第十九話 ピクニック
ガタガタと車輪の揺れる音や馬の蹄が力強く大地を蹴る音に混じって、時折、セドリックの楽しそうな笑い声が馬車の小さな窓から聞こえてきます。
朝、私が目覚めた時にはもう既にセドリックが目を覚ましていて、私と旦那様の腕の中で起きたくて、起きたくて仕方がないと言わんばかりにそわそわしていました。
私が起きると旦那様も目を覚まし、ピクニック、ピクニックと嬉しそうに何度も繰り返すセドリックに急き立てられるようにして、私と旦那様も仕度を整えました。朝ご飯もそこそこに遠出をするからと早速、私とセドリック、エルサとメイドのアリアナさんは、馬車に旦那様とフレデリックさんはそれぞれ馬に跨り、屋敷を出発しました。屋敷を出てすぐにアルフ様とアルフ様の護衛のカドック様が合流しました。王都を出てしばらく走り、一度休憩を挟んだのですがその時にセドリックは、旦那様におねだりして今は馬車では無く、旦那様の膝の間に乗せて頂いております。
「良い天気になって良かったです」
私は窓の外、青く晴れ渡った夏の空を見上げて顔を綻ばせます。
隣に座るエルサと向かいの席に座るアリアナさんが、そうですね、と頷いてくれました。
「でも、旦那様は無理していないでしょうか……連日のお仕事でお疲れではないのでしょうか」
「大丈夫ですよ。旦那様は、見て分かる通りにじっとしているのが苦手な方で、幼い頃よりお勉強より外で飛び回っているのが好きなお子様でした。今は師団長として指揮官の立場にありますので、鍛錬くらいでしか体を動かすことがありません。ですので有り余った体力とストレスを発散して、寧ろ、更にお元気になられますよ」
「エルサが言うなら間違いありませんね」
優しく微笑むエルサの言葉に、私はほっと胸を撫で下ろしました。
それから暫く三人で、最近読んだばかりの恋愛小説の感想で盛り上がっていると、ゆっくりと馬車が停まって目的地へと到着しました。
ガチャン、と音がしてドアが開けられ、アリアナさんが最初に降り、次にエルサが降り、最後に私がわざわざ手を貸しに来て下さった旦那様の手を借りて、馬車から降りました。
「まあ、素敵な場所ですね」
馬車から降りて、最初に目に入ったのは大きな湖でした。周りは森に囲まれていて、馬車が止められたこの場所は短く草が刈り取られて、休憩が出来るようになっていました。森の匂いと水の匂いが混じる爽やかな風が私の頬を撫でて行きます。
「うちの私有地なんだよ。だから誰も来ないから安心して」
そのお言葉に振り返れば、セドリックを抱っこしたアルフ様がこちらにやってきました。
旦那様もそうですが、アルフ様も護衛のカドック様も今日は、動きやすいラフな恰好です。
「セ、セドリックっ!」
旦那様だけでは飽き足らず、まさか王太子殿下に抱っこをさせているなんて、と私が慌てるとアルフ様が、大丈夫だよ、と可笑しそうに笑いました。
「流石はリリィちゃんの弟だけはあって可愛いねぇ。僕にも弟と妹がいるんだけどさ、妹は可愛いんだけど弟は一つしか年が違わないから、可愛いなんて思ったことないよ。僕も弟欲しいな、父上と母上、今から頑張らないかな」
アルフ様はにこにことご機嫌なセドリックを見ながら真顔で首を捻りました。王族の方の発想は、やっぱり普通の方と違って斜め上なのでしょうか。旦那様が呆れたようにため息を零されています。
「お前はさっさと結婚して、自分の子どもを産んでもらえ」
「うわー、ウィルまで父上たちと同じこと言わないでよ。最近は顔を合わせれば、そればっかりなんだから」
アルフ様が煩わしそうに顔を顰めました。
確かにアルフ様は、旦那様と同い年ですので二十六歳。クレアシオン王国は平民も貴族も男性は二十代前半、女性は十代後半が結婚適齢期と言われていますので、アルフ様のご両親が心配されるのも無理はありません。それにアルフ様は、次期国王としてクレアシオン王国を背負っていく方ですので、余計に国王陛下も王妃様も心配なのかもしれません。
「僕って王太子でしょ? やっぱりそこらへんの貴族の娘さんって訳にはいかなくてね、普通なら釣り合いの取れる伯爵家以上のご令嬢を選りすぐって五歳くらいから王妃教育をしながら婚約者を決めるんだけど、丁度、戦争真っただ中でそれどころじゃなかったからねえ。僕は出来れば、リリィちゃんみたいに可愛い子か、なんかいっそ面白い子と結婚したいな! その方が毎日が愉快じゃない?」
