですか、奥様」
テーブルの上を片付けてくれたアリアナさんが心配そうに私の顔を覗き込んできます。
「緊張していたみたいで少し疲れてしまいました。今日は朝から色々なお客様が来る日ですね」
「でも、二度あることは三度あるって言いますから、もう三人来ましたから大丈夫ですよ!」
「ふふっ、そうですね」
私は小さく笑って頷きました。
目を閉じて、深呼吸を一つします。何だか体が少しだるくて重いように感じるのです。公爵様はお優しい方ですので緊張しただけでしたが、久々にお会いしたサンドラ様と姉様に私は自分で思っていた以上に疲弊していたようです。
奥様、奥様と私を呼ぶエルサとアリアナさんの声がしますが応えたくても口が動かなくて、私は抗うこともできず、そのまま意識を手放してしまったのでした。