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第二話 まさかの記憶喪失


 フレデリックさんを先頭にエルサに支えられるようにして駆け付けた旦那様の寝室で私は、倒れそうになるのをエルサに支えられながらぐっと耐えました。


「……貴女は、誰ですか?」


 頭に白い包帯を巻いた旦那様は、私の顔を見て申し訳なさそうにそう言いました。


「旦那様、いくら何でも酷過ぎます。普段から人間のクズみたいに奥様をほったらかしておきながら、そんな……っ!」


 エルサが声を荒げると慌てたフレデリックさんがエルサの口を片手で塞ぎました。出来れば、もう少し早く行動して頂きたかったです。エルサが私を想う余り、とんでもない暴言を吐いたような気がするのですが、幸い、旦那様は困惑顔のままで怒り出す様子はございません。

 私たちは答えを求めて、ベッドの傍に控えていた筆頭執事のアーサーさんに顔を向けました。

 ロマンスグレーの髪を後ろに撫でつけ、きっちりと燕尾服を着こなすアーサーさんは、普段の冷静な彼らしくなく、エルサと同じ紺色の瞳に困惑を滲ませています。瞳の色が同じなのはアーサーさんとエルサは親子だからです。


「どうやら旦那様は、頭の打ちどころが悪く、記憶を失ってしまったようなのです。奥様のことは愚か、ご自分のこともご家族のことも、ご友人のことも私共のことも覚えていないのです」


 予想していなかった事態に私は言葉が出ませんでした。それはエルサも同じだったようでフレデリックさんの手は外れていましたが開いた口が塞がっていません。

 

「フレデリック、モーガン様を呼んであるから、下で迎えてすぐにお連れするように」


「はい。……エルサ、口には気を付けろよ?」


 フレデリックさんは、そうエルサにしっかり釘を刺してから侯爵家お抱えのモーガン医師をお迎えに部屋を出て行きました。

 私は改めて旦那様に向き直ります。半年ぶりに見た旦那様は、何だか酷くお疲れのご様子で目の下に隈がありますし、心なしか少しやつれたようにも見えました。

 けれど、私に向けられていた冷たい表情はそこにはなくて困り果てた顔をしていました。いつもはちょっと怖いと思ってしまっていたのですが、今日の旦那様はセドリックと同じ小さな子供のように見えました。自分が誰か分からず、周りの人間のことも分からない今の旦那様の心境を思えば、どれほど心細いことでしょうか。

 私は、こっそりと深呼吸を繰り返してから意を決して旦那様に声を掛けました。


「だ、大丈夫ですよ。旦那様」


 言ってから、何を言っているのでしょうか、と泣きたくなりました。

 大丈夫じゃないからこんなことになっているのです。そもそも私が「大丈夫」と言ったところで何も大丈夫じゃないのです。もっと他に気の利いた言葉をお掛けしようと頭を悩ませていた私が無意識にスカートを握っていた手に触れるものがあって驚いて顔を上げると旦那様と目が合いました。手のほうを見れば、そこには旦那様の手に包まれた私の手がありました。

 旦那様の手が、私の手を、握っている、というありえない事実に私は固まってしまいました。


「貴女のような麗しい女性が私の妻だとは、本当ですか?」


「ひえっ」


 淑女にあるまじき変な声が出てしまいました。普段なら「奥様」とやんわりと窘めてくれるアーサーさんもぽかんと口を開けて旦那様を見ています。エルサは何故かニヤニヤしています。

 固まる私を他所に旦那様は、私の手を取り、その甲に触れるだけの口づけを落としました。

 

「貴女のことまで忘れてしまった薄情な夫ですが、どうか、私に貴女の名前を教えて頂けませんか?」


「あ、あのっ」


 旦那様のお綺麗な顔が心なしかうっとりと私を見あげて、そう乞われました。

 私はどうして良いか分からず、助けを求めてエルサを振り返りました。エルサは、ニヤニヤしていましたがすぐに表情を出来る侍女に戻すと「大丈夫ですよ」と私の背を撫でてくれました。その手に勇気を貰い、私は旦那様の手から自分の手を返してもらって、スカートを摘まみ、腰を折り、淑女に見えるように精一杯上品に頭を下げました。


「リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィン=ルーサーフォードと申します」


 初めて練習でエルサやアーサーさん以外に名乗りました。噛まずに言えて良かったと私が安堵して体を起すと再び、旦那様に手を取られました。今度は私の右手を旦那様が両手で包み込んでいます。


