第二十.五話 奥様の内緒話 *ウィル視点
「義兄上、覚悟ー!」
木の枝を振り回しながら飛び込んで来たセドリックに、私もその辺で調達した枝を構えて応戦する。
小さな手から枝を飛ばして、あ、と驚いている隙に私も自分の枝を放り投げて、セドリックを担ぎ上げた。
「ほら、捕まえた!」
きゃーっと笑いながら肩に担がれたセドリックが私の背中にしがみ付く。ひょいと持ち替えて、高い高いをしてやればセドリックは輝く笑顔をたくさんくれる。
振り返れば、木陰の下でリリアーナが穏やかに微笑んでこちらを見ている。セドリックが気付いて手を振れば、くすくすと笑いながらリリアーナも手を振り返す。たったそれだけのことがとても幸せだ。
リリアーナと花畑から戻ると丁度、セドリックたちも森の探検から戻って来たところだった。セドリックは、よほど楽しかったのか、木陰でランチをしながらはしゃいだ様子で私とリリアーナに体験したことや感じたことを話してくれた。大きなヨロイムシを見つけたことや、野兎がいたこと、アルフォンスがカドックに怒られたこと(木に登ろうとしたらしい)、小さな体が全身で感じたその体験をセドリックは、彼が持つ言葉全てで表現しようと頑張っていた。
そんなセドリックの話を聞くリリアーナは、弟の話に一喜一憂し、とても可愛い。野兎の話のあたりで羨ましそうにしていたが、なかなか難しい。狩りになんか連れて行ったら、気絶してしまいそうだし心優しいリリアーナにはまず耐えられないだろう。そうなると毛皮もあまり好まないのだろう、うん、毛皮関係のプレゼントはタブーだな。
「義兄上、義兄上」
「ん?」
「姉様、お花の女神様みたいだねぇ」
セドリックが顔を輝かせながら言った。
「流石は私の弟だ。よく分かっているな」
うんうん、と頷いて私はセドリックを片腕で抱っこし、もう片方の手で頭を撫でる。
私が贈った花冠をリリアーナはまだ被っているのだがその姿は、まさに花の女神と言っても過言ではない。何せ花畑に喜ぶリリアーナは「本当に女神なのでは?」と疑問を抱くほどには、美しく可憐で清楚で純粋で可愛かった。
「セディ、ウィル、見て見て!」
その声に振り返れば、釣をしてくるとランチもそこそこにボートに飛び乗ったアルフォンスとカドックがこちらに駆け寄って来た。彼の手にはやけに大きな魚がぶら下がっている。王国の湖のほとんどに棲んでいるレイクフィッシュという魚で淡白な白身はムニエルにすると絶品だ。
「アルフ様、釣ったのですか?」
初めて生の魚をみるのだろう。セドリックがちょっと怯えて私の肩にしがみ付く。レイクフィッシュは目が大きいのでぎょろぎょろ動くその目玉は初めて見ると怖いかもしれない。
「うん。一人に一匹釣って来たよ。久々に楽しめた。こいつは一番、大きなやつね! おやつに食べよう!」
彼の向こうを見れば、カドックが大きな桶を抱えていてその中で数匹の魚がびちびちしている。
アルフォンスは天才的な頭脳と才能を持ち、努力を欠かさない素晴らしい男だが、ちょっと感性がずれているのは否めない。そもそも男所帯の騎士団の連中とは違って、リリアーナやセドリック、メイドたちがおやつに魚を食べる訳が無い。そもそも魚はおやつじゃない。
セドリックの救出の時、彼が腕章を振っていた理由が「うちの犬はそうすると走って来るんだよね。子どもと犬って似てるでしょ?」だったのには不安を抱いたが、彼は至って大真面目にそう言っているのだ。確かにセドリックは子犬のように愛らしいが、犬ではないので腕章では出て来ないと思う。
私から降りたセドリックがカドックの持つ桶を覗きに行って、ぴゃっと変な声を上げると戻って来て私の脚の後ろに隠れた。ふっと笑ってリリアーナと同じ淡い金の髪をぽんぽんと撫でた。
