第十八話 ぬくもりに包まれる夜
セドリックの傷はモーガン先生のお薬と本人が良く食べて、良く眠って、良く休んだお蔭で見る見るうちに回復し、一か月も経つ頃には、庭を駆けまわれるほど元気になりました。無邪気で天使のように愛らしいセドリックは、屋敷の皆さんにも可愛がっていただけています。
けれど、部屋はまだ私と一緒です。夜になるととても不安がり、時折、悪夢に魘されるのです。本人が思っている以上に父や姉から受けた突然の暴力が幼い心に深い傷を残しているのです。セドリックが教えてくれたのですが、お父様は明け方近くに突然、部屋にやって来てセドリックをベッドから引きずり出して鞭打ったらしいのです。だから余計にセドリックは夜が怖いのかも知れません。こればかりはモーガン先生のお薬では治りませんので、時間というものに頼るほかありません。
旦那様は、有難いことにそんなセドリックを実の弟のように可愛がってくださり、セドリックも大層、懐いて最近は「義兄様のような騎士様になりたい」というのが口癖です。幼いながらに目標が出来たことは姉として嬉しいのですが、旦那様が帰ってくると真っ先に抱き着きに行くセドリックに失礼がないかと毎回ヒヤヒヤしてしまうのです。
「義兄上! おかえりなさい!!」
今日も今日とて、旦那様がエントランスに現れた瞬間、セドリックは子犬のような無邪気さで旦那様に飛びつきます。入ってすぐに腕を広げて待ち構えていた旦那様は、飛びついて来たセドリックをひょいと抱き上げて肩車をしてしまいました。
「ただいま、セディ。良い子にしていたか?」
「はい! 今日は姉様と一緒に図書室でモニカに本を選んでもらいました!」
旦那様の頭に抱き着くようにしてセドリックが答えます。旦那様は、そうか、と頷いて返しました。
騎士団の制服は上下ともに黒でとてもきっちりとしています。旦那様はとてもスタイルが良いので、鍛えられたその体に騎士服はとても似合っています。毎朝毎晩、見ている姿ですが素敵過ぎていつもドキドキしてしまいます。
「おかえりなさいませ、旦那様」
旦那様に歩み寄り、お声を掛けます。
「ああ、ただいま、リリアーナ」
旦那様はふわりと笑って、私の出迎えを受け入れて下さいました。
そのことにこっそりと安堵の息を吐き出します。
最近、旦那様の記憶が徐々に戻りつつあるとフレデリックさんが教えてくれました。思い出すのは過去の、それも子どもの頃のことが殆どだそうですが、モーガン先生が「これならいつ全てが戻ってもおかしくはない」とおっしゃっていました。
ですので、お仕事から帰ってきた旦那様が朝、お出かけする時と同じように優しい笑顔を向けてくださるとまだ私のことは思い出していないのだと安心するのです。
たくさんの方々に頼りにされている旦那様の大事な記憶が戻らないことに安心するなんて、私は嫌な子です。
「リリアーナ? どうかしたのか?」
気遣わし気な声に私は、無意識の内に俯いてしまっていたことに気付いて慌てて顔を上げました。セドリックも旦那様の肩の上で「姉様?」と心配そうに首を傾げていました。
「も、申し訳ありません、少し考えごとを……っ」
「何か悩み事があれば何でも言ってくれ。私が力になれることなら、なんだってするから」
「いえ、旦那様のお手を煩わせるようなそんな大したことではありませんっ」
私が首を横に振ると旦那様は何故か少し残念そうな顔をしました。
「そうか……なら良いが」
「そのお気持ちだけで充分です。ありがとうございます、旦那様」
伸びて来た大きな手が私の頭をぽんと撫で下さいました。
私の悩み事なんて、此の世で一番、旦那様にはお話できないものです。こんな醜い気持ちがバレてしまったら記憶が戻らずとも嫌われてしまいます。
「旦那様、夕ご飯はどうなさいますか?」
「団で適当に食べて来た。二人はもう食べたのだろう?」
「はい」
「今日は僕の好きなハンバーグをフィーユが作ってくれました」
「そうか、良かったな」
「はい!」
嬉しそうに顔を綻ばせるセドリックに旦那様も笑みを返します。エルサやフレデリックさん、お迎えに出ているアーサーさんや他の皆さんも微笑ましそうな笑みを浮かべました。セドリックの笑顔は世界に平和をもたらすのでは、と最近は真剣に考えています。
それから旦那様はセドリックを肩車したまま上の階へと上がり、私も旦那様の腕に手を添えて一緒に行きます。
私の部屋の前に来ると、旦那様はひょいとセドリックを降ろしました。セドリックはすぐに私の隣にやってきます。
「では、私は着替えて来るからな」
「はい」
「義兄上、早く来てくださいね!」
セドリックのおねだりに旦那様は、くすくすと笑って頷き、小さな頭をぽんぽんと撫でるとご自分の部屋へと足を向けました。
