表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/66

第十四話 振り絞った勇気と再会 


「何であんたが、この私より仕立ての良いドレスを着ているのかしら」


 私はベッドの柱に捕まりながら立ち上がりました。姉様は私に顔を近づけて、襟や袖の刺繍に目を細めて言いました。


「姉様、そんなことよりセドリックはどこですか?」


 私は勇気を振り絞って、問いかけます。姉様は、ヘーゼルの瞳を眇めて口元に歪んだ笑みを浮かべました。そして屈んでいた体を起して胸の前で腕を組みます。姉様はエルサと同じくらい背が高いので私を見下ろす形になりました。


「……私、知ってたのよ。あの子が、あんたの部屋に私たちの目を盗んで出入りしてたこと」


 息を飲んで、胸元で両手を握りしめました。


「でも別に私はどうでも良かったわ。あの子にもあんたにも興味なんて欠片もなかったもの。でも、お父様がね、不思議に思って首を傾げてらしたの。侯爵様からの手紙にあんたがセドリックに会いたがってるって、セドリックはあんたを嫌っていたのにどうしてだろうって……だから教えて差し上げたの」


「……まさかっ」


「お父様、随分とイライラしていたみたいだから手加減なさったかどうかは知らないわ」


 衝撃が強すぎて私はベッドに腰掛けるように崩れ落ちました。両手で口元を抑えて呆然と姉様を見上げます。


「的が小さいとなかなか大変なのよ、躾も」


 そう告げる姉様の目がベッドに向けられました。その視線の先を追って見つけてしまったものに、息が止まりました。

 私はベッドに上がり、それに手を伸ばします。

 真っ白なシーツには、乾いて茶色く固まった血の痕が点々と付着していました。枕の位置からいって、ここはおそらく背中の辺りです。一年と少し前、私のベッドにあったシミと同じものがセドリックのベッドにありました。

 私は、ゆっくりと初めて入った弟の部屋の中を見回しました。

 カーテンが閉め切られて、薄暗い部屋は寂しさをそこかしこに漂わせ、ひっそりとしていました。壁に埋め込まれた大きな本棚は、まばらに本が並んでいるだけで、他には何もありません。まるでここにいた時の私の部屋にいるかのようでした。

 そこに暴力と痛みがあったかどうか。

 私とセドリックの違いなんて、たったそれだけのことだったのかも知れません。私にもセドリックにも父や母からの愛なんてこれっぽっちも与えられたことなんてありませんでした。


「……セドリックは、どこですか?」


 私はシーツを握りしめながら、再度、姉様に問いました。

 いつの間にかエルサの声はしなくなっていました。誰かを呼びに行ったのか、鍵を探しに行ったのかも知れません。


「あんたに教える義理はないわ」


「セドリックはどこだと聞いているんです!」


 私は姉様を睨み付けました。姉様は一瞬たじろぎましたが、すぐにその顔には嘲笑が戻ってきました。


「私に逆らうなんて、あんた、随分偉くなったのねぇ?」


 姉様が小首を傾げます。

 正直、怖いです。心がどれほど頑張っても体が与えられた痛みを覚えていて、姉様から逃げ出そうとするのです。それを無理矢理に押さえつけて私はベッドから降りて姉様と向かい合うようにして対峙しました。


「……あんたみたいな醜い娘が愛される訳が無いことは分かってるの。あれも演技でしょう? 噂を聞いたのよ、あんたと侯爵様が不仲だって。一年も経つのに子どもも出来ないなんて、夜だって別々なんでしょう?」


 一瞬、言葉に詰まってしまいました。

 だってそれは半分は本当で半分は嘘です。確かに以前の旦那様とは不仲とまではいなくとも関係は良好とは言えませんでした。ですが今の旦那様との仲は多分、良好です。

 でも、その一瞬の間に姉様は私が図星を刺されて答えられなかったのだと勘違いしたようです。叩かれて熱を持つ頬に姉様の冷たい手が触れました。


「きっと、子も産めないあんたなんか侯爵様は飽きられたのだわ。だから、こうして我が家にやって来て下さったの。私のことを妻にしたいのよ。でも言い出せないのかもしれないわ。優しい方だから、あんたのその傷が憐れで捨てられないのかも……こういう場合は自分から言うのよ、離縁してくださいって」