「さて、セドリック。朝からずっと動きっぱなしだろう? 姉様のところで少し休もう」
ぶんぶんと頷いたセドリックは、慌てて逃げていく。生きている魚がちょっと怖かったらしく、リリアーナの背中に隠れてしまった。リリアーナと傍に居たエルサとアリアナがきょとんとして首を傾げている。
「え? セディ、魚嫌い?」
「いや、好きだぞ。だが、セディの前に出る時には既に切り身だからな。図鑑とかで姿は知っていても、生で見たのは初めてで怖かったんだろう」
「まあ確かにこいつは、目が怖いよね」
納得したのか、アルフォンスはそれを桶に放り入れた。びちゃびちゃと勢いよく魚が跳ねる。
生臭い水が飛んで来て顔を顰めると、不意に冷たい風がざあぁあと森の方から吹いて来た。同時にゴロゴロとくぐもった音が聞こえて空を見上げると西の空に黒い雲がもくもくとせり上がっているのが見えた。
「まずいねぇ、これは一雨来そうだ」
アルフォンスが剣呑に目を細め同じように空を見上げた。
「近くの別荘はいつでも使えるようになってる。そっちに移動しよう」
「助かる。フレディ! 撤収の準備を……」
言いかけたところで眩い閃光が走り、ズドーンッとすさまじい落雷の音が辺りに響き渡った。私は慌ててリリアーナたちの下へ駆け寄るとリリアーナとセドリックが震えながら抱き着いて来た。
「だ、だんなさまっ」
「あにうえぇ」
「大丈夫、近くには落ちていない」
「ジル! 馬車をこっちに! 早く! アリアナ、しっかりしなさい!」
フレデリックがびっくりして固まっているアリアナを正気付かせながら御者を呼んだ。だが、馬たちが興奮していて、ジルが手を焼いている。カドックが魚の入った桶を抱えながらそちらに駆け寄っていく。エルサはてきぱきと周囲の片づけを始め、我に返ったアリアナも半泣きになりながらそれを手伝う。
「旦那さま、い、今、なにがっ」
私にしがみ付きながらリリアーナが涙目で訴える。セドリックは私の腹に顔を埋めてしくしくと泣いている。普段暮らす王都でこんな風に雷を肌で感じるようなことはないし、屋外にそんなに出る機会のなかった二人にとっては衝撃的だっただろう。すっかり怯えてしまっている二人が可哀想になる。
「セディ、私の背中にしがみ付け。リリアーナ、しっかり掴まっているんだぞ」
私はセドリックを背中に背負い、リリアーナを片腕で抱き上げる。セドリックは私の首に、リリアーナは私の頭にしがみついてくる。そしてそのまま馬車へと駆け出して、雨が降り出す前に二人とエルサとアリアナを馬車へと乗せる。私から離れるのを嫌がったセドリックとリリアーナをなんとかエルサに抱き着かせる。アリアナもちゃっかりリリアーナに抱き着いているが全く雷に動じていないエルサが三人の背中を順番にさすっている。御者のジルが漸く落ち着いた馬を馬車に繋いで準備を整え、私たち四人も来る時に連れて来た愛馬にそれぞれ騎乗する。すると遂にぽつぽつと雨が降り出し、あっと言う間にバケツをひっくり返したかのような土砂降りになる。雷も酷くなり、風が吹き荒れ、正に嵐となった。
「ジル! カドックと僕について来て!」
雷鳴と烈雨にかき消されないようにアルフォンスが叫びカドックが先陣を切り、馬車が動き出す。私とフレディは馬車の背後を追いかける形でその後ろへと並んだ。
そうして私たちは、湖を後にしてアルフォンスが個人で所有している別荘へと急いだのだった。
結局、雨が止まずに帰ることを断念せざるを得なくなり、今夜はアルフォンスの別荘に泊まることになった。
