第二十六話 窓の外
王城は王族の方々が暮らすエリアのほうに入るにはあれこれ書類や審査、兎に角色々な手続きが必要なのですが、お堀とお庭を挟んで一段下に広がる幾つかの建物は王城内ではあるものの身分がしっかりと証明できるなら貴族に限り、出入りは比較的自由だそうです。主に文官さん達が働く建物や塔が並んでいて、中には近衛騎士さんたちの本部もあるそうです。
ウィリアム様は、女性と男性の近衛騎士さんに私たちの護衛を言い付けるとフレデリックさんに急かされるようにして、会議へと急いで行かれました。
案内されたのは、ウィリアム様が会議を行う建物の三階にある穏やかな淡いブルーを基調とした愛らしい客間でした。ちなみに会議室は二階にあるそうです。
お部屋には大きなベッドとソファセットがあって、仮眠が取れるようになっているのかもしれません。
私は、ソファに腰掛けて私の膝を枕にして眠ってしまったセドリックの頭を撫でながら、ぼんやりと窓の外を見ていました。
窓の向こうには晴れ渡った秋の空が広がっています。防犯上、嵌め殺しの窓は開けることは出来ませんがすぐ近くに植えられている大きな木の枝に小鳥が二羽、並んで羽根を休めています。
「奥様、ハーブティーとミルクティーどちらがよろしいですか? それとも別のものをご用意しましょうか」
エルサの言葉に私は首を横に振りました。
「いいえ、今は大丈夫です。エルサもアリアナさんも朝から、疲れさせてしまったでしょう? そこのソファにかけて少し休んで下さい。……これは奥様命令ですよ」
躊躇っていたエルサとアリアナさんでしたが、付け加えられた言葉におずおずと向かいのソファに腰を下ろしてくれました。
お部屋は、お屋敷のお部屋よりずっと静かです。侯爵家の皆さんはせっせと働く働き者さんばっかりなので、屋敷はいつもどこからか誰かの声が聞こえたり、気配がそこかしこにあったりします。窓を開けておけば、ジャマルおじいさんがお孫さんと剪定の仕方で喧嘩する声だって聞こえてきます。
私は、すーすーと穏やかに眠るセドリックの淡い金の髪をゆっくりと撫でます。
涙の流れた痕は目じりを赤くしたままで少し腫れているような気がします。セドリックは、ここへ来てすぐにこうして眠ってしまいました。
「奥様」
エルサに呼ばれて顔を上げます。
紺色の瞳が心配そうに私を見つめていました。アリアナさんもエルサとそう変わらない表情を浮かべて私を見つめています。
「あの二人の言うことなど聞いてはいけませんよ。貴族令嬢として奥様は素晴らしい血統をお持ちですし、価値がないなんて言ったら逆に旦那様に怒られますよ」
「そうですよ。奥様はとってもお綺麗だし、優しいし、良い匂いがしますし、お胸も大きいですし、刺繍もお上手ですし、淑女として完璧です!」
アリアナさんまで懸命に言い募ります。
二人が私を慰めようとしてくれているのだと気付いて、私はふっと笑みを零しました。
「ありがとうございます」
私が笑いかけると二人はなんだか情けない顔になってしまいました。
「……大丈夫ですよ。二人に黙って修道院に行ったりなんてしませんから」
肩がぴくりと跳ねて気まずそうに二人は顔を見合わせていました。私は、ふふふっと笑ってソファの背もたれによりかかります。再び窓の外へ顔を向けると小鳥が一羽、増えていました。並ぶ二羽の間に割り込んだのは、一回り小さな小鳥でした。模様と色は同じですから、この夏に孵ったばかりの雛かもしれません。
「……実家に居た頃は、ずーっとこうして外を眺めてばかりいたんです。薄く開けたカーテンの隙間から」
目だけを向ければ、二人は驚いた顔で私を見つめていました。私はまた、ふふっと笑って窓の外へ視線を戻します。
「庭に咲く薔薇はどんなに良い香りがするんだろうって、風が髪をなびかせるのはどんな感覚だろうってそんなことを考えていました。婚約が決まったのは突然でいきなり「婚約式だ」って言われて連れ出されたんです。お父様の影から見た時、思っていたより多分、若い方だと思って安心しました。でも婚約書に署名をした時は、お話することも出来なくて、お顔だってちゃんと見られなくて……だから旦那様はどんな人なのだろうってそればかり考えていました。優しい人なのだろうなって、そうだったらいいなと思っていたんです。姉様をしきりに勧めるお父様に私が良いとおっしゃって下さった旦那様に一日も早くお会いしたかった」