「リリアーナ」


 結婚して初めて私は旦那様に名前を呼ばれました。

 その上、手まで握られて、ぐいっと引っ張られたかと思えば私は、どういう訳か旦那様の隣に腰掛けておりました。


「だ、旦那様……?」


 一体、何が起こっているのか全く分かりません。エルサもアーサーさんも助けてくれる気配がありません。


「リリアーナ、私は妻である貴女のことも忘れてしまった薄情な夫ですが、見限らずにいて下さいますか?」


 ぐいっと肩を抱かれて、下から覗き込むようにして旦那様がおっしゃいました。

 空と同じ鮮やかな青の瞳に顔を真っ赤にした私が映り込んでいるのを見つけて、ますますいたたまれなくなりました。私は逃げるように顔を俯けて、自分を落ち着かせるためにそっと息を吐き出しました。


「私が、旦那様を見限るなんてことはありません」


 その逆のことはこれから先、起こりうる可能性は十分にありますが、お飾りでしかない妻に何一つ不自由のない生活をさせて下さる心優しい旦那様を私が見限るなんてことだけは絶対にあり得ません。


「貴女はなんと心優しい人だろう。ありがとう、リリアーナ、貴女のその言葉だけで私の心細さはどこかへと行ってしまったよ」


 旦那様が、ふっと微笑まれました。その言葉通り、旦那様の目には隠し切れなかった安堵が滲んでいるのを見つけてしまいました。

 もしも、私が旦那様の立場だったらと考えて胸が苦しくなりました。自分がどこの誰かも分からず、自分に声をかけて来る全ての人が記憶にない。見知らぬ部屋で見知らぬ人に囲まれる。それはどれほど恐ろしいことでしょうか。それどころか、旦那様の不安を取り除けるはずのご家族は王都から遠く離れた領地にいらっしゃいます。私だったら、恐ろしくて恐ろしくて泣いてしまうに違いありませんでした。そんな中で、妻、という使用人とも友人とも違う肩書を持つ人間に縋りたくなるのも致し方ないことなのかもしれません。

 こんな頼りがいのない妻で申し訳ない気持ちもありますが、普段の恩を返すためにも私は旦那様に出来る限り、安心してくださいという意味を込めて微笑みかけました。


「貴方のお心をほぐすことが出来たのならば、何よりでございます。至らぬ点ばかりの妻ですが、私はお傍におりますので何なりとお申し付けくださいね」


「……ありがとう、リリアーナ」


 旦那様は嬉しそうに笑って下さいました。

 そして、旦那様がもう一度、口を開こうとした時、コンコンとノックの音がしてフレデリックさんが主治医のモーガン先生を連れて来てくれました。アーサーさんがお出迎えをして、二人が中へ入ってきます。

 モーガン先生は、アーサーさんと同い年くらいのおじ様です。白髪交じりの鳶色の髪を首の後ろで一つに結えていて、髪の毛と同じ色の口ひげを蓄えています。丸い眼鏡をかけていて、いつも優しくにこにこしているのです。私が食事も出来ず、口もきけず、熱を出しては寝込んでいた頃にはとってもお世話になりました。


「旦那様、こちらは当家の主治医であるモーガン・プリッツェル様です。旦那様がお生まれになる以前から当家の主治医として尽くして下さっているお方で御座います」


 旦那様は、じっとモーガン先生を見て何か記憶に引っ掛かるところはないかと探っていたようですが、すぐに残念そうにため息を零されました。


「すまない、貴殿のことも分からない……」


「いえいえ、無理に思い出そうとしてはいけません。頭というのはとても繊細に出来ていますからね。……それにしても心配しておりましたがいつの間にやら奥様と仲良くなられたのですね」


 モーガン先生が旦那様と手を繋ぎ、寄り添うように座る私に気付いて顔を綻ばせました。


「ち、違うのです……これはっ」


 急に恥ずかしくなって私は慌てて立ち上がろうとするのですが、旦那様がそれを許してくれません。私は力強い腕に肩を抱かれてしまい、ますます旦那様と密着するような形になってしまいました。騎士らしい筋肉に覆われた旦那様の体は、とてもがっしりとしていました。