別荘の管理をしていた老夫婦は、とても驚いた様子だったがすぐにエルサたちも加わって、湯浴みの仕度をしてくれてアルフォンスの趣味で作った大きな浴槽だからとずぶ濡れになった私たちはまとめて風呂に放り込まれた。確かに贅をこらした大理石の浴槽は、私たち男五人が浸かっても余裕があるほど広かった。アルフォンス曰く、広い風呂を堪能するための別荘らしい。フレデリックとジルは恐れ多いと辞退しようとしたがアルフォンスが有無を言わせなかった。すると羨ましがったセドリックも一緒に入って来て、むさ苦しい男共だけのげんなりする入浴(御者のジルは二十二歳の立派なごつい青年だ)がほのぼのしたものになった。ありがとう、セドリック。
着替えも湖で遊ぶことも予定していたので、持ってきていたので問題ない。更に準備の良いエルサは「こんなこともあろかと思いまして」と宿泊を想定した準備も整えてくれていた。
夕食は、アルフォンスが釣ったレイクフィッシュを管理人の老婦人がムニエルにしてくれた。セドリックは、切り身になった魚の正体を知っていたからかなかなかフォークをつけなかったが、リリアーナが勧めると意を決して口に入れ、美味しかったのかそのあとは嬉しそうに食べていた。危うく魚嫌いになるかとヒヤヒヤしていたので、ほっとしてしまった。
私とリリアーナ、セドリックはベッドが一番大きいからとアルフォンスが主寝室を貸してくれた。アルフォンスはカドックと客間に、エルサとアリアナももう一つの客間、フレデリックとジルはリビングのソファで一夜を明かすことになった。
「本当に凄い雨と雷でした……あんな雷は初めてだったので怖かったです」
ネグリジェ姿のリリアーナが、私の隣に座ってぽつぽつと言った。
「流石にあれは、私も驚いたよ……どこかに落ちたんだろうが、あれだけの雨が降れば火事も心配はない」
私の言葉にリリアーナは、そうですか、と表情を緩めた。
セドリックは既に隣の寝室でぐっすりと眠っている。朝からずっとはしゃぎっぱなしで、休もうとしたところであの雷雨だ。夕食のデザートが出るころには、ゆらゆらと船を漕ぎ始めて、最終的にはそのまま寝てしまった。恐縮しっぱなしのリリアーナをなんとか宥め私が抱えて部屋に連れて来た。リリアーナと二人で寝間着に着替えさせたのだが、その間も起きることはなく本当に深く眠ってしまっていたようだった。
今は、アルフォンスに言われてカドックが差し入れてくれたワインをリリアーナに付き合ってもらって楽しんでいる。リリアーナは、リンゴジュースを飲んでいる。
「このリンゴのジュース、甘くておいしいです」
細めのグラスに注がれたそれを嬉しそうに飲むリリアーナは、本当に可愛い。
テーブルの上に置かれた水盆には私が彼女に贈った花冠がしおれないようにと浮いていて、彼女の細い首元にはまだ青いサファイアが輝いていた。
「ウィリアム様には、感謝してもしきれません。今日もセドリックは、本当に楽しそうで……実家にいた頃よりもあの子は幸せそうです」
「確かにあの家に比べれば、私の下は自由だ。でも……何よりセドリックにとって母のようにも慕う君に自由に会えて、一緒に庭を散歩して、一緒に食事を楽しんで、一緒に眠る。そのことがセディの笑顔を何よりも輝かせているんだと私は思うよ」
「そう、でしょうか」
少し驚いたようい銀色の瞳が瞬く。私は、ああと笑って頷く。
「例え、私や他の人間が遅かれ早かれあの子を保護していたとしても、君がいなければセドリックの笑顔はそう簡単には戻らなかった。彼にとって父親や姉から受けた暴力と痛みなんかよりも、大好きなリリアーナ姉様のほうが大切だったんだろう。セドリックは、本当に心の底から君が大好きだからな」
リリアーナは、その言葉に照れくさそうに頬を染めて、それを誤魔化すようにまたジュースを飲んだ。
それから他愛のない話をのんびりと交わす。
