第二十五話 予期せぬ来訪2
「では、侯爵様もお忙しいようですし……本題に入っても宜しいかしら? お話したいことが二つありますの」
「ええ、そうしてください」
ウィリアム様が頷いて、話を先へ進めるようにと促しました。
サンドラ様は、ありがとうございます、と笑って、何故かお庭の方へと顔を向けました。応接間の前にはテラスがあって、外でお茶を楽しむこともできますし、そのままお庭へと降りることも可能です
本題に入ると言ったのに、急にお庭を見つめたまま黙ってしまったサンドラ様に私とウィリアム様は顔を見合せました。
不意に、ちりんちりんと小さなベルの音が聞こえました。アーサーさんがウィリアム様に「来客のようです」と言って、応接間を出て行きました。応接間とエントランスは、それほど離れていませんのでくぐもった話し声が聞こえてきました。
「騎士団からの緊急連絡か?」
ウィリアム様がぽつりと零されました。
ですが、確かにその可能性は高いのです。
普通、来客の場合は先方から必ず先ぶれが参ります。ですが、ウィリアム様はこの王都を護る騎士様ですので、勿論、急に事件が起これば駆け付けなければならないことも多々あります。そんな時に先ぶれがなどとは言って居られませんので、急な来客は大抵、騎士団からの緊急連絡なのです。
今は例の事件でバタバタしていますので、何か大きな進展でもあったのかもしれません。
「ウィリアム様、確認をして参りましょうか?」
なかなか戻って来ないアーサーさんにエルサが申し出ました。ウィリアム様が、そうだな、と頷いてエルサが踵を返したその時「お客様です」というアーサーさんの声がドアの向こうから聞こえてきました。
「客……?」
訝しむように眉を寄せたウィリアム様が、誰なのか尋ねようとした時、アーサー様の制止する声とそれに「お黙りなさい!」と返す聞き覚えのありすぎる甲高い声がして、ドアが開け放たれました。
「ああ、旦那様! お会いしたかったですわ!」
そう言ってこちらに駆け寄って来たのは、あの日見た悪魔――ではなく私とセドリックにとっては姉であるマーガレット様でした。ウィリアム様は咄嗟に私を背に庇って下さいました。姉様はお構いなくウィリアム様に抱き着こうとしましたが、冷笑を浮かべたエルサによって羽交い絞めにされるようにして止められました。姉様はすぐに怒鳴ろうとしたようですが、自分を捕まえているのがエルサと知ると顔を青くして「こ、興奮してしまいましたわ、失礼」と曖昧な表情を取り繕ってサンドラ様の隣へと逃げました。
「マーガレット、未来の旦那様に会えて嬉しいのは分かりますけれど、侯爵夫人になるのですからもっと淑女らしく、淑やかにふるまいなさい」
「ごめんなさい、お母様」
サンドラ様に窘められた姉様は、しおらしく頷いてサンドラ様の隣へと腰を下ろしました。
ですが、私と、おそらくウィリアム様やエルサ、アーサーさんもこの二人が発した言葉のほとんどが理解できていませんでした。
「失礼、何故、義姉上が私を旦那様と呼ぶのです?」
私や侯爵家の皆様が抱いていた疑問をウィリアム様が代弁してくださいました。
すると姉様は、うっとりとした眼差しをウィリアム様に向けます。
「だって、侯爵様は私の旦那様になるんですもの」
「私はリリアーナの夫だ」
心底、不愉快そうに顔を顰めたウィリアム様に姉様は、全く怯まずに首を横に振りました。
「照れないでくださいまし。先日、お迎えに来て下さった時は、お父様が暗殺者と入れ替わっていたとかなんとかで碌にご挨拶もできませんでしたでしょ? リリアーナとセドリックのせいで結局は有耶無耶になってしまって、お父様も領地に行ってしまいましたもの。そうしたらお母様が準備を整えて下さったの」
「馬鹿は休み休み言ってくれ。私は君を嫌悪している。これっぽっちも情はない」
「そんな醜い女なんかに気を遣わなくていいんですのよ? 旦那様は本当にお優しい方ですわ」
姉様の言っていることが半分も分かりませんでした。ウィリアム様は、お言葉通り嫌悪感を露わに姉様を睨んでいます。それでもうっとりしていられる姉様はある意味大物です。私だったら怖くて逃げ出していたに違いありません。
ウィリアム様は姉様と話しをしても先が見えないと判断したようで、隣で微笑まし気に二人のやり取りを見守っていたサンドラ様に顔を向けました。
「どういうことですか?」