「面白い子ってどんな子だ?」
「うーん、見てて愉快な子が良いな」
旦那様も私も顔を見合せました。アルフ様の好みの女性とは一体、どんな方なのか、見てて愉快とは一体、どういったことを表しているのでしょうか。
「あ、そうそう。リリィちゃん、改めて紹介するね。彼はカドック・デルヴィーニュ騎士爵、僕の護衛だよ」
朝、合流した時は簡単な挨拶をしただけでしたので、アルフ様が改めて紹介してくださいました。
カドック様は、とっても大きくて背が高い方でした。旦那様もアルフ様も騎士様ですので、背も高く体もがっしりしていますが、カドック様はお二人よりも更に大きいです。左目の上に縦長ついた傷痕があって、少々、怖いお顔立ちをしておりますがとても優しい目をしている方でした。
「初めまして、私はリリアーナ・ルーサーフォードと申します」
私は腰と膝を折り、ドレスの裾を摘まんでご挨拶をさせていただきました。
けれど、カドック様からお返事はなく、何か失礼があったのでしょうかと不安になりました。
「カドックは、昔、僕を庇って喉を怪我してしまってね、喋れないんだよ」
「まあ……そうなのですね」
カドック様がどこか申し訳なさそうに頭を下げました。なんとなく謝られているような気がして首を横に振りました。
「気になさらないで下さいまし、私も喋ることはあまり得意ではなくて……もし、何か用がありましたら私の手のひらに文字を書いて下さいまし」
私は手首までの短い手袋を嵌めた手をカドック様に差し出しました。カドック様は、驚いたように目を瞬かせると旦那様に顔を向けました。旦那様が頷くと、カドック様は私の手を取り、節くれだって長い指で文字を書きました。
『わ、た、し、は、カ、ド、ッ、ク、で、す。お、あ、い、で、き、て、う、れ、し、い、で、す』
「私もです、ふふっ、少しくすぐったいですね。でも、これでお話しが出来ますね」
ゆっくりと丁寧に書いて下さったので、私でもきちんと理解することが出来ました。
カドック様は、優しく微笑んで嬉しそうに頷いて下さいました。
「カドック様、僕も、僕にもなんか書いて! 僕も当てっこしたい!」
「セドリック、遊んでいる訳じゃないのですよ?」
やんわりと窘めましたが、カドック様は首を横に振ってアルフ様に抱っこされているセドリックの手を取りました。私の手より更に小さな手ですので、カドック様の大きな指では大変そうでしたが、セドリックは真剣にカドック様の指を目で追っています。
何かを書き終わるとカドック様が顔を上げました。セドリックは、何故かにっこりと嬉しそうに笑いました。
「うん、世界で一番、優しいんだよ! 僕、大好き!」
カドック様は目を細めて頷かれました。何の話題かはよく分かりませんが、セドリックの笑顔はとびきり可愛いです。
「旦那様やアルフ様とはどうやってお話されるのですか?」
「私もアルも唇の動きで言葉が読めるから問題ない」
「そうなのですね、凄いです」
小説の設定ではそういう技術があることも知っていますが、物語の中だけのことだと思っていましたので驚きです。
「ははっ、良かったな、カドック!」
急にアルフォンス様がケラケラと笑いながらカドック様の肩をバシバシと叩きました。カドック様は、穏やかな表情で頷かれています。きっと何かカドック様がアルフ様に言ったのでしょう。
「よーし、セディ、僕と森を探検しに行こう!」
「はい! 僕、探検は初めてです!」
「という訳で、セディを借りるよ! 怪我はさせないから安心して! 来い、カドック!」
今日も今日とて言うが早いかアルフ様は駆け出して行かれました。カドック様が慣れた様子でその背について行きます。
「セドリック、危ないことをしてはいけませんよ!」
「はーい!」
軽やかな返事は返ってきましたが、少々不安です。
「リリアーナ、カドックがついているから大丈夫だ」
旦那様がおろおろとしている私に苦笑交じりに言いました。アルフ様ではなく、カドック様というのがポイントなのかもしれません。
「ここの森は危ない獣は殆ど居ない。管理された森だからね。王家の私有地で、昔は私もアルに誘われて良く来たんだ」
「お、思い出されたのですか?」