旦那様は、セドリックを保護した翌朝、私に約束してくださった通り、毎日、屋敷に帰って来て下さいますので先ほどのように私とセドリックでお出迎えをして、朝はお見送りをします。時々、今日のように遅い日もありますがほとんど毎日、夕食を共にしております。セドリックが一緒にいてくれるお蔭で私もダイニングで旦那様とディナーをとることに随分と慣れて、緊張したり、不安になることもなくなりました。
ただ一つ、困ったことがあるとすれば、何故かこの一週間ほど毎日、旦那様とセドリックと私の三人で私の部屋のベッド眠っていることです。
私とセドリックも部屋に下がり、寝間着へと着替えます。私は肌触りの良いシルクのネグリジェ、セドリックも同じくシルクのパジャマに着替えます。屋敷にいたころは、セドリックのお世話をしてくれるメイドさんが何から何までしてくれたようでボタンをかうことが出来ませんでしたが、侯爵家では私が自分のことを自分でする姿に触発されたのか、進んであれこれしたいと言うようになりました。
侯爵家にやって来て、セドリックはとても生き生きとしています。実家にいたころのセドリックの笑顔ももちろん可愛かったのですが、ここへ来てからはその笑顔には憂い一つ、不安一つありません。
それは温かく見守っていてくれるエルサを始めとした使用人の皆さんのおかげでもありますし、何よりも父親のようにもセドリックを可愛がってくれる旦那様のおかげでもあると思うのです。
「姉様、明日は義兄上、お休みなんだよね」
ベッドに腰掛ける私のところにやって来たセドリックが首を傾げます。部屋にはもう私とセドリックしかいません。
「ええ。今朝はそうおっしゃっていたけれど……」
「なら明日は、一緒に本を読んでくださるかなぁ?」
私は、ふっと苦笑を零してセドリックの頬を撫でます。子供特有のふわふわと柔らかい頬はそれだけで愛しいです。
「旦那様は、お仕事でお疲れでしょうからあまり我が儘を言ってはいけませんよ。もしかしたらお仕事を持ち帰って来ているかもしれませんし……」
見るからにしょんぼりとしてしまったセドリックに私の良心が痛みます。
「でも、もし旦那様が良いと言って下さったら、本を一緒に読むくらいならいいですよ」
途端にセドリックは顔を綻ばせました。余りの可愛さについつい甘やかすように額にキスをしてしまいました。するとセドリックも「姉様、大好き!」と私の額にキスをしてくれました。
それからはベッドの上で膝の間に座ったセドリックに本を読んであげながら、旦那様を待ちました。
旦那様は、割とすぐに私の寝室へとやってきました。セドリックが、嬉しそうに顔を綻ばせて旦那様を呼びました。
「さあ、セドリック。今日の出来事を私に聞かせてくれ」
旦那様が私のベッドに寝ころんで、セドリックはちょこんと座ったままはいと頷きました。
こうして一緒に眠るようになってから、セドリックは毎晩、旦那様に今日あった出来事をお話します。旦那様は、それを嫌な顔一つせず、楽しそうに聞いています。
「義兄上、それでね、オズワルド先生が褒めてくれたんです」
「そうか、セドリックは賢いからな」
ベッドの中、セドリックの横に寝そべる旦那様は、セドリックの話に笑顔で耳を傾け、相槌を打っています。私は膝の間に座るセドリックの髪を時折撫でながらその様子を見守るのが最近の日課になっています。
怪我もよくなり、元気もいっぱいということでセドリックは、一週間と少し前から再び実家に居た頃と同じオズワルド先生に家庭教師をして頂いているのです。オズワルド先生は、その昔は学院で教師をしていた方で引退したあとセドリックが五歳の頃からオールウィン家で家庭教師をしてくれていました。ですのでセドリックのことをとても心配していてくださり、今の朗らかに笑う健やかな姿に涙を流して喜んでくれた優しい先生です。その上、私のことも心配して下さっていたようで、素晴らしい方の下に嫁げたことを喜んでくださいました。博識で穏やかなオズワルド先生のお話は面白くて、私も時折、セドリックと一緒にお話を聞くこともあります。
「ところでセディ、明日、私は休みなんだが……君が早起き出来るなら、明日は少し遠出をしてピクニックに行かないか?」
「ピクニック!?」
セドリックがこれでもかというほど顔を輝かせました。
「だ、旦那様……お仕事でお疲れですのに……」
私は心配になってしまいます。旦那様は記憶も完璧には戻られておりませんのに騎士団のお仕事も侯爵としてのお仕事もこなしているのです。折角の貴重なお休みは、ゆっくりと休んで頂きたいのです。
セドリックも私が懸念していることに気付いたのか、心配そうに旦那様を見つめます。旦那様は、ふっと表情を緩めるとセドリックの頭を撫でながら私に顔を向けました。