彼女の大事な弟が我が家にやって来てから、リリアーナは以前に増して良く笑うようになったし、彼女が常にその身に携えていた不安や緊張も解れていったように思う。
保護したばかりの頃は、弟の怪我の心配で表情を曇らせることも多かったが、セドリックが回復するにつれて彼女の笑顔も輝きを増していった。
セドリックに向けられる笑顔と私に向けられる笑顔が違うことに気付いたのは、つい最近だ。
弟に向けられるのは、母親の愛にも似た心からの愛情だ。ふんわりと花開くような笑顔は眩しいくらいだ。
一方の私に向けられる笑顔は、最近、花が恥じらいながら綻ぶように可憐で美しい。まるで私に恋をしているのではと錯覚してしまいそうになる。
けれど、リリアーナは時折、私を見つめたまま酷く寂しそうに笑う。
その笑みは、私が記憶を失くした時からずっと私に向けられている笑みだった。
求めることも、求められることも、きっと愛されること自体を諦めきっているのだ。だから、そんな感情を礎にして彼女の顔を彩るその微笑みは、儚く散っていく花のように美しく、哀しかった。初めてディナーの夜に倒れてしまった時も、彼女はそんな風に笑っていた。
今日だって、あの花畑で彼女は、そうやって笑っていたんだ。
その笑みは綺麗だとは思うけれど、好きではなかった。私はもっとセドリックと一緒にいる時みたいに彼女に幸せそうに笑って欲しいのに最近は、その笑みを向けられることがずっと多くなっている。
彼女は、多分、ずっと私の記憶が戻ることを恐れているのだ。
リリアーナが私の胸で初めて泣いたあの夜、リリアーナは私に言った。記憶が戻れば前みたいにリリアーナを嫌いになってしまう、と私は即座に否定したけれど、リリアーナは決して信じてはくれていなかったように思う。
それは、今も変わっていない。
暫くしてワインのデキャンタが空になり、リリアーナの目が眠気でトロンとしてきたので私は、残念だがそろそろ部屋に戻る頃合いかと腰を上げたのだが、袖をくいっと引かれて振り返る。
「どこへ、いかれるのれすか?」
リリアーナが私を上目遣いで見上げている。銀色の大きな瞳は潤んで白い頬が淡い紅色に染まっている。
「おいていかないで、くらさい」
ぎゅうと私の袖を握る上目遣いのリリアーナは、可愛い。もう本当に可愛いが、眠すぎてどうにかなってしまったのだろうかと不安になる。
だが可愛いので、私は混乱する頭でとりあえず隣に座り直した。するとリリアーナは、ふわふわと笑って私の横で嬉しそうに微笑んでいる。彼女の細い指先は、私の袖をちょんと摘まんだままだ。
「ウィリアムさま」
「は、はい」
思わず敬語になってしまったが、リリアーナは構うことなく私の腕にぴたりと寄り添い、すりすりと猫が甘えるかのように頬ずりしてくる。無論、私はまず一番に私の理性を呼んだ。妻が可愛くて可愛くて可愛くて片手で口元を抑えて雄叫びを沈めた。
だがしかし、やっぱりこれはおかしい。リリアーナは眠くなるとぼんやりはするがこんな風にはならない。私はテーブルの上に置かれていたリリアーナが飲んでいたリンゴジュースのデキャンタを手に取り、匂いを嗅いで行儀は悪いが口を付けた。
匂いだけなら間違いなくリンゴジュースだった。だが、中身はリンゴのお酒だった。甘く口当たりが良いから、リリアーナは気付かなかったのだろう。家ではリリアーナは酒を飲まないと皆が知っているので出てこないが、アルフォンスは知らないし、用意をしてくたカドックも同じだ。だが、差し入れてくれた親友を責めることは出来ない。王国の貴族たちは寝る前に夫婦で酒を楽しむ習慣があるからだ。むしろ、彼らは気を利かせてくれたのだ。
「ウィリアムさま?」