少しどもってしまいましたが、旦那様は木にされた様子もなく、ああと頷いて湖を振り返りました。気付かれないようにぎゅう両手を握りしめます。
「あそこに桟橋があるだろう? あれを見た時、少しだけ思い出したんだ」
旦那様が指差す先を辿れば、少し離れたところにある木製の桟橋が目に入りました。桟橋の先には、ボートが二隻、縄で繋がれています。
「……あそこからエルサに突き落とされたことを思い出したんだ」
どこか遠くを見つめながら旦那様がおっしゃられた言葉に私は目を瞬かせます。ゆっくりと後ろを振り返れば、にっこりと笑ったエルサと目が合いました。
「まあ、旦那様。突き落としたなんて酷いではありませんか……旦那様の水練を手助けしただけですのに」
「そうですよ、おかげで旦那様は得意な泳ぎが更にお上手になったではないですか。そもそも発端は、旦那様が当時五歳のエルサの服にカエルを入れたことですしね」
まあ、と旦那様を見上げると旦那様は、気まずそうにそっぽを向かれました。
そういえば、いつぞやエルサがそんなことを言っていたのを思い出しました。報復しました、と言っていたのも思い出しましたが、まさか本当に報復で旦那様を桟橋から突き落としたのでしょうか。にこにこ笑うエルサが怖いので、とてもではありませんが詳細は聞けません。旦那様は、原因が自分だったことも思い出したのか、ますます遠い目をしてらっしゃいます。
「よし、一旦、忘れよう!」
旦那様は、そう宣言されるとエルサたちを振り返ります。
「エルサとアリアナはその辺で待機だ。フレディ、私の馬を! 秘密の場所に行って来る!」
「覚えておいでなのですか?」
「ああ。アルフォンスに教えられて思い出した。道順もしっかり覚えているし、アルに聞いたら変わっていないと言っていたからな。一時間で戻る。その頃にはセディたちも戻ってきているだろうから、皆でランチにしよう」
「かしこまりました」
頭上でぽんぽんと会話が交わされます。よく分かりませんが、旦那様がどこかへ行こうとしているのは分かりました。
「リリアーナ」
「? はい」
エルサに木陰に布でも敷いてもらって持参した本を読もうかしらと考えていた私は、急に私を呼んだ旦那様に首を傾げます。なんだか旦那様の青い瞳が少し緊張しているようにも見えます。どうしたのでしょうか。
旦那様が、ゴホン、と咳払いをすると大きな手が私に差し出されました。
「レディ・リリアーナ、私とデートをして頂けませんか」
これは夢でしょうか。
びっくりし過ぎて、旦那様の手を見つめたまま固まってしまいました。
デートというものが何かは、恋愛小説が好きですのでもちろん知っていますし、まさか私が誘って頂ける日が来るなんて考えたこともありませんでした。
「リ、リリアーナ?」
窺うような声音に顔を上げると不安そうな顔をした旦那様と目が合いました。
「嫌、か?」
その言葉に私は慌てて首を横に振り、差し出されたままだった旦那様の手に自分の手を重ねました。
「ち、違います、あの、驚いてしまって……旦那様にデートに誘って頂けるなんて、とても、嬉しいです」
だんだんと輝いて行く青い瞳を見ていられなくなって、熱くなった頬を隠すように顔を俯けました。心臓がどきどきしてうるさいです。
「良かった! では、行こう!」
弾んだ声で旦那様は嬉しそうに言って、私の手を引くといきなり腰を両手でつかまれてぐっと持ち上げられました。びっくりしている間に、フレデリックさんが連れて来てくれた旦那様の愛馬の上に乗せられていて、旦那様もすぐに私の後ろに跨り、私を抱えなおしました。
「だ、旦那様、私、馬には乗ったことがなくて……」
「大丈夫、私がしっかり抱えているから。私にしっかり寄り掛かって、そう。それで、ここに捕まって、よし、では行って来る!」
「奥様、お気をつけて! 旦那様、奥様を落としたらまた湖に今度は簀巻きにして落として差し上げますので、くれぐれもお気をつけて!」
エルサのちょっと物騒なお見送りにも旦那様は「分かった!」と元気よく頷くと、愛馬に声を掛けて手綱を握りました。するとゆっくりとお馬さんが動き出します。
だんだんと駆け足になりながら、セドリックたちが行った方とは反対の森の中へと私たちを乗せたお馬さんは入って行くのでした。