 頬に触れていた手がゆっくりと降りて行き、私の鳩尾に触れました。


「だって、あんたみたいな醜い化け物を誰が本当に愛してくれるなんて本当に思ってるの?」


 心臓が破裂しそうで、心の奥にしまい込んである一番大きな不安が私を支配しようと姉様の嘲笑に引きずられるように顔を出します。

 今の旦那様は私を大切にしてくださっています。例えば、今の旦那様の言葉を信じて旦那様の記憶が戻って、前の旦那様に戻ってそれで私を愛してくれたとしても、今も昔も旦那様は、あの鮮やかな青い瞳でこの醜い化け物の証を見たことはないのです。


『悍ましいこの傷痕を受け入れて愛してくれる人なんて――いないのよ』


弱い私が耳元でそう囁きます。

ヘーゼルの瞳がにんまりと細められて、私を引きずり込もうとします。


「ねえ、ここに帰って来なさいよ。私があんたの代わりに侯爵様の妻になれば、お父様もお母様もあんたを褒めるわ。そうすればもう鞭で打たれることもないし、セドリックともずっと一緒よ? 傷付くことだってもう二度とないわ」


 セドリックと共にこの屋敷で二人きりで過ごすことが出来たとしたら、それはそれで多分、幸せなことです。姉様の言う通り、姉様が侯爵夫人になれば、お父様もお継母様も私やセドリックに構っている暇なんてなくなって、私たちは二人きりで生きて行けるでしょう。いっそ、二人で修道院に逃げ込むことだってできるに違いありませんでした。

 でも、そこには旦那様もエルサもいないのです。フレデリックさんもアーサーさんもジャマルおじいさんもアリアナさんもメリッサさんも、フィーユ料理長さんもメイド長さんも、私を大切にして笑顔をくれた人たちは、いないのです。

 私は、旦那様の唇が触れた指先を抱き寄せるようにして、唇でそっと触れました。それだけのことで旦那様の温もりと笑顔と力強さを思い出して、ここたった独りきりではないことを思い出すのです。

 セドリックにも知って欲しいのです。家族以外の赤の他人が、私たちの為に微笑んでくれる喜びを抱き締めてくれるぬくもりの心地よさを、名前を呼んでくれる時の声の優しさを、愛されるということがどれほど幸せなことか、知って欲しいのです。

 もしかしたら、記憶のない旦那様と共にあるこの幸福は偽りのもので、いつか壊れてしまう脆いものなのかも知れません。

 それでも旦那様やエルサにもらった言葉もぬくもりも私の中に確かに存在しているのです。それだけは偽りでも夢でもありませんでした。

 たったそれだけのことが私を強くしてくれるのです。


「いや、です」


 心を叱咤して、姉様のヘーゼルの瞳を真正面から見据えました。

私が逆らうとは思っていなかったのか、姉様はその瞳に僅かな驚きを浮かべました。

 旦那様の言葉を一生懸命思い出して、私は私を大切に想ってくれた人たちの顔を思い浮かべました。

 震えが止まって、背筋が自然と伸びます。


「今すぐにセドリックの居場所を教えなさい」


「な、にを!! リリアーナの分際でっ!!」


「言葉を弁えなさい!!」


 こんな大きな声を出したのは、私だって初めてですがそれ以上に姉様は驚いたようでした。

 今だけ、今だけでもいいからセドリックの為に私は強くならなければならないのです。私はもうただ鞭で打たれていたリリアーナではありません。


「私は、リリアーナ・ルーサーフォードです! ウィリアム・ルーサーフォード様の妻、スプリングフィールド侯爵夫人です!! 伯爵令嬢の貴女が言葉を慎むべき相手です!!」


「わ、私に対して偉そうな口をきくな!! 醜い化け物が!!」


 ヘーゼルの瞳が悪魔のように吊り上がって、振り上げた手が私の頬を狙って迫ってきます。

 それでも私は、姉様のヘーゼルの瞳から絶対に目を逸らしてなるものか、と睨むように強くその目を見据えました。

 殴られるのを覚悟して歯を食いしばりましたが、姉様の手は私に触れることはありませんでした。それどころか姉様の姿が消えて、私の視界は深緑に染まりました。それと同時に力強い温もりが私を包み込みます。


「きゃあっ!!」


 今の状態を理解するより先にその向こうで姉様の口から痛みに悶える悲鳴が漏れたのが聞こえました。

 私はゆっくりと顔を上げます。


「だ、旦那様……」


「すまない、遅くなった」


 痛まし気に細められた青い瞳が熱を持つ私の頬にそっと触れました。

 爽やかなコロンの香りが鼻先を霞めて、私の背に回されたぬくもりを実感した時、勝手に涙が溢れて来ました。


「だ、だんなさまぁっ」


 ぎゅうと旦那様の服を握りしめて、その胸に顔を埋めました。

 全身に安堵が巡って、冷え切っていた指先にもぬくもりが戻って来るのを感じました。


「もう大丈夫だ、遅くなってすまなかった」


 低く優しい声が頭上から響いて、温かくて大きな手が私の背をあやすように撫でてくれて、ますます涙が溢れて来ます。けれど、泣いている暇はありません。私は両手で目元を拭って顔を上げます。


