第十七.五話 侮れない女 *ウィル視点
セドリックを保護して早二週間が経ち、漸く、本当に漸く面会に応じるという旨の手紙が届き騎士団の師団長室に招いたリリアーナの継母、エトン伯爵夫人サンドラ・エッタ・ドゥ・イェーツ=オールウィンは、血のように毒々しい深紅の薔薇の花を連想させ滴るような色気を持った女だった。
マーガレットとは確かに瓜二つだが、まだ十七歳の彼女では持ちえない妖艶さを兼ね備え、正に“女”というものを男に感じさせる。見事なほど豊かな胸も艶めかしくくびれた腰つきも男を誘惑するには十分な魅力を兼ね備えているのであろうし、彼女はそれの使い方を十二分に承知しているのが分かる。
だがしかし、私にとってはリリアーナの方が百億万倍くらい魅力的だ。まずリリアーナは自分の魅力を今一つ分かっていないという鈍い(可愛い)ところがある。男の下心にも鈍く、膝枕くらいなら快くしてくれるのだがこれがなかなか絶景だ。そもそも頭に感じる柔らかな太ももの感触も素晴らしいのだが膝から見上げると豊かな二つのふくらみの向こうに、微笑むリリアーナがいるのだ。最高である。
初心なリリアーナは、ちょっとした褒め言葉を贈るだけでも、あの雪のように白い頬を淡く染めて照れ笑いを浮かべる。あの笑顔の可愛さといったら筆舌に尽くし難く、誰にも見られないように部屋に閉じ込めたくなってしまう。そんなことをしたらエルサに殺されるのでしないが、これは物の例えである。
それに何より、セドリックを我が家に迎え入れてから、リリアーナはますます柔らかく穏やかに笑うようになった。セドリックを見守る眼差しは姉というよりは母の眼差しそのもので、彼女の無償の愛があの家の中でセドリックをあんなにも良い子に育てたのかと思うと胸が熱くなった。リリアーナに愛を受けて育ったセドリックもまた、こんな糞みたいな両親から生まれてきたのが不思議なほど素直で無邪気で可愛らしい。最近のエルサは、リリアーナとセドリックがじゃれ合っていることが尊くて仕方がない、と夫のフレデリックに度々、漏らしている。
だから何が言いたいかと言うと、私は一刻も早く愛しい清純な妻と可愛い弟の待つ我が家に帰りたいという現実逃避をしているのだ。
「わたくし、まさか主人が暗殺者にすり替わっていたなんて、恐ろしくて恐ろしくて……っ」
レースのハンカチを目元に当てて涙をぬぐいながら、夫人が震える声で言葉を紡ぎ出す。
私の隣に座るアルフォンスは、同情的な顔を取り繕ってはいるが空色の瞳に浮かぶ侮蔑が隠しきれていない。だがそれは多分、私だから分かることだろう。
「とてもとても恐ろしくて、主人の下へは戻れませんわ。マーガレットも可哀想に具合を悪くして寝込んでしまっているのです」
白々しい嘘を並べ立てるなクソババァと言いたいのをぐっとこらえて、ウィリアムはどうにか表情を取り繕う。もし、彼女がここに一人だったのならばそれを言うことも容易かっただろうが、それが出来ない事情が彼女の隣に、その肩を抱くようにして座っていた。
「サンドラ、可哀想に……ウィリアム君、こういう訳だから、彼女も彼女の娘も暫く私が責任を持って預かるよ」
フックスベルガー公爵、ガウェイン・アイヴィー・ド・クレアシオン=ザファウィー。
アルフォンスの伯父の息子であり、現王の甥だ。年齢は六十に差し掛かろうかというところだ。外交大臣を担っている重役で私とアルフォンスにとっては少々、厄介な相手だった。この男の悪事の尻尾は掴めそうで全く掴めないのだ。
彼の父親は、第一王子という身分に産まれたが、彼は側妃の息子だった。アルフォンスの父でもある現国王は、正妃の子で第二王子であったが王国の法に従い、王太子となりやがて国王になる予定だった。だが、不運なことに兄は恐ろしいほどに優秀な王子だった。アルフォンスの父は秀才であるのは間違いないが向こうは、天才と呼ぶにふさわしい人だった。当時は今よりも更に内政は不安定で、ありがちな話だが熾烈な継承権争いが勃発した。
だが、結局は天才と言われた兄が自ら身を引いた。そうして、アルフォンスの父は生まれた時から定められていたように王となり国を治めている。
しかし、厄介なのはこの公爵もまた、父親によく似て非常に優秀で父親とは違い、野心に満ち溢れているというところだった。
アルフォンスは父王よりもその兄のほうに似ていて、何事をもそつなくこなす天才肌だ。無論、その影で並々ならぬ努力はしているが間違いなく父王よりも優れた王になると誰もが暗黙の了解として認識している。そこに水を差すのが、同じく優れた為政者になるであろうこの男なのだ。