「どういうことですかって……侯爵様に相応しいのは、そちらの醜い娘ではなく、美しいマーガレットでしょう?」
サンドラ様は、心底、不思議だと言わんばかりに言いました。
「貴族令嬢としてなんの価値もない娘を一年も傍に置いて下さった侯爵様の恩情には心より感謝しておりますのよ。ですが、私にも良心がありますもの、お若く将来有望な侯爵様にいつまでもそんなものを押し付けておくわけには参りませんでしょう? ですから、マーガレットを連れてまいりましたの」
ふふっとサンドラ様は優しげに笑いました。
「一年経っても御子が出来ないなんて、夫婦間の営みがないのでしょう? ですが、侯爵様を責めることは出来ませんわ。リリアーナは化け物のような醜くて大きな傷跡を持つ娘ですもの。七歳の時に襲われたんですのよ? それも奴隷上がりの盗賊の男に。不潔で汚らしいったら……それに赤紫に変色した皮膚とぼこぼこの傷痕はまるで化け物のようでしたでしょ? あんな気持ちの悪いものを見てしまっては到底、無理だと思ってしまうのは致し方ありませんわ」
ウィリアム様が息を飲んだ音が聞こえて全身の血の気が引いていくのを感じました。
今のウィリアム様が知らない私の秘密を、知られてしまいました。エルサに告白することは出来ても、どうしてもどうやっても優しく笑いかけて下さるウィリアム様には言えなかった秘密が暴露されてしまいました。
膝の上で握りしめた両手が何故か滲んできました。寒くもないのに体が震えて、心がギシギシと音を立てて痛みます。
こんなことなら、今朝、もっとちゃんとウィリアム様の優しい笑顔を目と記憶に焼き付けておくべきでした。
「娘と別々に来たのは、この子は伯爵家の者ですから一度、向こうによってエイトン伯爵家の馬車でやって参りましたの。数日分の着替えは用意してありますから」
「旦那様、私はリリアーナと違って社交も得意ですのよ。妻として外でも貴方を支えられますし……もちろん、夜の方も」
姉様がヘーゼルの瞳を猫みたいに細めて小首を傾げて言いました。
「……さあ、リリアーナ。貴女の夢は終わりよ」
サンドラ様の優しく甘い毒を持った声が私を呼びます。
「貴女は私と一緒に帰るの。十五年近く母と子だったのですから貴女を見捨てるようなことはしませんよ。貴女にぴったりの嫁ぎ先だってちゃんと用意してあるの。だから、心配しないでいいわ。早く仕度をしてい」
バキンッと凄い音がサンドラ様の言葉を遮りました。それと同時に膝の上にあった両手に大きな手が重ねられます。
私の呆然と揺蕩っていた意識も現実に引き戻されて、音のした方に顔を向けました。握りしめられたウィリアム様のもう片方の拳がテーブルに叩きつけられて、木製のテーブルが割れてしまっていました。
そして、肌を刺すような空気がウィリアム様から溢れて、青い瞳は見たこともないような恐ろしさを湛えて目の前に座る二人を睨み付けていました。
「……私の大事な妻をこれ以上、愚弄するな」
低く地を這うような声が二人に向けられました。
「だ、旦那様? どうなさったの?」
「ふざけるのも大概にしろ、私は君の夫ではないし、未来永劫、君の夫になることはない」
姉様が顔を蒼くして口を噤みました。
「リリアーナのどこにも醜いところなどない。穢れの一つだってない。傷痕がどうした? 戦争を経た私の体とて似たようなものだ。君たちの腐りきった性根とそれを隠せてもいない顔の方が醜い」
サンドラ様が僅かに目を眇めたような気がしましたが一瞬のことだったので分かりません。
「……それとリリアーナとセドリックは間違いなくエイトン伯の血を引く、正当な血筋の者だ。だが、離縁された今、君とそこの女は、全くの無関係だ」
微かに息を飲んだ音がサンドラ様から聞こえたような気がしました。
「わ、私だってお父様の……っ」
はっ、とウィリアム様が姉様の言葉を嗤って、サンドラ様に目を向けます。
「知らないのか。あなたの娘は、生まれ月が本当は一月違うと」
「侯爵様、でたらめなことを言わないでくださいまし」
彼女のヘーゼルの瞳がどこか落ち着きなく揺れています。
私は不安になって重ねられていたウィリアム様の手の下から片方だけ抜き取って、両手で包むように大きな手を握りしめました。するとウィリアム様は一度、私を振り返って「大丈夫だ」と唇で告げると手を握り返して下さいました。
「……マーガレット嬢。君はエイトン伯の娘ではない」