「毎日、しっかり休んで、君とセドリックとしっかりご飯を食べているお蔭で元気だよ。屋敷の中ばかりだとつまらないだろう? 私も久々に遠出がしたいんだ、良いだろう?」
セドリックが私を振り返ります。その目は、行きたくてたまらない、と物語っていました。その向こうで旦那様は、大丈夫、と大きく頷きました。
「なら、セディ。寝坊しないように早く寝ましょうね」
「うん!」
ぱあっと満面の笑みを浮かべて頷いたセドリックは、おいで、と旦那様がとんと叩いた腕の中に躊躇うことなく潜り込んでいきます。セドリックは旦那様に抱き着いて眠るのも好きなのです。
「リリアーナ、おいで」
「姉様、早く! 早く寝ないと置いてっちゃうよ!」
そして、私もセドリックと一緒に旦那様の腕の中に納まるようにして眠るのです。私はセドリックを後ろから抱き締めるようにしてそこに寝ころびました。旦那様の手が私の腰辺りに乗せられます。
興奮していたセドリックは、それから暫く、馬で行くのか、馬車で行くのか、お弁当は持って行くのかとあれこれ旦那様や私に質問していましたが、急に糸が切れたように黙ったかと思えば、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてきました。旦那様が私とセドリックに布団を掛け直しながら、小さく喉を震わせて笑ったのが分かりました。
「急に黙るから驚いた」
「ふふっ、申し訳ありません」
寝返りを打って私の胸に顔を埋めたセドリックの髪を撫でながら私は目を細めました。あどけない寝顔は見飽きることはありません。
「……サンドラ夫人とマーガレット嬢のことなんだが」
不意に旦那様の口から出て来た名前に驚いて顔を上げます。
淡い蝋燭の灯りの中でも旦那様の顔に困惑が浮かんでいることは分かりました。
「一昨日、正式に離縁が成立した」
「まあ……」
予想もできなかったお話に私は、思わず片手で口を押えて驚きを露わにしました。
「領地に閉じ込められるのは真っ平御免だと……こんな短期間で尚且つ手際の良さから前々から離縁の準備はしていたんだろう。もしかしたら借金のことも気付いていたのかもしれない」
「では、今はディズリー男爵家に?」
「いや、夫人の知り合いの貴族の家だ。マーガレット嬢も一緒だ」
お継母様、いえもう関係ありませんので、サンドラ様とお呼びしましょう。サンドラ様は男爵家のご出身です。父とは夜会で出逢って恋人になり結婚を望んだそうですが、家格が釣り合わずお父様の両親、私の祖父母の反対によってそれは叶いませんでした。そして父は、祖父母の言い付けに従い私の母と結婚したのですが祖父母が流行病で相次いで亡くなり、母が亡くなり、止める者も咎める者もいなくなりお父様は後妻としてサンドラ様を迎えたのです。
お父様のほうがサンドラ様に惚れ込んでいるようで、お父様はサンドラ様の言いなりでした。離縁なんて、相当ショックだったのではないでしょうか。
お父様は現在、屋敷の一室で領地に行くための色々な準備を整えているそうで、あと数日でエイトン伯爵領に旅立つ予定です。
「一応、伝えておこうと思ったんだ。セドリックに伝えるか否かは君に任せるよ。話し辛ければ、私が話すから幾らでも頼ってくれ」
「ありがとうございます。もう少し落ち着いたら、私から話してみようと思います」
「そうか……ああ、そうだ。明日、アルフも来る」
「まあ、アルフ様が?」
この一か月、セドリックのことで忙しかったので二度ほどお会いしただけでした。刺繍入りのハンカチが欲しいとお願いされて、お礼も兼ねて王家の紋章を刺繍したハンカチを贈らせて頂きましたらとても喜んでくださいました。それに旦那様は騎士団で毎日、顔を合わせておいでですので、そのお話だけは毎日のようにお聞きしています。
「私が毎日のようにセドリックの可愛さを自慢していたら、会わせろとうるさくてな。見舞いに来てくれた時は会えなかったんだろう?」
「はい。微熱を出して寝ていたものですから、二度目は王太子殿下にお会いするなんて大丈夫でしょうか」
「セドリックは礼儀正しい良い子だから大丈夫だし、公式の場でもない。それに元々あいつも細かいことは気にしない性質だ。さあ、私たちも寝よう。寝坊なんてしたらセドリックに怒られてしまう」
ふっと笑った旦那様が体を捻って、サイドボードの上に置かれていたランプの灯を消しました。とたんに部屋の中は暗く、静まり返ります。
「おやすみ、リリアーナ、良い夢を」
「おやすみなさいませ、旦那様も良い夢を」
セドリックを抱き締め直して、旦那様の腕の中に納まります。
とても温かくて、優しくて、安心する場所ですが旦那様の匂いがする分、ドキドキもします。でも、とても幸せです。
この幸せがずっとずっと続けばいいのに、と性懲りもなくそう願ってしまう自分に気づいて、セドリックの髪に隠すように苦笑を一つ零しました。