悲しそうに私を呼ぶ声にはっと我に返ると私から少し離れて、リリアーナが泣きそうな顔をしていた。
「リ、リリアーナ?」
「ごめんらさい、やーなのに、くっついて、ごめんらさい。だから、こわいかお、しないで」
「い、嫌な訳ないだろう? すまない、ちょっと考え事をしていただけだ、すまない、怒っていないから、大丈夫だからおいで」
どうやら難しい顔をしてしまっていた私が怒ったと勘違いさせてしまったようだ。あのクソ両親と姉の所為でリリアーナは、怒られることを異常に恐がるのだ。だが、鞭で打たれて暴力を怒りと共に振るわれ続ければ、そうなってしまっても仕方がない。
腕を広げると少し悩むようなそぶりを見せた後、リリアーナはふにゃんと微笑んで、なんと自分から私の膝の間に収まった。可愛くて鼻血が出そうだ。
「あのね、あのね、ウィリアムさま」
「はい、なんでしょう」
「これ、ありがとーござーます」
リリアーナの細い指先がサファイアを持ち上げた。
「ウィリアムさまの、おめめとおんなじ、きれいなあお」
うっとりと呟かれた言葉がなんとなく居た堪れなくなって目を背ける。
懇意にしている宝石商を師団長室に呼んで、小一時間かけて選んだ。リリアーナの好きな淡いピンク系の宝石にするべきか、彼女の若さを際立てる美しい緑にするべきか、それとも大人の魅力を引き出す紫か、そうやって悩んだ結果、男のちっぽけな独占欲が自分の瞳の色を選んでいたのだ。それを見透かされてしまったような気がして気まずい。
「……わたしの、だんなさまの、いろ」
ぐうの音もでないほど可愛い。
私は頭の中で一生懸命、今日のむさ苦しい風呂を思い出して、家出しようとする理性をどうにか押しとどめる。
「だんなさまが、わたしのこときらいになっても、これはもっていてもおこられないですか?」
「……リリアーナ?」
彼女は、変わらずふわふわと微笑んでいた。
「わたし、はじめて、恋をしちゃったんれす」
衝撃的な言葉に一瞬固まる。溢れ出そうになる嫉妬心をどうにか押さえ込んで「誰?」と問いかける。自分で思ったよりも低く唸るような声だったがリリアーナは、幸せそうに微笑んだまま答えてくれる。
「すごく、すてきでかっこうよくて、やさしくて、あたたかいひと、れす」
「……だから、誰? フレディ? アル? カドック? まさかアーサー?」
矢継ぎ早に並べた名前にリリアーナは、きょとんとして首を横に振る。
「ウィリアムさま、ないしょにしてくれますか?」
「ああ。だから、誰?」
私の知らない所でまた、と得も言われぬ不安が膨れ上がった。リリアーナは、そんな私の心など知らず、少し体を伸ばして私の耳に口元を寄せた。
「わたしが、恋してしまったのは……わたしの、だんなさまれす」
ぜったい、ないしょれすよ、とリリアーナは本人に向かって真剣に言う。
彼女は、ふふふっと恥ずかしそうに笑って華奢な両手で自分の頬を押さえた。私は、じわじわと熱を帯びる顔を隠す術も忘れて、彼女を見つめる。
彼女の、リリアーナの旦那様とは、この世に私しかいない。
「でも、だんなさまは、わたしのこと、ほんとうは、きらいなのれす」
「まさか、そんなことが……私だって、君のことがっ」
頬を押さえていた両手が私の口をそっと塞いだ。
リリアーナはゆっくりと首を横に振る。
「わたし、すごーく、やな子なのれす。……だんなさまが、わたしにやさしくわらってくれると、だんなさまの記憶が、もどらなければいいのにって……ずっと、ずっと、わたしのことだきしめてくれて、いっしょにいてくれたらいいのにって、ひどいことをおもってしまうのれす」
淡い金の長い睫毛が揺れて、銀色の瞳からぽろぽろと白い頬を伝って涙が零れて落ちていくのを私はただ茫然と見つめていた。