笑みを零して目を伏せました。セドリックのあどけない寝顔が視界に映って、それだけで心が穏やかになります。
「色々あったけれど、でも……ウィリアム様が笑って下さるようになって、セディもここにいてこれ以上の幸せはないと思うのです」
淡い金の髪はウィリアム様の髪よりずっと細くて滑らかです。
私の膝で微睡むウィリアム様の髪を撫でる時、私がどれほどの幸福を感じているのか言葉に出来たら、彼にもお伝え出来るのにといつも思うのです。
「……ウィリアム様は、きっともうほとんどのことを思い出しておられるのでしょうね」
最近は、会話の最中に記憶を補うためにフレデリックさんやエルサに何かを尋ねることはほとんどありません。淀みなくすらすらと幼少の頃の思い出やお父様やお母様のお話を、ウィリアム様の家族のお話を聞かせてくれます。
「……旦那様は絶対に奥様を嫌いになんてなりませんし、記憶喪失になってからの記憶だって絶対にお忘れにはなりません」
エルサはまっすぐに私を見つめています。
目が合うとエルサは立ち上がり、私の足元に跪きました。細く温かい手が私の手を握りしめます。
「奥様、信じることは怖いことかも知れません。第一に旦那様は、一度、奥様の信頼を裏切って奥様を傷付けたのは事実で御座います。けれど、どうか……今の旦那様の言葉を、想いを信じて下さいませ。何度も申し上げている通り、今の旦那様が私やフレデリック、殿下、マリエッタ様……昔から旦那様を知る人々にとってもっとも馴染み深いお姿なのです」
「エルサ……」
「それに旦那様も仰っていたじゃないですか、リリアーナ様に捨てられそうになったら泣いて縋って、土下座してでも止めるって」
「そ、そこまでは言っていないですよ」
私が慌てて否定するとエルサは、ふふっと優しく笑ってくれました。
「大丈夫です。旦那様は、何があろうとリリアーナ様を手放すことはありません。もし、万が一、奥様が心配なさっているような事態に陥ってしまった時は、私が責任をもって旦那様を教育し直しますのでご安心くださいませ」
「な、殴っては駄目ですよ? 痛いのはいけないわ」
「あんな筋肉を殴ったら私の手が駄目になって奥様の御髪の手入れが出来なくなってしまいますから、」
「蹴っても駄目ですよ? 道具も駄目ですよ?」
「…………分かりました。ですが、奥様、大抵の場合、頭を殴れば記憶は戻って来ると思うのです」
エルサは割とすぐ手足が出るのを流石の私も分かっています。とっても優秀なのになぜか最終的に拳で解決しようとするのです。今だってとっても大真面目に私を見上げて言っています。フレデリックさんが走りたくなるお気持ちが痛い程に分かります。
「エルサは、私の傍に居てくれたら良いのです。旦那様のところになんて行かないで。私の傍に居て下さい。それが一番です、ね、エルサ」
笑いかけるとエルサは、嬉しそうに笑って「はい」と頷いてくれました。アリアナさんが「お見事です」と小声で言って音は出さないようにしながら拍手をくれました。
平和的な解決に成功して、私はほっと胸を撫で下ろしました。やっぱり、紅茶で頂こうかしらと緊張が解けて喉が渇いたことを自覚した時、コンコンとノックの音が聞こえ、アリアナさんがすぐにドアの方へと行きました。表にはウィリアム様が呼んで下さった護衛の騎士さんがいますので危ない人は入って来られないとは思うのですが、少々不安です。
「大丈夫ですよ、身分がないのであの方たちはここへ入って来られませんから」
私の不安に気付いたエルサが握ったままだった私の手をそっと撫でてくれます。