静かに告げられた言葉に姉様がサンドラ様を振り返りました。その言葉を否定して欲しいという想いが姉様の顔に浮かんでいましたが、サンドラ様は姉様を見ませんでした。ただじっとウィリアム様を見つめています。
「イーノックとステラが教えてくれたんだ」
ウィリアム様の唇が嘲るように弧を描いて、蒼白になってその感情が向けられた先でサンドラ様は真っ青な顔をしていました。あの恐ろしい微笑みが消え失せえて、強張った表情がその顔に張り付いています。
「お母様! どういうことなの!?」
姉様がサンドラ様に詰め寄りますが、サンドラ様は押し黙ったまま答えません。
「リリアーナはエイトン伯とエヴァレット子爵令嬢カトリーヌ様の血を引く立派なレディだ。セドリックも父であるエイトン伯の血を引く間違いなく正統な血筋の嫡子だ。だがマーガレット、君は母上の血筋しか確かな物がない。その母上も……先代の男爵がどこかの女に産ませた妾腹の娘だ。君の体に流れる血の半分以上が出所不明だ。絶対に絶対に絶っっっ対にありえないが、万が一、億が一、私とリリアーナが離縁したとしても、由緒あるスプリングフィールド侯爵ルーサーフォード家に、君を迎えることは出来ない」
ウィリアム様はきっぱりと言い切るとくるりと私を振り返りました。
「君との離縁だけは絶対に嫌だからな。君が出て行ったら私は騎士の誇りを捨てて泣いて縋ってでも止めるからな!」
ぎゅうと両手を握られて、縋るように言われてしまいました。
その真っ直ぐで真剣な眼差しに、心を蝕んでいた不安や恐怖が溶けていってしまいます。私は何て単純で安上がりな女でしょうか。
「……はい」
私が頷くとウィリアム様は、ほっと表情を緩めて私を抱き寄せました。あの人がいても姉様が居ても、ウィリアム様の腕の中はとっても安心できる場所なのだと再確認しました。
彼は私の髪に鼻先を埋めて、一度深呼吸をすると私を抱き締めたまま、再び二人に向き直りました。
「サンドラ婦人。先ほど私の家の使用人は、あなたの侯爵夫人に対する態度を諌めたばかりだというのに……どうもあなたは、離縁したにも関わらず未だに自分がエイトン伯爵夫人のつもりでいるらしい。だが、例え、あなたがエイトン伯爵夫人であったとしてもスプリングフィールド侯爵夫人であるリリアーナより身分は下になる。あなたも、そして、君も私の妻への口の利き方には気を付けろ」
「……い、嫌よ!! 嫌に決まってるは、絶対に嫌!! なんで私が、リリアーナなんかに下に見られなきゃいけないの!?」
姉様がいきなり立ち上がり、眦を吊り上げてまた悪魔のような顔になりました。ウィリアム様が守るように抱き締める力を強くしてくださって、私はウィリアム様の服を強く握りしめました。サンドラ様は焦ったように姉様を座らせようとしますが姉様はその声も聞こえていないのか、鼻息荒く私を睨んでいます。
「それは産まれた時から、私より下の何の意味も価値もない人間なの!! それがなんであのスプリングフィールド侯爵様の妻なの!? 私のほうがこんなに美しいのよ!? 私の方が優れているの!! 今すぐにそこを退きなさいよ!! 私の方が侯爵夫人に相応しいんだから!!」
姉様はサンドラ様に出されていたティーカップを手に取り、思いっきり振りかぶりました。
「エルサ!」
「どうぞ!」
ウィリアム様が叫んだ瞬間、ひゅっと風を切る音がして銀の丸いお盆が飛んできました。ウィリアム様は、それをパシッとキャッチするとそれを立てにして飛んで来たティーカップを受け止めました。白いティーカップはカシャンと音を立てて砕け散りました。中身はサンドラ様が飲んだのでほとんど入っていませんが、当たっていれば怪我をしていたのは間違いありませんでした。
そして、銀のお盆が降ろされるとエルサの手によって姉様はウィリアム様が割ってしまったテーブルに押さえつけられていました。サンドラ様は呆然とその光景を見ています。
「いたぁい、いたい! いたいのよ! 放しなさいよ!!」
「私に命令出来るのは、リリアーナ様とセドリック様、そして、侯爵家の主人一家だけでございます」
うふふと笑ってエルサは、ますます姉様を抑え込みました。姉様の白い頬に砕けたティーカップの破片が刺さっているのか、テーブルの上にじわじわと赤い血が滲み始めました。
ウィリアム様が私の視界を遮るように私の頭をそっとご自分の胸に押し付けました。私は素直に従い、ウィリアム様の騎士服に顔を埋めました。