「……閣下、お言葉ですがサンドラ様は血は繋がらずとも私の愛しい妻の大事な母君です。閣下にご迷惑をかける訳には……」
「ウィリアム君、彼女とは夜会で知り合ってね。心優しい彼女は妻に先立たれたこの老いぼれの話し相手になってくれたのだ。妻を失った私を慰めてくれた恩はここで返さなければね」
三日月形に細められたハシバミ色の瞳は、獲物を甚振る猛獣のような獰猛さが見え隠れしている。
「折角、アルフォンス殿下がマーガレット嬢のために調えてくれようとしていた婚約も今回ばかりは応えられそうにない。マーガレットはあまりのショックに寝込んでしまっていてね、とてもではないがどこかに嫁げる状態じゃない。げっそりと窶れてしまって、余りに憐れだ」
ううっと夫人がハンカチで口元を抑えて顔を俯ける。きちんと涙が零れているのが凄い所だ。
「……そうですか、それは残念です」
「申し訳ありません、殿下。憐れな娘をどうかお許しくださいまし、マーガレットは父親をとても慕っていて、自分の命も危険に晒されたことがあまりにショックで……っ」
しかし、この女の口からは自分の胎を痛めて産んだはずのセドリックの名前は一度も出てこない。この女もあのクズ男同様、マーガレット以外には興味がないのだろう。
「サンドラ、君だって夜もろくに眠れていないと侍女が言っていたよ……顔色も悪い。ウィリアム君、すまないが今日はこれで失礼するよ」
言うが早いか公爵は、夫人の腰を抱くようにして立ち上がった。夫人は、公爵にしなだれかかり今にも倒れてしまいそうな儚さを漂わせている。
どこまでが演技で、どこまでが計算なのか。ウィリアムは、すっと目を細めて夫人を観察するが零れる涙が真実を見えにくくしている。あれが作り物の涙であったとしても、相手が今のところ罪のない貴婦人である以上、ウィリアムやアルフォンスには何も出来ない。伯爵を暗殺者に仕立てて蹴り飛ばすのとは訳が違うのだ。騎士が女性に手を上げたとなれば、騎士の身分を奪われかねない。
「義母上、義姉上もどうぞお大事に」
脇を通り抜けて部屋を出て行く夫人に声を掛ければ、夫人は弱々しく微笑み会釈をすると公爵に支えられるようにして部屋を出て行った。控えていた彼の執事と護衛もその背に続いて部屋を出て行き、応接間はアルフォンスと二人きりになる。
バタン、とドアが閉められてその気配が遠のき、消え去るのを待った。
「あああああ、もう! くそっ!」
アルフォンスが急に声を上げて、苛立たし気に髪を掻きむしる。
「……あのクソ爺ッ、また邪魔しやがってっ!」
「落ち着け、アル」
そう声を掛けて、首元のボタンを外して緩める。テーブルの上にあったベルを手に取り振れば、チリンチリンと涼やかな音が落ちた。そう待たずして、隣の部屋からフレデリックが姿を現す。
「フレディ、ハーブティーを頼む」
「かしこまりました」
フレデリックは、頭を下げると再び隣の部屋へと姿を消す。隣にはちょっとしたキッチンがあって軽食の仕度が出来るようになっているのだ。おそらく準備をしてくれていたのだろう。彼はティーセットをシルバーのトレンチに乗せてすぐに戻って来て、あっという間に仕度をしてくれた。
カモミールの甘く爽やかな香りが鼻先を撫でて行く。
「アル、ストレス緩和にいいぞ」
ほら、と勧めればアルフォンスは訝しむように眉を寄せた。
「……ウィル、ハーブティーなんて好きだった?」
「リリアーナが好きで色々と教えてくれるんだ。可愛いぞ」
「……はいはい。あ、そうだ!」
つまらなそうに返事をしたかと思えば、急にぱっと顔を輝かせて制服のポケットに手を突っこむ。どうしたんだ、と首を傾げるとニヨニヨと嫌な笑いを浮かべながらアルフォンスが白いハンカチを取り出して私の目の前で広げた。
なんてことはない白いハンカチは、右下に王冠の下で二羽の鷲が翼を広げて向かい合うクレアシオン王国王家の紋章が彩り豊かな糸で国旗に描かれているものと同じように忠実に刺繍されていた。その紋章の下には、アルフォンス・クレアシオンという名前が頭文字だけ刺繍されていた。とても丁寧な仕事だと分かる素晴らしい逸品で王太子である彼が持つに相応しい品だった。
「新しいハンカチか? 買ったのか?」
「ううん、貰ったの。――……リリィちゃんに」
時が止まった。間違いなくその名前がアルフォンスの口から出てきた瞬間、時が止まった。
私はハンカチとアルフォンスを交互に三度見、いや、五度見くらいした。