「わたしみたいな、みにくい化け物に、そんなしかく、ないのに……」
片方の手が私の口から離れて、また鳩尾に添えられた。シルクの生地にぎゅっと皺が寄ってそこが握りしめられる。
「おもいだしたら、きっと……まえみたいに、だんなさまはわたしのことをきらいになって、リリアーナって呼んでくれなくなって、あのハンカチもすてられてしまうかもしれないけど、いまも、ほんとうは……いつわりの、しあわせだってわかっているんれす。でも……しあわせ、なんです」
また、彼女は微笑った。
全てを諦めて、ただ静かに、哀しそうに彼女は微笑んでいた。
「あなたがわらってくれるだけで、わたし、ほんとうにしあわせなのです」
私の口を塞ぐ細い手を掴んで外し、彼女の涙が濡らす頬に唇を寄せる。びっくりして逃げようとした小さな体を強く抱き締めた。
記憶のない私の言葉なんて結局、何の意味もなしていなかったのかもしれない。彼女に与えていたと思っていたのは、偽りの幸福でしかなくて、彼女はそれを知っていて、それでも本当に幸せだと微笑んでくれていたのだ。
「だんなさま、わたしのこと、きらいにならないで」
耳元で聞こえてきたか細い声に抱き締める腕に力を込めた。
彼女は、こうやって抱き締めた時、決して私の背に腕を回さない。私の腕が離れたら、そっと私の胸を押して去っていける準備をしているかのようにいつも小さな手は私と彼女の胸の間にある。
「わたしのこと、あいしてなんていわないから……ハンカチすててもいいから、わらってくれなくても、だきしめてくれなくても、わたしのなまえ、よんでくれなくてもいいから…………わたしのこと、きらいにならないでっ」
弱々しく消えそうな声が、独り言のように囁いた。
自分勝手に溢れた涙が彼女のネグリジェに落ちた。掻き抱くように抱き締めて、細い肩に顔を埋める。
リリアーナは私の胸に顔を埋めて頬を寄せる。
「ウィリアムさま、いまのないしょれすよ、だんなさま、やさしいから、きっとこまってしまいます」
「……内緒だ。絶対に言わないよ」
「ほんとですか? ぜったいれすよ? エルサにも、セディにも、みんな、みんな、ないしょれすよ」
「ああ、言わないよ、絶対に言わない」
体を離して、無理矢理に微笑んで彼女の顔を覗き込む。
するとリリアーナは安心したように微笑んだ。そして、ゆっくりと銀色の瞳は落ちて来た瞼の裏側へと隠れてしまう。眠ってしまったことで少しだけ重さの増した愛しいリリアーナの体をそっと包むようにして抱き上げる。
ソファから立ち上がり、隣の寝室へと入り、広いベッドの真ん中でセドリックがすやすやと眠っていて、その隣にリリアーナを横たえた。セドリックがみじろぎして、起こしてしまったかと焦るが大好きな姉を見つけると嬉しそうにその腕の中に潜りこむ。寝ぼけた紫の瞳は、私を見つけると嬉しそうに細められて、また安心したのか眠ってしまった。
「すまない、リリアーナ」
いつものように寝ころんで二人を腕の中に閉じ込める。
「ふさわしくないのは、私の方だ。それでも、私は……君を諦めることができそうにないんだ」
淡い金の髪に唇を落とす。
鼻先を撫でる甘い花の香りはいつも私の胸を騒がしくする。彼女の笑顔一つで私だって幸せになれる
「ハンカチだって捨てないし、暇さえあれば君を抱き締めていたいし、リリアーナという美しい名前は意味がなくとも呼びたい。だって私は……君の笑顔を護る為なら何でもすると誓ったんだから」
だから、だからいつかその時が来ても、君への愛を絶対に忘れないと約束するから、私の言葉を、想いを、心を信じてくれと心の中で囁いて私は二人を抱き締め直して目を閉じた。
瞼の裏で彼女は、やはり寂しそうに微笑っていた。