「アーサー、縄を持ってこい。侯爵夫人を襲おうとした傷害罪の現行で騎士団に連行する。ついでにこれらの保護者にこれを引き取りに来るように連絡を」
「畏まりました」
アーサーさんが部屋を出て行く足音がしました。
そしてすぐに何人かの足音が聞こえて「マーガレット!」と叫ぶサンドラ様が先に連れ出されたのが分かりました。姉様は不気味な程急に静かです。
「おいで、リリアーナ。エルサ、あとは任せる」
「お心のままに」
エルサの返事に頷くとウィリアム様は、私を抱き上げて立ち上がりました。顔を上げようとしましたがそれはウィリアム様に制止されてしまいました。そのまま廊下へと出て背後でドアの閉まる音がしました。
「ウィ、ウィリアム様、姉様は……? まさかエルサ……こ、殺してませんよね?」
「もちろん。ぎゃあぎゃうるさいから、エルサが雑き……ごほん、ハンカチを口に入れて封じただけだ」
「そう、ですか……」
私はほっと胸を撫で下ろしました。
ウィリアム様は、私の頬にキスをすると安心したように笑って歩き出しました。
「リリアーナ。今日は私と一緒に王城に行こう」
「……はい?」
「迎えが来るまであの二人は我が家に留めおくことになる。いつもの仕事なら多少の遅刻もいっそ休むことも出来るが今日は王城での報告会議でとても休めないし遅刻も不可だ。だからセディと一緒に行こう。その方が安全だからな」
「わ、私、王城なんてっ」
ぶんぶんと首を横に振りましたが、ウィリアム様は「だめ」の一点張りで許してくれそうにありませんでした。
ウィリアム様の部屋の前までさしかかり、私は泣きそうな気持で頷きました。
「ならせめて、エルサも一緒に」
「大丈夫、エルサが今日、君から離れる訳がないんだから」
そう言って笑ったウィリアム様がドアを開けると私を降ろして下さいました。
するとどうやら衣装部屋に隠れていたらしいセドリックが泣きながら飛び出してきました。
「姉様っ、姉様っ! お母様に何もされてない? 怪我してない? 大丈夫?」
腕の中に飛び込んで来たセドリックを抱き締め返して、私は大丈夫よとその髪にキスを落としました。
「フレデリックさん、アリアナさん、ありがとうございました」
「セドリック様、ずっと奥様を心配しておられましたが、泣かずに頑張ったのですよ」
アリアナさんがこっそりと教えてくださいました。今は私の腕の中でわんわんと泣いていますが、きっとここにいる間は一生懸命、涙を耐えていてくれたのでしょう。
「フレデリック、下でエルサの様子を見て来てくれ。アリアナ、リリアーナとセディを今日は連れて行くから仕度を頼む。すぐにエルサも来るだろう」
フレデリックさんが頷き、颯爽と去っていきましたが廊下に出た瞬間、走っていく音が聞こえました。姉様は悪魔みたいな人なので、私もエルサが心配です。あとエルサはちょっと短気なのでそれも心配です。
「義兄上、お、お母様、もういない? 姉様とられない?」
顔を上げたセドリックがしゃくりあげながらウィリアム様を見上げます。ウィリアム様はしゃがみ込むといつものように私ごとセドリックを抱き締めました。
「ああ、もういないよ。それに姉様は誰にも渡さないよ、リリアーナが居なくなったら私は生きて行けないからね」
それはセドリックに向けられて、同時に私にも向けられた言葉でした。
ウィリアム様の手がいつの間にか無意識に鳩尾を抑えていた私の手に重ねられました。
「大丈夫、私がリリアーナを手放すことは未来永劫、ありえないよ。もし、私とリリアーナを別つ者がいるとすれば、それは数十年後に神様が迎えに来た時だけだ」
「……うん」
セドリックはこくりと頷いて私とウィリアム様に抱き着きました。
私はなんとなくある事実に気付いて、ゆっくりと息を吐き出しました。
「…………ウィリアム様、ご存知、だったのですか。それとも思い出されたのですか?」
「取り調べの時にお父上が……リリアーナ、そのことはもっとちゃんと君と話したい。だから、あとで時間を作るからゆっくり話そう。でも先にこれだけは言っておくよ。私にとって君は何があってもたった一人の大切な私の妻だよ」
鮮やかな青い瞳に映る私は、どこまでも情けない顔をしていて、ウィリアム様を信じきれない弱さがそこに映し出されてしまっている気がして逃げるように顔を俯けました。
そんな私にウィリアム様は何も言わず、ただそっと甘やかすように私の髪を撫でてくれたのでした。