「なっ、どっ、いっ」
「何で、どうして、いつだって? あの屋敷に乗り込んだ三日後くらいにセディのお見舞いに行ってね。あの日はセディは寝ちゃってたから会えなかったんだけど、リリィちゃんがもてなしてくれてね。一緒にお茶してたらリリィちゃんが僕にお礼をしたいって言ってくれたから、おねだりしたんだ。それで、一昨日会いに行ったらくれたんだよね」
「何で俺の許可なく二回も会いに行っているんだ!」
「ほら、出先に寄ったついでにウィルを探しがてら、ね!」
「探しがてらって俺は一日中、殆どここに缶詰めだったんだからわざとだろ! 返せ!」
ハンカチを奪おうとするが、アルフォンスはひょいと私の手を避けて、さっさとそれをポケットに戻すと立ち上がって向かいの席へと逃げる。
「今すぐに寄越せ!」
「だめだめー。だって、お前が持ってるのをリリィちゃんが知ったら間違いなく彼女は「気に入ってもらえなくて、突き返された。優しい旦那様はそれを言えないでいる」って思いこんじゃうよ? ね、フレディ」
「ええ、仰る通りでございます。王太子様に贈るのだからと、それはそれは丁寧に刺繍をしていたとエルサから聞いておりますので、落ち込んでしまわれるでしょうね、お可哀想に」
フレデリックがアルフォンスの背後に回り、わざとらしく悲しそうな表情を浮かべてため息を零した。
二人の言っていることに間違いはない。アルフォンスの手元にあるはずのものを私が持って居れば、自分が刺した刺繍を気に入ってもらえず返されたと彼女は思いこんでしまうだろう。
だが、それとこれとは別だ。
「私は貰ってない!」
「頂きましたよ」
フレデリックが一秒の間も置かずに言った。
「箱も開けずにゴミ箱に投げ入れましたけどね」
顔を上げればにこりと微笑む彼と目が合った。
「ご結婚されて八か月が経ったころの話でしたかね、エルサ経由で私がお預かりして旦那様にお渡ししたのですが、旦那様は奥様からだと告げた途端に、ぽいっとなさいました。ちなみにお礼のお手紙も出しておりませんので」
私の喉から、言葉でも文字でも表現できない奇妙な音が漏れた。
部屋の奥に置かれたデスクに視線を向ける。デスクの向こう側に置かれたゴミ箱に縋りたかったが、毎日掃除してくれているそこに五か月近く前のものが入っている訳がない。
「あーあ、そりゃ貰えないわ。僕なら欲しいなんて口が裂けても言えないね」
先ほどまでの揶揄を含んだ声音ではなく、心底呆れたようにアルフォンスが言った。
「ちなみにエルサが「喜んでいたそうですよ」と奥様のために嘘をつきましたが、奥様は全てを悟って「良かったです」と悲しそうに微笑まれたそうです。それまでは、もし旦那様に気に入って頂けたら、折角旦那様が下さった裁縫箱と糸だから貴方のスカーフやネクタイに刺繍を、と望まれておいででした」
うわーと本気でドン引きするアルフォンスの声を聞きながら、私は立ち上がり床に膝から崩れ落ちた。このまま地に還りたいがここは五階だ。大地から大分離れているなと現実逃避をしようとする思考がぼやいた。
「ですが、私は大変、優秀な執事でございますので旦那様が目を離した隙に回収し、このように大事に保管しておりました」
私の目の前にフレデリックが膝をついたかと思えば、金のリボンが掛けられた紺色の正方形の薄い箱が差し出されていた。
勢いよく顔を上げて、そのまま勢いでそれを受け取る。リボンと箱の間には、メッセージカードまできちんと挟まれていて、私は二つ折りになっていたそれをそっと抜き取り開く。
『心からの感謝を込めて リリアーナ』
間違いなく彼女の繊細な筆跡で書かれている文字に私は泣きそうになりながら、もう一度、乳兄弟を見上げた。
「流石は私の乳兄弟だ!! ありがとう、フレデリック!! お前は最高だ!!」
「お褒めに与り光栄です」
私はそそくさとソファに座り直し、膝に乗せた箱のリボンをそっと解いて蓋に手を掛ける。ドキドキとうるさい心臓に緊張しているのだと気付いて、一度、深呼吸をしてからゆっくりと蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは、綺麗な青のハンカチだ。丁度上になっている部分には、スプリングフィールド侯爵家の紋章が鮮やかな糸でとても緻密で繊細に刺繍されていた。もちあげて広げると紋章の反対の角には、私の名前とルーサーフォードの部分は頭文字が白い糸で刺繍されていた。
「見ろ! アル! 俺のだ!」