「どうしてここに……」


「君を守ると約束したからな。でも、怪我をさせてしまった……やはり一緒に来るべきだった」


 旦那様は私の頬を包み込み、泣きそうな顔でおっしゃいました。私は、ふるふると首を横に振ってその手にいつものように私の手を重ねました。


「放しなさいよ!! 使用人の分際でっ、いたい! いたい!!」


 姉様の金切り声に驚いて体がびくりと跳ねました。旦那様が少し体をずらしてくれて、姉様の姿が見えました。

 エルサが姉様の腕を捕まえて後ろに捻り上げて、にっこり笑顔を浮かべていました。


「阿婆擦れの分際で私の奥様をひっぱたくなんて、万死に値します」


「なっ、鍵、どうやっ、いたい!」


 ギリギリとエルサや容赦なく姉様の腕を捻り上げます。


「見くびらないでくださいな、私は天使の純真さと女神の美しさを兼ね備える麗しいリリアーナ様の侍女ですよ? 針金一本あれば、あれしきの鍵は容易く開きます。ドアを蹴破るのも考えましたが、奥様に当たったら大変ですし、阿婆擦れの貴女がナイフとか持っていたら大変じゃないですか」


 ふふっと笑ったエルサは、どこからともなく取り出したリボンで姉様の両手首をくるくると縛り上げて、その背中を押してベッドの上に転がしました。


「何をするの!? こんなことが許されると思っているの!? 私はエイトン伯爵令嬢よ!!」


「ああ、そうだ。たかだか一介の伯爵令嬢が私の妻に怪我を負わせたんだ。その意味が分かるかな?」


 ぐいっと頭を固い胸板に押し付けられて顔が上げられず、旦那様がどんな顔をしているのかは分かりませんでしたがその声は、氷のように冷たくてナイフのように鋭いものでした。初夜の時に向けられた声よりもずっと恐ろしい声音で、私は旦那様の服をきゅっと摘まみます。するとそれに具に気付いて下さった旦那様は壊れ物を扱うような手つきで、私の背を撫でてくれました。


「侯爵様、それは貴方には全く相応しくない醜い化け物なのですよ!? どうしてそれを庇うのですか!!」


「……エルサ、これは非常に頭が悪いらしい。説教はあとだ黙らせておけ」


 呆れ声の旦那様の手の力が緩んでベッドを振り返ります。


「醜い化け物の分際で、私に逆らっていいと思っているの!?」


 ベッドの上で芋虫さんみたいに転がりながら姉様が叫びます。ですが、にっこりエルサが「本当にうるさいですね」と呟き、ハンカチを取り出すと姉様の口を塞いでしまいました。ふがふがもごもご何かを言っていますが、何を言っているかは分かりません。多分私を貶していることは間違いないでしょう。


「静かになりました、奥様、お怪我は……まあ」


 振り返ったエルサとようやく目が合い、私はエルサに抱き着こうとしましたが、エルサが私の赤く腫れた頬に気付いて真顔になったので足が止まってしまいました。気を利かせて放して下さった旦那様が私をまた腕の中に戻そうとします。エルサは真顔になるとゆっくり姉様を振り返りました。

 そして徐に拳を握りしめ、振り上げました。


「エ、エ、エルサ! いけません!」


 私は慌ててエルサの腕に縋りついて彼女を止めます。


「ああ、私の奥様は本当に心優しい! でも、いいのですよ、この取り繕った見てくれだけは上の上ですが性格の悪さが特上過ぎてそれが顔に出ている阿婆擦れなんて庇わずとも!!」


「ダメです。姉様を殴ったらエルサの手が痛くなってしまいます。そ、そうしたら私の髪の手入れが出来なくなりますよ?」


 一生懸命、エルサを止めるための理由を捻り出しました。効くかどうか不安だったのですが、エルサは「それは大変です!」と私を抱き締めてくれました。どうやら成功したようです。