「傍に居てくれ、リリアーナ」


 耳元で蕩けるように甘く低い声で囁かれ、私はびっくりし過ぎて腰が抜けてしまい旦那様に寄り掛かるような格好になってしまいました。旦那様の支えがなければ、私ははしたなくも旦那様のベッドの上に転がっていたでしょう。そして私の顔は隠しようもないくらいに赤く染まっているに違いありませんでした。

 モーガン先生は、そんな私に顔を綻ばせると「仲が宜しくて何より」と言って、鞄をフレデリックさんに持たせると中から聴診器を取り出しました。

 旦那様が寝間着の前を寛げましたので、私は慌てて視線をあらぬ方へ向けました。その先にいたエルサがニヤニヤしていましたので今度は顔を俯けました。


「ふむ、お体の中身は問題なさそうですな。それでは旦那様、頭を打ったとのことですので、少し別の検査をしますよ」


 そう言ってモーガン先生は、旦那様に指を見せて本数を答えてもらったり、蝋燭の光を左右に動かして眼球の動きを確かめたり、他にも様々な質問をなさいました。

 だんだんと分かって来たのは、旦那様は人に関することの記憶は一切ないのですが、王国や侯爵家の歴史であるとか、この国の暦、気候や地名に関すること、文字の読み方、書き方、馬の乗り方、食器の使い方といった日常生活を送る上で必要な知識は何一つ欠けていませんでした。人に関する記憶だけがごっそりと抜け落ちてしまっているのです。


「ここへ来ながらフレデリックさんに聞きましたが、旦那様は足を滑らせて転んだのですよね?」


 モーガン先生がフレデリックさんに尋ねます。フレデリックさんは、はい、と頷きました。


「雨天を想定した訓練を騎士団の敷地内にある屋外訓練場で行っていた時、攻撃を避けた折、運悪く雨にぬかるんだ地面に足を取られ、偶然地面にあった石に頭を強打したのです。意識が昏倒した旦那様を皆様が医務室に慌てて担ぎ込んで下さいました。三十分ほどして目が覚めたのですが、その時は既に私に対して「貴方は誰だ」と仰られておりましたので、これは一大事だとすぐに屋敷に。幸い、私以外には団長閣下とアルフォンス様しかおりませんでしたので」


 私は旦那様を振り返ります。確かに旦那様の頭には白い包帯が痛々しく巻かれています。


「あまり見ないでくれ、リリアーナ」


 旦那様はそう言って、そっぽを向かれてしまいました。よくは分かりませんが、私のようなものが不躾に旦那様を見てしまっては不愉快に決まっています。


「も、申し訳ありません、不躾でした……っ」


 私は慌てて視線を自分の膝に移しました。どうして私はこうやっていつも人を不愉快にさせてしまうのでしょうか。こんなんだからお継母様にもお父様にも嫌な想いばかりをさせていたのです。

 すると旦那様の大きな手が膝の上にあった私の手に重ねられました。


「ち、違うよ、リリアーナ。君を責めた訳ではない」


「いえ、私が失礼を致しました。お許しくださいませ」


 旦那様に怒られるのは、綺麗なお顔と相まって迫力がありますので恐ろしいです。私は身を小さくして、もう一度、お許しくださいませと許しを請いました。するとどうしたことか、いきなりぐいっと強い力で肩をより一層、抱き寄せられて、気が付いた時には旦那様の腕の中におりました。旦那様のものと思われる、青々とした木々のような爽やかなコロンの香りが鼻先をかすめていきます。

 ぽんぽんとまるで幼子にするように旦那様の大きな手が、私の背中を撫でて下さいます。


「言葉が足りなかった。君を忘れた理由が、転んで頭を打っただなんて恥ずかしすぎるだけだ」


「お、怒っておられないのですか?」


 私の問いに旦那様は首を横に振って答えて下さいました。


「怒ってなどいない。だから、そう怯えるな、大丈夫だ」


 よしよしと大きな手が私の頭を撫でて下さいました。大きな手はとても温かくて、私は怒られるわけではないと知って、ほっと息を吐き出しました。旦那様の腕の中は力強く、そして温かい場所でした。ですが、そう自覚した途端、私は自分が抱き締められているという事実にも気が付いて、慌てて体を離そうとしますが、私が幾らその厚い胸を押しても旦那様はびくともしません。