「はいはい、良かったねぇ」
アルフォンスは、やれやれと言わんばかりだが私はどうでもいいので、ハンカチに全ての意識を向ける。リリアーナの刺繍の腕前は、本当に素晴らしいものだ。彼女がもしも平民の生まれだったら、これの腕だけで十二分に食べて行けるだろう。
「うちの家宝にしよう」
「馬鹿言ってないで、お返しの品でも考えなよ」
「ですが、その前に阿婆擦れ……失礼伯爵夫人を公爵に攫われてしまいましたので、その辺の調整をして頂かないと本日はそもそも帰宅が不可能ですが?」
リリアーナへのお返しに心を弾ませた私をフレデリックの言葉が容易く現実へと引き戻す。
私は名残惜しいがハンカチを丁寧に折りたたんで箱へと戻し、リボンも掛け直す。
「……仕方がない。相手が相手だ、軽はずみな行動には出られない」
「まさか夫人があの糞爺と繋がっているとはねぇ……一体、いつからだと思う? 公爵夫人が亡くなられたのは、確か五年前だったかな」
「その辺を調べ直して挑むしかないだろう。公爵が後ろにつこうものなら母親と姉が私の可愛いリリアーナとセドリックに何かしらのちょっかいをかけてこないとも限らない」
「だね。……っていうか、夫人はリリィちゃんとは血が繋がっていないからともかくとして、自分のお腹を痛めて産んだセドリックのこともなんとも思っていないのかねぇ」
どうやらアルフォンスも私と同じことを思っていたようだ。
リリアーナと夫人は、赤の他人だ。前妻の面影を色濃く残すリリアーナを忌み嫌うことは赦せる赦せないは置いておくとして分からないでもない。だが、どうして十月十日も自らの胎で育てたセドリックにまで夫人は興味がないのか。
「……セディは、本当に夫人の子なの?」
アルフォンスが躊躇いがちに尋ねて来る。
「それは間違いない。セドリックは先代のエイトン伯爵にそっくりだからな。この間、屋敷の捜索をしたときに肖像画を見たんだが、笑ってしまうくらいによく似ていた。エイトン伯より先代のほうが父親と言われてもしっくりくる」
「じゃあ先代との子? あ、そんな訳ないか、リリィちゃんが生まれる前に死んじゃったもんね」
「ああ。リリアーナが産まれていないのだから、セドリックはまだ影も形もない」
「わっかんないなー。母上はもうこんなに大きくなったってのにまだ僕を小さなアルフちゃんって呼ぶのに」
アルフォンスがその言葉通り、心底理解できないと言った様子で髪を掻いた。
私は、記憶喪失になって母の記憶はないが、それでもアーサーが見せてくれた全寮制の学院時代に母から送られた手紙には私の身を案じる愛情が必ず感じられるものだった。
「でも、セディにはリリアーナお姉様がいるからいっか!」
あっけらかんと笑って、アルフォンスが立ち上がった。
「まずは伯爵夫人の交友関係を洗って、公爵との関係も調査しないとね」
「相手は腹の中は真っ黒だ。下手に手を出すとこちらが危ない。だから物事は慎重に進めるべきだ。フレデリック、ケインとラザロスを呼んで来てくれ。体制を立て直して、新たに挑む」
「かしこまりました」
フレデリックが一礼し、部屋を出て行く。
「アル、例の件はどこまで進んでる?」
私はソファから立ち上がり、自分のデスクへと足を向ける。
「中間報告は出来るよ。資料を取って来る。カドックも連れて来るねー」
そう言ってアルフォンスはひらひらと手を振って去っていく。
束の間、一人きりになった部屋で私は、リリアーナがくれたハンカチの入った箱に視線を落とす。
あの夫人には何か裏がある。今日、直接相まみえたことで、それは確信へと変わっていた。
エイトン伯領は、豊かな土地だ。爵位は伯爵だが、古くから王家に仕える由緒正しい家柄であるのは間違いなく、これまでは優秀な人材を多く輩出してきた名家でもある。しかし、あの夫人が妻になってから僅か十六年足らずでエイトン伯爵家は傾いている。現、エイトン伯も人格に難はあれど、若い頃は文官としてそれなりに優秀な男だったのだ。
何だか色々と根が深そうだ、と私はため息を零す。
「だが……必ず、私が君を護る。だから変わらず、笑っていてくれリリアーナ」
彼女の笑顔を心に思い浮かべれば自然と笑みがこぼれて、やる気も出て来た。私は、ハンカチを鍵のかかる引き出しにしまって、顔を上げる。
とりあえず今日も愛しい妻と可愛い弟の笑顔が一秒でも早く見たいので、一秒でも早く帰れるように頑張ろうと気を引き締め、彼らを待つ間も出来る限り仕事を片付けようと私のサインを待つ書類に手を伸ばした。