すると慌てた様子でアリアナさんが戻って来て、エルサに何事かを耳打ちしました。驚いたような顔になったエルサは「失礼します」と告げてたちあがり、代わりにアリアナさんが私の手を握りしました。私より少し小さなアリアナさんの手は小さくて可愛らしくて和みます。
エルサと女性の護衛騎士のジュリア様と男性の護衛騎士のエリック様の声に混じって、知らない男の方の声が聞こえてきます。
「ジュリアさんは女性の騎士様だけれど、とても素敵でしたね」
「はい。ジュリア様は伯爵家のご令嬢なのですが、騎士になってその上、近衛騎士というエリートに上り詰めた凄い方なのですよ!」
アリアナさんが興奮に目を輝かせながら教えてくれます。
確かにエルサより背が高くて、スレンダーながら鍛えられた体をしたジュリア様は癖のある豊かなブロンドをポニーテールにしていて、エメラレルドグリーンの瞳が綺麗な美人さんでした。近衛騎士は制服の色が黒ではなく、深い緑になるのでその瞳と相まってとても似合っておいででした。
「……わかりました、少々、お待ち下さいませ」
エルサがそう言ってこちらに戻って来たので私とアリアナさんは同時に振り返ります。珍しくエルサが困惑顔です。
「何方がいらっしゃったのですか? アルフ様ですか?」
「いえ……先日、奥様がお助けした紳士が、どうしても直接会ってお礼が言いたいと」
「先日、助けた……紳士、ま、まさかフックスベルガー公爵様ですか?」
私の問いにエルサは、はい、と気まずそうに頷きました。
「旦那様に許可は貰って来たらしいのですが、旦那様は現在会議中ですので確認できませんし、かといって無碍に出来るお相手ではありません」
「で、でも……ウィリアム様がいないのに……」
「ただ……具合が悪いとお断りするのも可能ですよ。奥様……あんまり顔色がよろしくありませんし」
エルサに言われて、頬に手を添えました。朝から色々あったので疲れたのかも知れません。
ですが、倒れるほどでも熱があるわけでもありません。
「……いいえ、お会いします。公爵様は、お忙しい合間を縫って会いに来て下さったんですもの。頑張ります」
「分かりました。私とアリアナがお傍におりますからね。では、お通ししますので、アリアナ、セドリック様をベッドの方へ」
「はい」
行ってきます、と告げてエルサがまたドアの方へと戻りました。
「失礼しますねって、あれ?」
眠ってしまうとセドリックは重たいので私も手伝おうと思ったのですが、ドレスを握るセドリックの手が全然、剥がれません。
「うー、やぁ……!」
無理矢理に剥がそうとしたら、寝ぼけたセドリックは、いやいやをして私の腰に腕を回して尚のこと、離れなくなってしまいました。これは困りました。幼いながらどこにそんな力があるのか私とアリアナさんではびくともしません。起きたのかと思って声を掛けますが、どうやら眠ったまま抱き着いているようです。
「こ、困りました、セディ、セディ」
可哀想ですが起こそうと背中をとんとんしてみますが、起きる気配もありません。
私とアリアナさんが、あわあわしている間についにドアが開いてしまい、エルサと共に二人の男性が部屋に入ってきてしまいました。一人は公爵様、もう一人はこの間もお会いした執事の男性です。
「も、申し訳ありません……! あの弟が離れなくなってしまいまして、も、もう少々お待ちくださいませ!」
立ち上がって挨拶しようにもセドリックがいるのでそれも出来ません。
慌てて駆け寄ろうとしたエルサを手で制して、公爵様はこちらにやって来ると穏やかに笑って、セドリックの寝顔を覗き込みました。この間よりもずっと顔色も良く、足取りもしっかりしておられます。
「この子が、君の弟君か。二人とも髪の色は、先代のエイトン伯爵夫人譲りなのかな」
予想外のお言葉にきょとんとして公爵様を見上げると公爵様は穏やかに微笑んでセドリックの頭を優しく撫でると向かいの席へと回って腰掛けられました。
「そのままにしてあげなさい。随分と姉君から離れたくないようだから」
「お心づかい、ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろし、息を吐きだしました。