 そしてやっぱり誰も助けてくれません。私は何故か、エルサもフレデリックさんもアーサーさんもモーガン先生も皆が私と旦那様を見てニヤニヤしているような気がするのです。


「だ、旦那様、離して下さいませ」


「嫌だ。君はこんなに細いのに、ちゃんと柔らかいのだな」


「な、なにをおっしゃって……っ」


 私は極限まで自分の顔が赤くなっているのが分かりました。


「私はこんなに魅力的な君の体のことも忘れてしまったのか」


 旦那様は何故か非常に残念そうにそうおっしゃいました。大きな手が私の腰をすっと撫で上げて、私はびっくりし過ぎて変な声が出そうになり慌てて旦那様の胸に顔を押し付けました。


「お言葉ですが旦那様」


 エルサの冷たい声が後ろから聞こえてきました。


「旦那様は奥様のお名前しか知らない筈でございます」


「……?」


 エルサの言葉の意味が分からずに旦那様が首を傾げたのが分かりました。


「結婚してからこの一年、旦那様は仕事仕事仕事仕事仕事仕事で奥様と夜を共にしたことは一度も御座いません。結婚した日ですら、式の直後、教会を共に出ることすらなく、旦那様は控室に取って返すと騎士服に着替えてそのまま出勤なされました」


「まさか……だって披露宴があるだろう?」


 旦那様の声は信じられないと言わんばかりです。

 その問いに答えたのは、アーサーさんです。


「殆どの貴族の皆様が領地に戻られてしまっている季節だったこともあり旦那様はする意味がないとおっしゃられましたので披露宴は行っておりません。結婚式自体も私とフレデリック、エルサ、そして団長閣下とアルフォンス様しか出席しておりません」


 アルフォンス様は旦那様の幼馴染で騎士団の旦那様の師団の副師団長さんで、そしてなんと次期国王となる王太子殿下なのです。エルサが教えてくれた話だけなので直接は存じ上げません。結婚式もヴェールは下ろされたままでしたし、極度の緊張に苛まれていたのでお姿は覚えていないのです。

 旦那様は、衝撃のあまりに声も出ないといったご様子でした。


「ですので、奥様を返して下さいませ」


 言うが早いか、私は気が付くとエルサの腕の中におりました。

 

「エ、エルサ?」


「奥様、フレデリックが失礼いたします」


 にっこりと笑ったエルサに私は何故かフレデリックさんに耳を塞がれてしまいました。そして、エルサは顔を上げると旦那様に向けてにっこりとそれはそれは綺麗に笑いました。口がぱくぱく動いているので何かを言っているようですが、耳を塞がれている私はエルサが何と言っているのか聞こえませんでした。


「……以上ですわ、旦那様」


 フレデリックさんの手が外れて、最後に聞き取れたのはそれだけでした。

 振り返ると旦那様は、この世の終わりみたいな顔で項垂れておいでです。一体、エルサに何を言われたのかと私がお声を掛けようとしたのですが、それはエルサに阻まれてしまいました。


「さあ、奥様。旦那様はこれからもっと精密な検査がありますので、私と一度、部屋に戻りましょうね」


「で、でも旦那様が……」


「ああ、奥様はなんとお優しい! でもよいのです、旦那様は少々、過去のご自分との対話をしているだけでございます。それに頭を打っているのですからこれ以上馬鹿……ではなく、これ以上、困ったことにならないようにモーガン先生に診て頂かないといけません。ですので、邪魔にならないようにお部屋に戻りましょう」


 そう言われたらその通りです。これ以上、旦那様のお体に何かあってはいけません。私は、エルサの言葉に素直に頷きました。

 私は振り返り、旦那様に向き直りました。


「旦那様、モーガン先生はとても素晴らしいお医者様です。ですから、不安なことが有ったら、すぐに先生に仰ってくださいね」


「……あ、ああ」


 お可哀想に旦那様は、顔色があまり宜しくありません。きっと、頭を打ったせいで具合が悪くなってきたのでしょう。


「モーガン先生、旦那様をどうかよろしくお願い致します」


 私はモーガン先生に深々と頭を下げました。


「奥様。旦那様のことは私にお任せください」


「落ち着いたら、フレデリックがお伝えしに参りますので、それまではお部屋で心を休めていてください」


 モーガン先生の優しいお言葉とアーサーさんの心遣いに感謝を述べて、私は旦那様に頭を下げてからエルサと共に旦那様の寝室を後にしました。



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