「こんな阿婆擦れの所為で奥様のお美しい御髪に触れられなくなるなんて、拷問ですっ!」


「そ、そう? なら殴っちゃダメですよ」


「はい」


 素直に頷いてくれたエルサに違う意味でほっとしました。

 エルサが腕の力を緩めて、私の顔を覗き込んできます。紺色の瞳が悲し気に細められて、私の頬に向けられました。


「申し訳ありません奥様、私がもっと早く、いっそ、ドアを蹴破っていれば……」


 心の底から悔いるような声音に私は首を横に振ります。


「私もドアを切り捨ててしまえば良かった」


 旦那様までそんなことを言い出しました。これくらいなんともないのに本当に優しい人たちです。ちょっとだけ物騒ですけど。


「これくらい大丈夫です。それより、セドリックを探しに行かないと……ベッドに血の痕があって、どうやらお父様に鞭で打たれたらしいのです、だから早く見つけ出さないと……っ」


 エルサがベッドの上に視線を走らせましたが姉様が転がっているのでその痕は見えません。セドリックの居場所を知っている姉様は反抗的な目でエルサを睨んでいます。


「分かりました。吐かせます」


「殴っちゃダメって、約束しました!」


 またも拳を握りしめたエルサを抱き締めて止めます。旦那様も協力して下さったので二人でエルサを止めます。


「放して下さいませ、奥様! 放せ、糞旦那!」


「だめです!」


「いだっ! 落ち着けエルサ!」


 旦那様の頬にエルサの裏拳が入りました。それでも旦那様は、エルサを羽交い絞めにして押さえてくれます。私も正面からエルサに抱き着いて静止を試みます。


「旦那様、セドリック様を発見しましたってエルサ! 何をやって……!」


 部屋に飛び込んで来たフレデリックさんが目を丸くして、こちらに駆け寄って来ました。エルサは、フレデリックさんの声が聞こえたのかぴたりと暴れるのを止めました。


「見つかったのか?」


「はい。ですが、警戒して隠れてしまって……」


「ほ、本当ですか? セドリックは無事なのですか?」


 フレデリックさんを見上げて、縋るように問います。


「無事は無事ですが、隠れてしまって出て来て下さらないのです。奥様が行けばすぐに解決すると思います」


「行こう、おいで、リリアーナ」


 旦那様が差し出してくれた手を取れば、ぐいっと引き寄せられてまた抱え上げられました。ですが、今はこの方が絶対に一秒でも早くセドリックに会えると分かっていますので、私は旦那様の首に腕を回してしがみつきます。


「そうだ。そうやって掴まっていてくれ。フレディ、場所は?」


「奥様のお部屋です」


「分かった。来い」


 いつの間にかエルサが姉様の足もリボンで縛り上げていました。

 はい、と頷いた二人を従えて旦那様は駆け出しました。なんだか屋敷の中が騒がしいことに気付きました。幾つかの足音が聞こえてきます。

 旦那様は私を抱えているのが嘘みたいな速さで階段を駆け上がり、廊下を駆け抜けていきます。

 そして、辿り着いたのは私の部屋でした。フレデリックさんのいう奥様はお継母様ではなく、私のことだったようです。どういう訳かドアがなくなっていました。


「ほらほら、騎士団の腕章だよ~、出ておいで~」


 部屋に入るとアルフォンス様がベッドの傍に這いつくばって、ベッドの下を覗き込んでいます。先ほど会った時は、外出用のお洋服だったのに、今は黒を基調とした騎士団の制服に身を包んでいました。


「あ、リリィちゃん! セドリック、ほら、おまちかねのリリアーナお姉様だよ!!」


「セドリック!」


 私は旦那様に下ろしてもらいながらセドリックを呼びました。

 ガタガタッと音がしてベッドの下から、私と同じ淡い金色の髪が見えて紫色の綺麗な瞳が私を見つけた途端にくしゃりと歪みました。


「リリィ姉様っ」


 私は足の痛みも忘れて駆け出し、飛び込んで来たセドリックを抱き締めました。


「リ、リリィ、ねえさまぁっ、ふぇ、うぁああんっ!」


 声を上げて泣き出した少し痩せてしまった気がする幼い弟に胸がギシギシと音を立てて痛みました。

セドリックの小さな手が私の背中にしがみつくように回されたのに気付いて、力の限り抱き締めました。私もまた零れる涙が我慢できなくて、セドリックの髪を濡らしてしまいました。私が何度も何度も名前を呼ぶように、セドリックも何度も何度も私を呼びました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ぶっちゃけ何を思って娘っ子を引っ張ったかわからんが、事情知るなら何故弟も引っ張らなかったのか
2021/04/21 12:27 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